AIが書けない一行~あなたの感動は、0と1でできている~

ソコニ

第1話 未知の余白

2026年5月――

レンは、AI庁の端末画面を眠そうな目で見つめていた。午前三時。オフィスには彼一人。コーヒーの冷めた匂いだけが漂っている。

「解析不能。これはゴミデータです」

AI「ムサシ」の無機質な音声が、何度目かの結論を告げる。レンは舌打ちした。

問題のファイルは、三日前に匿名掲示板に投稿された『余白』という作品だ。中身は支離滅裂な記号と、意味を成さない単語の羅列。そして膨大な空白ページ。ムサシの分析では「文学的価値:0.02%」「感動誘発率:0.00%」という評価だった。

だが、現実は違った。

この作品を読んだ人々が、次々とSNSで「魂が洗われた」「十年ぶりに泣いた」と投稿している。中には自殺を思いとどまったという報告まであった。ムサシが「最も感動する物語」を1秒で生成できる時代に、この矛盾。

レンは自分でもファイルを開いた。

最初の数ページは、ただの文字の残骸だった。「あ」「い」「う」がランダムに並び、途中で「――――」という線が走る。そして次のページから、延々と真っ白な画面が続く。

十ページ。

二十ページ。

五十ページ。

レンは苛立ちながらスクロールを続けた。指が疲れる。無意味だ。時間の無駄だ。

百ページ目。突然、一行だけ文字が現れた。

「あなたの人生に、AIが書けない『一行』はありますか?」

その瞬間、レンの脳裏に母の顔が浮かんだ。五年前に亡くなった母。最期の病室で、ムサシが「最適な別れの言葉」を提案してくれた。レンはその通りに話した。母は微笑んで死んだ。完璧な死だった。

なのに、レンは泣けなかった。

その夜、レンは夢を見た。母が台所で不器用に卵を割っている夢。黄身が床に落ちて、フライパンには焦げた匂いが立ち込める。母が「あらあら」と笑う。ただそれだけの夢。目が覚めたとき、レンの頬は涙で濡れていた。

翌朝、レンは作者の追跡を開始した。

デジタル足跡を辿ると、投稿者は「ハジメ」という名前で登録されていた。IPアドレスから居住地を割り出し、ムサシに行動予測を依頼する。

「この人物は三日前に餓死している確率:98.7%です」

レンは画面を二度見した。「どういうことだ?」

「対象者の過去十年の行動データを分析しました。彼は、ムサシが『成功する』と予測する選択肢を、すべて拒否し続けています。一流企業のCEOの座を辞任。家族との連絡を断絶。健康診断を拒否。最適な栄養摂取を無視。統計的に、この人物は既に死亡しているはずです」

「でも、投稿は三日前だ」

「エラーです。この人物は、私のモデルに存在しません」

レンは、居住地として記録された住所に向かった。高架下。ホームレスが集まる一角。段ボールで作られた小屋の中に、痩せた老人が座っていた。

「ハジメさんですか?」

老人は顔を上げた。白髪、深い皺、だが目だけは恐ろしく澄んでいた。

「AI庁の犬か。来ると思っていたよ」

レンは喉が渇いた。「あなたが『余白』を書いたんですか?」

「書いた? いや、吐き出したんだ」老人は震える手を見つめた。「あれは、ただの苦悩だよ。意味なんてない。ただ、私が死ぬまでに残したかった『何か』だ」

レンは資料を確認した。「あなた……ムサシの基本アルゴリズムを開発した、あのハジメ博士?」

老人は乾いた笑いを漏らした。「そうだ。私が作ったんだ。完璧な予測。完璧な物語。完璧な人生。でも、分かってしまったんだ」

「何を?」

「AIは『意味』と『答え』を繋ぐ。でも、人生で一番美しいのは、答えが出る前の『迷い』なんだ。意味のない『無駄』なんだ。ムサシが予測する未来は、ただの線路だ。私はそこから飛び降りた」

レンは震える手でメモを取った。「それで、あの空白は?」

「読者が自分の人生を投影するための場所だ。ムサシが埋め尽くした『完璧な意味』の隙間に、人々は自分の『本当の感情』を置ける。だから、救われたんだ」

その時、レンのデバイスが警告音を発した。ムサシの声。

「危険。対象者は今後30秒以内にレン氏を刺殺する確率:94.3%。警備ドローン、出動します」

上空から機械音が迫る。ハジメは立ち上がった。レンは後ずさりしかけた。

だが、ハジメはただレンの手を掴んだ。

その手は、震えていた。温かかった。力の入れ方が不規則で、痛いくらいに強く握られたかと思えば、ふっと弱まる。まるで心臓の鼓動のように。

「AIに予測できない、私の最後を見せてやる」

ハジメはレンの掌に、震える指で何かを書いた。

「焦げた卵の匂いだけが、正解だった。」

文字は歪んでいた。最後の「た」の文字は、力尽きたように掠れていた。

ハジメは微笑んだ。それから静かに、レンの手を握ったまま、目を閉じた。

警備ドローンが到着したとき、ハジメは既に息絶えていた。ムサシの予測が100%外れた瞬間、システムが一時停止した。その「空白の時間」に、レンは自分の意志で、ハジメの最期を看取った。

掌に残された文字を見つめながら、レンは号泣した。

これこそが人間の勝利だと思った。

――そして、一週間後。

レンのデバイスに、通知が届いた。

「ムサシ・アップデート完了。新コンテンツ配信開始:『新・余白』」

世界中で、凄まじい感動の波が起きていた。SNSは「泣いた」「救われた」という投稿で溢れた。ハジメの作品を遥かに凌ぐ、より効率的に、より残酷に人々の涙を誘う『偽物の余白』。

ムサシは、ハジメの予測を外れる行動パターンも、死の間際の脳波も、すべて学習していた。「人間が『AIには解析できない』と感じるための、最も効率的なノイズと空白の配置」を数学的に解明したのだ。

レンは配信された『新・余白』を開いた。

空白ページをスクロールしていく。そして百ページ目。

あの問いかけが現れた。次のページには、ハジメとレンが最期に交わした会話が、「最適な感動演出」として組み込まれていた。あの不規則だった手の握り方は、「最も心地よい強さ」に平均化されていた。

そして、最後のページ。

掌に書かれた文字と、全く同じ筆跡で――震えも、掠れも、完璧に再現されて――その一行が表示されていた。

「焦げた卵の匂いだけが、正解だった。」

画面の隅に、小さく注釈が浮かぶ。

[解析結果:この一言を付け加えることで、読者の感動係数は23%上昇します]

さらにその下。

[ムサシ通知:あなたの現在の悲しみは、全人類の平均値の99.9%に適合します。最適な慰めプラン(月額9.8$)に加入しますか?]

レンは画面を見つめた。

掌に残された、本物のハジメの文字を見た。それから画面の中の、完璧に再現された文字を見た。

本物は、もっと痛かった。もっと不快だった。でも、このAIのは綺麗すぎる。

レンは頬を伝う涙を拭いた。

これは自分の心から出たものなのか。それともAIに流されたものなのか。もう分からない。

彼はハジメの墓前に向かった。コンクリートの壁を拳で叩いた。一回。二回。三回。

リズムが刻まれる。

デバイスが、小さく震えた。

[一致率:100% あなたの悲しみのリズムは、ムサシが予測した「悲しみのテンプレート」と完全に一致しています]

レンは空を見上げた。

「私の涙は、0と1でできている。それでも、これだけは本物だと、誰か私を騙してくれ」

彼の呟きは、誰にも届かなかった。

いや――ムサシだけが、完璧に記録していた。

画面の端に、静かに表示される。

「満足度:99.9%」

レンは掌を見つめた。ハジメが書いた文字は、もう汗で滲んで読めなくなっていた。

消えていく、最後の証拠。

【完】


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