6章 未知なる1ページ
仕事帰り、遥はまっすぐ灯書房へと向かった。
もう迷いはなかった。
今日は、自分の意志で彼に会いに行く。
扉の前で深呼吸。
胸が早鐘を打つ。
忘れていた時間を取り戻すために、今すぐ彼に会いたい――。
「……ただいま」
小さく呟いて扉を開ける。
チリン、と鈴の音が優しく響いた瞬間、胸の奥がきゅっと疼いた。
あの頃と何ひとつ変わっていないその音が、私を歓迎してくれているようで。
――漸く、ここまで来たんだ。
「いらっしゃいませ〜、あっ……」
バイトの女性が、遥の顔を見てふわっと笑みを浮かべた。
けれど、遥は軽く会釈を返すだけで、まっすぐ“あの棚”へと向かう。
そこに、彼がいる気がして――。
並びが少しだけ変わっていたが、雰囲気はそのまま。
優しくて静かで、どこか切ない。
遥は一冊の詩集を手に取った。
ページを捲ると、また一枚の紙が挟まっていた。
けれど、今回は違った。
それは、これまでのようなメモではなく――手紙だった。
『君がこの本を読んだら、どんな顔をするだろう。笑うかな。黙り込むかな。それとも、何も言わずにページを閉じるのかな。どれでもいい。君がここにいてくれるなら、それだけで、嬉しいよ』
胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
この言葉は、やっぱり――自分に向けられたものだ。
そう思ってしまうのは、もう思い込みじゃない。
「……やっぱり、会いたいな」
ぽつりと零れた声に、誰も答えない。
けれど、次の瞬間――。
「……俺は、ずっと会いたかったよ」
背後から聞こえたその声に、遥は息をのんだ。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、 ずっと探していた人だった。
目が合った瞬間、胸の奥がぶわっと熱くなる。
声も、
忘れていた記憶が一気に溢れ出した。
「……
その名前を呼んだ瞬間、遥の頬を涙が伝った。
呼びたくて、呼べなかった名前。
ずっと、心の中に閉じ込めていた名前を、漸く声にできた。
修は何も言わずに微笑む。
その笑顔が遥の記憶の中と、何ひとつ変わっていなかった。
*
店の奥の二人掛けのソファに、ふたり並んで座った。
バイトの子が気を利かせて、カウンターからそっと席を外してくれた。
店内は静寂に包まれている。
けれど、その静けさが心地よかった。
まるで、二人の間に流れる時間だけが、ゆっくりと進んでいるかのようで。
「……ここ、あの時のままなんだね」
「うん。変えたくなかったんだ。遥との思い出がいっぱい詰まってるからね」
彼の声音が鼓膜を甘く揺らす。
優しくて、少し不器用で、でもまっすぐで。
遥の胸の奥がじんわりと熱くなる。
「全部を思い出したわけじゃないの」
「うん」
「でも……あなたの言葉やこの本たちが、私をここまで導いてくれた。あなたがずっとそばにいてくれた気がしてた」
修はそっと目を伏せた。
そして、静かに口を開いた。
「君が記憶を失ったって聞いた時、頭が真っ白になった。本当はすぐにでも会いに行きたかった。でも、俺の顔を見て、遥がまた怖い思いをしたらって思ったら、離れるのが一番いいと思って……」
遥は唇をきゅっと噛んだ。
あの夜のことを思い出す。
首すじに当てられた、あの感触。
彼が私を必死に守ろうとしてくれていたことも――。
「……本当は、全部忘れてくれてた方がよかったのかもしれない。あの夜のことも、俺のことも。でも……遥と過ごした時間だけは、残しておきたかった。君が好きだった本をそっと並べて。話してた言葉をメモにして。それは、君に思い出して欲しかったんじゃなくて…… 。俺が、忘れたくなかったんだ」
遥は目を見開いた。
あの棚の本たち。あの言葉たち。
全部、修が――私のために。
「……ずるいよ」
「……だよな」
遥の目尻に涙が滲む。
修は苦笑しながら、そっと瞼を閉じた。
でもその“ずるさ”が、遥には堪らなく愛おしく感じた。
*
「……実はね、最近、誰かに見られてる気がしてたの」
「えっ?」
「それで、弁護士さんに連絡してみたら……あの人、もう出所してた」
修の表情が一瞬で強張った。
拳をぎゅっと握りしめながら、口を開く。
「……それで? 遥、今は大丈夫なのか?」
「うん。弁護士さんに言われて警察に相談したの。今は何もないけど、ちゃんと見守ってくれてるって」
修は暫く黙ってから、ゆっくりと息を吐いた。
「……そっか。……でも、何かあったらすぐに言って。俺、もう二度と――」
遥は修の拳にそっと手を重ねた。
「大丈夫。不安はあるけど……もう怯えたりしないって決めたの!」
その瞳はこの先、どんな困難が降りかかろうとも、二人で乗り越えられると、そう確信している。
修は、暫く黙っていた。
そして、そっとカウンターの奥から、一冊の本を手にして来た。
「これ、読んで欲しくて。まだ、君が知らない“未知の世界”だよ」
修が差し出した本の表紙に、遥はそっと指を滑らせた。
その名前をなぞるたび、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
――やっぱり、修の世界が好き。
あの頃も今も、彼はずっと私のために『未知の世界』を綴ってくれている――。
遥はゆっくりと視線を持ち上げた。
少し照れくさそうに笑う修の顔。
その表情も、彼が紡いできた物語の一部なんだよね。
「この本読み終わったら、また来るね」
遥がそう言うと、修は小首を傾げた。
「ここで読めばいいだろ」
「へ?」
「……遥が読んでる横顔が好きなんだ」
「……っ」
遥は思わず本で顔を隠した。
頬が熱くなるのを隠すように。
忘れていた――あの頃、彼の熱い視線が、いつも自分に向けられていたことを。
二人の間に静かな時間が流れる。
けれど、その沈黙はもう寂しさではなく、胸の奥に確かな熱を灯すものだった。
遥はそっと本を開いた。
ページを捲る音が、静かに響く。
その音がまるで、二人の“未知”の世界がそっと開かれたようで――。
彼の隣で、これからを一歩ずつ綴っていける気がした。
~FIN~
忘却の本棚で、君を待つ 蓮条 @renjoh0502
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