第2話 開店祝いというやつを持ってきていない!
風が流れている。気圧の差によって起こる空気の流れ。それは世界の当たり前のシステムが作り出した自然な動きだ。そんな正常な循環が、ありとあらゆる春の香りを連れてくる。 わずかに湿った緑の絨毯。点々と生える若い広葉樹。そんな単調な光景が、青い空の下でどこまでも広がっている。
言ってしまえば、どこにでもある山の中だ。大きなあくびが出るくらいには、ありふれている。けれど、エルフの少年にとってはそうではないらしい。
「ペル! ペル、ペル! ここは山だな! ん、山かな? いや、山だろう! さすがにぼくも知っている! いや、覚えているというべきか! けれど懐かしいというわけでもないのだよ! まったく得体が知れないもののようにも思えて新鮮だ! 実に!」
コレーは小花が点在する若草の芝生を遠慮がちに踏みながら、両手を大きく広げている。限界まで胸を開いたその姿から、見るものすべてを網膜や心臓に焼きつけんとする、赤ん坊のように凶悪な吸収力が窺えた。なんとも勉強熱心なことである。
「とても楽しい! おもしろいぞ、ペル!」
「うん、よかったね」
一瞬の突風によって生まれた葉擦れの音が、万雷の拍手かと錯覚するほど大きく響き渡る。まるでコレーの訪れを祝福しているみたいだ、なんて。さすがに感傷が過ぎるだろうか。
「はあ、いい匂いだ。緑の匂い、土の匂い、風の匂い。この匂いは、ここだけのものなのだろうか。あそこに行けば、また変わるのだろうか。ということで、ぼくは走る!」
言い終わるやいなや、宣言どおりの全力ダッシュ。ペルに背を向けて、一目散に切り立った岩壁のほうへと駆け出した。感情がピークに達すると体全体で表現したくなるのは、あの子どもの特性のようなもので、いまさら驚くようなことでもない。驚くことではないが、忠告はしておく。
「そんなに急ぐと転ぶよ」
「あっ」
「ほらなー」
石にでもつまづいたのだろうか。いや、彼なら何もないところでも転びかねない。コレーは頭から芝生にダイブすると、なだらかな斜面を素直に転がっていった。まあ、平気だろう。どうせ簡単には怪我などできないくらい丈夫なのだから。
「やれやれ」
大あくびをしてから追いかけてみれば、コレーは仰向けの状態のまま青空を凝視していた。「ああ、空だ」という、予想よりもずっと低い、ぐにゃぐにゃしたものをゆっくりかみしめるような声が、ため息とともに彼の口からこぼれ落ちる。
「空だ、ペル。青くてまぶしい。雲がある。動いている。ゆっくり流れてるんだ。どこから来てどこに行くんだろう。太陽の光が、まぶしい」
見るものすべての感想を、ご丁寧にもひとつひとつ並べていく。降り注ぐ強い陽の光から守ろうとするかのように、目を細めながら。
ペルも同じ方向を見上げたが、コレーと同じ感慨を覚えるかといったら、別にそんなことはなかった。
「空なんか、あそこでも見えてたじゃん」
「そうだな、空もあった。ぼくはあの優しい空も好きだ。けれど、この強い空も、とても好きだ」
どんな違いがあるのだろうと思いながらも、ペルは黙って寄り添うことにした。けれどすぐに飽きてしまったので、手慰みに毛繕いの真似事をする。
「あ、しまった! ペル!」
「なに」
「開店祝いというやつを持ってきていない!」
「別にいらないと思うけど。よくそんな言葉と習慣を知ってたね」
「以前、魔女の手紙に書いてあった。とあるドワーフの岩窟カフェの開店祝いに秘境にしかない虹色に光り輝く鉱石を持って行ったが、実はそれは擬態していた休眠中の鉱山蜥蜴だったので、その場で目覚めて暴れ散らかして大変なことになった――とか何とか」
「あ、その話か。というか、ねえねえ。それを聞いて、『よし、開店祝いを持って行こう!』ってなる? ならなくない? キミはなっちゃったの?」
「ああ、もちろん! その話には続きがあっただろう、ペル? 確かに一時は大変なことになったが、店員や客がみんなで協力して店を修理して、おいしい蜥蜴酒を飲みながら楽しい時間を過ごしたらしい、と。とても素敵な話じゃないか。だからやっぱり開店祝いは絶対に必要なのだよ」
「その蜥蜴酒ってさあ……、いや。いいや、キミは知らなくて。ってかそれ魔女片付けてないよ、絶対サボってたよ」
強制的に話を終わらせると、ペルは耳を動かしながら適当に辺りを見回す。
「じゃあ、ほら。あの辺りにある花でも持っていきなよ。ちょうどいいと思うよ」
「うん?」
ペルが尻尾の先で指し示す方向を確認しようと、コレーが上半身を起こす。そこには素朴を絵に描いたような花が咲いていた。まあまあきれいではあるし、まあまあかわいいとも思う。けれど。
「あの魔女の好みかどうかは非常に疑わしいところだけどね」
「ああ、清楚で愛らしいな。これならきっと魔女も喜んでくれる」
魔女の性悪な本性を知らないわけでもないだろうが、なぜかコレーはペルとは真逆の感想を口にしながら飛び起きた。喜び勇んで花に近づき、しゃがみ込む。摘もうと伸ばした指先が、なぜか直前でぴたりと止まった。
「どしたの?」
「いや……」
エルフの子どもには珍しく、眉根を顰めて真剣に悩んでいる。しばらくしてから、ぽつりと呟いた。「この花は、ここにいたいのではないだろうか」
「ん?」
「花の声を聞くことができないのが残念だ。だが想像することはできる。この花がもしこの場所にいたいのであれば、ぼくがそれを邪魔してはいけないと思うのだ。絶対に」
そう力強く断言すると、コレーは花に触れることなく立ち上がった。どうやら本気らしい。
「なるほど。でもさ、その逆だったら? 足がないから動けないだけで、本当はこの場所にいたくなかったら? その場合はキミが違う場所に連れて行ってあげたほうが親切じゃない?」
「ふむ……」
これまたエルフの子どもにしては珍しく腕を組みながら考え込むと、しばらくしてから、まるで答えが降ってきたかのように勢いよく空を仰いだ。
「いや、やめておこう。ぼくの個人的な感性ではあるが、この花の黄色と緑の芝のコントラストは非常に美しい。空の青さも相俟って、まるで奇跡のように調和がとれている。この仲良しな三者を引き裂くのは、実に心苦しい」
そんなものだろうか。よくわからなくて、首が自然と傾いた。けれどコレーはそんなペルを置いて、マイペースに微笑みながら、マイペースに言葉を紡ぐ。
「ところで、ペルはおなかはすいてないだろうか」
「すいてないよ」
いつものように即答すれば、わずかにコレーの眉尻が下がった。安堵のようにも落胆のようにもとれる表情。あんまりすきじゃない
「そうか。おなかがすいたら、いつでも遠慮なく言ってくれ」
「うん。キミのほうこそ、おなかはすいてないの?」
「ん?」
ペルが尋ねれば、コレーが不思議そうな顔をする。どうやら気づいてないらしい。この場所が、ずっと住んでいた城とは違うということに。詳しい説明を今ここでするべきか迷っていると、視界の隅にある崖の上で動く人影を見つけた。ひょろりとしたシルエット。人間の青年のようだが。
「あれは……、ひと? 人間なのか? わあ、はじめて見たかもしれない!」
一気にテンションを上げたコレーが、両手をメガホンにしながら思いっきり叫ぶ。
「おーい! そこのあなたー! そんなところにいたら危ないかもしれないぞー! 落ちてしまったらきっととっても痛いんだぞー!」
「わあっ! だれ、えっ、なに!? って、ぎゃーーーー!?」
「あ、落ちた」
いい年したエルフの公子は、ひとりでカフェに入れない 森原ヘキイ @hekii
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