7日の声に嫁ぐ
杜まつは
7日の声に、私は嫁いだ
あの瞬間、全身が静まり返るような感覚があった。まるで周りに溶け込むような曖昧さと耳に残るその声だけがあの夜を照らしていた。
定刻通り、私はいつも同じ時間にパソコンを閉じて仕事を終わらせた。効きすぎる冷房を防ぐための膝掛けをたたみ、薄いカーディガンを脱ぎ、鞄を肩にかけ「お疲れ様です」と職場に残っていた他の同僚に声をかけ退勤した。お疲れ様の声を半分聞きながら職場を後にし会社を出た時には既に空は夕焼けに少し傾きを感じた。
満員電車に乗り自宅の最寄りまで数駅、混雑する車内ではイヤホンをつけ周りの喧騒を遮断しながら夕飯の献立の組み立てをしていた。
最寄りに着いたらイヤホンを外し空を眺める。人通りは少なく降車客もあまりいない。この静けさが気に入ってこの町に越してからもうだいぶ経っていた。昔から変わらないであろう風景、色褪せた看板、凸凹な砂利道。少しだけ田舎を感じさせるこの風景にどこか故郷の懐かしさを感じていた。
平坦な帰り道に一つだけ小さな公園がある。滑り台とベンチがポツンとあるだけで私が通る頃にはいつも人がいない。仕事で嫌なことがあった時、よくここのベンチに腰掛けてぼんやりと空を見つめている。なんとなく、この気持ちを家に持ち帰りたくないからだ。
今日はその公園を横目に素通りしようとしていた。傾きかけた夕日が滑り台に反射し輝いている。その様子を細目で私は見つめながら通ろうとした瞬間だった。いつもだったら通り過ぎてしまうであろうその光景に私は足を止めた。
いつも通りの何も変わらない景色、夕日が鮮やかに輝くだけの小さな公園。だけどそこには煌めきがあった。その景色にさらに色を添えるかのような声、夕日に負けない力強さと伸びやかに奏でられる合唱に私は思わず公園に入り周囲を見渡してしまった。周囲の木を見渡してよく見てみるとそこには声の主が懸命に声を震わせていた。何度も見たことあって幼い頃から知っている景色。蝉がただ鳴いているだけの公園。それなのに私は今この瞬間、一生で味わった事のない感覚になった。オレンジに照らされる木々に身体を煌めかせている蝉。そして周囲に鳴り響く合唱。いつからこの公園はコンサート会場になったのだろうか。ゆっくりと瞼を閉じれば周囲から聞こえるハーモニーに身体を委ねていて自然と周囲と溶け込む感覚だった。夏の暑さも気にならないくらい自然なことだった。
気がつけば日が暮れ鮮やかな夕焼けはすっかり隠れていた。街灯が点灯し始め、私やベンチの影を飲み込み次第に合唱の声も一つ、また一つと少しずつ声が減っていった。私は最後の声が消えるまでベンチに腰掛けて耳を傾けていた。オーケストラのようにタイミングを見計らって一人静かに拍手をした。アンコールはなく、辺りからジリジリと交代で夜を奏でる虫たちが響かせ始めたがあの感動は来なかった。
私はどうしようもなく、あの声に、輝きに惚れてしまったのだ。今までなぜ気がつかなかったのだろう。当たり前すぎる日常が途端に煌めいて目の前に現れた。
たまたま今日通りかかったタイミングで合唱が始まっていなかったらと考えた。いつも通りの淡々とした日常を送っていたに違いない。帰宅して、夕飯を食べてお風呂に入りスマホを弄って寝るだけの当たり前の毎日を過ごしていただろう。だからこれは奇跡のような話だ。一瞬で魅了されてしまった。その余韻にしばらく浸り帰宅する足取りもおぼつかなかった。正直何を思って帰ったのか、夜どう過ごしたのかはあまりよく覚えていなかった。気がついたら朝日を浴び次の日が来ていた。それほどまで衝撃的な出会いは今までに経験したことがなかった。これが恋だと言うのであれば納得せざるを得なかった。
いつも通りの時間に出社、着席し準備を始めていたがどこか上の空だった。自分で得た予測がどんどんと確信に変わる。そう、きっと私はあの情景に恋をしてしまったんだとぼんやりとまた思い返しながら噛み締めるように反芻した。
キーボードを叩く音はいつの間にか昨日の合唱にすり替わり、ふと視線を上げればあの公園が見えるような気がした。瞬きをするとそこはいつも通りのオフィスなのにここがあの公園だと錯覚してしまうほどだった。
早く会いたい。聴きたい。その一心で1日の仕事を終わらせた。同僚からの飲みの誘いをやんわりと断り私は一目散に退勤処理をして職場を後にした。
浮き足立っているのが自分でもわかった。いつも嫌気のさす満員電車が全く苦ではなく帰路がこんなにも楽しいと思ったことはない。昨日と同じような時刻に自宅の最寄駅に到着し、足早に公園へと向かった。
まるで私を歓迎するかのように合唱のアーチがかけられているようだった。一歩公園へと入るとそこは昨日と同じまるでコンサート会場。昨日と同じメロディーが私を魅了し、昨日とまた違った顔を覗かせているようにさえ感じた。
「……美しい」
思わず溢れてしまった。目を閉じればクラシックコンサートホールにいるような感覚だった。生演奏で奏でられる私のためだけの曲、時々アレンジを効かせ全く飽きがこない。むしろどんどんのめり込んでしまうほどだ。
奏者の姿にも思わず着目してしまう。じっくり木の幹を見つめる。街灯に照らされる羽根は透けていてまるで宝石のようだ。微かに腹部が動いてるのが懸命に演奏している証拠だった。その姿に可愛らしさを感じその演奏だけでなく見目にも心を奪われてしまった。
昨日と違う発見があり魅力がどんどん更新していく。すっかり鳴きやんだ頃に帰路についた私は昨日のようにふわふわしていたが満足感や充実感で満たされていた。身近な幸せを噛み締めるこの嬉しさを独り占めしている今この感情もとてつもなく嬉しい。
湯船に浸かりながらしかしと考えてしまう。いくら素敵な演奏といえど終わりは付きもの。その命の短さはよく理解していた。きっとあっという間にまた元の公園へと戻ってしまうだろう。寂しさや悲しさより先に、永遠に残す方法があるはずだと私は考えついた。
湯船の温度が下がりぬるま湯と水の中間ぐらいになるまで考え詰めた結果、私は彼らと婚姻を結ぶことにした。永遠を誓う婚姻。それならばきっと何かが起こって私と声たちの永遠を約束してくれるに違いない。そうすれば彼らは生きることができ私はその声を永久に楽しむことができる。あまりに身勝手だと笑う者もいるかもしれない。でも生存は生物の本能、その対価として私が彼らの副産物をいただくのは何も問題がない。
お風呂を出た後もこのアイデアを更に練ろうと色々思考を巡らせているうちに気がつけば日付は周っていたがその熱が冷めることはなかった。
翌日の昼休み、食事をとる間も惜しんで役所へ婚姻届を貰いに行った。窓口に行き婚姻届を受け取ったが窓口の人はいたって事務的だった。てっきり「おめでとうございます」などの一言やりとりがあると思ったのだが意外と現実はそうでもないらしい。
職場に急いで戻る途中、何度も鞄の中を覗いては頬が緩んでしまう。これで一つになれる。根拠のない自信が私の中に生まれていて怖いものはなかった。
浮ついた話のない私がいきなり机で婚姻届を書いている姿を万が一誰かに見られたらそれこそとても面倒なことになる。帰社してからは鞄から出すことないままそのまま退勤までやり過ごしたが、時よりカバンの方をチラリと見ては嬉しさに鼻歌を歌ってしまいそうになった。
退勤して一目散に公園へと向かう。また今日も私を迎えてくれる合唱はいつ聞いても飽きない。
カバンの中に入れた婚姻届を一瞬意識しキュッとカバンを強く抱えた。
そんな私の想いに応えるかのように声は出迎えてくれた。いつもの場所へと座り今日もまた耳を傾ける。誰にも打ち明けない秘密の関係、私たちの理想。今まで生きてきた中でこんなに素晴らしいことはなかった。
日は落ちかけていたが少し汗ばむ陽気だった。残り少ないペットボトルの水分を口に含み聞き入った。こんな日が永遠に続くように私はその一歩を踏み出した。もう少しでお互い幸せになれる。
待っててねと心の中で声をかけ今日も公園に2時間ほど滞在した後帰宅しシャワーを済ませて食事をし布団へと入ったがここ数日の高揚感は簡単に抜けるものではなくソワソワと落ち着かない気持ちで寝返りを打ち時々スマホを覗いてしまったりと寝つきが悪かった。
ここ数日、眠りの浅い日々が続いていた。睡眠時間は確保できている。だけど何度も夜中に目が覚めてしまう。まるで起きているかのような意識の時もありその時は決まってあの声が聞こえる。この部屋ではあの声は聞こえない。そのはずなのに声が聞こえるかのような気がして探してしまう。目を覚ませば真っ暗な天井と静寂に包まれている。そんな瞬間に何回も立ち会っては孤独と寂しさを感じていた。ふと目を閉じればあの公園へ帰れる、そんな気さえしていた。
朝はいつも通りに起きれる。顔を洗い、朝ごはんを食べ支度をし、いつも通りの時刻に家を出る。玄関の姿見に映る自分が一瞬、顔色が悪い気がしたが夏は毎年暑さで体調を崩すことが多い。こんなものだろうと気にせずに家を出た。体調は今までにないくらい好調だ。気分は最高だった。あの声に出会ってから活力が生まれている。毎日通うためにもこの気持ちと体調は維持していかなければいけない。
出社すると一番に冷房の風が髪を撫でる。寒暖差にやられないように気をつけなくてはと思っていたら同僚が珍しく朝一番に声をかけてきた。
「最近ちょっと疲れてない?」
私は一瞬考えたが心当たりがなかったため微笑んだ。
「大丈夫。夜が寝苦しくて寝つきが悪いだけで……」
「そっか」と言われたきりその会話は終わってしまいその後は何も聞かれなかった。ちらりと鞄の中で見え隠れする婚姻届に目をやった。踏み込んで聞かれてしまったら何て説明しよう。あまり嘘は得意ではなくすぐにバレると友人からも言われたことがある。だからと言って本当のことを言う気にもなれなかった。この気持ちは私だけの内に留めておきたい。言葉にしてしまったらなんだか薄くなってしまう気がした。
仕事中、キーボードを打つ指が止まらなかった。画面に向かいながら、頭の中ではあの時の出会いから昨日に至るまでの回想が流れていた。正確に打ち出されるキーボードのリズムと合唱が時々シンクロして脳に不思議なゾワリとした感覚が流れる。その不思議な感覚に病みつきになっていた。
昼休み、食堂へ向かう同僚の声を遠目に持参した弁当を口へ運ぶ。体調を整えるためにそれなりに栄養バランスに気を使って作ったが少し塩味が足りなかったかもしれない、と思いながら思い浮かべたのはあの公園の情景だった。
午後になると軽く頭痛がした。けれど無視できる程度で頭痛薬を飲み水分を多めに摂りやり過ごした。無理をせず午前よりも仕事のスピードを下げこの後の時間を迎えるために身体を整えた。今日が終われば明日は休日。一日中一緒にいられる。退勤への時刻が刻一刻と迫っていく中、胸はそれに合わせて鼓動が早くなっていた。
「今日もまっすぐ帰る?」
定時を過ぎそそくさと帰り支度を整えている時に朝とは別の同僚が声をかけてきた。個人的に仲良くしているのでもしかしたら飲み会の誘いかと思いつつやんわりと断りを入れた。
「少し用事があって、ごめんね。また誘って」
同僚もにこりと笑いそれ以上は何も聞かれなかった。その振る舞いがとてもありがたかった。誰も私の世界の邪魔はさせない。
公園が近くなると合唱が聞こえてきた。私は早足で公園へ駆けつけると今日は先客がいた。小さな遊具で遊んでいる小学生2人だったが全く気に留めなかった。合唱に混じって時折聞こえる子どもの笑い声がまるでアレンジのようで私にはとても新鮮に聞こえた。そんな中、少しだけ違和感を感じた。初めて声を聞いたあの日より、声の線が細くなっているような気がした。一つ一つの声を紐解くように私は聞き入った。初日はインパクトがあったからきっと拡大解釈してしまったのだろう。それにしても今日の声もまた素晴らしいとよりそう思えた。
この声を1日たりとも聴き逃したくない。
薬で抑えていた頭痛が少しだけ姿を見せ始めた。今日は少しだけ早く帰宅して明日に備えて体調を整えようと思った。この声のためにも、私は健康でいなくてはいけない。
明日は婚姻届を届けにいく予定もある。
休日、いつもより少しだけ早く目が覚めた。昨晩も何回か夜中起きてしまったが目覚めがとてもスッキリしていてなんだか身体も軽く感じた。今日は1秒たりとも無駄にはできない。充実した1日が待っている。
カーテンを開けると空は快晴で既にに日差しがギラついていた。耳の奥では彼らの声が遠くから聞こえてくるような気さえした。
朝ごはんを済ませ、支度を整え、帽子と日傘をきちんと用意した。一日外にいる予定なので多めの水分と塩分補給のタブレットも鞄に入れておいた。
最初にいつもの公園へ向かった。休日の昼前なのに人はほとんどいなかった。遊具は熱せられとても触れそうにない。いつも座っている木製のベンチだけが唯一まともに腰をかけられそうで私は決まった場所へ腰掛け鳴り響く合唱に耳を傾けた。今日は時間帯のせいか、いつもより音の輪郭が一つ一つくっきりと聞こえている気がする。いつもこない時間に来て正解だったと心の中でガッツポーズをした。
十分聞いた後私は立ち上がった。少し視界がかすみ立ちくらみもしたがすぐに収まったので問題なかった。今日はこれから役所へいかなければいけない。
鞄の中には折り目のつかないように綺麗にクリアファイルに入れられ記入された婚姻届が入っている。昨日の夜何度も確認しながら記入をした。改めて確認して書き残しはなかった。初めてのことにドキドキが一周回って冷静になっている。
必要なものは全て揃っている。後は提出しにいくだけだ。
役所へ向かう道は歩いて20分、思っていたより照りつける日差しが暑かった。私は意識して水をこまめに摂り、日傘を指しているが木陰を選んで歩いていた。体調管理もできている。特に問題はなかった。
それでも歩いているうちに視界が白く霞んだ。暑さのせいで蜃気楼でも見ているのだろう。気にせずにそのまま歩いていた。先ほどまでの声が脳内に遠くから響いていた。
暑さのせいか少し意識がぼーっとしてしまうことが時々あった。歩みも少しだけ気にかけて慎重に歩くようにした。役所へと続く道の看板が見えた時、ほっと一安心した。これで全てが終わる。そして新たにスタートすると完全に気が緩んでしまった。
気がついたらふらっと足元から力が入らなくなり体が崩れ落ちていく感覚がした。ふっと切り離されたように脳内に残った。その感覚は不思議と怖くなかった。これからの未来に向けた高揚感と脳内に残る声だけが私の中の世界だった。
意識がはっきりしたのはそれからどれくらい経ったあとかはわからなかった。体は平行になっていて目線の先には先ほどまでギラついていた太陽がなく天井で塞がれていた。真っ白で知らない天井だった。身体を動かそうとしても鉛のように動かない。まだ覚醒しきっていない意識では何が起きたか分からなかった。私は寝ている。ということしかわからなかった。
分からないなりに目を閉じてみる。そこに映し出されるのはあの公園と声。それだけ確認できた私は安堵した。まだ大丈夫と。
一晩が過ぎ、少しだけ意識が覚醒してきた頭でようやくわかったことがある。ここはおそらく病院だ。そして私はきっとあの時暑さにやられて倒れてしまったのだろう。腕には点滴が刺さっており近くで機械音が聞こえる。時々他の患者に話しかける看護師の声も聞こえた。
目が覚めた直後、その様子に気がついた看護師が何かを聞いてきた気もするがその時は全く分からなかった。今は多少の受け答えはできる。昨日よりも気分は悪くなかった。
熱中症という単語が医師から聞こえた。点滴で様子を見ることも言われ問診にそこまで時間はかからなかった。
ベッドの上で寝たきりの時間を過ごした。眠りが浅く、何度も意識が浮き沈みしふわふわとした感覚だった。その度に、遠くであの声とリズムが聞こえてくるような気がした。微かだったが確かに聞き間違いはなかった。耳を傾けながらうつらうつら夢心地のこの時間はとても気分が良かった。
夜になると病院は静かだった。昨日は曖昧だった廊下の足音、機器の静かで無機質な音、その間に規則正しい滴下音が混じっていた。その音が、リズムがどこか似ていると感じた。同じではないけれどとても親近感が湧いた。その音を聞き逃さないように入眠まで耳を傾けた。
翌日、昨日より身体が楽になったのを感じた。一息で起き上がれるようになり、腕に力も入り昨日より意識がはっきりとしていた。それでも私は急ごうという気にはなれなかった。今すぐ飛び出して駆け出そうと思わなかった。急がなくても、私の心の中で声は続いている。それが何よりの安心材料だった。
今日は昨日来た医師とは違う方が来られた。名札には精神科医と書かれていた。物腰柔らかそうで穏やかな顔つきをしたその男性はベッドの横にある椅子に腰掛けて目線を合わせてくれた。
「少しお話ししましょうか」
その声は安心できる声だった。今まで会ってきたどの医者よりも落ち着いて話すことができそうでうっかりなんでも言ってしまいそうなほどだ。
「ここはどこだかわかりますか?」
「病院です」
「お名前は」
私の意識ははっきりしている。先生の質問の内容も理解でき、きちんと回答することができている。
「倒れた時のこと覚えてますか?」
「はい、外で歩いていて、役所に行く途中でした」
「なぜ倒れたか心当たりありますか?」
「熱中症だと言われました。おそらくそうなのかと」
それ以外想像がつかなかった。
「役所にはなんの用事で?」
「書類を出しに行く途中でした」
「失礼でなければどのような書類を?」
「婚姻届です」
ここで隠す必要はないと思った。事実だし取り繕った方が不自然になってしまう。ごまかしの機転はあまり上手くない。
「……お相手の方は今どちらに」
「……いません」
どう説明するか悩み一瞬回答が遅れてしまった。この場合は正直に話した方がいいいのだろうか。
「……相手は声です」
まっすぐと医師の方を向いてそう答えた。彼は少しの間沈黙したが決して目線を離さなかった。
「声、というのは」
それ以上は説明しなかった。言葉にするのが難しいと思った。私が少し黙ってしまうと医師は先ほどの質問はなかったかのようにして淡々と次の質問を提示してきた。
「その声は、あなたに何か指示をしたり、話しかけてきたりすることはありますか?」
「いいえ。ただ、鳴いているだけです」
「その声を聞くとどんな気持ちになりますか?」
私は頭の中であの情景を想像した。最初こそ一目惚れの高揚感があったが足繁く通っていた理由はもっと単純で胸の奥が静かになる。
「……落ち着きます」
「もし、その声が聞こえなくなったら困りますか?」
少し目線が医師から離れる。自分の腕に刺さっている点滴の針を眺めながら少しの間をおいて答えた。
「わかりません」
そうですか、と優しく呟き医師はそれ以上こちらに質問してこなくなった。
「今は心も身体疲れていると思います。もう少しここで休みましょう」
休むこと自体に反論はなかった。私の中ではまだ音が続いているから問題なかった。
「何か心配なことはありますか?」
私は窓から見える真っ青な空を眺めた。耳をすませば、あの声が聞こえる。
「……いえ、大丈夫です」
またお話ししましょうと言い残し医師は席を立ち病室から去っていった。残ったのは点滴の落ちる音と無機質な機械音だけだった。目を閉じ耳をすませばあの合唱によく似ていた。だから何も問題はないと思った。
あれから数日が過ぎ点滴が外れ、食事も取れるようになった。病院内の売店へと一人で行けるようになった。順調に回復したが退院の話は出なかった。その代わり精神科医が毎日のようにやってきて話をしたが私の受け答えは一定のものだった。時間だけが刻一刻と過ぎていく中でも声は私の中で薄らと輝いていた。立ち止まるしかない今の現状に何か特別な助けをくれるわけでもない。ただ鳴いている。そのいつもの温度感が私は嬉しかった。
そんな日々が続き、気がついたら売店に提示されているポスターの日付が変わっていてパン売り場に新商品が並んでいた。それでも急がなくていい、今はここにいていい。静かに魔法の言葉のように繰り返した。
退院の日は思っていたよりあっさりだった。朝の問診が終わり「明日には退院です」と告げられた。精神科医には通院を勧められたがとりあえず私はもう帰れるらしい。
翌日、入院した時に持っていた鞄一つを持ち病室を後にする。感慨深いものは何もない。ただ、ほんの少し泊まっただけの空間にお別れを告げた。病院の扉を開けた瞬間、夏の匂いを全身で受け止めた。強い日差しに一瞬目を細め、青空を見上げる。声は聞こえない。それでも焦りはなかった。
残暑が厳しいのでタクシーで帰ることにした。目的地は公園だ。
公園の入り口に立った時、思ったより静かだと感じた。滑り台は黄色と青に輝き、ベンチの影は短く人気もない。昼間の公園は、こんなにも寂しいものだっただろうか。
一歩踏み込み耳をすませる。何も聞こえない。頭の中で響いていたはずの声も聞こえない。少し遅れてゆっくりと飲み込むことができた。
視線を落とすと足元に小さな影がひとつ落ちていた。静かだった。私はしゃがみ、じっとその様子を見つめた。意外なほど心の奥から込み上げるものはなかった。思っていたほど、驚きも、悲しくもなかった。事実だけを目の前にして私は冷静でいられた。
私は鞄から一枚の紙を取り出した。折り目のつかないように綺麗にしまっていた婚姻届だった。記入欄は全て埋まっている。私は影の側にそっと添えた。風で飛ばされないように石を添えて。
これでよかったと私の心を整理する。あの声は、確かに私の中に残っている。確かに私はあの声に惚れ、嫁いだ。その事実は変わらない。
立ち上がり周囲を見渡せばいつもと変わりない公園。その色は輝きに満ちており私は耳を澄ませた。
7日の声に嫁ぐ 杜まつは @susukuru
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