初節・扇堂家縁談話編

鬼ノ目

一話 悪い人

「離してくださいっ!」

 その叫びが聞き届けられることはないまま、女は路地へと強く突き飛ばされた。

 反射的に受け身を取ろうとするも、上手く取ることは叶わず、ただ女は利き手をにぶく痛めるだけとなった。

 突き飛ばした張本人がそんな事を気にするわけがなく、痛む箇所かしょを思わずかばうように抑える女に荒々しく馬乗りになると、強引に着物の合わせに手を掛けた。

 たとえこの歳までそういった経験のない女であろうとも、そのような事をさればこの後に何をされるかぐらい、容易ようい想像がついてしまったのだろう。夕陽を背に、逆光で表情もよく見えぬ相手だ。出会ってそれほど時間が経っているわけでもない、名前さえも知らない相手を前に、体を震わすなというのは無理だ。女が恐怖心をいだくのはさほど難しいことではない。

 けれどもかなわないと、およぶわけがないと頭では分かっていようとも構わず、女は腕を必死に伸ばし距離を取ろうと無意味な抵抗を示してみせた。もしかしたら誰かが、声を頑張って張り上げ続ければその内、助けを求めていることに気付いた人が助けに来てくれるんじゃないか、とそんな淡い期待を捨てきれないのだ。

 しかし、そんな女の左目が捉えたのは、下卑げひた表情を浮かべた、今まさに自分に馬乗りになる男と、つい先ほどまで一緒にいる姿を見掛けた、二人の男だった。

 相手が一人であったのなら、運よく隙を見て逃げ出すことも出来たかもしれない。助けにくる確証もない誰かに期待して、声を張り上げて時間を稼ぐ必要も、おそらくはなかっただろう。

 一人が女の背後に回り、華奢な肩を押さえつけてくる。もう一人は手持ち無沙汰といった様子だが、真上から覗き込むように女を見下ろし、同じ人間から発せられると思えないような、耳を塞ぎたくなるような笑い声をあげてみせた。

「綺麗な身なりで一人ウロウロしてるからいけねぇんだぜ。

 ここいらじゃ見ねぇつらだな? 見たとこお忍びかなんかかい? ほいほい付いてきちまったのを後悔すんだなぁ、嬢ちゃん。」

 状況を――今一度自分が置かれている立場を、理解した彼女の体は意にはんし、一気に強張こわばってしまった。

 ただ、それでも……。

 それでも突っぱねたままの、馬乗りになった男との間に差し込んだ腕を緩めることはしない。先ほどよりも状況が悪化した、相手が増えてもなお、簡単に諦めることは出来なかった。背後に回った男が自身の肩に手を置き、押さえつけようとしてきても、折れることは出来なかった。

 男の言った通り、見ず知らずの相手に声を掛けられた事に対し、不信感を抱かずノコノコと付いていったのは自分だ。だって他に頼れる相手がいなかったのだ。誰がどう見てもきっと悪いの自分なのだろうが、でもそれは、こんな目に遭っていい理由にはならない。

 路地先の大通りは夕暮れ刻ではあるが、先ほど歩いた際もそこそこ人の行き来があったはずだ。これ以上相手が増えることはきっとないだろう。まだ……まだ救いを、希望を捨てきれない。甘い考えだというのは分かっている、分かっているがどうしたって抱かずにはいられないのだ。

 見知らぬ土地で素性すじょうも分からないような男達のなぐさみ者にされて、捨てられるか売り飛ばされるような、そんな……そんなみじめ結末を受け入れられるほど容易に、女の心は折れてはくれなかった。

(嫌、よ。だってやっと私、自由になれたかもしれない、のに……こんな、こんなところで死にたくない。誰にも縛られたくない……嫌、絶対にイヤよ。)

 どれだけ女が強くそう思えども、徐々に徐々に男との距離は縮まってしまう。強張ったままの体をそのまま維持していただけなのだから、押し切ることが出来るわけがないのだ。目に見えて腕が震えるのを、三人がかりで一人の女をどうにかしようなどと、乱暴を働こうとする男達が見逃すわけがない。掴まれたままであった着物の合わせが、強引に引き下げられると、女の乳房が一気にさらけ出された。

 上擦った声が、悲鳴が女の喉から漏れ出そうになる寸前、今まで肩を抑えるだけだった男の手によって塞がれた。

 口元を覆い隠す手に力が込められれば隙間はせばめられ、吸える息もあらく、細くなる。思うように上手く息が吸えなくなるのに対し、耳元でぴちゃり小さな水音が聞こえれば、途端にこれまでどうにか必死に堪えていたはずのものが、涙腺が僅かにゆるんでしまう。

 一度弛んでしまったものは、早々簡単には戻ってくれやしない。

 なし崩しにそのまま、我慢していたものが溢れ出してしまう。いくら泣き喚いたところで余計に酷い目に遭うということを、少なくとも女は知っていた。だから何があっても泣かないようにと必死に堪えていた、というのに。

 目を逸らし続け、淡い期待を、諦めの悪い希望を抱き続けていたというのにそれももう……いや、限界はとっくのとうに訪れていた。

 分厚い膜に元より狭い視界が覆われ始めると、それまで見えていたものも一気にかすんでしまう。

 もう、本当に駄目なのかもしれない、と諦めかけたその時。

「胸糞悪ぃな、女一人に男三人で寄ってたかってさ。」

 声が、届いた。




「胸糞悪ぃな、女一人に男三人で寄ってたかってさ。」

 声が、届くと霞んでしまったはずの視界が、一気にひらけた。

 そうして女は、路地の入り口に小さな影を一つ見た。。

 距離もあり、その表情であったり風貌を拾うことは出来ないが、声の感じや影の小ささから、年端もいかぬ子どもではないかという事が分かった。

「――来ては駄目…っ!」

 あろうことか、女はこのような状況において自身ではなく、反射的に見ず知らずの子ども(まだ子どもであると決まったわけではないが)の身をあんじてしまい、身を乗り出した。

 子どもの突然の介入に気が緩んだのだろうか、口を塞いでいた手から逃れるように無理やり身を捩り、今までのが比にならないほどの、叫んだ自分自身の耳奥に痛みが走るほどの声を張り上げる。

 誰か大人を呼んでくれ、と。せめて助けを乞うぐらいのことは出来たはずだろう、に。もう諦めるしかないのかと、限界にやっと目を向けたばかりだったというのに。自身が窮地と呼べよう状態にあり、堪えていたものが崩れ去ってしまったというのに、全くおかしな話だ。

「なんだお前、この女の知り合いかなにか、か?」

 餓鬼には刺激が強過ぎんだろ、見逃してやるからとっととりやがれ。」

 今までただ見下ろしてくるだけだった猫背気味の男が、馬乗りになっていた男の言葉を皮切りにゆっくりと動き出した。

 その歩みは着実に、路地の入り口から動くことのない子どもへと近付いていく。

「……ぁ、」

 痛む手首なんて気にめず女は、回された手を、今しがたよりも強く、男そのものを振り払うように体を捻ってみせた。肌蹴た胸元なんて気にも止めない。

 その間も徐々に、子どもと男の距離は狭ばるばかりだ。

「ジッとしていろっ!」

 再び口を塞ごうとしてくる手に、女は思わず考えなしに歯を立てた。人肌に歯を立てる機会なんて普通であればないことだろう。存外に固く感じたというのに生温かさが歯に纏わりつくような錯覚を覚える。背後の男が驚き、苦悶に満ちた声をあげたのは同じ瞬間であった。

 身じろげば眼前の男の、分厚い胸板にぶつかったが、その程度で相手がどうにかなるわけがない。そんなのでどうにか出来るのならこんな状況に女は陥っていやしない。

 押さえ込もうとするかのような男の動きは女の腰を掴み、軽々と抱きかかえあげる。

 男の広い肩口に引っかかるような体勢となっては爪先さえも地面から離れてただただ不安定だ。一瞬なにをされているのかさえ分からない、頭が追いつかず女は戸惑ったが、それは抵抗を止めていい理由にはならず、男の背中に短い爪を食い込ませてから再び、女は叫んだ。

「逃げてッ‼︎」

 振り乱れた自身の髪が視界を遮る。しかし、そんなものではまるで遮りきれると思うな、思わせる勢いで横切る何かに、女は目を奪われた。刹那、猫背の漢が一瞬宙を飛んだのだ。

「良かったなアンタ。

 いま俺、機嫌はそんなに悪くねぇんだわ。」

 それは、鞘に収められた刀のように見えた

 横に一薙ぎ、払われたそれだけで自分よりも上背があったように見えた男は宙を舞ったのだ。

 大の大人を――男一人を飛ばすにはどれぐらいの力が必要なのだろう。女の思考は目の前で起こった事態に追いつききれずににぶる。あまりにも予想外すぎるそれは、女の理解の範疇はんちゅうゆうに越えていた。

「そんじゃぁ、お次は馬乗りのアンタだ。」

 無慈悲な声が、またも女の思考を過った。

 

  

「危ない所を助けていただきありがとうございました。

 どのように……御礼をさせていただけばよろしいでしょうか?」

「いいって、別に礼なんか。

 女一人に寄ってたかってんのが気に食わなかった、見過ごすのがちょっとばかり難しかったってだけの話さ。謝礼目当てで割って入ったわけじゃねぇさ。」

 あっという間に、事態は収束した。

 先の猫背の男に仕掛けたのと同じ要領で、持っていた刀を鞘に収めたまま振りかざせば、それだけで少しばかり体格の良かった馬乗りの男は、飛ぶことは無かったものの、抱えていた女を手放さざるをえなくなった。上半身を肩越しから乗り出す態勢だった為、女はそのまま前のめりに地面とぶつかる羽目とはなってしまったが、結果として解放されたのだ。

 伸びている男を二人してかかえる。今し方、抱えていた女を手放してしまった男は、何とも言えない捨て台詞にしか聞こえない言葉を吐き捨てながら、路地の奥へと三人ともっていった。

 身を危険にさらしてまで、女に固執する理由もなかったろう。いや、そうではない。刀を抜いてもいるわけでもないのに、大の大人を吹き飛ばす程の力を持つこの子どもに恐らくはおそれをなしたのだ。

 去っていくその姿に、一昨日来やがれなんて子どもは吐き捨てるものだから、これには彼女も苦笑いを一つ浮かべることしか出来なかった。

 若干まだ痛む利き手を庇うようにして体を支えながら立ちあがろうとすれば、子どもが手を差し伸べてみせた。

「そういうわけにはいきま……せ、」

 歯切れ悪く、要らないとはいわれつつも差し出された手を取りつつ女は小さくしぶったが、その時やっと、これまではっきりと見ることが叶わなかった相手の姿を視界に捉えた。

 夕焼けに染まる路地の中でも薄らと分かる、青味を帯びているように見える髪と、夕陽によく馴染みそうな赤い、瞳。

 その子どもが間違うことなく、自分と同じ“色持ち“であるという事が分かるなり、先の一連の出来事も合点がってんがいくというもの。

 先程の男を吹き飛ばすだけの腕力も、その小柄そうな見た目からは到底想像が出来なかったが、“色持ち”だというのならそういうことなのだろうと納得がいく。

 気付いたのは何も女だけではなかった。

 子どもの方も女が“色持ち”であるということに気付いたような反応を示し、白目の割合が大きそうな目を細めて、まじまじと女を見つめる。

「なんだ……お姉さんも俺と同じ“色持ち”か。じゃぁ色々とお互いに不便してんだろうしよ、お互い様ってことでさ、それでこの話はしまいにしようぜ?」

「何故そうなってしまうのですかっ⁉」

 

 

 扇堂雪那せんどうせつなは今年で齢二一を迎える、“色持いろもち”が産まれる事の多い、このご時世ではあまり耳にしなくなった貴族などという大層な肩書きを持つ家系の、跡取り娘なのだそうだ。

 “色持ち”と言われ弥代やしろが思い浮かべるものは、やはり自分の髪色や瞳の色のような青や赤といった、人目をどうしても惹いてしまういろだろう。だが、彼女のそれは自分のものとは少々違うそうだ。“色持いろもち”の中でも稀にそのようないろが存在すると、耳にしたことはある深い、紫色をした髪。

 目立ついろを持ちながらも長く伸びた髪は隠しようもなければ、誤魔化しようもないだろうに。挙句、随分と透き通った空のような青い色の瞳も、暗がりであろうとも簡単にはいつわることも難しそうだ。

 彼女は紛れもない“色持いろもち”であり、同時に自分と同じ“混色こんしょく”と呼ばれる厄介な存在なのだと、弥代は理解した。

 “色持いろもち”の気苦労というものは少なからずあった事だろうと、どこか話したそうにする彼女に静かに耳を傾けていたのだが、齢二十一にもなって未婚のそこそこ家柄のいい娘という事情を知ったあとだと、何かしらわけがあるやもしれないと自然に勘繰かんぐってしまう。

 学があまりない弥代であっても、ひと昔前の貴族なんてのがいくらかいた時代であれば、それが威厳の一つや二つあったことぐらい耳にしたことがあるから知っている。あまり世の流れというものを知っているわけではないが、場所によっては国境くにざかいの関所であったりというのがまともに機能していないのは国が動いていないからだ、なんて聞いたこともある。

 彼女の、扇堂雪那が口にするその肩書きが弥代の知るものであった場合、国が動いていないとされるこの時代にそんなものはお飾りにもなりはしないだろう。

 だというのに嘘をいているようには見せず、疑う余地もなくそのような事をあまりに堂々と口にするものだから余程……余程世間を知らずに育ったのだろう、と弥代はそう受け止めることにした。

「――と、そんなこんなでもう若くないのだから、これが最後の機会だからと言われ、縁談相手の元へご挨拶に行くようにとお婆様に言われまして。お付の方々と一緒に屋敷を出てきたのです。

 それが今日の昼時で、山道に差し掛かったところをなんと賊に襲われてしまいまして。運悪く、離れ離れになってしまったのです。」

「いや、長いわ。」

 そもそも運が悪いの連れと離れ離れになったよりも賊に襲われた方だろう、と余計なことを口走りそうになったが弥代はグッと堪えた。 

 もしそれらが“色持いろもち”によって嫁ぎ先も見つからずにいるのだとすれば、未婚の、ただの行き遅れの可哀想な女だろう。あまり深く踏み入って訊ねるのも良くないだとろう、と。先に世間知らずということで片付けたものだから適当に耳だけを傾けているつもりでいたのだが、あまりの話しの長さに次第に嫌気を感じ始めた弥代は、頃あいを見兼ねつつ我慢は限界を迎え口を挟んだ。

 すると彼女は、長い前髪で片方しか見えない目をパチパチとまたたかせながら首を小さく傾けてみせた。



 部屋に通された際に、一緒に出された粗末な茶と菓子は既に盆の上にない事に漸く気付いたのか、その視線は自分を助けてくれた子ども――弥代やしろの更に奥、窓辺に一瞬向けられる。

 茶菓子がなくなってしまったのもそうだが、今まで軽く相槌を打ちだけだった相手が、わざわざ長いわ、なんて口を挟むほど自分は長々と話していたのか、と外に目を遣ると窓から覗く空はどっぷりとくらみ、当に夜を迎えていることが分かった。

 宿に入った時はまだ夕焼け空が広がっていた筈なのにと、どれだけ自分が話に没頭していたのか分かると、雪那は手を振って慌て始めた。



「申し訳ございません。私……、夢中になりすぎてしまったみたいです。」

「いや、良いんだけどさ。

 ……話しが長いって、言われたことない? 少なくとも俺は長いなって感じた。嫌味じゃねぇけどさ、よくそんな長く喋られるね、感心するわ。」

 夕暮れ時の路地裏で、必死に何かお礼をさせてくれとせがむ彼女を弥代は振り払おうとしたが、いくら礼は要らないと断っても食い下がられた。肌蹴た合わせを戻す事もせずに自分に縋り付くさまが、はたから見ればまるで自分が手を出して捨ておこうとしてる、とんでもないやからに見られかねないのではないかと、考えが過ぎったのは、事が済んだのに気付いてからか野次馬のように大通りの方から路地を覗いてくる通行人がいくらかいたからだ。

 自分に非はないのだが、向けられる厚意を無碍むげにしようとしているのは間違いなく。乱れた前を早く直してほしい一心も込めて、どうにかこの状況を脱する事は出来ないものかと、渋々彼女の提案を呑み、茶を奢ってほしいと口にしたのだ。

 甲州街道こうしゅうかいどうの一つ吉野宿よしのしゅくはそれほど広くはない宿場町しゅくばまちではありながらも、近隣に武蔵国むさしのくに甲斐国かいのくにが位置する事もあり、人の行き来が多い宿場町の一つのようだ。

 かつては遥か遠くのはんという場所から、江戸のみやこへ向かう者らが道中贔屓ひいきにしていたとされる旅籠屋はたごやが今も健在らしく、小さいながらもそこそこに栄えている宿場町であるそうだ。

 奢ってもらう立場ではあるが、あまり洒落込んだ敷居の高い店をまたぐ気は沸かず、弥代が選んだのはごくごくありふれた、質素な茶屋だった。

 暖簾のれんをくぐれば無愛想な茶屋の主人であったが、弥代が何となしに初めて訪れたのだと嘘を口にすれば、無愛想ながらも当たりさわりがない世間話の要領で教えてくれた。

 人の出入りの多い宿場町には変なやからが一人や二人いてもおかしくはない。ましてや確か最近ここいらへんでは、彼女が先ほど口にしていたように近くの山道で商人の荷を奪うような賊が出没するようになったというのは風の噂で聞いた覚えがある。

 おそらく先の暴漢らは、それらのあぶれ者かなにかではないだろうか。

 江戸の方からぶらりぶらり。どこまで行くという用事があるわけでもなく、宛もなく彷徨うような生活をここ最近は送っていた弥代からすれば、数日ぶりに腰をゆっくりと落ち着かせて茶を飲めるという、それだけで十分にいい息抜きになった。だというのに、目の前の彼女は申し訳なさそうに今になって肩をすくめるばかりだ。

 随分と話す事に躊躇がなかったように見えたが、相手の様子を今になってうかがうようなその態度は、親に怒られたことで反省し萎縮した子どものようなそれに見えなくもないが、どちらかというと見た目もあいまって、あまり人と接し慣れていないように弥代の目には映った。

 それぐらいなら別に聞いても失礼ではないだろうとたずねてみると、どうやらこれまであまり人と接する機会が少なったと彼女は言うのだ。

 長い間実家である屋敷の離れにこもっている事が多かったそうだ。

 いつだったか、肌の白い女は行燈の灯りすらけて見えるだなんてたとえを聞いたことがあるが、そんなモノは物のたとえに過ぎない。それを置いておいたとしても、長年篭っていたというのが頷けてしまう程には、確かに彼女の肌は白い。

 あまりジロジロ見るのも良くないと、既に路地裏の時にマジマジとその“色”を見たあとだというのに、空になった湯呑みを弥代はお盆に戻すことで彼女から視線を逸らした。

 ふところに散らばった茶菓子の食べカスをついでに軽くはらっていれば、逸らした視線の先にあった、盆の上の急須きゅうすに目が止まる。

 話題を振っておいて変に区切るのはきっと良くないだろうが、これ以上その話題に触れたいという気は湧かない。

 急須を持ち上げてみると、もう空になっているかと思っていたのが、若干だが茶は残っていたようで。残り少ない茶を彼女に近い湯呑みを見据えてつつ、弥代は緩く傾けた。

「まぁ、喋り疲れてないか? 冷めきっちまってるだろうけど茶でも飲めよ。」

「ありがとうございます。」

「生憎と、茶菓子はもうないんだけどな。」

 そんなことを小さく囁きながら、軽く会釈をしてみせる彼女に弥代は注ぎえたばかりの湯呑みを差し出してみせた。

 見遣る、その姿はただ茶を飲むにしては上品すぎた。

 伸びきった背筋は丸まることを知らない、雑木林で偶に目にする竹のようだ。たもとには軽く手が添えられ、静かに湯呑みに添えられるもう反対の指先。初めから両手を使うのだから一々袂を抑えるなんて必要が弥代には微塵も感じられないが、一呼吸を挟んでから底を安定させる為の掌一つまで。実に手慣れた一連の動作は言葉をあまり知らない弥代だが、上品という言葉以外は当てはまらない気がしてならない。 音一つ立てずに湯呑みに口付けるさまは、感嘆を漏らすまではいかずとも率直に綺麗なものだと弥代は感じた。

 胡座を掻く自分とはあまりにも大違いだ。貴族などと肩書きを未だに弥代は信じることは出来ないが、育ちの良さというものはその所作一つで十二分にも伝わってくるというものだ。

 何もそれは所作だけを見て感じたものではない。改めて落ち着いた場所で見てみると、彼女の着物は自分なんかが着ている古びた着物とは似ても似つかない、ほつれ一つ見当たらない値の張りそうな綺麗なお召し物ではないか。

 人慣れしていないという彼女の言葉。おまけにただ助けられたからという理由で恩人と二人、案内された部屋に二人きりで緊張感など微塵にも感じさせないお人好しそうな、人を疑う事をまるで知らな気な身なりの良い、見るからに非力そうな独り身の女。暴漢らがこの女に手を出そうとしたのも知れば知るほど頷けてしまう。

(こんなのいいカモにも程があんな。)

 どのようにして彼らと知り合ったのかは弥代の知らぬところだが、遠目で嫌がる女を無理やり路地の奥へと突き飛ばす光景が見えたので、嫌な予感がして見過ごせずに割り入っただけだのは紛れもない事実だ。

 身なりの良さそうな、見るからに世間を知らなそうな女が一人。付き人の一人もれずに、たとえ人の出入りの多かろうがそれなりの広さのある、道が多少入り組んだ宿場町をうろついているのだ。いいことの一つや二つ、終えれば身ぐるみ引っぺがして捨て置かれる可能性は捨ておけるわけがない。あるいは“色持いろもち”となればそのまれな“色”が金になるなんて事もあることを弥代は知っている。最悪売り飛ばされるなんて事があっても何も不思議ではない。

 そんな事にならなくって良かったものだなと、想像しえる事態に彼女がならずに済んだ事に胸を撫で下ろしながら弥代は危機感を抱いて欲しいという思いを込めて思ってもないような言葉を選び、彼女へと語りかけた。

「お礼だからとかそんな理由だけで、見ず知らずの奴とこんな密室にいるとかさ。気が緩すぎるよアンタ。俺が良いやつだって確信はどこにもないだろう。」

「そんな事、ありませんわ。」

 間髪入れず、彼女はそう答えた。

 呑み終え、空にでもなったのか湯呑みを畳の上に戻すと。一つ、呼吸挟んだ後弥代の方を見据えて口にした。

「私には、貴方が悪い人になんて見えません。」

 その晴天を連想させる眼差しが何故だか、弥代はどこか懐かしく感じた。



『雪那様、お逃げください。』

 横転した牛車ぎっしゃに下半身を潰された、年端もいかぬ下女に雪那は肩を押された。

 獣道からぞろぞろと姿を表す体躯のいい漢達。その手には様々な、見たこともないような得物が握られていて、思わず彼女は、下女を隠すように少しだけ前にその身を出した。

(怖いのに、)

 声を挙げることも難しい。緊張と恐怖心から強ばり、張り詰めた喉からは思うように言葉が出てきやしない。きっと助かりはしなだろうという考えが脳裏を過ぎる。下女を守る必要など、どこにもないだろう。

『雪那様…っ、逃げてください。』

(私は貴女に、何をしてやれたというのか。)

 弱々しく、袂を掴まれる。まるで庇うなと言いたげに、痛いどころではないだろうにこらえ、下女は彼女を制する。震える指先で、その手を払おうと彼女がするも、意味はない。離せるわけがないのだ。

 そんな事を続けていると。ふと、崖の下から息を切らした、よく見慣れた男が血塗れになりながらその姿を見せた。

『…氷室?』



「お礼だからとかそんな理由だけで、見ず知らずの奴とこんな密室にいるとかさ、気が緩すぎるよアンタ。俺がいいやつだって確信はどこにもないだろう。」

 差し出された冷え切った茶に雪那が口を付けていると、彼が突然そう切り出した。

 弥代とそう名乗った彼は、暴漢に襲われそうになっていた自分を助けてくれ、あまつさえお礼をしたいという半ば強引なお願いを聞き入れてくれた相手だ。どこに悪い点が考えられるのだろうか。分からない。分からないならがも、何を言い出すのかと考えるのもまた束の間。言いながら見据えられていた視線が徐々に、まるで居心地が悪いと言いたそうに逸れていくもので、雪那は考えもなく、異をとなえた。

 そんな返しがくると想像もしてなかったのだろうか。その赤い瞳が少しだけ、ほんの少しだけ見開いて、揺れたその先で目が合う。

 まだ微かに残ってはいたが、話しかけるのに持ったままでは失礼だろうと、湯呑みを置いた。

 出会って僅かばかりの見ず知らずの相手という事には違いはない。でも、それでも見ず知らずなのは相手だって同じだ。そんな相手を助けるのに手を差し伸べてくれた者を、どうして悪い人などと思えようか。到底、思えるはずがなかった。

「私には、貴方が悪い人になんて見えません。」

 四畳半にも満たないような狭い室内を照らす行灯の灯りが、一際大きく揺れ動いたように感じた。それから暫く、彼はマジマジと雪那の事を見つめ、眉間に皺を寄せたり、難しい表情をしてみせたり、声にならない声をあげたり、首を傾げたり、と思えばどこか遠くを見つめ深いため息を溢してみせたりと。一頻り百面相を浮かべるもので。初めの方は何か気に障る事でも言ってしまったかと、気分を害させてしまったかと、口を噤んでいたのだが、その様子が次第にあまりにも面白おかしくなっていくもので、雪那は笑いを堪えるのに必死になってしまい、口元を抑え肩を震わせた。

「…寒かったか?そろそろ戸閉めた方がいいか?」

「いえ、いえっ…そういうわけではありません。ありませんから……まだ開けたままでも構いませんから。」

「もしかしてさっきの奴らに変なもんでも飲まされた……とか?」

「それも違います。大丈夫、なんでもないですから。本当に大丈夫ですから。」

(どうしてこんなにも出会って間もない、よく知りもしない相手を気遣う事の出来る人が、いい人じゃないと言えるのでしょうか。)

 考え事に専念でもしていたのだろうか。目を瞑り唸る程だ。相手の様子の全貌を見ていなかったとはいえ、肩を震わせているだけで心配をするその姿を見てはもう駄目だった。

 春先のまだ肌寒い夜風が、開けたままの出窓から入り込んでくるも。少々笑い火照ってしまった雪那にとって、それはなんとも心地のよいものだった。

 

 

「本当にお気になさらないでください。私は別に構いませんので。」

「嫁入り前のきぞくの姉ちゃんが、どこの馬の骨とも知らねぇ奴と、出会ってその日に同じ部屋で同じ床につこうとすんなよ。恥じらいってもんはねぇのかよ。…いや、ねぇからその歳になっても未婚なんだろうなアンタ。」

「それは全く今関係がないと思いますが⁉︎」

 随分と酷い言葉を投げかけている自覚が弥代にはあった。人と接する事が少なかったと彼女は言っていたが、想像もつかないぐらいに距離感を詰めてくる。何が彼女に気に入られる要因になったのかは知れないが、元来人懐っこい性格なのだろうと思えて仕方がない。

 自分と同じ“色持いろもち”という時点で、過去に何かしらあったのか。いいところの生まれの彼女が長い間篭っていたというのも少々気掛かりだ。“色持いろもち”が多く生まれる家とは言っていたが、そもそも“色持いろもち”なんてもの生まれた所で迫害を受けて当然の存在だ。屋敷で追いやられでもしたのだろうか。

「わざわざ二部屋取ってくれたんだから。ほら、隣の部屋だし。何かあれば声かけてくれれば良いよ。俺眠り浅いからさ。」

「…本当に重ね重ねありがとうございます。」

 どこか渋るような表情を浮かべながらもそう返す彼女を確認してから、弥代はそれまでいた部屋を出て直ぐ右手の戸に手をかけた。

 元は茶を奢られてそれでしまいという話だったが、やはり世間に疎いのだろう彼女の話を聞いている内に弥代は気が気でいれなくなってしまった。

『アンタ、すぐにまた変なの絡まれそうだな。』

 ただの一度でも気にかけ、手を貸してやった相手のその後などどうなっても普段ならいいはずだろうに。またすぐにでも騙され、騙されているのに気付かず後になって嘆くさまがありありと瞼の裏に浮かび、見捨てる気にはどうしてもなれなかった。だから弥代は一つ彼女に提案した。もし迷惑でないなら暫く一緒にいてやろうか、と。

 彼女・雪那はそれを快く承諾した。そうなれば話は早いに越した事はない。階段から下の階で茶屋にいる夫婦にもう一部屋用意できるかと問えば、待つ間もなく隣の部屋がちょうど空いているのでそこを使うようにと言われた。

 今どき宿場町の茶屋なんてものは旅籠をしていることも多い。ただの茶屋なんかで儲けが出るのはそれこそ都ぐらいだ。

 支払いは当然彼女が持つこととなった。茶を奢ってほしいと頼めば元気よく返事をした彼女だ。手持ちがないという事はないだろう。しかし彼女が袂から取り出した巾着には、滅多にお目にかかることのないだろう存在が眠っていた。

「旅籠に小判一枚堂々と差し出して、これで足りますでしょうかなんて訊ねる世間知らず、放っておいたら浅い眠りにも付けなくなっちまうぜ、目覚めが悪ぃ悪ぃ。」

「それは…、本当に反省しています。」

「両替商がいて良かったな。あいつら普段なら自分の店で胡座掻いてるだけで金が転がり込んでくるからな。こんな宿場町にいるの滅多にないぞ。」

「小判なら二千は硬いという風に伺っていたのですが、千五百文。あまり無駄遣いは出来ませんね。」

「アンタがどこに行きたいのか何をしたいのかは明日また聞くとするよ。けどさ、そんな大金抱えて一人で寝るのも不安だろ。良かったら俺が預かってやるよ。」


『私には、貴方が悪い人になんて見えません。』

 何を根拠に、と呆れた。

 一瞬彼女の瞳がどこか懐かしく感じた。遠い昔にどこかで目にしたような、そんな既視感に襲われたが、弥代はそんなのはどうでも良かった。今はそうではない。そんなことよりも彼女だ。

 少し困ったように眉を潜めて、彼女は自分が抱える膨らんだ巾着に目線を落としてみせる。

 自分と同じ“色持ち”ということもあって気苦労をしてきたのだろうと、肩を持つまではいかないが情を寄せていた。世間知らずな面も、人を疑うという事もまともに知らなそうなそんな彼女だが、何度か既に口にしているが一向に疑うということを、警戒をしようとしない彼女が弥代はただ気に食わなかった。

 気に食わなかったのは何もそれだけではない。女一人に寄ってたかって暴行を振るおうとする男等もそうだ。それに気付いたのに一瞬でも面倒事に巻き込まれるのはごめんだと見過ごそうという考えが過った自分も。自分が手をあげたかのように見える光景をそのまま放置することも。茶を奢って欲しいといえば手放しに喜んで見せる彼女も。 冗談まじりに心配だから一緒にいてやるという言葉を本気で受け止めるの姿も。上げればきりがないだろう。どれか一つ挙げろと言われれば、それがたまたま彼女のその何も変わらない態度というだけでの話で。

 全て彼女に非があるわけではないのは分かっているが、ちょっとした仕返しでもあった。

 宿泊代の際は、差し出された小判には宿屋の夫婦共々、違う意味で疑ったものだ。怪しむような夫婦の視線を遮るように、やや強引に弥代はそれを奪うと、部屋に彼女を押し込め、宿屋を飛び出した。最悪偽金だと思われれば夜ももう遅いというのに、彼女は宿を追い出されかねないと考えたからだ。夫婦は雑に丸め込んで…。

 灯りの点った宿場町を駆け回った。大金ともなれば両替商が望ましいが、こんな商人が立ち寄るばかりのし宿場町にそんな都合のいい存在がいるはずもない。羽振りの良さげな商人であれば多少細かい銭は持ち合わせていないものかと探し回った。すると本当に偶々、……偶々だ。

 都でもないこんな宿場町に一番望ましいと思っていた両替商がいたのだ。小太りの少しばかり恰幅かっぷくのいいその男は酒を飲んでいたが、対等な銭は持ち合わせていないと渋りはしていたが、多少対等でなく少なくとも構わないと無理を言えば、どうにか有り金でその場で換金をしてくれた。酔っていたように見えたが、対等ではないと渋るような両替商だ。きっと悪い相手ではないのだろう。

 目を覚ました時、覚えのない小判を握りしめていればもしかしたら困らせてしまいこともあるだろうが、少なくとも悪い気はしないだろう。姑息な商人であれば足元を見られ、それこそ半分近くぶん取られていた可能性を考えれば十二分ではないか。互いに損をし過ぎ、ということはないはずだ。

「預かって、くださるのですか?」

「おぅ、危ねぇだろ?」

 意地の悪いことをしているな、という自覚はあった。

 どんな返しがようとも、何かしら彼女が返答に困る言葉を投げかけるつもりで弥代はいた。

 彼女が元より持っていた巾着に入りきらなかった小銭は、両替商が少なくなってしまうのに対し申し訳ないから、と厚意でくれた麻布袋に入っており、手元から離れ部屋の中に今は置いてある。

 宿へ戻る間も、小判一枚を銭に換金するとこんなにも重みがあるのもなのかと弥代は驚かされた程だ。全てを一人で持ち運ぶにしてもずっしりと重たい。

 やはりえんもゆかりもないものか、平民がそうそう小判なんて手にする機会がないのかさびれた旅籠はたごの夫婦は、こんなボロ宿にそんな大金を差し出すのものか?という疑念を抱いたのに納得が出来る量だ。こんな大金を手にするのはきっと最初で最後だろうなんて、少々的外れな事も考えたりもした(きっと精一杯頑張って稼げばまた手にする機会があるかもしれないなんていうのは、本当に余計な考えで)ほど。

 自分がそう思わずにはいられなかったものを、自分よりも明らかに非力そうな彼女一人で抱えることなどできるわけがないのだ。

 別に預かってほしいと頼ってきたとしても、少しだけ警戒心を覚えて自分で管理すると答えたとしても何もおかしくはなんかはない。

 寧ろ願ったり叶ったり、といったところ。緩く片足に重心を掛けて、彼女の返事を弥代は待った。

「…………。」

 案の定、少し困ったような反応を彼女は見せた。ほら見たことか、なんてまた意地の悪いことを考えながら弥代は心の中でほくそむ。

 そうだ、それでいい。

 それだけで十分だ。ほんの少し、彼女が困ってくれればそれで良かったのだ。しかし、彼女は何を思ったのか今しがた浮かべた表情から一転いってん、どういうわけかくすりと笑った。

 そうして、自分が持つ少量とはいえ重みのある自前の巾着袋をそのまま差し出して、弥代の左手にやさしく握らせてみせた。

「そんなことをおっしゃられても、貴方は悪い人になんて思えませんから、どうぞ安心してくださいな。」

 向けられた言葉の意味を一瞬、弥代は理解出来なかった。が、すぐさまそれが理解出来ると、慌てて部屋から、彼女の前から逃げるように隣の部屋へと転がり込む。

 薄い土壁をへだてただけの隣からは、彼女以外に考えられないクスクスという笑い声が聞こえてくる。

 部屋の隅に折り畳まれていた布団をやや乱暴に足で適当に広げれば、早々に中へともぐりこんだ。

 左手には握らされたままの彼女の巾着袋が一つ。言い知れぬ気恥ずかしを覚えながら、鋭くそれを睨みつける。

(人と接し慣れてないって絶対に嘘だろあの女?)

 布団の外へと適当に放り投げた巾着袋からは、中の小銭が擦れるような音がした。



『氷室、貴方血が…っ』

 つい先程までとは打って変わった様子の従者に目をやれば、彼の纏っていた着物の端々は破れ、そこから覗くのは肌はおびただしい量の血が見てとれた。

 じわりと着物越しに滲む血からもけっして少ないものではない。賊の襲撃を受けてもないというのに、彼がこの短時間の間にそれだけの怪我を負った事実を、雪那は中々受け止めることが出来なかった。

 恐怖心よりも彼の傷に一瞬にして意識が奪われる。先ほどまで声がせなかったのがまるで嘘のように、それでも強張りながらも彼の名を口にする。

 普段抜く事のない刀を彼は左手に握りしめ、ふらつきながらも崖のふちから自分の前へと歩み寄ってくる。

 雪那はただ、その光景を見つめる事しか出来ない

『お逃げください雪那。貴女はこんな所で死んではならない。どうか、どうか逃げてください。』

 感情的に普段はものを言わない従者から漏れ出てきた言葉に、雪那は震えながらもどうにか腰を持ち上げた。

 持ち上げ、そして一瞬でも牛車ぎっしゃの下敷きになった下女と目が合う。救えないと分かっているのだ。一目ひとめ見ただけで自分一人では到底持ち上がることがないと分かっているというのに、それでも折れた木材に、そっと手を伸ばそうとする。しかし、それは他でもない下女によって止められた。

『ダメ、です。

 ダメ……です、雪那様。そのまま……走って、』

 下女は、まだ年端もいかない子どもだ。

 そんな彼女が自分がもう助からないと分かった上で、付き合いの短い、忠誠心なんてきっとないだろう自分をにががそうとするのが何故なのか雪那には分からなかった。理解が、およばなかった。

 徐々に焦点が合わなくなる瞳で、それでも主人が逃げる姿を今か今かと望んでいるだろう彼女の視線に雪那はついに耐えられなくなり、その場から逃げ出した。うながされるように……、たくされるように。

 後ろからは獣道から姿を現した賊らを食い止めようとする従者のものと思しき、聞いたこともないような声が聞こえてくる。

 走りづらい上等な着物の裾を摘み上げる。これほど激しく体を動かすのは果たしていつぶりだろうか。着崩れなど気にしてられない。がむしゃらに走ったその先に、必ずしも救いがあるはずはないと分かっているのに、そう思えて仕方がないというのに、それでも雪那は走り続けた。

 彼女のあの眼差しが、どこまでも雪那を駆り立てたのだ。



「――――夢。」

 いつも寝るときに使う寝具とは比べものにもならない程薄っぺらな、まるでそのまま畳の上で寝ているのではないかと錯覚してしまう程の敷布団の上で雪那は目を覚ました。

(彼女は、彼女はどうして私を逃がそうとしたのかしら。)

 昨日の出来事を思い浮かべる。

 夕刻に自身を救ってくれた、今は隣の部屋で眠る彼にあの時逃げるようにと声を荒げたのは、きっと彼女の事が忘れられなかったからだ。

(背丈も近かったような、そんな気がする。)

 寝る前に閉めた戸を開ければ、朝陽が部屋に差し込む。

(これからどうしよう。昨日は色んな事がありすぎてよく考える余裕がなかったわ。でもきっとこれが自由なのよね。自由。そう、私もう自由なんだわ。誰にも縛られないの。そうよ、これがきっと自由なのよ。)

 朝陽なんて目にするのいつぶりだろうか。

 見るからにもろい、低めに設けられた格子こうしに手を掛け、背を伸ばす。

 朝方は薄暗い陽が差し込むばかりの屋敷の離れからではお目にかかえなかったろう朝陽を前にして、彼女は口を開いた。

「綺麗……とても、綺麗ね。」

 暫くすれば左隣の部屋からガタンっと物音が聞こえてくる。

 続いて微かに聞こえる呻き声に、ついつい彼女は口角を自然と持ち上げずにはいられなかった。

「悪い人のお目覚めかしら。」

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2025年12月24日 17:00
2025年12月25日 17:00
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初節・扇堂家縁談話編 鬼ノ目 @mitumitumi_yama

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