めぐり逢ひて、夜半の月
那由他あおい
第1話 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川
放課後の図書館は、音が少ない。
遠くで椅子が擦れ、本棚が小さく鳴る音が、ゆっくりと空間に滲む。時折、出入口のドアが開いて外のざわめきが飛び込んできたかと思うと、それはまたすぐに閉じられて世界を区切る。廊下の足音は遠く、放送の残響もここまでは届かない。時計の針だけが静かに、だが確かに進んでいる。
高校二年生の春日由貴は、ほとんど習慣みたいに、授業が終わると図書館に立ち寄った。本を読むためではない。勉強をするためでもない。
静かで、広くて、誰にも急かされない。そこにいるだけで肩の力が抜ける。作り笑いをしなくてもいい。誰かに声を掛けられることもない。何もしない、ということが許される場所。
ここにいる間、由貴は何者でもなくいられた。
図書館まで来ると、由貴は決まって窓際の奥の方の席へと向かう。
窓が大きく開放的なのに、眩し過ぎない。本が日焼けしないように北向きになっている、という話を聞いたことがあるが、そんなことはどうでもよかった。ただ、ちょうど心地良いだけの自然光が浴びられる、お気に入りの場所だ。
その窓越しに広がる景色は一面の緑。夏に差し掛かって青々と茂った木々が、夕方の光を受けて鮮やかに輝いている。
近くの本棚から適当に一冊抜くと、そのまま椅子に腰掛けた。別に本を読みたいわけではない。ただぱらぱらめくって、文字を眺めてはすぐ閉じる。なんとなく、紙の手触りだけが欲しいみたいなときがある。
そんな意味のない行動にも飽きると、右の頬杖に頭を預けては外を眺めた。何かを見るわけでもなく、意図的に焦点をどこにも合わせずに、ただぼんやりと過ごしていた。
何も考えずに漠然と流れる時間が、由貴は好きだった。
今日も、そんな風に過ごすはずだった。
最初に変わったのは、色だった。
視界の端の本棚の影が、夕方の光にしては濃すぎる赤みを帯びて見えた。目を瞬いても消えない。一度視線を逸らしても、赤——いや、紅はそのままだった。
由貴は机から身を起こして、床に目を落とした。木目の隙間に、細い流れが走っていた。水みたいに揺れているのに、濡れる気配はない。机は確かにそこにあった。触れれば現実の重さがしっかりとあるのに、その下を川のようなものが音もなく通り過ぎていく。
図書館は相変わらず静かだった。けれど、その静けさが少し違うように感じた。反響が薄れ、何か開放的なまでの空間の広がりを感じさせた。
由貴は立ち上がった。
得体の知れないことが起こっているのに、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、何か心躍るようなことを予感させた。
流れの元の方向、ずらりと並んでいる背表紙の列が、妙に深く見えた。本棚の奥行きが、伸びて、伸びて、その先の遠い景色に続いている気がした。
――行ってみたい。
そう思った瞬間、足が動いた。
自分で決めたのかどうかわからない。引き寄せられるみたいに、気付けば自然と歩き出していた。
無数の本棚の間を抜けていくと、急に視界がふっと開けた。
壁や天井の輪郭がじわりと溶け、紅の木々に飲み込まれていく。朱、橙、黄が幾重にも重なり、空気をまだらに染め上げる。ひとたび風が吹き込むと、葉はひらめき、その隙間からまた別の紅が瞬いて差し込む。
足元のせせらぎも、気付けば大きな川へと姿を変え、由貴のすぐ横を穏やかに流れていた。その流れは紅い屋根をくぐり、その途中でひらひらと舞い落ちた紅葉に彩られていた。
神秘的――まさにそうとしか言いようのない光景が、そこには広がっていた。
そのとき、どこからか声が聞こえた。
――ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川
木管楽器のような、細くも美しい響き。遠くからのようでありながら、耳のすぐそばからのようでもあった。
――から紅に 水くくるとは
由貴は息を止めた。
はっと振り返ると、そこには少女が立っていた。不自然に取り残された本棚の列の間に、こぢんまりと立っていた。
同じ制服。小柄で、整った顔立ち。腰まで伸びた、艶のある長い髪。長いまつげの影が頬に落ちている。視線は真っ直ぐなのに、どこか遠い。
神秘的だ、と思った。この紅の世界と並べても遜色がないくらい、彼女自身が景色の一部みたいだった。
言葉に詰まる由貴を尻目に、少女は続ける。
「在原業平は、この景色を――こう詠みました」
声はさっきと同じ、木管の音色だった。この少女が声の主で間違いない。
「神話の時代でも聞いたことがない……って」
動けないでいる由貴のもとまで、少女は歩み寄ってくる。
「この水も、染め物に例えたんです。くくり染めみたいって。そんなはずないのに、そう言うと、見え方が変わるんです」
少女は由貴の横まで着くと、歩みを止めた。くるっと向き直ったかと思うと、真っ直ぐな瞳で由貴の顔を覗き込んで来る。
「貴女はどう思いますか?」
「……きれい」
いきなり振られた質問に、由貴は咄嗟にそう口を突いた。唐突だったからこその、取り繕う暇もない本心からの言葉。そうは言いつつも、仮にもっと時間が与えられたとしても、これ以上の言葉は出なかったように思う。この眼前の光景を言い表すには、由貴の語彙はあまりにも少なかった。
少女はすぐには表情を変えなかった。ただ、まばたきが一瞬だけ遅れていた。
「……やっぱり貴女もそう思いますよね」
その言葉から、感情は読み取れなかった。どこか安心したような、不安に満ちたような。喜んでいるような、悲しんでいるような。はたまた、希望に溢れているような、絶望に落とされたような。
由貴はようやく、はっと我に返った。
一体この景色は何なのか、図書館はどこへ行ってしまったのか、そして、あなたは何者なのか。聞きたいことは山ほどある。
そんな由貴の思惑を見抜くかのように、少女は口を開いた。
「今は何も言えません。ただ――すぐに元に戻ります。……多分」
まだ何も質問していないのに、はぐらかされたような気分になる。
由貴が茫然としていると、そこに先程までとは一段と異なる、強い風が吹き込んできた。スカートと崩れかけの髪を咄嗟に抑える。
「では――」
この世界が消える――いや、この世界から私が消える。直感的にそう思った。引き戻されるような感覚が段々と強まっていく。
不味い。まだ何もよくわかっていないのに。
「あなたは……あなたの名前を教えて!」
この状況について、何でもいいから手掛かりが欲しかった。この世界や彼女との、何か取っ掛かりが欲しかった。
「ここでは、名前は軽いです。意味を持ちません」
由貴は必死に言葉を振り絞っているというのに、少女は落ち着いた様子で淡々と述べる。
「ただ――今度はちゃんと、お会いしましょう」
そう言いながら、妙な存在感を放つ棚の影へと目をやった。ただ、本棚を見つめているようではなかった。もっとその先、もっと遠くに置かれた何かを見つめているようだった。
「わたしは――」
由貴が言い終わる前に、風がまた強まった。近くの木々の紅葉が流れ落ち、由貴の視界を真紅で覆い尽くす。抑えていた髪も、風になびいて頬に触れる。
由貴は反射的に目を閉じた。
ほんの一瞬。瞼の裏で、紅が解けるのを感じた。
次に目を開けたとき、そこには机があった。椅子があった。本棚も、天井も壁も、ちゃんとそこにあった。
静かな、いつもの図書館。
机に突っ伏す形になっていた上体を、ゆっくりと起こした。喉が痛い。目も霞んでいる。
さっきまでそこにいたはずの少女はいない。床を走っていた流れも消えている。
夢か――そう思おうとしたとき、右腕の下から薄っぺらい何かが出てきた。
まだ初夏だと言うのに、その葉は真っ赤に染まっていた。先程まで見ていた景色を、この一枚に凝縮したかのような、鮮やかな紅だった。季節外れの紅葉。普通に考えれば、こんなものが今ここにあるはずがない。
由貴はそれを指で挟んだまま、窓の外を見た。日は先刻よりも傾いていたが、違いはそれだけだった。図書館は何事もなかったかのような顔をしている。
だが、脳裏にはしっかりと焼き付いていた。あの少女も、あの光景も。
そのとき、校舎中に重い鐘の音が鳴り響いた。下校時刻を知らせるチャイムだ。もうすぐ司書の先生が見回りに来る。これ以上の長居はできない。
後ろ髪を引かれながら、図書館を後にする。
由貴は廊下を早足で歩きながら、右手に残された紅葉をもう一度確かめる。薄いながらも、確かにそこにあった。次第に増してきた湿度には、あまりにも不釣り合いだった。
――今度はちゃんと、お会いしましょう。
あの言葉が、脳に深く刻み込まれていた。
その日由貴は、図書館での妙な体験を思い返しながら、ふわふわとした気持ちで帰路へと着いた。
明日もまた、図書館に来よう――いつもとは異なる、その意志だけを持って。
めぐり逢ひて、夜半の月 那由他あおい @nayuta_aoi
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