日本人は正義を嫌う

 日本人は正義を嫌う。

 何も日本人が悪魔だと言いたいわけではない。

 「人は正義の名の下であれば、どんな残虐なこともできる」
 「人は正義に基づいてしか残虐なことはできない」

 きっと災害の多い日本では、古来より一つの考え方に固執すると、変化する外的要因に対応しきれなくなり、滅んだのだろう。

 僕は「話し合いで決めようよ、民主主義なんだしさ」という「空気を読む文化」が一番嫌いだ。

 話し合いとは言うものの、その実誰かのわがままを通す儀式にすぎないことがある。

 それでも、和を持って尊しとなす、の昔から、何かの教条的な正義より、その場その場の臨機応変が働く話し合いが選ばれてきた。

 日本人が自分を「無宗教」としか答えられない所以がこれだ。

 何か教条的な正義より、その場の話し合いで皆の落としどころを探り、みんなで決めて生きていく。

 それが日本人の「正義」なんだ。

 あまりにも不定形で底知れぬ「話し合い」。

 答えを聞かれても応えられない。

 当たり前だ、そのときになったら話し合いで決めるのだから。

 その時、その状況次第で、答えは白とも黒ともでる。

 それが日本人の基本原理だ。

 話し合いの時に「五行八卦ではこの方角が吉だ」とか「対策より先に仏様に祈ろう」とか「神は留まれといっている」などと主張しようものなら、「まじめに考えろ」と怒られる。

 ことほど斯様に日本人は固定化された正義を嫌う。

 なぜならそれは滅びの道だからだ。



 いただきます、って誰から何をいただくんだ?

 人の食物は水と塩と炭酸以外は悉く生き物の体でできている。

 業の深いことに、生きのいい、つまりは最も元気な状態の生き物の体こそ、「美味しい」と感じる。

 発酵食品だって同じ、食べ頃というのがあって、過ぎれば味も落ちる。

 食卓に並んだ数多の生き物の身体から、「命」をいただくから、「いただきます」なんだ。

 外国人はいただきますや御馳走様を言わなくともなんともない。

 日本人は違う。

 正義にこだわることを嫌う日本人なら、いただきますや御馳走様を言わないのは気分が悪い。

 科学的には言わなかったからといって何一つ変わるわけではない。

 それでも、気持ち悪い。



 なぜか?



 それこそが日本人の宗教観だからだ。

 正義を嫌い、ほかの生き物から、命を簒奪して生きる、それが日本人のまっとうな生き方なんだ。



 人生は長い。

 時には不幸が重なり、気分が晴れず、陰鬱とし、何かにすがらないと不安でいてもたってもいられなくなる。

 そこにカルトは忍び込む。

 話し合う相手にも恵まれず、何かすがるものを欲する不安に忍び込むのが、正義を背負った宗教だ。

 仏教も耶蘇教も、日本に入っては、自らの姿を保てなかった。

 むしろ自らの姿を保てなかったからこそ、日本で一定の立位置を手にした。

 断言してもいい、寿命を全うするまで日本で過ごした回教徒は、進んで火葬を選ぶ。

 これからはそういう時代がくる。

 そしてそのとき、回教徒達は、自分たちが何者かに変質していることに気がつく。

 そう、日本人になっているのである。



 日本人とは、世にも類い稀な、「いついかなる時も正義を貫き通すこと」を嫌う、一つの宗教の徒であり、その宗教観の頑ななるや、静かに、ひっそりとして、それでいて揺るがない一つの生き方なんだ。

 その日本人にこれ以上新しい神様なんていらない。

 新興宗教にすがる人は病気なのだから、致し方ない。

 直し方の方程式のない病に侵された人、それがカルト教徒の正体だ。

 その治し方は生きづらくなるほど迫害するしかない。

 人の世を作ったのは人である。
 人の世が棲み辛いからといって越す国はない。
 人の世から越すとすればそれは「人でなし」の国で、それは人の世より暮らしにくかろう、と漱石は看破した。



 徹底的に迫害された新興宗教は徐々に日本人ににじり寄る。

 それが悲しいことにカルトから人を救う少ない道の一つだよ。

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