午前三時のデッドストック

不思議乃九

午前三時のデッドストック

第一章:蛍光灯の下の聖域


国道沿い、街灯すらも疎らな郊外のコンビニエンスストアは、暗黒の海に浮かぶ無機質な箱舟だった。

自動ドアが開く。


「いらっしゃいませー……」

レジの奥で、魂をどこかへ置き忘れたようなアルバイトの少年が、死んだ魚の目で呟く。彼はそのまま、雑誌の束に顔を埋めるようにして、浅い眠りの海へ戻っていった。


店内には、古い冷蔵庫が発する低い唸りと、時折パチリと弾ける蛍光灯の音だけが満ちている。

その男――「朔(サク)」は、棚に並んだおにぎりを、まるで古美術品でも選定するかのように無表情に眺めていた。その指先には、硝煙の残り香を消すための消毒液の匂いが微かに纏わりついている。


「……ツナマヨネーズは、いつも最後の一つの時に限って、保存状態が悪い」

独り言のように漏れた声は、店内の静寂を切り裂くほどに鋭かった。


その直後、背後の飲料コーナーから、微かな、しかし決定的な「衣服が擦れる音」が聞こえた。

「それは、選ぶ側の傲慢というものだ。選ばれるのを待っていた具材に、敬意を払うべきだろう」

振り返ると、そこにはもう一人の「客」が立っていた。


灰色のパーカーのフードを深く被り、片手には無造作に掴んだ炭酸水のボトル。男は、足音を消したまま、朔の視線の先――ツナマヨの棚へと歩み寄る。


二人の間には、ちょうど一メートル半の、不毛な真空地帯が生まれた。


「珍しいな。この時間に、私と同じ『毒』の匂いをさせた同業者に会うとは」

朔は、おにぎりを棚に戻し、ゆっくりと両手を腰のあたりへと下ろした。

「奇遇ですね。私は、一人で夜食を済ませるのが好きなんです。他人に『味』を邪魔されるのは、殺されるよりも寝覚めが悪い」

「そうか。ならば、味覚が死ぬ前に、済ませておくべきことがあるはずだ」

相手の男が、ボトルを床に置く。その所作があまりに滑らかで、攻撃の予備動作を一切感じさせない。それこそが、超一流の証だった。


居眠りする店員の背後で、防犯カメラが不規則なリズムで首を振る。

コンビニという、あまりに明るく、あまりに狭い密室で、二つの「死」が静かに牙を剥いた。


第二章:清算の作法


「……先に、済ませていいですか。腹が減っていては、狙いが狂う」


朔はそう言い捨てると、最後の一つだったツナマヨのおにぎりを手に取り、無造作にレジへと歩き出した。背後に立つパーカーの男に、完全に背中を晒したまま。

それは、無防備を装った究極の挑発だ。背後から撃てるものなら撃ってみろ――そう告げる朔の背中には、一切の隙がない。


パーカーの男は、低く笑ったような気配を見せると、床に置いた炭酸水のボトルを拾い上げ、朔の数歩後ろに従った。まるで、深夜のコンビニで順番待ちをする善良な市民のように。


レジの奥では、アルバイトの少年がまだ微睡(まどろ)みの中にいた。

朔は、おにぎりをカウンターに置くと、コンクリートのように冷たい指先で、少年の肩を軽く叩いた。


「……会計を。温めなくていい」

少年は、水死体が生き返ったような顔をして飛び起きた。

「あ、はいっ……百十円、です」

バーコードリーダーの赤い光が、おにぎりのパッケージをなぞる。ピッ、という電子音が、墓場のような静寂を不器用にかき乱した。朔はポケットから小銭を取り出し、トレイの上に丁寧に並べる。一円の狂いもない、正確な清算。


「次の方、どうぞ……」

少年が、震える手でおにぎりを袋に入れようとするのを朔が手で制した。

入れ替わるように、パーカーの男が炭酸水を差し出す。


「袋はいらない。すぐ飲むから」


男の声は、少年の耳元で氷の粒が弾けるように響いた。少年は恐怖に直結した本能で、この二人が「人間ではない何か」であることを察したのか、指先を震わせながらレジを叩く。

朔は、おにぎりの封をゆっくりと切った。パリッ、という海苔の乾いた音が、静まり返った店内に銃声のように鳴り響く。

パーカーの男が会計を終え、炭酸水のキャップを捻る。

プシュッ――。

圧縮された空気が逃げるその音を合図に、少年の背後の壁にある時計の秒針が、一度だけ止まったように見えた。


「ご馳走様でした。……さて、お互いお釣りは『命』でいいですね?」


朔が一口分のおにぎりを飲み込んだ瞬間、その右手に、レジ横の割り箸立てから抜き取った一膳の竹箸が、鋼の暗器と化して握られていた。


第三章:飽和する日常


「お釣りは、受け取らない主義だ」

朔の言葉が結ばれるより早く、その右手が閃いた。

一膳の竹箸。本来は空腹を満たすための柔らかな道具が、朔の指先で一点に凝縮された殺意を宿し、パーカーの男の頸動脈を正確に射抜こうと突き進む。

だが、男の反応はそれ以上に「異様」だった。

男は避けない。代わりに、手にした炭酸水のボトルを、爆弾でも扱うような暴力的な手つきでひねり潰した。


「――ぶちまけろ」

凄まじい内圧で解き放たれた無数の気泡と冷水が、噴水のように朔の視界を襲う。シュアアッ!という、耳障りなまでの発泡音が、静寂に塗り潰されていた店内の空気を一気に飽和させた。


「……ッ!」

視界を奪われ、濡れた海苔の香りと強炭酸の刺激が鼻を突く。

朔は直感だけで竹箸を突き出し続けるが、男はすでにカウンターを支点にして、重力を無視したような滑らかな動作で身を翻していた。


「いい箸捌きだ。だが、この店の『デッド・ストック』になるには少し若すぎる」


男の声が、背後から聞こえる。

男はカウンターを飛び越え、居眠りから覚めたばかりの店員を、まるで重石(おもし)のように床へ押し倒しながら、空いた左手で腰に隠した小型の自動拳銃を引き抜いた。

朔は反射的に、手元のおにぎりを男の顔面に向けて投げつける。

米粒が散らばり、具のツナマヨが男のパーカーの袖に不規則な模様を描く。そのコンマ数秒の隙に、朔はレジの下に設置された重厚な「募金箱」を掴み、盾にした。


ガ、ガガン!


消音器(サイレンサー)の付いた銃声は、濡れたタオルを叩きつけたような鈍い音となって、深夜の店内に吸い込まれていく。募金箱のアクリル板が砕け散り、中に溜まっていた数枚の硬貨が、まるで断末魔の悲鳴のように床で跳ねた。


「……味の邪魔をされた、と言ったはずだ」

朔の瞳に、極寒の月のような光が宿る。

彼は砕けたアクリル板の破片を、まるでトランプのカードでも投げるような手つきで、指先から放った。


第四章:暗闇の走査


朔(サク)は、飛び散るアクリルの破片を盾にしながら、一気に床を滑った。

彼の狙いは、パーカーの男の心臓ではない。レジカウンターの足元にある、古びた配電盤だ。


「――おやすみ、光の世界」

重いブーツの踵が、ブレーカーのレバーを無造作に叩き落とした。

バヂンッ!という断末魔のような火花と共に、店内の蛍光灯が一斉に事切れた。

さっきまで網膜を焼いていた暴力的なまでの白光が消え、世界は一瞬にして、墨を流し込んだような完全な闇へと反転する。


静寂。

いや、それは静寂ではない。

冷蔵庫の唸りが止まり、代わりに浮き彫りになるのは、二人の殺し屋の「生存への音」だけだ。

シュ……、シュ……。

男が先ほどぶちまけた炭酸水が、床に滴り落ちる湿った音。

そして、床に伏せたアルバイト店員の、喉を鳴らすような浅い喘ぎ。


朔は闇の中で、目を閉じた。

視覚という不確かな情報を捨て、皮膚で「空気の震え」を感じ取る。


男は動いていない。カウンターの向こう側で、銃を構えたまま、こちらの吐息を待っている。


(……右、三メートル。チルド棚の角か)


わずかな「衣擦れの音」を朔の耳が捉えた。

男もまた、プロだった。暗闇の中で自分の位置を悟らせないよう、一歩、また一歩と、死神のような足取りで床を這っている。


カチッ。


それは、男が銃のセーフティを弄んだ音か。あるいは、朔を誘い出すための罠か。


朔は、手元に転がっていた「五円玉」――さっき募金箱から零れた、唯一の遺産――を指先で弾いた。


キィィィィン……。


硬貨が、全く別の方向にある雑誌コーナーの棚に当たり、高い金属音を立てる。

その音に反応した男が、迷わず引き金を引いた。

ポスッ、ポスッ!

消音器を抜けた弾丸が、闇を切り裂き、雑誌の束を無残に食い破る。

そのマズルフラッシュ――銃口から放たれた一瞬の火光――が、朔の網膜に男の輪郭を焼き付けた。


「――見つけた」

朔は、闇を裂く黒い獣となって跳んだ。

手にしているのは、もはや竹箸ではない。男が撃った弾丸で砕けた、鋭利なアクリルの「牙」だ。


最終章:観測者の夜明け


闇を裂いたのは、断末魔の叫びですらなかった。

ただ、湿った布を切り裂くような、不快で、しかし確かな手応え。

朔(サク)が振り下ろしたアクリルの破片は、正確に男の頚動脈を断ち切った。

パーカーの男は、手にした重圧――銃――を一度だけ虚空に放り投げ、そのまま力なく崩れ落ちた。炭酸水がこぼれた床に、さらに粘度の高い、黒い液体が広がっていく。


「……味気ない終わりだ」

朔は荒い呼吸を整え、ゆっくりと立ち上がった。

指先から滴る熱い血。それを拭うこともせず、彼は再び配電盤へと歩み寄り、レバーを引き上げた。

バヂンッ!

暴力的なまでの蛍光灯の光が、再び世界を塗り潰す。

そこにあったのは、もはや「日常のコンビニ」ではない。散乱した米粒、砕かれた募金箱、そして、水と血の海に沈んだ一人の男の死体。

朔は、血の付いたアクリルの欠片をゴミ箱に捨てると、出口へと向かおうとした。

だが、その足が、レジカウンターの裏で止まった。


(……動いたか?)

視線の先、床に伏せていたはずのアルバイトの少年。

その肩が、微かに、震えていた。

気絶しているはずの少年は、薄く開いた瞼の隙間から、血に濡れた朔の横顔を、恐怖で凍りついた瞳で見つめていた。

二人の視線が、無機質な店内で交錯する。

少年は、見ていたのだ。

暗闇の中で行われた、洗練された「屠殺」のすべてを。

光が戻った世界で、自分が何を目撃してしまったのかを。

朔は、しばらくの間、無言で少年を見下ろしていた。

ポケットの中には、まだ予備のナイフがある。

ここでこの「証人」を消せば、この夜の出来事は、未解決の強盗殺人事件として闇に葬られるだろう。

少年は、声も出せずにガチガチと歯を鳴らしている。その瞳には、助けを求める光すらなく、ただ圧倒的な「死」への服従だけが宿っていた。


朔は、ふっと息を吐き、カウンターの上に置かれたままだった「自分の会計のお釣り」――さっき手に取れなかった数枚の硬貨を、指先で弾いた。


「……お釣りだ。取っておけ」


朔は少年の喉元に手を伸ばす代わりに、彼が握りしめていた「ツナマヨのおにぎりの袋」を、ひょいと奪い取った。


「味は、悪くなかった」


自動ドアが開く。


「ありがとうございましたー……」

店内のセンサーが、皮肉にもいつものように来客(あるいは退店)を告げる。

朔は、明け方の蒼い空気が漂い始めた国道へと消えていった。

後に残されたのは、血の海の真ん中で、震えながら「五円玉」を見つめる、日常を奪われた一人の観測者だけだった。


少年はこの後、人生で一番長い1日を味わう。


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