海月の子守唄

深海かや

第1話

 彼女の涙は、時折わたしの世界にはらりと落ちてくる。


 薄紫色のひかりを吸い込んだ、つめたい水の中で生きるわたしからしてみれば、たった一滴でも水分が増えてくれるのは願ってもないことだが、それが彼女のなかから溢れ出したものとなると話は変わってくる。


 彼女はわたしの世界にそっと手を添えたまま「時々さ、無性に消えたくなるの」と静かに涙を流した。ひとしずくの、無防備な、何も着飾っていない確かな感情のかたまりが、わたしの世界に波紋を起こしたのはそのすぐ後のことだった。


「ルシアはいいね、そんな風に水のなかで気持ちよさそうに浮かべて。なんか海月ってさ、水に浮かぶ雲みたいだよね」


 わたしに優しく語りかけながらも、ほとり、はらり、と頬を涙が伝っていく。何故泣いているのか。詳しい理由は知らないが彼女が悲しんでいるのは明白だった。枯れ木のように細い腕を持ち上げ目元を拭い、時折垣間見える彼女の瞳は悲痛な色に染まっていた。普段は指通りが良さそうな綺麗な茶色の髪は、磯に付着している貝みたいにぴたっと頬に張り付いている。どうにか慰めてあげないと。そう考えたわたしは、泣かないで、と声をあげた。けれど、わたしの声は彼女には届かない。届かないと分かっていながらも声を上げずにはいられない。泣かないで。もう一度声を発する。彼女はわたしの声には応えず、何故自分が泣いているのかという理由を吐露した。


「ルシア、ごめんね。こんな話聞きたくないよね」


 しばらくして彼女は自分の世界の端っこへと消えていった。身体を横にし、ぼんやりと宙をみあげてる。わたしはそれをみつめることしか出来なかった。本当はこの手で抱きしめ、慰めの言葉で彼女の心を癒やしてあげたいけれど、ふわりゆらりと水のなかを揺蕩うことしか出来ないわたしには聞き手になることで精一杯だった。


 彼女とわたしの世界の間には、いつも硬くて透明な膜がある。膜の内側にはつめたい水が満ちていて、うえからは薄紫色のひかりが差し込んでいる。わたしの身体が常に薄紫色なのはそれが理由だ。輪郭すらもあやふやな、手足、胴体、わたしの身体を形成するものは全て透度が高く、あらゆるものの色を吸い取ってしまう。膜の内側にはある一定の流れがあり、円を描くような水流を作り出しているのは水底にある筒状の塊で、そこからはいつも空気を含んだ気泡が吐き出されている。わたしはいつもその水流に乗りながら水のなかを揺蕩い、膜の内側から彼女をみつめていた。


 彼女は大抵、世界に透明なひかりが満ち始めてから目を覚ます。ちょうど彼女が身体を横にしながら腕をぴんとのばしているところだった。起き上がる。線の細い身体がこちらに近づいてくる。


「おはよう。ルシア」


 ルシア。それがわたしの名前らしかった。いつだったか、彼女に教えてもらった。


「昨日は話聞いてくれてありがとね。ちょっとだけすっきりしたよ」


 言いながら、彼女は筒状のなにかを手にし、それをわたしの世界へと差した。空気と一緒になかのものが押し出されて、わたしの食欲をそそるような匂いを孕んだ液体が広がる。普段はあまり動かすことのなかった手足を水のなかでゆっくりと動かし、これまたゆっくりと口へと運んだ。


「おいしい?」


 首を傾け問いかけてくるので、わたしは「おいしいよ、ありがとう」とお礼を言った。彼女は満足したようにふわりと微笑み、再び横になった。長方形のちいさな箱のようなものを手にし、それを耳に押し当ててる。


「あっもしもし? 昨日はありがとうね」


 彼女はよくその箱を耳に押し当て、誰かと話してる。わたしに語りかけてくる時よりも少し高い、なかに吸い付いてくるような声だった。


「うん。うん。あっそうそう、そのお店こないだインスタでみたの。えー嬉しい! あっちょっと待ってねスケジュール確認する。来週なら12日かな、あと14日も同伴出来るよ。あーおっけー! じゃあ楽しみにしてるね」


 会話が終わったかと思えば、今度は別の誰かと話し始める。


「あっもしもし、12日か14日なんだけどさ、まだ確定はしてないんだけど同伴入りそうなの。だからVIP抑えといて。うん、たぶんオーラスだと思うよ。あと、分かってると思うけど伊坂さんはお酒飲む時チョコレートよく食べるから今回もいいやついれといてね。はーい、よろしくー」


 電話を切り終えると、彼女はちいさく溜息をこぼした。部屋のなかが微かに湿り気を帯びた気がした。


 その日の夜、彼女はいつもの時間にどこかいった。顔になにかを塗り、ひらひらとした薄いものを身に纏ってから「ルシア、いってくるね」と陽だまりのような笑みを向けてくれるのは彼女の行動パターンのひとつだ。その笑顔も、その姿も、わたしの高まった感情で水の色が変わってしまうのではないかと思う程に美しく、わたしはいつも自分の声が届かないと知りながらも「綺麗だよ」と声をかけた。


 彼女が戻ってきたのは、水のゆらぎが気持ちよくてわたしがうつらうつらとしはじめた頃だった。また誰かと話しているのか彼女の声が聞こえる。足音が近づいてきて、相手の声も聴こえることに気付いた。


「今日のお客さんって新規ですか?」


 やたらと甲高い声だった。彼女は「うん、そうだよ」と相槌を打っている。夜が充満していた部屋の中にひかりが放たれ、彼女がわたしの世界をうえから覗き込んでくる。それからちいさな声で「ルシアただいま」と呟いた。


「えっ、ルシア?」

「あー飼ってる海月の名前ね。私の唯一の癒しなの」

「えー海月飼ってるんですか? めちゃくちゃみたいです!」

「いいよ」と呟いたあと、彼女がその声に応えるように長方形の箱をわたしに向けてくる。「どう? みえた?」と呟いた瞬間、「かわいいー」と更に声が高くなった声が水面を揺らした。彼女は「ねっ、かわいいでしょ?」と何故か誇らしげだった。


「なんか雲みたいじゃない?」

「え、雲ですか?」

「うん、水のなかでぷかぷかと浮かぶ雲。子供の頃さ、私と妹……あっ妹がいるんだけどさ私、風に流されていく雲をみるのが好きでルシアをみてるとそれを思い出すの」

「へー! なんかいいですね、そういうの。ルシアちゃんかわいいです! あっ、でさっきの話なんですけど、あのお客さんってやっぱり新規なんですね。なのにあれだけシャンパンおろさせるって、やっぱ莉子さん凄いです!」

「そんなことないよ。あのお客さんはたまたま私を指名してくれただけで、もし他の子がついてたらもっとおろさせてるよ。有紗とか凄いもん」

「有紗さんって、ナンバー2の」

「うん」

「あー確かにあの人凄いですよね。お客さんとの距離の詰め方とかみてて凄い勉強になりますもん。なんか、天性でキャバ嬢やってるって感じ」

「ほんとにそう思う」


 彼女は長方形の箱を持ちながらどこかにいった。水の流れる音が聴こえてくる。あちこちに飛び散るような水滴の音も聴こえる。しばらくして頭になにかを巻いて戻ってくると、腰を下ろし今度はなにかを顔に塗り始めた。


「私、まだ入ったばかりじゃないですか」

「うん」


 彼女は相槌を打ちながら手に垂らした液体を顔に塗りつけている。


「でも、もう夢が出来たんです」

「夢?」

「はい、私があの店のナンバー2になります。莉子さんが不動のナンバー1なので、私はその次。1番2番独占してやりましょう!」


 瞬間、彼女はふわりと笑い、「えーなにそれ。私なんていつおちるか分かんないよ。どうせならナンバー1目指しなよ」と長方形の箱に顔を近づけた。


「いや、無理です無理です。莉子さんだからあそこは不動の位置なんですよ。綺麗で、かわいくて、全てを持ってる莉子さんだから。店に入った時からずっと私の憧れなんです。あっ、なんか私きもいこと言ってます? 酔ってるかもです」

「うん、酔ってるね。絶対。でも、嬉しいよ。ありがとね」

「はい、そろそろ寝ますね。おやすみなさい」

「うん、おやすみー」


 そこで会話が途切れた。だが、彼女はしばらくぼんやりと箱を眺め、それから水面へと湧き上がる気泡よりも更にちいさな声で言った。


「私は、なにももってないよ。なにも」


 その日から、彼女は次第に眠らなくなった。いや、それ以前からまともに眠れていなかったのかもしれない。ぼんやりと宙を見上げ、眠りにつくまで彼女はいつもなにかの歌を口ずさんでいた。わたしは彼女の綺麗な歌声と水の流れに身を任せ揺蕩っている内に、遠い昔のことを思い出すようになった。


 最初、わたしは白い花だった。風に揺られ、朝露がわたしの葉で踊る度に歓喜の声をあげ、陽の光の美しさに涙する花だった。それから魚になり、鳥になり、やがて人間の女性になった。鮮明に思い出すことは出来ないけれど、たぶんわたしは幸せだったのだと思う。当時のことを思い返そうとすると、じわっと温かいなにかがわたしの中から溢れ出してくるから。今の私は、海月だ。透明なかさに透明な手足を持ち、うえから降り注ぐ紫色のひかりを吸い込みながらいつも水の中を揺蕩っている。語りかけることも、手を伸ばすことも出来ないけれど、大切な人もいる。そう、彼女だ。わたしは彼女の幸せをなによりも願っている。なのに、彼女は最近涙を流してばかりだった。


 その日のわたしは、どこか遠いところに意識を預けていた。この世界ではないどこか。ひかりが満ちる場所。意識的にわたしが向けている訳ではなくて、吸い寄せられるように向けていた。水流に引っ張られているような感覚に近い。もう何度も味わってきたこの感覚を、ふいに思い出す。ああ、この身体もそろそろ終わりか、とわたしがいなくなった後の彼女の事を考えた時、わたしの世界に涙が落ちてきた。


「ルシア、また話聞いてもらってもいい?」


 彼女はそう呟くと、これまで自分のなかに溜め込んでいた全てを吐き出してくれた。綺麗で、かわいくて、おまけに常に笑顔を振りまく明るい女性。それが彼女で、仕事柄そうしなければ生きられないと思い自分を偽り続けてきたが、それは本当の私ではないと涙ながらに言った。全てを手にした女性として羨望の対象とみられることにも、そう思ってくれた誰かを失望させない為にと自分を維持し続けることにもいい加減疲れたのだと言う。それに、彼女は孤独だった。


「私はね、気がついたらもう、周りに誰もいなかったの。ずっとトップで走り続けてきて、結果だけを毎日追い求めて、その為に死に物狂いで努力して、ようやく自分の居場所を築けたと思ったら、心から笑い合える友達なんて誰もいなくなってた。私には家族もいない。妹はいるけど、心底嫌われてるだろうからいないも同然」


 彼女はそこで一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。ゆっくりと呼吸を整えようとして、ひっと上擦った声が漏れる。


「私さ、一人なんだよ。前私が電話してた子覚えてる? 私に憧れてますって言ってた子。あの子だって今じゃ有紗っていう子と一番仲が良いからね。なんか私のことが鼻につくようになったんだって。ようやく友達が出来たと思ったらまたこれなの。お金もある。家もある。服や化粧品も好きなものは好きだけ買えるのに、なにも満たされない。一人だから。毎日寂しくて、辛くて、生きてるのもしんどいって最近思い始めたし、眠れない。こんな人生生きている意味とかあるのかなって考え始めたら更に沈んでいくの」


 聞きながら、わたしは今すぐにでも彼女を抱きしめたい気持ちに駆られた。水を蹴る足に自然と力が入る。「ねえ、ルシア」と潤んだ声がわたしの世界に溶けてきた。見上げると、目があった。真っ赤に目を染めた彼女と。


「ルシアだけはずっと傍にいて……お願い」


 まるで懇願するように彼女はわたしの世界に手を添え、頭を項垂れていた。わたしは。わたしは、もう。とてもじゃないがその事実を口に出来なかった。


 彼女がいつものように長方形の箱を手にしながら「えっ」と声を上げたのはそれから三回目の朝日が昇った日のことだった。


「も、しもし」


 彼女の声が震えていた。


「お姉ちゃん、久しぶり」

「……美優」


 そこで少しの間沈黙が落ちたが、相手の方が口火を切った。


「電話するかどうか迷ったんだけどさ、さすがにお母さんの三回忌だから」

「……三、回忌」

「ねえ、さすがに帰ってくるよね?」


 相手の女性の声は氷みたいなつめたさを孕んでいた。


「帰ら、ない。っていうか、帰れないよ今さら」


 彼女は振り絞るように言った。


「なんで?」

「私はお母さんに嘘をついたし沢山傷付けたから。それに、お葬式にもいかなかったし」

「そうだよ? だから三回忌くらい来てよ。家族なんだし当然でしょ?」

「いけないよ。仕事やめて勝手にキャバ嬢やってる事だって、お母さんは亡くなる三カ月前に知ったんだよ? そっから喧嘩ばっかりして、あんな風に事故に遭うって思ってなかったから私、最後にひどい事も言ったし。とにかくお母さんに会わせる顔がないの」

「ちょっとなにそれ。全部自分自分じゃん。お姉ちゃんいつもそうだよね? 夢とか目標を勝手に決めてさ、そしたら周りがみえなくなって、貫き通すのは凄いと思うけど自分の考えを否定する人は全員敵みたいな考えしてるじゃん? それ、まじでやめた方がいいよ? 」


 相手の女性の声が大きくなった瞬間、どこからか赤子の泣き声が聞こえた。


「赤ちゃん」

「うん、もう一歳になる。この子の顔もみせたいから早く帰ってきて」


 言い終えて、女性が歌を歌った。彼女が寝る前によく口ずさんでる歌だった。


「そ、の歌」

「うん。お母さんがよく歌ってくれた歌」

「子守唄だったよね。好きだった私」


 彼女の声が潤んでいた。


「私も好きだよ。私もお姉ちゃんも甘えん坊だったからさ、自分たちだけでお昼寝出来なくて、小学校五年と三年になってもお母さんにあの歌を歌ってって頼んで寝てたよね」


 彼女はついに泣き崩れた。両の手のひらで顔を覆い、「ごめん」と何度も呟いた。


「ねっ、こんな話もしたいの。最初はね、お葬式にも来ないお姉ちゃんのことを憎んでた。でも、今は許してるし最近どうしてるかなって心配もしてる。 お母さんなんかずっとそうだった」


 聞きながら、命の尽きる音がわたしのなかで鳴った。


「お姉ちゃんは知らないけどお母さんはキャバ嬢の仕事を反対してたんじゃないの。あの子がうまくやっていけるかって、周りに溶け込もうとして無理をしないかって、それを心配してたの。物静かな子だからって」


 瞬間、彼女の泣き声が赤子のように大きくなる。抱きしめたい。そう思ったが、声が少しずつ遠くなっていく。


「私たち、家族じゃんか。お母さんだって待ってるよ」


 向こう側に引っ張られていく意識の狭間に、私は淡く美しい世界をみた。二人のちいさな女の子が仰向けに寝そべっている。柔らかな風が吹き抜けて、それに揺らされた何かが少女たちの頭上で綺麗な音を奏でている。がやがやとうるさい何かの産声は遠くの方から聞こえてくる。少女たちはそれらの音が聞こえていないのか、それとも気にならないのか、身体を仰向けにしたまま熱心に空を見上げている。


「二人ともご飯の用意出来たから手伝って」


 誰かの声がした。少女たちは動かない。


「いつまで雲みてんの? あんた達ずっとその体勢から動かないじゃない」

「だってお母さん、凄いよ。雲が凄い勢いで流れていってるの。いろんなかたちになって面白いの」

「ねえ、お母さんも一緒にみよ」


 少女に手を引かれて、その誰かは少女たちと同じ体勢になった。三人で横並びになり、ぼんやりと空を見上げた。


「いいなあ鳥は」

「え、なんで?」

「だって、あんな高いところまで飛べたらさ雲に触れるじゃん」


 少女の一人が唇を尖らせたのをみて、誰かは陽だまりのような笑みを浮かべた。


「じゃあ、いい子にしてたらお母さんがとってきてあげる」

「ほんと?」

「うん、約束。二人のところにちゃんと雲を届けてあげるから」


 二人の少女の笑った顔をみている内に気付いた。あれは、私だ。私なのだ。そう確信ついた瞬間、私は白い世界のなかにいた。森も、道も、家も、全てが白に染まった世界の中で、私は二人の女の子の手を引いている。一人は赤い長靴を、もう一人は青い長靴を履いていて、わたしはその二人にこの世のなによりも温かい眼差しを向けていた。ああ、そうか、と思う。再びこちらの世界に意識が戻った時には穏やかな気持ちに包まれていた。


「お母さんだって待ってるの。だから、帰ってきてお姉ちゃん」

「うん」


 二人には私が名付けた。赤い長靴を履いている女の子には美優と。そして、もう一人には。


「私、帰るよ。絶対帰るから!」


 水のなかを、ゆっくりと沈んでいく。かさも手足も、もう力が入らない。身体が底にふれたとき、意識がとぎれるその手前で、わたしは初めて彼女の名を呼んだ。


 莉子、と。 

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