殻一枚の向こう側

千崎 翔鶴

殻一枚の向こう側

 一日目。

 こつ、こつ。こつ。

 指先ひとつ動かせないまま、私は天井を見ていました。なぜか目だけは開けられて、けれど視線を逸らすこともできないのです。

 それは、まるで水滴のようでした。天井の梁からぽたりぽたりと雨粒でも落ちるかのように、白いものが生まれては落ちてくるのです。それは水ではなく、確かな質量を持っているものだした。丸くて白い、あれは――あれはきっと、卵であるのだと。

 私は目を見開き、まばたきもできぬまま、そう察したのです。そして気付けば夜は明けていて、天井から無数に落ちてきていたはずの卵はどこにもありませんでした。


 二日目。

 ぽとんぽとんぽとん。ぽとん、ぽとん。

 今日も指先すら動かせませんでした。けれど目は見開いていて、天井の梁から落ちてくるものだけを私は眺めているのです。どうにも現実味がないそれを夢と片付けてしまうには音が鮮明すぎて、さりとて現実であると決めてしまうには有り得ないことが起きているのでした。

 卵が――何かの卵が、降り注ぎます。雨粒ではない質量を持ったそれが、私の上に次から次へと降り注いでくるのです。

 いつしか、息もできないほどに埋もれてしまいました。そこでようやく、私はまばたきをしたのです。

 まばたきの瞬間、埋もれるほどの卵は消えてしまいました。けれど私の腕に、どうしてだかびっしりと白い卵が巻き付くようにいくつもいくつもくっついているのです。

 夜が明けました。

 腕には、もう何もありません。けれどうっすらと、その場所が赤くなっているような気がしました。


 三日目。

 ぱきんぱきん、ぱきん。かさかさ、ぼとり。

 かりこり、かりこり。


 四日目。

 うぞうぞ、うぞうぞ。

 かさかさこりこり。こりこり、こりこり。


 五日目。

 腕が。


 六日目。

 足が。


 七日目。

 私だ。


  ※  ※  ※


 床の上を何かがはいずり回っておりました。確かに何かがはいずり回るような音を聞いたのです。そして夫はどこにもいなくなってしまいました。

 目の前で手を組んでぶるぶると震えながら、老女が罪の告白でもするかのように告げている。僕はそんなことを言われたとてどうにもできず、僕をここへ有無を言わせずに連れてきた胡散臭い男を見遣った。

 肩がぶるぶると震えていた。恐怖とか、悲哀とか、そういうものではない。その証拠にぶるぶると震える肩の動きは次第に大きくなって、そして「あっはっはっはっは」という盛大な笑い声までし始めたのだから。

「おい」

「ああ、すまんすまん。あまりにもありきたりな呪いだとは思わないかね、准教授」

 准教授と呼ばれるのは嫌いだ。教授になれないままそこに留まった僕を嘲笑うかのように、この胡散臭い男は僕のことをそう呼ぶのだ。

「そんなことを思うのはお前くらいだろうよ、似非陰陽師」

 自らを陰陽師の末裔などと嘯いて、失踪事件にまつわる呪いを解いてやるなどと目の前の男は自信満々に口にした。

 ついでにお前にかかっている呪いも解いてやるから涙を流して感謝しろなどと言われたところで、僕の口から感謝の言葉が出てくるはずもないのだが。むしろ余計なお世話であるしこれ以上関わりたくないからどこかへ消えてくれとも思う。

「ところで、庭に大層立派な桜の木があるではありませんか」

 窓の外。

 春にはまだ早い。それが桜の木であることなど、僕には分かりもしない。花や葉があれば分かるものもあろうが、すべて葉を落とした冬の木の名前を、一体どうやって判別しろと言うのだろうか。

「ええ、まあ……あの人が大切にしていた、桜の木ですから」

 していたと、言った。

 しているではなく、していた、と。

 失踪したとは言っても、過去形にするようなものではない。失踪した夫を心配することはあれども、だからといって死んでしまっていると決めつけるものではないだろう。

 どうしたことかと胡散臭い男を見れば、男は玩具でも見付けたかのように目を細めて笑っていた。その顔は何と言うか、何だったか。チェシャ猫の笑み、とか、何とか、そういうものに僕には見えた。

 これだからこの男は、どこまでも胡散臭いのだ。


  ――一色栄永『怪異異聞録 蟲卵の恩讐』より


  ※  ※  ※


 ぱたりと本を閉じる。次から次へと天井の梁から滴り落ちてくる虫の卵というのはいただけない。自分だったら愕然とするだろうし、悲鳴を上げる人間もいるだろう。だというのに本の中の男は、まんじりともせずにそれを眺めている。

「父さん、こんなのどこから思い付いたの」

「良いことを聞いてくれますね吉彰君。いや実はですね、知人が桜の木がアメリカシロヒトリ祭りだなどと言い始めまして。桜の木をうぞうぞと這いまわるアメリカシロヒトリもなかなかのものだなと思ったのですが、卵ならばオビカレハの方が面白いかと思ったんですよね。あれ、集合体恐怖症だと悲鳴を上げて逃げたくなると思いましたから」

 聞いた自分が馬鹿であったと、吉彰は内心でため息をついた。こうなれば父は止まらないのだから、右から左に聞き流しておくのが賢明か。

「ただ毛虫が這いまわるだけでは芸がありませんし、折角の卵ですからね。神話では宇宙が卵から作られたりするではありませんか。ギリシャのオルフェウス教によれば時の神クロノスは銀の宇宙卵を作り、そこから最初の神が生まれ、とありますし。中国の盤古神話も初めは巨大な卵でしょう。ならばこの卵というモチーフは拡張していくべきであって、単なる呪いや恐怖心を与えるためだけの材料としてしまうにはもったいなくてですね。どの神話から引っ張ってくるかは迷ったんですけれども、ほらこう失踪してそこからの再生となるとやはり――」

「長い長い長い!」

 まだ滔々と話し続けそうな父を、吉彰を何とか押しとどめた。

 新作を貰ったのは良いが、そしてそれを読んだのは良いが、迂闊なことを口にするべきではなかっただろう。

「とりあえず続き読むから、ネタバレ止めて」

「はぁい」

 間延びした声を上げて、父はソファに深く沈みこむ。目を閉じて、きっと思考の海に沈んでいくのだろう。

 かちこちと時計の針の音が聞こえてくる。さきほどまでとは打って変わって静寂に包まれて、まるですべて卵の殻一枚隔てた向こう側かのようだった。

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殻一枚の向こう側 千崎 翔鶴 @tsuruumedo

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