煉獄の理

不思議乃九

煉獄の理

第一部:残滓と煤煙


明治十五年、十二月。

東京の冬は、かつての京都のそれよりもどこか無機質で、刺すような痛みを伴う。


石畳を濡らす夜霧には石炭の煤が混じり、文明開化の華やかさを謳うガス灯の光さえも、湿った闇を完全に払い落とすことはできない。銀座を往来する馬車の響き、人力車の車輪が立てる乾いた音、そして洋装に身を包んだ紳士たちの笑い声。それらすべてが、藤田五郎にとっては、薄氷の上に築かれた危うい虚構のように感じられた。


警視庁の一室。

藤田は、窓の外を眺めながら「敷島」の煙を深く吸い込んだ。


その背筋は、旧時代の武士が保つべき節度を、化石のように凝固させて保っている。壁に立てかけられた官給品のサーベルは、彼にとっては「刀」というよりも、法という巨大な伽藍を維持するための「鍵」に近い。かつて、斎藤一として闇を裂いた「鬼神丸国重」は、今はその身を隠し、制度という名の重厚な鞘に収められている。


「藤田さん。……また、死にました」


入室してきた部下の高木巡査の声が、静寂を裂いた。高木はまだ二十代前半、幕末の動乱を「お話」としてしか知らない世代だ。その若々しい頬は寒さで赤らんでいるが、瞳の奥には、理解しがたい怪異に直面した時の戸惑いが張り付いている。


藤田は振り返らず、煙を吐き出した。

「場所は」


「本郷、蓮華寺です。……例の、元士族たちが身を寄せ合っている廃寺です」


藤田の眉が、わずかに動く。

本郷。加賀藩の下屋敷がかつて威容を誇った地だ。今やその栄華は、寄宿舎や荒れ果てた寺院に姿を変え、時代の激流に乗り遅れた者たちの溜まり場となっている。


「検視の結果は」

「それが……。高名な医官も首を傾げています。外傷は、首筋にたった一箇所。針を刺したような小さな穴があるのみです。争った形跡も、毒を煽った形跡もありません。被害者は……まるで、仏のように穏やかな顔で座禅を組んだまま、事切れていたそうです」


藤田はゆっくりと腰のサーベルを確認し、外套を羽織った。その動作には一点の無駄もなく、静かな圧迫感が高木の呼吸を奪う。


「被害者の名は、北村勘兵衛。六十二歳」

高木が手帳を開き、声を落として続けた。

「元は小さな藩の勘定方だった男だそうです。維新後は細々と私塾を開き、近所の子供たちに算術を教えていました。評判はすこぶる良く、恨みを買うような人間には到底見えません。……ただ、近所の者の話では、最近『昔の教え子が訪ねてきた』と嬉しそうに漏らしていたそうです」


「算術、か」

藤田の声は、冬の夜風よりも冷たい。


「算術は嘘を吐かない。だが、算術を操る人間は、往々にして世界を欺くためにその力を使う」


「馬車を出せ。現場へ向かう」


馬車が本郷へ向かう道中、藤田は窓の外を流れる景色を眺めていた。

東京は、変わり続けている。かつての江戸が持っていた「死の近さ」は、今や「制度」という名の厚い漆喰で塗り固められ、見えない場所に追いやられているに過ぎない。しかし、藤田の鼻腔には、その漆喰の割れ目から漏れ出す、拭い去れない血の匂いが常に届いていた。


揺れる車内、高木が読み上げる被害者の記録は、どこまでも平穏な「過去の遺物」のそれであった。だが藤田は、その平穏の裏側に潜む、鋭利な歪みを感じ取っていた。


北村勘兵衛。かつて数字という名の理(ことわり)で藩を支えた男が、なぜ今、仏のような顔で果てなければならなかったのか。

闇を切り裂く蹄の音が、本郷の冷えた静寂へと近づいていた。


   *


蓮華寺の境内は、凍てつく静寂に支配されていた。

かつての廃仏毀釈の折に打ち壊された石仏の首が、寒月を浴びて白く浮かび上がり、時代の断層を無言で告発している。北村勘兵衛が住んでいた離れは、境内の隅にひっそりと佇む粗末な六畳間だった。雨漏りの跡が地図のように広がる天井の下、その男はいた。


高木の報告通り、北村は端座していた。

古びた綿入れを纏い、背筋を伸ばし、組んだ手の指先は一点の乱れもない。その顔は、死の苦しみから解き放たれたというよりも、巨大な難問を解き終えた学僧のような、清々しい静謐さを湛えていた。

藤田は死体の前に跪き、その首筋を検分した。


「……やはりな」

指先で触れるまでもなく、そこには小さな赤い点があった。延髄を正確に射抜く、極めて細く、かつ長い得物による一撃。それは武術の域を超え、精密機械の作動を思わせるほど、冷徹な殺意の結実だった。


「争った形跡はありませんね。やはり、不意を突かれたのでしょうか」

傍らで高木が声を潜めて問う。 


「いや。争っていないのではない。争う必要がなかったのだ」

藤田は、北村の穏やかな表情を見つめながら呟いた。

「被害者は、自分を殺しに来た相手を、招き入れた。……あるいは、待ち構えていたか」


藤田の視線は、死体の脇に置かれた文机へと移った。

そこには、墨の跡も新しい数枚の和紙が、重石に押さえられたまま残されている。


そこに記されていたのは、子供に教えるような平易な「鶴亀算」の類ではなかった。数万、数十万という単位の数字が、網の目のように絡み合い、一つの巨大な「解」を求めて収束していく。狂気じみたほど緻密な、代数演算の軌跡。


藤田はその紙を一枚、手に取った。指先が微かに墨で汚れる。北村は、絶命する直前までこの数字を追い続けていたのだ。そして、その数式の末尾。そこには、一つの「赤」で引かれた二重線と、空欄の「答え」があった。


ふと、藤田の鋭い眼光が机の隅に留まった。

乱雑に置かれた和紙の下に、質感が異なる紙片がわずかに覗いている。藤田がそれを引き抜くと、それは数式の和紙とは別の、裁断された紙の切れ端だった。そこには、官公庁特有の格式張った透かしと、工部省の印が薄く、だが確かな意思を持って押されていた。


藤田は表情を変えず、その「工部省」の紙片を指先で弄り、外套の懐へと収めた。


「高木。この寺の周囲を調べろ。それと、北村が最近誰と会っていたか、工部省や大蔵省の下級役人の中に、彼の教え子がいなかったか徹底的に洗え」


「え……? 役人、ですか?」

高木が面食らったように声を上げた。


藤田は答えず、北村の冷たくなった目を覗き込んだ。その眼窩の奥に、かつて京都の路地裏で見た光景が重なる。正義を語りながら人を斬った者。理想を語りながら富を盗んだ者。その全ての「不一致」が、今、明治十五年の冬に、北村勘兵衛という老人の死を通じて、再び藤田の前に姿を現そうとしていた。


「この男が解こうとしていたのは、算術ではない。……この国の、帳尻だ」

藤田の声が、湿った六畳間の空気を切り裂く。

「算術は、美しい。……だが、その美しさが人を殺すこともある」


藤田の胸中で、冷徹な構築が始まっていた。

この老人の死は、単なる他殺ではない。それは、明治という巨大な虚構が、自らの綻びを縫い合わせるために行った、残酷な「修正」の一工程なのだ。


藤田は再び馬車へ乗り込むべく、離れを後にした。

夜の闇は、これから始まる長い審判の序奏のように、深く、重く、本郷の空を支配していた。


第二部:虚構の伽藍


翌朝、警視庁の資料室は、冬の陽光さえも拒絶するような澱んだ空気に満ちていた。


天井まで届く書架には、地租改正の記録、廃藩置県の公文書、そして各省庁から提出された膨大な統計資料が、死者の骨のように積み上げられている。


藤田五郎は、外套を脱ぐことも忘れ、机の上に北村勘兵衛の残した数式と、大蔵省の裏帳簿を並べていた。傍らに置かれた珈琲は、すでに氷のように冷え切っている。


「藤田さん、まだそんなものを……」

高木巡査が、数冊の報告書を抱えて入ってきた。

「北村の私塾に通っていた教え子、洗いました。大蔵省、工部省、内務省……新政府の屋台骨を支える中堅役人の中に、十名以上。確かに彼は、維新後の立身出世を夢見た若者たちの、影の師父(しふ)だったようです」


藤田は高木の方を見ず、指先で紙面をなぞった。


「高木。この数式を、単なる算術と思うな。これは、この国が文明という衣を纏うために、どこから何を盗んだかを示す『告発状』だ」


「告発……ですか?」


「そうだ。その教え子たちの中に、とりわけ北村の信頼が厚かった者はいないか」


高木は手帳を繰り、一枚の頁を指し示した。

「筆頭と呼ばれていたのが、工部省の計算官、佐伯信次郎(さえき しんじろう)です。貧しい下級士族の出身ですが、算術の才だけで今の地位を築いた。将来の大蔵大輔とも噂される才子だそうです。最近も、北村の元へ頻繁に通っていたという証言があります」


「佐伯、か……」


藤田は、懐から昨夜拾い上げた工部省の紙片を取り出し、机に置いた。


「北村が絶命する瞬間まで解こうとしていたのは、十数年前の加賀藩、および周辺の小藩における『消えた公金』の行方だ。いいか、廃藩置県の折、各藩の債務は政府が引き受けた。だが、その引き継ぎの際、旧藩の金蔵から消え、政府の帳簿にも記載されなかった『浮き金』が存在する」

藤田は数式の一節を指で叩いた。

「ここに記された数字を見ろ。明治四年、加賀藩金庫に残されていた、米五万石相当の予備金。当時の貨幣換算で、およそ十二万円だ。だが、政府が受理した引継ぎ帳簿には、この項が丸ごと欠落している」


「十二万……。今の価値に直せば、一省の年間予算にも匹敵する大金ではありませんか」


「その大金が、どこへ消えたか。北村が導き出した答えは、極めて単純で、かつ残酷なものだ」

藤田は、別の統計資料を広げた。

「現在、政府の重鎮たちが私的に所有している広大な土地、そして息のかかった新興企業への巨額の出資データ。北村の数式に従ってそれらを逆算すれば、端数に至るまで、あの『消えた五万石』と完璧に一致する。つまり、今の文明開化を支える富の一部は、旧藩の遺産を掠め取った重鎮たちの懐に直結しているということだ」


高木は言葉を失い、机の上に展開された数字の羅列を見つめた。


北村の数式は、極めて美しく、かつ逃げ場がない。一の項を動かせば、必ず連鎖して百の項が崩れる。嘘を吐き通すためには、全世界の数字を書き換えなければならないほどの精度だ。 


「北村は、自分が育てた若者たちが、かつての自分と同じように算術を愛していると信じていた。だからこそ、自分の見つけた『正解』を彼らに示したのだ。師として、学問の誠実さを説くために。……己の教え子が、その掠め取られた富を管理する側の人間になっているとも知らずにな」

藤田の声には、冷徹な静寂が宿っていた。

「北村は、自分が完成させたこの数式を見せれば、教え子もまた、学問の正しさに戦慄し、誠実を取り戻すと信じていたのだろう」


「……だが、現実は違った」


藤田は、工部省の紙片を強く握りしめた。

「数字の正しさを信じる北村に対し、教え子の一人は、数字を『権力』を守るための道具として見ていた。この数式は、彼らにとっては正解などではない。自分たちの椅子を、この国の虚構を根底から突き崩す『爆薬』に他ならなかったのだ」


藤田は外套を羽織り、席を立った。


「佐伯信次郎の身辺をさらに洗え。奴は、自分の手元にあるはずの『真の解』が、まだ北村の部屋に残っているのではないかと、今この瞬間も疑心暗鬼に陥っているはずだ」


資料室の窓から差し込む冬の光が、藤田の横顔を鋭く切り取っていた。

それは、これから始まる凄惨な「修正」を予感させる、冷たい光だった。


   *


藤田は資料室の椅子に深く腰掛け、佐伯信次郎の履歴書をじっと見つめていた。


写真はなくとも、その行間に滲む男の「乾き」が手に取るように分かる。貧しい下級士族の家に生まれ、維新という荒波の中で家禄を失い、算術という唯一の武器を手に泥を這い上がってきた男。

北村勘兵衛にとって、佐伯は単なる教え子ではなかったはずだ。身寄りもなく、ただひたむきに数字を追い続ける若き才覚に、北村はかつての自分を、あるいは失われた息子を重ねていたに違いない。


「北村は……己の知識のすべてを、この佐伯に継承させたのだろうな」


藤田の呟きに、高木が困惑したように顔を上げた。

「ですが、藤田さん。そんな恩師を、自らの手で殺めるなど……」


「高木。恩義という重しは、時に人を変える。佐伯にとって、北村という存在は、自らが築き上げた現在の地位――工部省計算官という虚飾の城を、根底から崩し去る唯一の人間になってしまった。師を敬う心以上に、今の自分を失う恐怖が勝ったということだ」


藤田は机の上に置かれた、北村の首筋のスケッチを指でなぞった。


「凶器の目星はついた。第一部で見たあの傷跡……延髄を正確に射抜く、極めて細く、かつ長い得物。工部省で図面を引くために使われる、ドイツ製の精密なコンパスの針だ」

「……コンパス、ですか?」

「そうだ。算術を愛する者が、生涯手放さない道具。北村が佐伯に買い与えたものか、あるいは佐伯が師から譲り受けたものか。いずれにせよ、佐伯は師から教わった道具で、師の息の根を止めた。これ以上の皮肉があるか」


高木の顔から血の気が引いていく。

「師の道具で、師を……。そんな残酷なことが」


「数字を扱う者は、効率を求める。最短距離で対象を沈黙させるには、手慣れた道具を使うのが最善だと考えたのだろう。……北村は、抵抗しなかった。信頼しきった愛弟子が、自分の数式の『間違い』を指摘しに来たとでも思ったに違いない。無防備に背を向け、数式の説明を始めた瞬間に、その一撃は放たれたのだ」


藤田の瞳の奥で、微かな、だが凍てつくような熱が灯った。

それは、かつて「斎藤一」として、平然と裏切りを行う者たちに向けた、あの蔑視に近い怒りだった。北村が守り抜こうとした、算術の美しさと、教え子との静かな日常。それらすべてを、佐伯は機能という名の下に踏みにじった。


「佐伯は、北村が残した『完成した数式』を、現場から持ち去ったつもりでいる。だが、昨夜我々が見たあの和紙……あれは、北村があえて机に残した罠だ。佐伯の手元にあるのは、おそらく偽の解、あるいは不完全な演算に過ぎない」

藤田は外套を羽織り、革手袋の紐をきつく締め直した。

「奴は必ず戻ってくる、高木。自分が消したはずの『真実』が、まだあの離れのどこかで呼吸しているのではないか。その恐怖に耐えきれず、今夜にも再び蓮華寺へ現れるはずだ。……算術の解が合わないことを、何よりも嫌う男だからな」


「藤田さん、私も同行します」

「いや。お前は署で待機し、増援を組んでおけ。……これは、古い時代の亡霊と、新しい時代の虚飾との清算だ。俺一人でいい」

藤田は高木の返事を待たず、資料室を出た。


廊下に響く軍靴の音は、獲物を狙う狩人のように規則正しく、かつ無慈悲だった。

凍てつく礎石の如く動じず、剃刀の如く冷徹に。

藤田五郎は一人、再び闇の底にある蓮華寺へと向かった。


文明の漆喰で塗り固められた東京の夜。その割れ目から漏れ出す血の匂いを辿り、彼は「決着」の場所へと歩を進める。


第三部:境界の崩落


深夜の蓮華寺は、現世から切り離されたかのような深き淵にあった。


昼間の本郷に満ちていた馬車の音や人々の喧騒はとうに消え、ただ凍てつくような寒気だけが、荒れ果てた境内を支配している。廃仏毀釈の折に打ち捨てられた石仏たちが、影となって足元に広がり、忍び寄る者の気配を拒絶していた。


藤田五郎は、北村の離れの暗がりに身を潜めていた。

外套の襟を立て、手袋を嵌めた拳を軽く握る。呼吸は浅く、一定。軍靴が床板を鳴らすことなど万に一つもない。


その身体は、もはや建築物の一部と化していた。

暗闇に溶け込みながら、藤田はかつて京都の夜に幾度となく経験した、あの「刻(とき)」が満ちるのを待っていた。法という重厚な鞘に牙を隠しながらも、五感は野生の鋭さを取り戻している。


午前二時。

静寂という名の膜を破り、雪を踏みしめる音が届いた。

ザッ、ザッ……。

規則正しいが、どこか足早な、焦燥を隠しきれないリズム。それは文明の靴底が、荒れ果てた聖域の土を汚す音だった。


離れの戸が、音もなく開いた。

一筋の冷たい月光が、滑り込むようにして室内の畳を照らす。


そこに現れたのは、立派なフロックコートを纏った若き紳士、佐伯信次郎であった。

その装いは、銀座の煉瓦街であれば羨望の的となる、まさに文明開化の申し子そのものだ。だが、月明かりの下に晒されたその顔は、幽霊を見た子供のように青白く、額には不釣り合いな汗が滲んでいる。


佐伯は周囲を警戒するように見回し、誰もいないことを確信すると、北村が事切れていた文机の辺りへと這いずった。


「……どこだ。あの式は、どこにある」

その指先が、畳の隙間や棚の裏を狂ったように探り始める。

「……先生、あんたはどこに隠したんだ。あの計算が、このまま残っているはずがない。……出せ。早く出せ」


呟きは次第に、嗚咽(おえつ)に近い震えを帯びていく。それはかつて、この小さな部屋で北村に教えを請い、数字の美しさに打ち震えていた子供の頃の、純粋な、それゆえに歪んだ未練の声だった。


藤田は、その背後に音もなく歩み出た。

「答えは、警視庁にある。佐伯」


低く、温度のない声が、狭い部屋に満ちた。

佐伯は、弾かれたように振り返った。

腰を抜かしたように床に手をつき、見上げる先には、影のように聳(そび)え立つ藤田の姿があった。


月の光に照らされた藤田の瞳は、佐伯がこれまで築いてきた虚飾のすべてを、一瞬で見透かすような冷徹な光を放っていた。


佐伯の喉が、引き攣った音を立てた。

逃げ場はない。この離れの空気すべてが、今、藤田という男の重圧によって支配されていた。


二人の間を、冷たい風が通り抜けていく。

ここからは、もはや算術でも文明でもない。

「真実」という名の、あまりに残酷な精算が始まろうとしていた。

 

   *


「……警視庁。そうか、やはりあの紙は、あんたが持っていったのか」


佐伯信次郎は、ゆっくりと立ち上がった。震える手で乱れたフロックコートの襟を整え、必死に呼吸を整える。その動作は、崩れかかった「新時代の紳士」という虚構を、土壇場で繋ぎ止めようとする痛々しいまでの虚勢だった。 


「私は何も知らない。北村先生とは、確かに師弟の関係だった。だが、それだけだ。今夜ここへ来たのは、先生の遺品を整理し、供養するためだ。それが教え子としての務めだろう」


藤田は一歩も動かず、氷のような眼差しを佐伯に向けた。

「ならば聞こう。お前が最後に北村を訪ねたのは、いつだ」


「……一ヶ月ほど前だったか。記憶は定かではない」

「嘘だな」

藤田の短い一言が、佐伯の喉を突き刺す。

「近所の者が証言している。『昔の教え子が頻繁に訪ねてくる』と、北村は嬉しそうに話していた。……つい数日前にもな。お前は、何のためにここへ通っていた」


「師の健康を案じていただけだ! それに、昔の算術の話を懐かしんでいた……それの何が悪いというんだ」

「懐かしむだけなら、工部省の計算用紙は必要ないはずだ」


藤田は懐から、あの小さな紙片を取り出した。月光に晒された「工部省」の印が、佐伯の瞳に冷たく反射する。佐伯の顔が、目に見えて強張った。


「北村の机に落ちていた。お前の部署で使われている、最新の計算用紙だ。北村は、お前が持ち込んだ最新の統計データと、自分の手元にある古い帳簿を突き合わせていた。……消えた五万石。違うか」 


佐伯の唇が微かに震える。藤田は追い打ちをかけるように、さらに言葉を研ぎ澄ませた。

「明治四年、加賀藩の金庫から消え、政府の帳簿にも記載されなかった米五万石、時価十二万円の浮き金。その金が、今、誰の懐を温め、どこの土地に化けているか。北村はそれを解き明かした。お前はそれを、師の横で、ともに算盤を弾きながら見ていたはずだ。……いや、見せられたのだな。北村という男の、最後の『誠実』として」


「やめろ……」


「だが、お前にとってその数式は、学問の正しさなどではなかった。自分の仕える主人たちの首を絞め、ひいては自分の地位を根底から突き崩す『爆薬』に他ならなかった。だから、消さなければならなかった。数式も、そしてそれを解いた師も」


沈黙が離れを支配した。風が破れた障子を揺らし、カサリと乾いた音を立てる。

佐伯の虚勢が、音を立てて崩落していった。


「……あの数式が公になれば、どうなるか分かっているのか」

佐伯の声は、もはや嗚咽(おえつ)に近い。


「政府の信用は失墜し、外国からの借款は止まり、始まったばかりの鉄道も、製糸場もすべて止まる。この国は再び列強の足蹴にされるんだ! 先生が解き明かした『五万石の行方』なんてものは、その巨大な損失に比べれば、塵芥(じんかい)に等しい些事なんだよ! 私は……私は文明を守ったんだ!」

佐伯は叫んだ。それは自分自身を納得させるための、悲痛な自己弁護だった。


「些事、か」

藤田の声は、冬の夜風よりも低く、深く響いた。

「一人の老人の命も、一人の士族が守り抜いた誠実も、貴様の言う『巨大な算盤』の前では、切り捨てられる端数に過ぎないというわけだな」


「端数……? そうだ、端数だ! 一を救って百を殺すのが、政治の理(ことわり)だ!」

佐伯の瞳に、論理の袋小路に追い詰められた者特有の、狂気の色が混じり始めた。


彼は悟ったのだ。どれだけ言葉を費やしても、目の前に立つこの黒い外套の男を「説得」することはできないと。藤田が求めているのは国家の安定などではなく、切り捨てられた「一」の報いであるということを。


佐伯の手が、ゆっくりと懐へ伸びた。フロックコートの内側、文明の衣の下に隠された、旧時代の凶器を探る気配。


藤田は、その動きを冷徹に、そして静かに見据えていた。

論理による精算は終わった。


ここからは、言葉では割り切れない「剰余」を、力によって裁く刻(とき)だった。


   *


「あああああっ!」


佐伯信次郎の絶叫が、蓮華寺の静寂を暴力的に引き裂いた。


フロックコートの内側、文明の衣の下から引き抜かれたのは、皮肉にも彼の実家が守り抜いてきたであろう古びた短刀だった。研ぎ澄まされた業物の刃が、月光を浴びて冷酷な銀色の軌跡を描く。


「私は間違っていない! 私は文明を守ったんだ!」


狂気と恐怖を燃料にして、佐伯は突進してきた。それは武芸者の洗練された動きではない。己の犯した罪から逃れようとする、盲目的な衝動。だが、死に物狂いの勢いだけはあった。

藤田は、左足を微かに引いた。


脳内では、最短の軌道が青白く発光している。

佐伯が振り下ろした刃は、藤田の外套の袖をわずかにかすめたが、その肉体には一分(いちぶ)の痛みも届かない。藤田の身体は、まるで最初からそこに存在していなかったかのように、滑らかに、かつ冷徹に回避を完了していた。


藤田の右手が、腰のサーベルの柄に触れた。


その瞬間、場の空気が物理的な重圧を伴って凍りついた。


制度という名の分厚い漆喰が剥がれ落ち、その向こう側に潜んでいた「人斬り」の殺気が、深淵の底から溢れ出した。


藤田の身体が、沈み込むように加速する。


サーベルが鞘の中で鳴る「カチャリ」という一音。それは佐伯にとって、現世で聞く最後の死の宣告に等しかった。


「牙突」


空気が爆ぜた。


藤田の突きは、佐伯の網膜が捉える速度を遥かに超越していた。


鞘から放たれたサーベルは一条の閃光となり、夜霧を切り裂いて佐伯の喉元へと肉薄する。

ガッ、という鋭い風切り音。

だが、鉄の切っ先が肉を裂く音はしなかった。


サーベルの先端は、佐伯の喉仏に触れるか触れないかの位置で、寸分の狂いもなく制止していた。藤田の踏み込みが巻き起こした烈風だけで、背後の障子が派手な音を立てて破れ、冷たい夜風が室内に雪崩れ込んだ。


佐伯は、目を見開いたまま石のように固まっていた。喉元に突きつけられた冷徹な鉄の重圧に、声さえ出せない。


「……な、ぜ、突かない」


佐伯が震える唇で、ようやくそれだけを絞り出した。


「北村さんは、貴様に算術を教えた」

藤田の声には、もはや怒りさえもなかった。ただ、事実を宣告する無機質な響き。

「……私は貴様に、この世にはどれだけ言葉を尽くしても、どれだけ数字を弄んでも、決して割り切れない『報い』があることを教えてやる」


その瞬間、絶望に突き動かされた佐伯が、床に落ちた短刀を再び掴もうと手を伸ばした。


「愚か者が」

藤田は、引き戻したサーベルの柄で、佐伯の手首を正確に叩き潰した。

骨の砕ける嫌な音が響き、佐伯は悲鳴を上げながら床を転げ回った。

「高木。入れ」


藤田の低い呼びかけに応じて、離れの影から数名の巡査たちが飛び出してきた。

高木巡査は、血の気の引いた顔で、悶絶する佐伯と、静かに立つ藤田を見比べた。


「藤田さん……今のは、正当防衛を越えています」

「そうだな。だが、こいつが捨てた端数の重さを、少しは分からせてやる必要がある」


巡査たちに引きずられていく間も、佐伯は「私は間違っていない……文明を……」と、壊れた機械のように呟き続けていた。その姿は、自らが信じた巨大な算盤の数字に押し潰された、哀れな残骸だった。


藤田は一人、離れに残った。

月光が、主を失った文机を静かに照らしている。


北村勘兵衛は、この教え子を救いたかったのか、それとも、この男の裏切りを予見して、自分を餌に真実を釣り上げたのか。


どちらにせよ、もう「答え」を出す者はいない。

藤田は、血を一滴も浴びていないサーベルを、静かに鞘へ戻した。


カチャリ。


その音が、物語の熱狂を断ち切り、冷徹な結末へと向かうための合図のように、冬の夜空に響き渡った。


第四部:割り切れぬ帳尻


数日後の警視庁。


藤田五郎の机の上には、一通の重厚な封筒が置かれていた。

差出人の名はどこにもない。だが、その上質な和紙の肌触りと、光に透かさねば見えぬ官印の隠し模様が、送り主の居場所を雄弁に物語っていた。それは赤坂の邸宅か、あるいは霞ヶ関の奥座敷か。この国の脊髄を司る者たちからの「通告」であった。


藤田はペーパーナイフで封を切り、中身に目を通した。

そこには、佐伯信次郎の処遇に関する決定事項が、事務的な、あまりにも無機質な文体で記されていた。


「……精神錯乱による、独断か」

藤田は、低く自嘲の言葉を漏らした。


佐伯が犯した殺人は、一人の官吏が過剰な激務の末に陥った精神の失調として処理される。彼が守ろうとし、北村が命を懸けて暴こうとした「五万石の行方」については、一行も、一文字も触れられていない。


窓の外では、大蔵省も工部省も、何事もなかったかのように新しい時代の歯車を回し続けている。次なる予算案が練られ、鉄道の線路はさらに延伸され、製糸場の煙突からは絶え間なく黒煙が吐き出される。文明という巨大な伽藍を維持するために、一人の老人の死と、一人の才子の墜落は、単なる「摩擦熱」として看過されたのだ。


「藤田さん、お疲れ様です」


高木巡査が、新しい事件簿を小脇に抱えて入ってきた。数日前のあの夜、蓮華寺で見せた戦慄はすでに影を潜めている。若い彼は、この明治という時代が持つ「忘却」の速度に、無意識のうちに適応しつつあった。


「佐伯の件、結局はあんな形で終わるんですね。北村先生の算術も、証拠品として受理されたはずなのに、資料室の奥へ押し込まれたままだとか。……せっかくの真実も、これじゃあ意味がない」


「高木。数字というものは、正しいだけでは生き残れない」

藤田は、机の上の書類を整理しながら言った。

「力のある者が、それを『正しい』と定義したとき、初めて価値を持つ。北村さんは、それを知りすぎた。佐伯は、それを信じすぎた。……そして俺たちは、その矛盾の隙間を埋めるための、ただの番人に過ぎん」


「……厳しいですね、それは」

高木は困ったような苦笑いを浮かべ、自分の席へと戻っていった。


藤田は一人、煙草「敷島」に火をつけた。

立ち上る紫煙の向こう側に、かつての戦友たちの顔が、幻影のように浮かんでは消える。


京都の路地裏で血を流した若者たち。会津の雪の中で、誇りとともに力尽きた者。函館の海に沈んだ、かつての副長。


彼らが命を懸けて戦い、夢見た「新しい世」とは、果たしてこのようなものだったのか。冷徹な算盤の音だけで、すべての誠実が塗り潰される世界だったのか。


藤田は、自身の右手の掌を見つめた。

そこには今もなお、牙突を放った際の衝撃が、痺れるような感覚として微かに残っている。

あの日、喉元に突きつけたサーベル。あれは警官としての藤田五郎ではなく、間違いなく「斎藤一」としての牙だった。法を守るためではなく、数字では決して割り切ることのできない「怨嗟」を一点に収束させるための。


「斎藤……」

古い名が脳裏を掠める。


藤田五郎という名は、明治という理に適合するために選んだ、重厚な「鞘」に過ぎない。


だが、その鞘の奥底には、今もなお研ぎ澄まされた刃が眠っている。いつかまた、この国がその傲慢さゆえに、あまりに多くの「端数」を切り捨てようとしたとき、その牙は再び闇を裂くことになるだろう。


藤田は深々と煙を吐き出し、窓の外の灰色の空を、ただじっと見つめ続けた。


   *


夕暮れ時、藤田五郎は警視庁の重い扉を後にした。

街には文明開化の喧騒が満ち溢れている。石畳を叩く蹄の音、新設されたガス灯に火を灯して回る点灯夫、どこかの店から漏れ聞こえる蓄音機の震える歌声。人々は皆、昨日よりも豊かな明日を信じ、足早に家路を急いでいる。だが、その華やかな騒めきさえも、藤田の耳には空ろな反響としてしか届かなかった。


ふと思い立ったように、彼は本郷へ足を向けた。

蓮華寺の境内に辿り着くと、北村勘兵衛が住んでいたあの離れは、すでに取り壊しが始まっていた。主を失った建物は、時代の皮を剥がされるように無惨な姿を晒し、冬の乾いた風が埃を舞い上げている。


瓦礫の傍らで、近所の子供たちが数人、北村の遺品と思わしき品々を珍しそうに眺めていた。その中に一人、北村が使っていた古びた算盤を手にした少年がいた。


藤田は足を止め、少年の手元をじっと見つめた。

「坊主。……その算盤で、何を測る」


少年は驚いたように顔を上げ、黒い外套を纏った背の高い男を見上げた。その瞳に恐怖はなく、ただ純粋な好奇心が宿っている。


「おじさん、これは測るものじゃないよ。合わせるものだよ。お父ちゃんが言ってた。商売も国も、最後は帳尻が合わなきゃいけないんだって」

「帳尻、か」


藤田の口元に、自嘲にも似た、だがどこか温かい微笑が微かに浮かんだ。


「そうか。……なら、いつかお前が大きくなったとき、どうしても帳尻の合わない『一』が残ったら、どうする。どれだけ計算を尽くしても、どこにも収まらない端数が出てしまったら」


少年は算盤の珠をパチリと弾き、首を傾げた。

「……分からないや。そんなときは、誰かが代わりに持っててくれるんじゃない? 僕じゃ持てないくらい重かったら、誰か強い人がさ」


「そうだな。……誰かが、持っていなければならん」

藤田は少年の頭を軽く撫でると、それ以上は何も言わず、再び歩き出した。


背後で子供たちの無邪気な笑い声が遠ざかっていく。


寺を去り、雑踏の中へと消えていく藤田の腰では、官給品のサーベルが歩調に合わせて小さく鳴っていた。それは、決して割り切れることのない「過去」という名の剰余、あるいは「誠実」という名の端数を、独り背負い続ける男の孤高な足音だった。


夜が訪れる。

東京の街を照らすガス灯が、一つ、また一つと灯っていく。

その光の数だけ、足元に広がる闇が深まっていくことを知る者は、今のこの街にはあまりに少ない。藤田五郎は、今日も冷徹な刑事として、虚構と真実が交差する境界を歩き続ける。


北村が残したあの数式に、結局、答えは書き込まれなかった。

だが、藤田が踏みしめる石畳の下には、確かに、あの老人が命を懸けて算出した「真実」が、静かに、そして消えることなく息づいていた。


明治十五年、冬。


煉獄の火は、まだ消えてはいない。

ただ、その火を隠すための漆喰が、より厚く、より白く、塗り固められただけのことだった。


   (完)

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煉獄の理 不思議乃九 @chill_mana

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