平等と自由の重みには答えがでている

 技術系の発信者さんのメルマガを10年くらい受け取っている。

 そんなに長くとっている背景には、時々世相や政治的なテーマが取り上げられて、そのスタンスが僕の「当たり前」と近しいことにある。

 今般、「自由と平等のどちらに重きを置きますか」というアンケートが始まった。 

 これについては20世紀の間に、一定限の法則として答えが出てしまっている。

 つまり「自由は平等を阻害しないが、平等は自由を奪い不平等に至る」だ。

 このページを見る人は、ソビエト連邦を知っていよう。

 ソビエト連邦の元首は「書記長」の肩書きだった。

 案外、このゆえんをご存じない方が多い。

 そもそも「ソビエト」とは会議の意味で、全ては会議によって「平等に」決まる建て付けだった。

 会議には議事録の形でその決定事項を残す必要があり、書記が作り、直し、最終的に「これでよし」と判をつく「書記長」が実質的に物事を決めるような立位置になったというお話。

 先にもいったが「脊椎動物は一定の範囲に収めるとイジメを始める」。

 平等を厳格に維持するためには、自由は許されない。

 能力のあるものは、人の倍働き、無いものは、それなりに働く。

 そして食べる量は同じ。

 働かない自由は社会的に許されないため、収容所に送り込まれる。

 平等という優しさは、ぬるま湯のように心地よく、そこからはみ出してはいけない人倫の様に思えるが、やがて湯は冷え、先に続く道は悲惨な独裁性による貧困国家の道が待っている。

 平等に重きを置く時点でその人は、将来の全体主義の第一歩に足を踏み入れていることに気がつかない。

 「人は正義の名の下であれば、どんな残虐なこともできる」
 「人は正義に基づいてしか残虐なことはできない」

 日本を脅かすロシア、中華人民共和国、北朝鮮の悲惨なこと、平等がもたらす独裁者政治の困窮をとくと見るが良いと思う。

 それらの独裁国家は二十世紀に生まれ、二十世紀のうちに経済的破綻を迎えた。

 なぜか?

 それは平等という宗教は、人が操るには手に余る絶対的正義を後光よろしく背負っているからだ。

 自由は違う、正義が一カ所に集中することはなく、個々に正義があっても「自由」だ。

 例えその「自由」な身勝手にその身を滅ぼそうとも「その人の自由」だ。

 日本では相当な山奥の、孤立した一軒家でも、電気が通いインターネットで自由に情報の恩恵を受けることができる。

 なんて平等な社会なんだ!

 そんな僻地に電気を通し、情報を通すには、街中のマンションの一室に電気や水道、ガスやインターネットを通すのとは異なる多額な費用がかかる。

 でも、電気もネットもマンションの住民と大して変わらない額で使える。

 そんな風に、公平な費用負担ではなく、街中の住民から得た利益で、寒村の費用負担を賄うとは不平等だ、と主張することは自由だし、なんなら電気を使わないことも自由だ。

 高度な自由こそ、基礎的な平等を実現できる。

 どうして日本が高度な自由を獲得し得たか。

 それは別の稿に譲る。



 ただひとつ、二十一世紀に成っても、まだ平等に心傾いてしまうのは、あまりに歴史に無知だよ。

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