「天才」には、一般的な社会生活に馴染めない傾向がある、ということは、「天才とは空気を読めない人である」と言い換えることができる。
「和をもって尊し」を第一条に掲げる日本の社会で、「空気の読めない人間」と評されることは、「好ましくない人物である」というレッテルを貼られるのと同義と言ってよい。
ところが、それが「天才」には「空気が読めないこと」が許されているのである。ばかりか、周囲の人間は、「天才」の社会生活を営む上で生じる不都合を補うことさえしてくれる。
「空気が読めない」ことを、能力の欠如と捉えたくはない。が、しかし、「何かの能力が欠落している」ということを、逆に、「傑出した能力を別に秘めている」ということだと考えるなら、「空気の読めない」欠落に替わる何かを、その人物は保持しているということになるのではないか。
ただ、それが、一般に認められなければ、彼は「空気の読めないヘンな奴」と周囲の人間から決めつけられることになるのだろう。
我々は、「空気の読めない人は、一般に知られていない、突出した才能の持ち主である」と認識を改める必要があるのではないか。我が身を顧みながら、自己弁護のようにそう思う次第である。