人であることを止めた【聖女の身代わり】、彼女を救うために世界から指名手配される
新条優里
第1話世界は光に、俺は泥に
冷たい。 記憶の最深部、澱のように沈殿しているのは、あの病室の鼻を突く消毒液の臭気と、終わりを告げる機械的な拍動音だけだった。 前世の俺には、何もなかった。
ただ一点、あらゆる物事を最短距離で「攻略」するために最適化し、冷徹に最適解を導き出す、歪んだ執着心を除いては。 味のしないパサついた食事を栄養素として強引に嚥下し、感覚の失われた指先を呪いながら、画面の中にある「救い」という名のデータだけを求めて俺は死んだ。 だからこそ、次に目を開けた時、網膜を焼くような鮮やかな色彩と、肌を包み込む「温もり」を、俺の脳はすぐには許容できなかった。
「……ああ、私の。私の愛しい、エイン。生まれてきてくれて、本当にありがとう」
視界を覆っていた霞が晴れ、最初に見えたのは柔らかなパステルピンクの髪だった。 アメジストを細かく砕いたような、透き通った瞳。そこから溢れ出した一滴の涙が、確かな熱を持って俺の頬を叩いた。 それは、前世の俺が攻略本をどれほど読み込んでも見つけることのできなかった、無条件の肯定という名の光だった。
彼女の名は、リリアーヌ・フェリス。 このオルラシア王国において、千年に一度の奇跡と謳われる「聖女」であり、俺の母親だった。 幸福だった。それ以外の言葉が、語彙のリストから消失していた。
リリアーヌに抱かれ、彼女の一定のリズムを刻む心臓の音を耳にしながら眠る日々に、俺は初めて「生」の輪郭を知った。 攻略すべき課題も、他者を蹴落とす戦略も必要ない、ただ愛されるためだけに存在する停滞した時間。 俺はこの世界を、そして何よりもこの人を守るために、今度こそ人として正しく生きようと、幼い心に誓った。
だが、運命という名の摂理は、あまりに救いのない欠陥品だった。
聖暦一〇二一年。 俺が五歳になったその日、文字通り空が割れた。 「――聖女リリアーヌ・フェリス。貴女の【聖域】が、世界の穢れを吸い上げすぎました」
白い神官服を纏い、感情を削ぎ落とした審判官たちの声が、重い鉄の鎖のように冷たく広間に響いた。 彼らが突きつけたのは、神託という名の死刑宣告に等しかった。 この世界を救うために、人々の悪意や疫病といった「穢れ」をその身に浄化し続けた聖女は、その代償として、自らが「災厄の器」へと堕ちる運命にあるのだという。
リリアーヌの肌は、日に日に陶器のような滑らかな白さを失っていった。 どす黒い呪紋が、這いずる毒蛇のようにその四肢を侵食し、内側から彼女の命を蝕んでいく。 彼女が苦痛に耐えかねて眉根を寄せるたび、俺の胸は、前世で患ったどんな不治の病よりも激しく、鋭く痛んだ。
「……エイン、大丈夫よ。ママは、ちっとも痛くないから」
嘘だ。 俺の小さな手を握りしめる彼女の掌は氷のように冷たく、その指先は痙攣を隠すように小刻みに震えている。 聖女という崇高な立場が、彼女に「一人の人間として苦しむ権利」すら与えない。
世界を救う「光」の象徴であり続けるために、彼女は内側から腐り果てていく肉体を隠し、慈愛に満ちた微笑を演じ続けることを強要されているのだ。 俺は、自分の無力さをこれ以上ないほどに呪った。 そして、心の奥底で眠らせていた、あの「狂気」を呼び覚ました。
俺は知っている。 かつて前世で、死の直前までやり込んだ「攻略」の深層に、一つの禁忌が存在したことを。 【因果の転譲】。
対象が受けるはずのダメージ、呪い、そして確定した運命そのものを、別の「器」へと強制的に移し替える秘術。 だが、その器となる者は、二度と人として陽の下を歩くことはできない。 肉体は魔力という名の不純物に侵食され、魂は絶え間ない劫火に焼かれ続け、最後には世界というシステムから異物として排除される。
深夜。静寂が支配する寝室に忍び込んだ俺の手には、蔵書室の最下層から盗み出した、古びた黒い剣があった。 リリアーヌの枕元に立ち、安らかな寝息を立てる彼女の細い手首に、そっと手を重ねる。 「母さん。俺は、怪物になるよ」
返答は不要だった。 俺は一切の迷いなく、自分の幼い心臓を、魔力の刃で貫いた。 「――ッ、ぁあああああああああああああ!!」
叫びを奥歯で噛み殺す。 肺の奥からせり上がってくるのは、沸騰した鉄のような血の味だ。 脊髄を直接、数千の熱せられた針で突き刺されるような衝撃が全身を蹂躙した。
リリアーヌの腕にあった不吉な黒い呪紋が、意思を持つ生き物のように俺の腕へと流れ込んでくる。 それは、本来この世界の人間が受けるべきではない、数千、数万の人間が排出した「死と絶望」の質量だった。 熱い。血管が内側から一本ずつ爆ぜ、代わりにどす黒い魔力が、俺の肉体を異形へと再構築していく。
脳内に響くのは、前衛的な知覚の伝達。 だがそれは、輝かしいレベルアップの音ではなかった。 人という種を捨て、終わりのない地獄への片道切符を掴んだことを告げる、断罪の鐘の音だ。
一分。いや、永遠にも感じられる時間。 儀式が終わった時、リリアーヌの肌からは呪紋が完全に消失し、健やかな血色が戻っていた。 対照的に、俺の左半身は光を吸収する闇のような黒に染まり、瞳の色は不吉な真紅へと塗り潰されていた。
「……エイン? あなた、どうして……その姿は……」
異変を察して目を覚ましたリリアーヌの瞳に、驚愕と、そして拭いきれない「恐怖」が宿った。 無理もない。今の俺から立ち昇っているのは、彼女が聖女として一生をかけて浄化しようとしていた、邪悪そのものの波動なのだから。 「エイン!! 逃げて!!」
突如、扉を蹴り開けて重装の騎士たちがなだれ込んでくる。 彼らが手にした聖なる加護を受けた剣が、容赦なく五歳の子供に向けられた。 「――悪魔だ! 聖女様から穢れを盗み、自らに取り込んだ大罪人がいるぞ!!」
「殺せ! この怪物を生かしておけば、王国に再び災厄の雨が降るぞ!!」
誤解ではない。彼らの認識は、この世界の「理」に照らせば、残酷なまでに正しい。 俺は聖女の穢れを「救った」のではなく、それを「盗んだ」怪物として、世界の存続を脅かす異物になったのだ。 「……さようなら、母さん」
俺は、リリアーヌが伸ばした、かつての温もりを宿した手を握ることはしなかった。 今の俺の手はあまりに冷たく、そして触れるものすべてを腐食させるほどに、どす黒い。 窓を突き破り、俺は夜の闇へと身を投じた。
背後で響く、引き裂かれるようなリリアーヌの悲鳴。そして、俺を仕留めようと追い求める数多の足音。 全身を焼くような激痛はある。だが、不思議と心は鏡面のように凪いでいた。 左手の甲に、一という数字が浮かび上がる。
聖痕汚染度。 あるいは、この世界を救い抜くための、攻略の進捗率。 俺はこの「身代わり」という役目を、世界で最も効率的に、そして完璧に遂行してみせる。 たとえ全人類に追われ、聖なる神に呪われ、最期には名前すら歴史から抹消されたとしても。
俺が求めたのは、失われた味覚でもなく、偽りの名誉でもない。 ただ、あの人が二度と苦痛に泣かないための、「最適解」を導き出しただけなのだから。
俺の名は、エイン。 人であることを止めた、聖女の身代わりだ。
人であることを止めた【聖女の身代わり】、彼女を救うために世界から指名手配される 新条優里 @yuri1112
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。人であることを止めた【聖女の身代わり】、彼女を救うために世界から指名手配されるの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます