賞味期限切れの冷蔵庫の卵

東へ西へ

第1話


 師走の乾いた風が、台所の窓ガラスを微かに震わす。暖房の効いた屋内では外よりも湿気が無く、喉の奥も水気が足りず不快感が拭えない。


 今夜は特に冷えるな、と男は食べ終わったインスタントのゴミを捨てエアコンのリモコンを手に取る。2度、設定温度を上げ少しでもこの冷たい感覚を戻そうとする。

 

 テレビの天気予報では、ニュースキャスターが寒気の影響でこの地域にも雨や雪が降るかもしれない、と気分まで鉛色になりそうな予想を垂れ流している。


 鬱々な気分を呼び起こした目の前のテレビジョンに苛つきつつ、電源を消し情報を遮断する。

 

 毛布を頭まで被り、静電気で毛羽立った表面で全身を覆う。 

 外はもう氷点下まで冷え込んでいる。寒さで何かをする気も起きず、毛布に包まりながらスマホでネットの海を惰性的に泳いでいく。


 部屋の中は、シンと静まり返りエアコンの駆動音と微かな衣擦れのみがこの静寂を打ち破っていた。


 

 カタ

 


 この沈黙の中、一つの物音が鳴る。男は気にした様子も無くスマートフォンを弄り続けている。


 

 カタ、カタ、カタン

 


 一定のリズムで物音が鳴っている。男は気がついたのか毛布から少しだけ顔を覗かせ、周囲を伺っている。この部屋には人は男しかいない。


 もしや、この深夜に茶光りする害虫でも現れたのかと警戒心と共に神経を研ぎ澄まして音の発生源を窺っているようだが。

 


 カタン、カタン、カタ

 


 音は、キッチンの方角から鳴っているみたkだ。この1Kの部屋の中、黒い悪魔とは熾烈な戦いとなるだろう。

 不意の奇襲よりはマシであろうと、男は暖かい毛布の中から抜け出した。



 温かい空気を循環している家の中だと言うのに、どこからか纏わりついてくる足元の冷気で、男は寒暖の差からか身震いをしてしまう。


 いいや、これは害虫との戦いの武者震いだ。そう、気合いを入れる男はシンク下の棚から殺虫剤のスプレーを取り出し、周囲を注意深く窺う。




 シンと、再び部屋の中を静寂が支配する。


 男は領内にいる他の生命体を許せないのだろう。空気の埃すら見逃さないよう、瞼を大きく開いて視野を確保し続ける。



 カタ、カタ


 

 再びあの固い音が鳴り響く。男の注意は、冷蔵庫へと向けられた。

 

 キッチンの横、狭い調理場内に所狭しと家電が並ぶ中、男の臍の高さほどの冷蔵庫の中から確かに音がした。


 一人暮らしには十分過ぎる大きさのそれの中には、普段料理をしないせいか酒と使いかけの調味料、それにいつ買ったかも分からない賞味期限切れの卵が入っている筈だ。



 もしかすると、庫内で忘れた腐った食べ物を目当てに虫が入り込んだのかもしれない。

 男は自身のだらしなさを後悔しつつも、冷蔵庫へと耳をあてる。



 カタ、カタ、カタ



 扉の奥からは一定の周期で固い音が響いている。やはり、冷蔵庫が音の発生源のようだ。

 意を決したように殺虫スプレーを片手に、もう片方の手で冷蔵庫のドアに手をかける。


 ぽたり、と寒い筈の部屋の中ではあるが男の頬から一雫の冷や汗が床へと染みを作っていく。



 南無三、男はそう呟くと勢いよく冷蔵庫のドアを開ける。中から飛び出してくる存在がいないか最大限の警戒をしていたが、なんの変哲もない男が見慣れた冷蔵庫の中身だけがそこにはあった。 



 そこには、1本のミネラルウォーターにビールの缶が数本。ケチャップやマヨネーズなど酒の肴にかけるための調味料、それに中途半端に使って残っている卵が1つだけ。


 そのほかは生鮮食品や調理材料は何も無く、一段下の冷凍庫に詰まった定期便弁当とインスタントの袋麺だけがこの部屋の食品と呼べる全てであった。




 見えない位置に隠れているゴキブリが飛びかかってくるかもしれない恐怖に耐えつつ、目に映る食材を全て取り出していく。


 全てを抜ききった後に残ったのは、冷蔵庫の仕切床のみで悪魔は何処にも存在すらしていなかった。



 もしや、単なる製氷やクリーニングの音だったのだろうか。一先ず敵が居なかったことで男は胸を撫で下ろす。


 それと同時くらいに空腹を知らせる音が腹の中からなった。気がつけば時計の短針は既に峠を超えている。緊張から解放され、その落差で小腹が空いたのだろう。


 机の上には、冷蔵庫から出した調味料と卵、水のペットボトルとビール缶が並んでいる。

 


 男は数秒考えた様子を見せた後、スマートフォンで何かを調べ始めた。調査結果が納得いくものだったのだろう。

 軽く頷くと、シンクから鍋を取り出し水を一杯に入れている。それを一口コンロの上に載せ、火をかける。

 


 チッチッチッチ



 電気の火花が弾ける音がする。

 

 その音を聞きながら、男は水が温かくなる前から机の上にある卵を無造作に鍋へ投入する。


 せっかく食材を出したのだから、茹で卵でも作ろうか、どうせ茹でるだけろう。

 そんな決心をしたようで、水が沸騰するまでコンロの火に手をあて台所から漏れ出る冷気を凌いでいる。


 

 卵の賞味期限はとうに過ぎていたが、他に腹を満たすような食材は何処にも無かった。



 男がAIに食べても大丈夫か聞いた所、火で加熱を十分した卵であれば賞味期限切れで問題なく食べられる可能性があると。最先端技術が言っているなら大丈夫などと何処にも根拠の無い自信を得ているみたいだ。


 火に温まりながらSNSを漂うこと5分。ボコボコと沸騰した水の泡で部屋の湿度に幾ばくかの潤いを与えたころ、男はコンロの火を止め熱された卵を冷え切ったシンクの水で冷やしていく。


 表面が冷え切った頃、男は茹でた卵を取り出し殻を剥いていく。

 

 ドロリと固まりきっていない白身にへばりついた薄皮を剥がすのに苦労していると、それはやがて表面の熱を徐々に取り戻し、手に持てない程の温度になっていった。



 「……あつっ!」



 慣れない調理に勝手も分からないのだろう。数十秒表面を冷やしただけで、茹でたての卵が食べられる程冷める訳も無い。


 男は火傷を避けようと本能で卵から手を放した結果、手からこぼれたそれが、床へと重力に従い無惨にも地に叩きつけられることとなった。



 ぐしゃり



 そんな音が聞こえるよう、半熟の卵は撒き散らかされた。先程までは小腹を満たせる食事として見ていた美しい白身のそれは、今はもう床のフローリングを穢すゴミとしか見えない。



 男は苛立つように溜息を一つつくと、ティッシュをかき集め溢れた身たちを拭き取るとゴミ箱へ投げ捨てるように紙くずを入れた。

 自身の浅学故の結果の筈だが、男は責任転嫁するよう卵へ悪態をつく。


 全てのやる気を無くした男はふてくされるように部屋の電気を全て消し、万年床の布団へと潜り込んでいく。


 

 夜も更けていたからか、時間もあまり経たずにいびきの音が響き始めた。


 部屋の中には男のいびき、空調の駆動音のみが鳴っている静寂の場であった。



 カタ、カタ、カタ

 カタン、カタン、カタン

 カタ、カタ、カタ


 ただ一つ、先程卵が捨てられた塵箱から発する硬い音を除けばだが。

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