母さんのきりたんぽ鍋
上田 由紀
母さんのきりたんぽ鍋
幸せは失ってから気づく。
もしそれに気づいてたら、その時感じた幸せを充分に味わい尽くしていただろうか?
イヤ、早く気づくなんて、あの頃の私には無理な話しだ。両親との穏やかな日常が、当たり前だと認識していたのだから。
当たり前を当たり前だと思ってる時点で、もうダメだ。
毎年、年末年始やお盆、ゴールデンウィークに帰省するのがささやかな楽しみだった。
帰省する度に、いずれ両親がこの世から旅立って、帰省する場所も無くなるんだな、ってぼんやりと考えていたが、まだまだ先の話しだから考えてもしょうがないと、やり過ごしていた。だけど時間は確実に過ぎてるということに、楽観的な私は気づけずにいた。
両親が亡くなり7年経ったが、思い出は今でも鮮やかに目蓋に蘇る。
実家に到着し、玄関の引き戸を開ける。
間もなく、お帰り、と母が顔を出す。
「遅かったね。事故にでもあったんじゃないかって、心配してたわ」
「そっか、出るのがちょっと遅くなって。ごめんね、母さん」
母の後ろから、愛犬のダイスケが現われる。
「キュ~ン、キュ~ン」
ダイスケが、鳴きながら飛びついてきた。
嬉しそうに尻尾をちぎれんばかりに振っている。
「あぁ、ダイスケ。待っててくれたんだ」
私はダイスケを抱きしめた。
モフモフの毛並みが心地良い。
ダイスケの匂いが、ふわっと鼻腔をくすぐる。雑種犬だが、今まで飼ってきた犬の中で、一番可愛い。
「さあ、入って。ご飯の用意、出来てるよ」
母に促され、居間へと移動する。
父は既に手酌で呑んでいた。だいぶ顔が赤くなっている。
「父さん、ただいま」
「おぉ、遅かったな」
大好きな日本酒を呑んでる父は、上機嫌だ。
「きりたんぽ鍋、できてるよ。すぐ食べるでしょう?」
「うん、食べる」
台所から、きりたんぽ鍋の香りが漂ってくる。途端に私はウキウキする。
帰省の楽しみの1つは、母のきりたんぽ鍋を食べることだ。
私はいそいそと食卓に着く。
「はい、どうぞ」
母が土鍋で煮込んだきりたんぽを、テーブルに置く。コボウとセリ、醤油と鶏肉で煮込んだスープが、ふわっと薫る。
(あぁ、なんて美味しそうな香り)
両親のもとに帰ってきたのを実感する瞬間だ。まずは、スープを一口飲んでみる。
きりたんぽによく合う地元産の鶏肉が入っていて、いいダシが取れている。
(そう、これよ、ちょっとしょっぱいけど、これが母さんの味)
やはり、鶏肉は比内地鶏に限る。
独特の香りがするセリが、味を引き締めている。
私は感激し、きりたんぽを一口噛る。
きりたんぽに染み込んだスープが口の中に、じゅわっと広がる。
「あぁ、美味しい……」
私はきりたんぽを、一口ずつ、ゆっくりと味わいながら食べる。母の愛情が、じんわりと染み渡る。
母が湯気の向こうで、きりたんぽを味わう私を見て、嬉しそうに微笑む。
昔、まだ実家にいた頃、母がきりたんぽを作る場面を眺めていたことがある。
柔かめに炊いたご飯を潰して、割り箸につけて握りながら形を整える。グリルで焼き色をつけると鍋に入れて煮込む。一連の作業を母は丁寧に楽しそうにこなしていた。
その姿に、家族に美味しいきりたんぽを食べさせたいという、母の真心を感じた。
きりたんぽは自分で作ってみても、どうしても母の味は再現できない。だから実家に滞在してる間、何度も食べて味わい尽くす。
「お代わりする?」
母に聞かれ、私は頷く。
心ゆくまで、母のきりたんぽ鍋を堪能した。
夜になり、両親とのお喋りと、きりたんぽに満足した私は、幸福感に浸りながら布団に入る。
すると間もなく、ダイスケが部屋に入ってくる足音がする。
傍らに来ると、私の顔を舐める。
「ダイスケ……」
横たわったダイスケの頭を撫でながら、私は眠りに落ちていく。
その時、この平凡な当たり前の日常が、ずっと続くと思っていた。当たり前の日常が幸せなことに気づけずにいた。
気づいたのは、両親と愛犬が他界し、日常が崩れ落ちていった後。
あの幸せをどんなに望んでも、死者は蘇らない。両親との何気ないお喋り、ダイスケとの戯れ、母のきりたんぽ鍋を味わう日は、永久にやってこない。
死別の寂しさというものを、生まれて初めて知った。
時折、両親が夢に現われる。今は亡きダイスケも一緒に現われる。夢の中で私は、両親もダイスケも生きてると認識している。
(なんだ、皆生きてたのね。死んだと思ったのは、何かの間違いだったのね)
夢を見る度に、そう思う。
だけど目覚めた後、現実に引き戻される。
もう、夢の中でしか両親に会えない。
寂しさと悲しみを抱えたまま生きていくのは、何かの修行か? と思わずにはいられない。
残りの人生、母のきりたんぽ鍋を味わった思い出を、私は何度も思い出すだろう。
きりたんぽは、ただ美味しいだけではなく、母の愛情そのものだった。
思い出は、胸の中の大事な場所にしまってある。私がこの世を去るまで、ずっと残り続けるだろう。
父さん、母さん、ダイスケ、ありがとう。
私は幸せでした。
唯一無二の思い出。
忘れない。忘れたくない。
母さんのきりたんぽ鍋 上田 由紀 @1976blue
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます