皆の高嶺の花は、俺の脱ぎ捨てた服がないと息ができない。〜「陰キャ」と見下す奴らは知らない。学園一の美少女が俺の家ではただの駄犬なことを〜
いぬがみとうま
左右ちぐはぐな靴下と、密かな優越感
「……おい、黒木。お前、生きてて楽しいか?」
昼休みの喧騒が響く教室。クラスの主役、赤城が俺の机を足の裏で軽く叩きながら笑った。取り巻きの連中が、獲物を見つけたハイエナのようにドッと沸き立つ。
俺、黒木湊は、いつものように読みかけの文庫本から目を離さず、抑揚のない声で答えた。
「……別に。普通だ」
「普通、かよ。お前のその死んだ魚みたいな目、見てるだけでこっちのテンションまで下がるわ。もっとこう、青春らしいことしろよな。無理だろうけどさ」
赤城はわざとらしく肩をすくめ、自分たちの輪へと戻っていく。彼らにとって俺は、自尊心を高めるための便利なサンドバッグに過ぎない。俺みたいな、教室の隅で背景に溶け込んでいる陰キャを弄り倒すのは、このカースト上位グループにおける日課のようなものだ。
赤城たちの視線は、すぐに別の場所へと向けられる。
窓際の特等席で、陽光をその身に受けて優雅に読書をする少女。
白雪真白。
この学園で彼女を知らない者はいない。成績優秀、眉目秀麗。彫刻のような横顔と、近寄る者すべてを拒絶するような冷徹な瞳。その圧倒的な美貌から、彼女は「氷の女王」と呼ばれている。
赤城でさえ、彼女に話しかけるときは少しだけ背筋を伸ばし、香水を多めにつけ、選ばれた人間であるかのような演技をする。
「白雪さん、今日の放課後、駅前に新しくできたパンケーキ屋に行かないか? 予約、俺が取っておいたんだ」
赤城の、いかにも「慣れています」といった風な誘い。
真白はページをめくる手を止めず、視線すら上げなかった。
「……興味ないわ。私の視界を遮らないでくれる? 文字が読めないの」
氷点下の一言。赤城の自信満々な笑顔が凍りついた。周囲にいた男子生徒たちは、その冷たさに「さすが女王だ」と溜息を漏らす。誰も彼女を攻略できない。彼女は誰にも心を開かない。教室の誰もがそう信じていた。
だけど、俺だけは知っている。
真白が退屈そうに机の下で足を組み替えた、その瞬間。
制服のプリーツスカートがふわりと舞い、そこから覗いた靴下。
右足は濃紺。左足は真っ黒。
左右で色が、滑稽なほどにちぐはぐだ。
(……あいつ、またやりやがったな)
今朝、俺のアパートで「自分で選べ」と突き放した結果がこれだ。
彼女は、俺がいなければ、一足の靴下さえ揃えることができない。
世界が平伏する「女王」の生命線は、実はクラスで最も価値がないとされる「モブ」の俺が握っている。
その歪な、それでいて絶対的な優越感が、俺の胸の奥で心地よい熱を帯びていた。
放課後の鐘が鳴り、俺がアパートの自室に帰ってから、わずか十分後のことだ。
ガチャン、と乱暴に玄関の鍵が開く音がした。合鍵を預けている相手は一人しかいない。
「……みなと。……湊……!」
雪崩れ込んできたのは、ついさっきまで教室で「氷の女王」として君臨していたはずの、白雪真白だった。
玄関先に膝をつき、肩を激しく上下させている。
その瞳は充血し、焦点が定まっていない。指先は小刻みに震え、制服のブラウスは乱れ、今にも呼吸が止まってしまいそうなほど必死な形相だった。
「……酸素。……酸素、ちょうだい……っ。お願い、死んじゃう……っ」
俺の返事を待つ余裕さえない。
彼女は四足歩行の獣のように這いずり、俺の足元にまで辿り着くと、俺が脱ぎ捨てたばかりのパーカーを奪い取った。
そのまま、顔を深く、その布地へと埋める。
「……っ、ふぅ……っ、はぁ…………っ」
貪るように、彼女は俺のパーカーから立ち上る「匂い」を吸い込んでいく。
それは高級な香水の香りではない。
ドラッグストアで特売されていた安い石鹸の匂い、ベランダで天日干しされた柔軟剤のわずかな香り、そして、俺という人間から発せられる微かな体温の混じった、どこにでもある生活臭だ。
それなのに、彼女にとってこの匂いは、この世界の猛毒に満ちた空気から自分を守ってくれる、唯一の清潔な酸素だった。
「……生き返った……。あぁ、湊の匂いだ……。やっと肺に空気が入ってくる……」
パーカーに顔を埋めたまま、彼女の声がうっとりと漏れる。
次第に激しかった呼吸が落ち着き、陶酔したような甘い喘ぎが混じり始める。
真白にとって、学園は真空と同じだった。自分を押し殺し、完璧な偶像を演じ続けなければならない場所。そこには彼女が吸える空気など一滴も存在しない。
この狭くて小汚い俺の部屋だけが、彼女が「白雪真白」として呼吸を許される唯一の空間なのだ。
「……そんなに吸ったら、繊維が傷むぞ。洗濯が面倒なんだよ」
俺の冷めた言葉に、彼女はパーカーを抱きしめたまま、上目遣いで俺を見つめてきた。
その瞳は、もはや飼い主の帰りを待っていた忠実な大型犬そのものだ。
「いいの。これがないと、私の心臓、止まっちゃうんだから。ねぇ、湊……また、あれ、作って?」
彼女の言う「あれ」とは、特別なご馳走のことではない。
出会った頃、俺が彼女に与えた最初の「救済」のことだ。
中学の頃の真白は、今以上にボロボロだった。
由緒ある白雪家の重圧、親からの過剰な期待。テストで一点落とすことも許されない監獄のような生活。彼女は誰にも助けを求められず、独りで消えてしまおうとしていた。
ある雨の日、アパートの階段で蹲っていた彼女を、俺はただの「お腹を空かせた迷子」として、この部屋へ招き入れた。
俺が作ったのは、冷蔵庫にあった残り物で作った、茶色のチャーハンだった。
高級ホテルのようなパラパラとした仕上がりではない。
少し油っぽくて、焦げた醤油の香ばしい匂いが立ち上り、適当に刻んだネギの大きさがバラバラな、家庭料理とも呼べないような一皿。
それでも、彼女はそれを、まるでお宝を扱うような手つきで口に運んだ。
一口食べるごとに、彼女の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出し、チャーハンの上に落ちていく。
「……おいしい。……生きてる、味がする……」
嗚咽を漏らしながら完食した彼女の頭を、俺は何も聞かずに、ただ黙って撫でてやった。
そのときの、手のひらから伝わる彼女の震え。
あの日の一皿と、この部屋に漂う生活の匂いが、彼女を「完璧」という呪縛から引き剥がした。
以来、彼女の命は俺に預けられている。
世間が崇める女王の命綱は、俺の気まぐれ一つでどうにでもなる。そんな危うい関係が、俺たちを繋ぐ唯一の真実だった。
文化祭当日。
学園内は熱気に包まれ、廊下には模擬店の活気ある声が響き渡っている。
実行委員として多忙を極める真白は、後夜祭で披露される劇の主役として、特注のドレスを纏うことになっていた。
俺はと言えば、いつものように目立たない裏方仕事として、備品の運搬や片付けに従事していた。
そんな俺のもとに、パニック状態の女子生徒が駆け込んできたのは、劇の開演三十分前のことだ。
「黒木くん! 大変なの! 白雪さんが……その、君じゃないとダメだって!」
周囲にいた男子生徒たちから、鋭い棘のような視線が突き刺さる。
「なんであんな陰キャを?」「関係ないだろ」という囁きが聞こえてくるが、俺は肩をすくめて女子更衣室へと向かった。
当然、中には真白一人しかいない。
他の生徒をすべて追い出し、彼女は扉に鍵をかけて俺を待っていた。
「……遅いわよ、湊」
部屋の隅、スポットライトのような午後の西日が差し込む場所で、彼女は立っていた。
純白のドレスを半ばまで身に纏っているが、背中のファスナーが途中で噛み込み、露わになった肌が微かに震えている。
更衣室特有の、埃っぽくて、どこか甘ったるい香水の残る密閉された空気。
真白の背中は、まるで陶器のように白く、滑らかだった。
だが、その肌は今、羞恥と俺を呼んだことへの興奮で、火照るような赤みを帯びている。
「ファスナーが壊れたのか。無理に上げようとするからだ」
俺は淡々と近づき、彼女の背後に立った。
衣擦れの音が、静寂の中でやけに大きく響く。
至近距離に寄ると、彼女の熱気がダイレクトに伝わってきた。細い肩が、俺の気配を感じてビクッと跳ねる。
「……他の誰かに、こんな姿見せられない……。湊じゃなきゃ、嫌……」
潤んだ声で、彼女が訴える。
俺は返事をせず、冷えた指先で彼女の背中に触れた。
熱を帯びた彼女の肌に対して、俺の指先は驚くほど冷たい。
その接触があった瞬間、彼女は「ひっ」と小さな、甘い悲鳴を漏らした。
「……あ。……湊の指、つめたい……。もっと、奥まで……直して……っ」
誘うように、彼女が細い背中を反らせる。
ドレスの重みで露わになったうなじには、玉のような汗が浮かび、彼女の熱い吐息が俺の首筋を撫でる。
だが、俺の心は一向に揺れない。
服飾職人のように、淡々と、噛み込んだ布を指先と針で外していく。
その冷静さが、彼女にとっては最大の快楽なのだ。
「……動くなと言ったはずだ。針が刺さっても知らないぞ」
低く、突き放すような声で命じる。
真白は従順な奴隷のように、その場でぴたりと動きを止めた。
背中越しに伝わってくるのは、彼女の激しい鼓動だ。
彼女は俺に支配され、冷たく扱われることに、抗いがたい悦びを感じている。
「女王」という厚い氷の膜の下には、誰かに管理されなければ自立することもできない、一匹のひ弱な生き物だ。
俺がファスナーを引き上げ、彼女を「完璧な女王」へと復元してやる。
その瞬間、彼女は再び世界を拒絶する氷の女王に戻り、俺は再び、誰にも顧みられないモブへと戻る。
この秘密の作業こそが、俺たちの歪な儀式だった。
後夜祭。全校生徒が集まる体育館のボルテージは、最高潮に達していた。
ステージ上には、先ほど俺がファスナーを直してやった、完璧な美しさを誇る白雪真白。
そしてその隣には、この学園のスター、赤城が立っていた。
赤城がマイクを握る。
その顔には、自分こそがこの場の主役であり、彼女の隣に立つのに相応しい唯一の男であるという、揺るぎない自信が溢れていた。
「白雪さん! ずっと言いたかったことがある! 俺なら、君を孤独から救い出せる。だから、俺と付き合ってくれ!」
会場中から割れんばかりの歓声と、はやし立てる声が上がる。
赤城は勝利を確信したような笑顔で、真白に手を差し出した。
観客席の誰もが、世紀のカップル誕生を予感し、俺のことなど視界の端にも入れていなかった。
だけど、マイクを受け取った真白の唇から漏れたのは、みんなの予想を裏切る返事だった。
「……死ぬほど不快だわ、赤城くん」
冷え切った、死の宣告。
マイクを通した彼女の声は、熱狂に沸く体育館を一瞬で極寒の地へと変えた。
真白は軽蔑しきった瞳で赤城を見据え、一歩、また一歩と彼を追い詰める。
「君が私を孤独から救い出せる? 笑わせないで。君のつけているその安っぽい香水の匂い、嗅いでいるだけで吐き気がするの。私の肺が、毒で汚されていく気がするわ」
赤城の顔から血の気が引いていく。
真白はステージの袖、暗がりに潜んでいた俺を指差した。
そして、全校生徒の前で、隠すことのない「愛情」を爆発させた。
「湊! 早く来て! もう限界なの……君の匂いがないと、私、ここで倒れちゃいそう……っ!」
彼女はステージから俺に駆け寄り、衆人環視の中で俺の腕にしがみついた。
その瞬間、彼女の顔は「氷の女王」から、一人の狂おしいほどに恋い焦がれる「雌」へと変貌した。
俺の腕に顔を擦り付け、必死に俺の体温を確かめる彼女。
その瞳は情欲と依存に潤み、口元からは恍惚とした吐息が漏れている。
赤城は、何が起きたのか理解できず、ただ口をパクパクと開閉させていた。
自分がゴミのように見下していた陰キャが。
自分が女神のように崇めていた少女を、デレさせて支配している。
その残酷なまでの格差を、彼は最前線で見せつけられた。
「あ、ああ……」と情けない声を漏らす赤城。
「ぷっ、赤城くん、ダサ……」
体育館のどこからか、女子の声が響いた。
赤城のプライドが、音を立てて粉々に砕け散る。
彼だけではない。体育館にいたすべての生徒が、そのあまりの衝撃に言葉を失った。
「完璧な女王」が、たった一人の「モブ」の前で、理性を失った獣のように服従している。
騒然とする体育館を後にし、夕方の静けさが支配する校舎裏。
俺はしがみついてくる真白を強引に引き剥がし、深いため息をついた。
「……やりすぎだ。明日から、俺まで注目されるじゃないか。迷惑なんだよ」
その瞬間、真白の顔から、ついさっき赤城を黙らせた威厳が霧散した。
捨てられた仔犬のような、今にも消えてしまいそうな顔になり、彼女は俺の制服の袖を震える指で掴んだ。
「ごめんなさい……! もう……我慢できなかったの。嫌わないで。捨てないで。言うこと聞くから、なんでもするからぁ……っ!」
彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。
俺は立ち止まり、その場に跪きそうな彼女を冷たく見下ろした。
彼女は、俺が次の一言で自分を地獄に突き落とすことも、天国に連れて行くこともできると知っている。その支配される感覚に、彼女の頬は紅潮し、瞳はさらに深く潤んだ。
「……お手」
俺は右手を、無造作に差し出した。
真白は一瞬の躊躇もなく、自分の両手を重ねて、俺の掌の上に置いた。
それは屈辱などではない。
「自分はこの人に飼育されている」という、絶対的な安心感と陶酔に満ちた表情だ。
「……わんっ!」
夜の空気の中に、彼女の救われたようで嬉しそうな声が響いた。
実は、俺もなんだ。俺も真白に依存されていることで救われている。
潤んだ瞳で俺を見つめる彼女の頭を、あの日と同じように撫でてやる。
「……よし。帰るぞ」
「……はい、湊。私のこと、一生、飼ってね♡」
俺たちは、一生このままだろう。
俺は彼女を管理し続け、彼女は俺の匂いの中でだけ呼吸を続ける。
――
カクヨムコンテスト11(短編)にエントリーしております。
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