足音だけが、ひたひたと
歪
第1話
カランコロン
「いらっしゃいませ」
いつもの喫茶店に入店すると、声が聞こえた。
今日は結構混んでいる。私は毎朝、ここの珈琲とサンドイッチを注文するのを日課にしている。
「ご注文はいつものでよろしかったですか?」
いつもの店員が微笑んでくる。
「ええ、いつものでお願いします」
二人だけの符丁だったかのように、くすくすと笑い合う。
外は暖かく晴れていて、今日もいい天気だ。
しばらくして運ばれてきた珈琲とサンドイッチを堪能する。
だが、何故か今日はおかしい。
珈琲は錆びた鉄のような味がして、舌の上でざらざらと嫌な感触をさせる。
飲み込もうとすると、舌が押し戻そうとするようで、思わずえずいた。
サンドイッチが油粘土でも噛んだような味がする。
食感はまるで生肉のようだ。とてもじゃないが食べられない。
珈琲だけを我慢して静かに飲み、この日は店をあとにした。
職場に行く途中、よく見かける犬の散歩をする老人が
「なんでそんなことを言うのおおお」
と、私に向かって叫び立ててくるという謎の現象に遭遇する。
仕事は忙しいが、いつもと変わり映えのしない業務をこなしていると、
斜め前の江古田さんと結城さんが、
「また出たらしいよ、目玉を一つだけひっくり返せる人が」
と、わけのわからない会話をしていた。
食べ損ねた昼食も兼ねて、コンビニで少し多めの食料とお酒を手に入れる。
帰宅して洗濯物を取り込むと、靴下に赤い何かがついていた。
手に取ると、あたたかい湿り気を感じた。
なんだかこれを覚えているような不思議な感触。
全く記憶になかったが、気を取り直して晩酌をすると、いつもの味がした。
今朝のサンドイッチはなんだったんだろう。
他にも珈琲は勿論、サンドイッチを注文している人はいたが、皆一様に美味しそうに食べていた。
考えても仕方ないことだとお風呂に入り、洗濯物を畳んでから眠つりにつく。
翌日、今日も朝から行きつけの喫茶店に到着する。
「カランコロン」
古いドアベルの音も、すっかり聞き慣れた。
でも、今日は誰もいない。
店内には美味しそうな珈琲の香りが漂っている。
外の天気は暖かく、窓から眩しい光が射し込んでいた。
「すみませえん」
呼びかけてみると、
「はあああい」
と大きな声が聞こえたが、誰も出てくる気配すらない。
カウンターの上にあるサイフォンだけが、静かにこぽこぽと音を立てている。
入る前は温かな天気だったが、店内には冷えた呼吸が吹き抜けた気がした。
おかしいなあと思いながら、ふと壁掛け時計を見てみる。
そこにはいつもの時計はなく、歪な形をした蠢く何かが貼りつけてあった。
ひゅっ!
思わず息を大きく吸い込む。
テーブルを見ると、砂糖壺の中の綺麗な砂が、蓋の部分からさらさらと、砂時計のように落ちていく。
カウンターの後ろの棚には、ホルマリン漬けにされた何かが沈黙している。
もう一度時計を見ると、いつもの時計に戻っていた。
時刻は三時。
近くにある家から徒歩十分ほどだが、家を出たのは一時だ。
サイフォンには、時が止まったように珈琲の雫が動けずにいる。
かちゃかちゃ。
珈琲カップの揺れる音がする。
やはり、そこには誰もいない。
店内の鏡を見る。
膜が張ったような何かが、うっすらと見える。
全身を埋め尽くすような鳥肌が立ち、急いで出口に向かう。
が、そこには何も存在していない。
店内のBGMが、いつもの古いジャズの合間に、女性の叫び声を響かせている。
テーブルの上に一枚だけ落ちた紙ナプキンには、書きなぐった文字で
「回る」
と書かれていた。
背後から
「きゃははははは」
笑い声が小さく聴こえる。
驚いて振り返るけれど、やっぱり誰もいない。
時計は二時に逆回りしている。
カウンターを見ると、サイフォンの雫がまた、ゆっくりぽたぽた落ちはじめている。
静かすぎる店内を見回す。
窓の外は不気味なほど静かで、あんなに暖かかった天気が薄暗く変化していた。
かたかたかた。
椅子が微かに動いた。
その時、生ぬるい風が背後から吹いてくるのを感じた。
そうっと振り返ってみる。
何もない。
何もなくはないのに、何もない。
ずうっと漂っていた珈琲の香りの中に、時折、何かが腐ったような匂いが混じり出してきた。
「すみませえええん」
さっき発した言葉がオーバーラップしてくる。
「そこを曲がってもらったら、それは回避できますよおお」
どこから聞こえてくるのか、全く分からない。
ひい!
肩に大きな塊が触れたように感じて、思わず悲鳴を上げた。
窓の外がどんどん暗くなる。
不安さが増してきて、頭がきりきり痛み出す。
突然、電灯がひとつ消えた。
息を飲む。
闇の濃度が一段上がる。
時計を見る。
時間にすがりつきたいからだ。
時計はまた、歪な形をした蠢く何かに変化している。
吐き気を堪えながら、じっと見てみると小さな針が見える。
ぐにゃぐにゃと時を刻んだり、逆回転したりを繰り返している。
目に止まったサイフォンを見る。
ぽたぽた落ちる雫が、下に落ちたり、上に吸い込まれるように戻ったりを繰り返している。
じわじわと頭の中に侵食されていく気配がする。
だけど何故かそれは、甘美で抗うことの出来ない事象のように……
ぷつっ。
また次の電気が消えた。
あと二つで全て消えてしまう。
もう一度出口を探そうと、店内を探索する。
鏡の中にあった、膜が張ったような何かが濃くなり、こっちに近づいている。
赤、
赤。
テーブルの上の紙ナプキンの文字は
「止めろ!」
に変わっている。
「回る」
「止めろ」
どういうことだろう。
なぜこんな目に遭っているのか、途方にくれる。
濃い珈琲の匂いがしたので、振り返ってみる。
そのテーブルの上に、一杯の珈琲と砂糖壺、ミルクピッチャーが並べられていた。
いつの間に?
さすがに飲む気にはなれないが、ミルクを少しだけ落としてみる。
カップの中でコーヒーとミルクが微かに揺れたあと、そこには
「気づくな」
の文字が浮かんでいた。
なぜこんなに不可解な出来事が多発するのか。
また電灯が消える。
もう店内は最後のひとつの電灯だけになり、かなり暗くなっていた。
窓の外も真っ暗だ。
「きゃはははは」
という笑い声とともに、足首に何かがまとわりつく。
振り払おうとしたが、振り切れない。
よろめきながら、何とか近くの椅子に座る。
ぬるっ。
暗くてよく見えないが、椅子に何かが撒かれている。
指でそうっと触ってみると、それは赤色をしていた。
足元にまとわりつく何かを、手探りで振りほどく。
小さな手のような感触がした。
足首を見る。
そこには赤があった。
一瞬だけ、回転灯のように光を張り巡らせて、最後の電気が、ついに切れてしまった……
真っ暗な中に、静寂が染み渡る。
窓の外は、もう店内と変わらない黒だ。
震えながら立ち上がろうとした、その瞬間。
古いジャズが流れると共に、いっせいに
ぱっ!
と電灯がついた。
鼻腔を擽る珈琲の香り。
「そちらのお席でよろしかったですか?」
いつもの店員が、ぎこちなく微笑みながら目の前に現れる。
思わず安堵して、「はい! いつもので」
と意気込んでしまう。
窓の外を見る。
入ったばかりのように、暖かく光が刺す、いい天気だった。
さっきまで、まるで夢を見ていたような気分になる。
ふと足首を見ると、そこにはやはり赤があった。
テーブルの上の紙ナプキンの文字は
「止めろ!」に変わっている。
「回る」「止めろ」
どういうことだろう。
なぜこんな目に遭っているのか途方にくれる。
濃い珈琲の匂いがしたので振り返ってみる。
そのテーブルの上に一杯の珈琲と砂糖壺、ミルクピッチャーが並べられていた。
いつの間に?
さすがに飲む気にはなれないが、ミルクを少しだけ落としてみる。
カップの中でコーヒーとミルクが微かに揺れたあと、そこには「気づくな」の文字が浮かんでいた。
なぜこんなに不可解な出来事が多発するのか。
また電灯が消える。
もう店内は最後のひとつの電灯だけになり、かなり暗くなっていた。
窓の外も真っ暗だ。
「きゃはははは」という笑い声とともに、
足首に何かがまとわりつく。
振り払おうとしたが振り切れない。
よろめきながら、何とか近くの椅子に座る。
ぬるっ。
暗くてよく見えないが、椅子に何かが撒かれている。
指でそうっと触ってみると、それは赤色をしていた。
足元にまとわりつく何かを、手探りで振りほどく。
小さな手のような感触がした。
足首を見ると、そこには赤があった。
一瞬だけ回転灯のように光を張り巡らせて、最後の電気がついに切れてしまった……。
真っ暗な中に静寂が染み渡る。
窓の外は、もう店内と変わらない黒だ。
震えながら立ち上がろうとした、その瞬間。
古いジャズが流れると共に、いっせいに、ぱっ!と電灯がついた。
鼻腔を擽る珈琲の香り。
「そちらのお席でよろしかったですか?」
いつもの店員が、ぎこちなく微笑みながら目の前に現れる。
思わず安堵して、「はい! いつもので」と意気込んでしまう。
窓の外を見ると、入ったばかりのように、暖かく光が刺すいい天気だった。
さっきまで、まるで夢を見ていたような気分になる。
ふと足首を見ると、そこにはやはり赤があった。
店員の珈琲を入れる音が聴こえる。
目線をそちらに動かすと、全く手元を見ていないのに器用に珈琲を入れている。
ただし、妙に手がかたかたと震えている。
ちらりと時計を見る。
時刻は三時二十分。
やはり、さっきまでの出来事は夢だったんだ!
ほっと一息つく。
まるで時間が巻き戻ったかのようだ。
店員が注文したメニューを運んでくれる。
こちらに移動してきているのに、目線がずれている。
けれど、足の動きは慣れた店内を泳ぐように正確だ。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
店員の顔がひきつっている。
テーブルの上を見ると、珈琲とショートケーキが載っていた。
あれ?
慌てて店員を呼ぼうとすると見当たらない。
裏にでもいったかな?
まあ、さっきまで変な夢を見ていたから、これぐらい、いいかと思い直す。
珈琲をひと口啜る。
珈琲からは腐った肉のような匂いがした。
思わず吹きこぼしそうになりながらも耐える。
店員がどこからか戻ってきたので、
「すみません、いつものメニューじゃないのと、珈琲が変な味がするんです」
「申し訳ございませんでした!
入れ直して参ります」
そう言いながら、こちらの足首を凝視している。
赤だ。
さっきの赤より広がっている。
窓の外を覗いてみる。
並木道の木が激しく揺れている。
びゅうびゅうと凄い勢いの風の音がする。
ふと、テーブルの上に置かれた砂糖壺を見る。
蓋の下から、ざらざらとした砂が流れ落ちている。
窓の外は、どんよりとした雲が広がっている。
出口の隙間から、ぬるい風が入り込む。
隙間などなかったはずなのに。
店内のジャズが、いつの間にか「ぴちょん、ぴちょん」という
何かが滴る音に変化している。
店員を見ると、頭をふるふると振っている。
ずっと。
だんだん、そういうものかと思えてきていた。
時計の針が五時を指した頃、店員の姿がざあざあと砂嵐に変化した。
「いらっしゃいませ」
砂嵐から声が聴こえた。
そのとき、店員の姿はまた元の姿に戻っていた。
周りを見渡すと、他のテーブルにいつの間にか客が増えていた。
灯りが蝋燭のように揺らめく。
点滅に合わせて視界が歪む。
周りを見渡す。
誰もいない。
窓は真夏のように、じりじりときつい日差しを通していた。
いつの間にか、テーブルの紙ナプキンに文字が書き殴られている。
「いないよ。」
また電灯が揺らぎ始める。
目の前には、客も店員も元に戻っている。
隣のテーブルに着いた客に、店員が言った。
「いらっしゃいませ。如何なさいましたか?」
いつもと台詞が違う。
「さっき窓の外を見たら、腕が降ってきたんですよ。
それをひとつちょうだい」
店員は、ゆらゆらと振った頭を揺らしながら
「承知いたしました」などと呟いている。
ここに来て、まだそんなに経っていないのに、何日も繰り返しているような感覚がする。
気のせいだろうけれど。
カウンターの向こうには砂嵐が動いていた。
思わず目を擦ると、店員だった。
店内を見るとはなしに見ていると、虚ろな目をした店員が、また手をかたかたと微かに震わせながら
「お待たせいたしました」と満面の笑みで珈琲をテーブルに載せる。
客の顔を見ると、いつも見かける常連だった。
また、電灯が点滅する。
店員だけが残っていた。
こちらへ、ゆっくりと歩いている。
「先程は失礼いたしました。
こちら、お詫びの蝋燭です」
光が揺らいだ。
客も店員も、何一つ変わらない景色に思えた。
視界の隅に鏡が見える。
膜が張った何かは、どんどん膨張している。
こちらにはみ出してこないか心配になる。
こぽこぽ。
カウンターのサイフォンが、
また静かに逆流していく。
隣の客を見る。
目玉をぎょろぎょろ回しながら、カウンターの中をにやにやと覗き込んでいる。
覗き込みながら、フォークを手に持ち、歯茎をぐさぐさと刺し出した。
「やめてください」
少し大きな声で言うと、客は大きな口をにんまりと曲げて言う。
「これが取引ですから」
カウンターの棚の中にあったホルマリン漬けは、いつの間にか消えていて、手首がたくさん並べられていた。
さっき貰った蝋燭の使い道が分からない。
へし折ってソーサーの中に入れ、上からカップを置いた。
テーブルが揺れるぐらいの強度で。
誰も、こっちを見ない。
店員はまた砂嵐で、その中に赤が混じる。
その方向から、びゅうっと強く風が吹く。
錆びたような、腐ったような臭いが酷い。
また電灯が点滅する。
今度は明滅の間隔がとても狭い。
店員以外は、誰も消えていないようだ。
隣の客は、相変わらずフォークを弄んでいる。
電灯が消える。
だあれもいない。
ひたひたひた……
背後から足音が聞こえる。
振り返っていないのに、視界いっぱいの赤が見える。
砂嵐のような、ざあざあという音だけが聞こえる。
珈琲の香りが、いつもより濃く漂う。
「ようこそこちらへ」
聞き馴染んだような、いつも聞いているような声がした。
振り返ることはできない。
振り返ったら、何かが終わってしまう。
世界が崩壊するのかもしれない。
足元の赤が、振り向いた先の何かに
呼応しているようだ。
窓の外は、一面真っ白な雪景色。
そこに、よく目を凝らさないと見逃してしまいそうな程の、小さな赤が見えた。
グロテスクな時計は、小さな針をぐるぐる回し、正確な時間を刻んでいる。
このまま、
いつもいる客として
溶け込んでしまおうか。
ひたひたひた……
いつもの店員の声が聞こえる。
もう、何も聞こえない。
足元の赤は、
はっきりと蠢いている。
胸の奥がざわざわするけれど、
私は、
いつもの席に座り続けた……
足音だけが、ひたひたと 歪 @chocokuchipan
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