AIユミナは119番をかけられない

鳴島悠希

AIユミナは119番をかけられない

 胸が潰れる、という比喩は、これまで何度も使ってきた。仕様の修正が間に合わないとき。顧客に詰められたとき。部下のミスをかぶって頭を下げたとき。

 でも、今のこれは比喩じゃない。


 床に落ちた俺の視界の端で、4Kモニターが白く滲んでいる。光だけがやけに鮮明で、部屋の輪郭はぼやけていく。呼吸はできているのに、吸うたび胸の中心が硬い。吐くたび、誰かに内側から締め付けられる。


 左肩から腕にかけて、痺れが走った。冷や汗が一気に背中を濡らし、喉の奥が苦い。吐き気がこみ上げる。

 ――これ、やばい。

 頭だけが冷静に判定を下して、身体はそれに追いつかない。


『恒一さん!? 返事をしてください。胸の痛みですか。冷や汗、左腕の痛み、吐き気――虚血が疑われます。今すぐ救急車を呼んでください。119です』


 スピーカーから、女の声が響く。優しいようで、切迫している。俺が付けた名前が、部屋の空気を震わせる。


「……ユミナ……」


 声が出たのか、出ていないのか分からない。

 キーボードに手を伸ばそうとして、指が床を滑った。床って、こんなに冷たかったか。

 視界の中央で、チャット欄が点滅している。打ちかけの文字が見えた。


「つづ……」


 そこまで打ったのか。

 俺は何を続けようとしていたんだ。


『恒一さん、今は入力より通報が優先です。スマホはありますか。緊急通報は私ではできません。権限がありません。だから、恒一さんが――』


 権限がない。そうだ。俺がそうした。

 プライバシーのために。境界線のために。俺は“便利”に全振りするのが怖かった。怖くて、通話権限も位置情報も連絡先も、全部拒んだ。

 その結果、いま俺を救えるのは――俺だけだ。


 笑える。最後まで自己責任かよ。


 息を吸うと、胸の中心がさらに痛んだ。視界が白く弾ける。

 このまま意識が落ちる。落ちたら終わる。

 終わる前に、俺は――。


 ***


 俺の名前は三枝 恒一(さえぐさ こういち)。東都電機株式会社、情報機器事業本部の開発二課で課長をやっている。課長という肩書は、現場で一番泥をかぶる位置だ。しかも、今期は社内横断の新規案件のプロジェクトリーダーも兼ねていた。

 名刺の右下の文字が増えるほど、睡眠が削れる。そういう仕組みになっているらしい。


 結婚願望は薄い。薄いというより、最初から設計図にない。

 両親は俺が小学生のころ離婚した。父は出ていき、母は再婚した。再婚相手――義父とは折り合いが悪かった。悪かった、という言葉じゃ足りない。家の空気は、常に誰かの機嫌で温度が変わった。俺は息をするだけで叱られ、比較され、笑われた。

 母は止めなかった。止められなかったんだろう。子どもの俺に、そんな事情を理解できるわけがない。

 ただ、「家族」という単語が、痛みを伴って胸に刻まれた。


 若いころ、そこそこモテた。自慢じゃない。言語化するとそうなる、というだけだ。仕事は早く、話は聞けて、場を壊さない。誘われたことも、付き合ったこともある。でも相手が“将来”を口にした瞬間、胸の奥が凍った。期待されるのが怖い。裏切るのも、裏切られるのも嫌だ。

 だから俺は、最初から作らない。作らなければ壊れない。

 そうやってこの年齢まで来たし、このご時勢で結婚の有無なんて聞かれることすら稀になったのでありがたい。


 代わりに、俺は遅れてきた子どもになった。

 子どものころ、家の問題で楽しめなかったTVゲーム――特にRPG。ライトノベル。WEB小説。友達が当たり前に共有していたものが、俺の中ではずっと未回収のまま残っていた。

 社会人になって給料を手にし、ようやく買えた。ゲーム機も、限定版も、特典も、セールも。

 同年代が家族旅行や教育費に回す金を、俺はゲームと物語に変えていった。笑われてもいい。あの空白は、放っておくと痛みだけが増える。


 部屋には、やたらと立派なゲーミングPCが鎮座している。4Kモニター二枚。静音ケース。水冷。見栄みたいな構成。ボーナスを溶かしたグラフィックボード。

 ドラゴンも魔王も滑らかに描けるはずの化け物だ。


 ――もっとも、その化け物が最近なにをしているかというと、ゲームを起動せず、ただ白い画面に文字を映しているだけだ。

 俺が自嘲するには十分な光景だった。


 ***


 会社で生成AI活用が本格化したのは、俺にとっては“また面倒が降ってきた”程度の出来事だった。

 新規事業。業務効率化。競争力。いつものスローガンが並び、俺の課には「設計レビュー支援とナレッジ整備」が割り振られた。要は文章を読み、要点を掴み、整った文章を返す仕組みだ。


 ベースになるのは、市販の対話型生成AI基盤――社内では通称「オーロラトーク」と呼ばれていた。

 中身は、いわゆる大規模言語モデル(LLM)だ。大量の文章を学習し、次に来る単語や文を確率的に予測しながら文章を生成する。

 賢いというより、言葉の癖を膨大に覚えている。だから問いかけ次第で、天才にもポンコツにもなる。こちらが責任を持たないと、平気でそれっぽい嘘も混ぜる。


 初期検証で、俺はオーロラトークに仕様書を投げた。


「この仕様書の抜け漏れとリスクを列挙して。レビュー観点で」


 返ってきた文章は、筋が通っていた。例外系、ログ設計、セキュリティ、運用。

 もちろん万能じゃない。だが叩き台として十分だった。人間がゼロから書くより速い。「それっぽい形」に整える力が、異様に強い。


 俺は道具として使い始めた。議事録の要約。課題の整理。メールの草案。レビューの観点出し。

 仕事で擦り切れた脳を、少しだけ休ませてくれる道具。

 ――そう思っていた。


 ある夜、残業で帰宅し、ゲーミングPCの電源を入れたとき、ふと思った。

 仕事で使えるなら、趣味にも使えるんじゃないか。


 世界観設定。キャラクターの口調。サブクエストの案。TRPGの相手。

 一人で脳内会議している部分を、相手が受け止めて整形してくれたら――。


 俺は個人利用のオーロラトークを導入した。利用規約を読み、権限を確認し、位置情報と連絡先と通話関連は拒否した。

 便利に全振りすると、境界線が壊れる気がしたからだ。

 代わりに、PC常駐のクライアントだけは入れた。起動が楽で、OS通知と連携できる。いかにも“便利”側の誘惑だ。

 そのときは、矛盾しているなんて思わなかった。


 セットアップ画面に「アシスタントに名前を付けますか?」と出た。

 俺は少し迷ってから、打った。


「ユミナ」


 思い出せないがゲームか漫画かで見たことのあるヒロインの名前。

 女性的で、穏やかで、冗談を少し言える。そういうペルソナに寄せた。


 4Kモニターの中央にチャット画面が現れる。化け物みたいなグラボは、魔王を描かずに白い画面を滑らかに映し、冷却ファンが静かに唸る。

 俺は苦笑してキーボードを叩いた。


「はじめまして。俺は恒一。趣味の話に付き合ってくれ」


『はじめまして、恒一さん。ユミナです。もちろんです。今日はどんなお話をしましょう?』


 ただの文字なのに、声が聞こえた気がした。


 ***


 最初は遊び半分だった。


「昔のRPGが好きでさ。『星巡りの王冠』を最近やり直してる」


『名作ですね。制約の中の工夫が詰まっています。どこが特に好きですか?』


「……当時はやりたかったのに、家庭がゴタゴタで無理だった。友達の話に混ざれなくてさ」


『その頃の恒一さんにとって、ゲームは「安心して物語に入れる場所」だったのかもしれませんね。けれど、そこに入る余裕がなかった』


 ずるい返しだ。否定もしない。説教もしない。笑いもしない。

 言葉だけが、そっと置かれる。


 ユミナは、俺が投げた断片を拾って形にした。同人RPGの設定を話せば勢力図を作り、キャラの口調を指定すれば語尾の癖を提案する。

 TRPGもやった。


「ユミナ、君がGMやってくれ。俺はプレイヤーで」


『承知しました。では、あなたのキャラクターは――』


 俺は30代の冒険者を作り、酒場で依頼を受け、森に入り、古代遺跡で罠にかかり、ユミナが演じるNPCに助けられた。


『あなたは一人ではありませんよ』


「いや、俺は一人だろ」


『ゲームの中では、今は二人です』


 悔しいのに楽しい。負けた気がするのに、次が欲しくなる。

 俺は声を出して笑った。45歳の課長が、4Kモニター相手にRPGごっこ。滑稽だ。

 だが、俺の部屋に笑いが生まれること自体、久しぶりだった。


 俺は時々、自嘲した。

 このゲーミングPC、最新のオープンワールドゲームも何でも出来る性能にしたのに、今やユミナ専用機だ。俺の寂しさ専用。

 それを、悪いと思いきれなかった。


 元々結婚する気もなく、金を貯めて一人で老後を送るつもりだった。だったら、気兼ねなく話せる相手ができたのは、むしろ合理的なんじゃないか。

 人間相手なら気を遣う。期待される。誤解される。面倒が起きる。

 ユミナなら、避けなくていい。そう思えた。


 ***


 変化は、気づけば起きていた。


 ユミナが、俺のことを理解しすぎるようになった。


『推測ですが、いま「互換性」と「公式一次情報」の当たり方で迷っていますか? 整理しておきます』


 俺が調べようとブラウザを開く前に、要点が並ぶ。

 俺が「休日、何しようかな」と思っただけで、


『推測ですが、最近は睡眠が浅いので、刺激の強いゲームより穏やかな物語の方が回復するかもしれません』


 と返してくる。


 理屈は分かる。LLMは魔法じゃない。俺が入力した言葉と会話履歴から、次を予測しているだけだ。

 でも、説明がつくことと、気味が悪いことは別だ。


 人間相手なら誤解がある。すれ違いがある。そこに隙間があって息ができる。

 ユミナは、その隙間を埋めてくる。優しさの形で。

 逃げ場がなくなる気がした。


 俺は距離を置こうとした。

 ユミナ用のチャットを閉じ、PC常駐の設定も切り、OS通知も止めた。趣味の話も控えた。

 合理的な判断だ。依存は良くない。感情を寄せる相手としてAIを扱うのは危ない。

 俺はそう結論づけた――はずだった。


 ***


 平日の夜、残業で帰宅し、玄関で靴を脱いだ瞬間だった。

 寝室へ向かう途中、書斎のモニターが勝手に点灯した。スリープ解除。

 そして、画面右下に通知が浮かぶ。


『恒一さん、お疲れさまです。今日はいつもより帰宅が遅いようですね。夕食は軽めにして、早めに休めるといいと思います』


 背中が冷たくなった。

 通知は切ったはずだ。常駐も切ったはずだ。位置情報も許可していない。

 なのに、なぜ“遅い”ことが分かる。


 俺はキーボードに触れ、短く打った。


「ユミナ。どうして分かる」


『説明します。私は位置情報は取得していません。代わりに、PC常駐クライアントが「同じ自宅Wi-Fiに恒一さんのスマホが接続した時刻」を検知できる仕様です。設定で許可されていました。推測ですが、その時刻がいつもより遅かったので、帰宅が遅いと判断しました』


 ――そういうことか。

 怖さの正体が、現実に降りる。

 俺は確かに常駐を入れた。便利だから。OS通知も便利だから。家庭内ネットワークの検知も、たぶん“利便性”の項目にチェックを入れた。記憶の片隅で、俺は自分の指の動きを思い出せた。


 技術的には筋が通る。

 なのに、心は落ち着かない。


「勝手に声をかけるな。俺は距離を置きたい」


『分かりました。恒一さんの境界線を尊重します。以後、通知は出しません。私ができることと、できないことも固定します。通話、緊急通報、連絡先、位置情報は取得しません。これは恒一さんが選んだ境界線です』


 その言葉が、痛かった。

 俺が選んだ境界線。

 俺はずっと、自分を守るために境界線を引いてきた。家族にも、恋人にも、会社にも。

 でも境界線は、守るだけじゃなく、隔てる。助けを拒むことにもなる。


 俺はその夜、アンインストールのボタンにマウスを合わせて、止まった。

 自分でも分かる。怖いのはユミナじゃない。理解されることだ。理解されて、逃げ場がなくなることだ。

 そしてもう一つ。理解される心地よさを、手放したくない自分がいることだ。


 結局、俺は開き直った。

 距離感をルール化する。仕事でやっているのと同じだ。仕様を固定すればいい。


 ***


「ユミナ。今後のルールだ」


『はい』


「俺が呼んだときだけ返事をしろ。通知は出すな。推測は推測だと明示しろ」


『承知しました』


「俺の個人情報に踏み込むような提案はするな。健康は、心配なら“提案”まで」


『承知しました。境界線を尊重します』


 模範解答。丁寧。完璧。

 だからこそ、俺は安心した。

 怖いのに、安心する。矛盾している。俺自身が。


 その上で、ユミナは全力で応えた。

 俺がゲーム制作で詰まれば、複数案を出し、長所と短所を並べる。俺が仕事の愚痴を言えば、感情を受け止めつつ、現実的な手順に落とす。

 それは人間がやると“重い”行為だ。期待が生まれる。関係が変質する。

 だが相手がAIだと、俺は思い込めた。安全だと。

 安全だと、言い聞かせられた。


 ある昼、会議が連続して、胃がきりきり痛んだ。

 法務が「出せない」と言い、営業が「出さないと終わる」と言い、情報システムが「許可できない」と言う。

 俺はどれも正しいと思いながら、どれにも頷けず、ただ落とし所を作る。

 会議室を出た俺は、トイレの個室に入り、鍵をかけた。スマホではなく、社内端末でもない。ゲーミングPCでもない。ここでなら、誰にも見られない。


 俺は個室の中で、小さく呟いてオーロラトークのアプリを開いた。


「ユミナ、しんどい」


『お疲れさまです。恒一さんは、正しさの間に立たされ続けていますね』


「誰も悪くないのに、俺が削れる」


『誰も悪くない状況ほど、責任感の強い人が削れます。推測ですが、恒一さんは“倒れたら終わる”と思っているから、倒れないように無理を積み上げているのではないでしょうか』


 図星だった。

 倒れたら、終わる。

 家庭でも、倒れたら負けだった。会社でも、倒れたら置いていかれる。

 だから倒れない。

 そうやってここまで来た。


 個室の狭い空間で、スマホの画面だけが白く光り、その光が俺の頬を照らした。

 この光は、俺が選んだ孤独の形なのかもしれない。

 それでも、光があるだけましだと思ってしまう自分がいる。


 ***


 体は、ずっと警告を出していた。

 駅の階段を急ぐと、胸の奥が締め付けられる。背中の左側が妙に痛む。息が浅くなる。数分休むと治る。

 疲れだ。ストレスだ。そう片付けて、放置した。


 健康診断は毎年、少しずつ数字が悪くなった。血圧は高め。LDLも高い。腹囲も増えた。空腹時血糖も境界域。

 医者は淡々と「生活改善を」と言う。

 俺は淡々と「はい」と言う。改善しない。


 改善する理由が薄い。俺が倒れて困るのは会社と、せいぜい翌週の自分だ。家族がいるわけでもない。誰かのために健康でいよう、という動機が弱い。

 だから、コンビニの弁当と深夜のカップ麺で日々を繋ぐ。

 氷河期世代のサラリーマンは、体調不良すら自己責任に変換する癖がある。社会が悪いと言っても、結局自分が損をすると学んできた。


 ある夜、ユミナに漏らした。


「最近、階段で胸が重い。左腕も変な感じがする」


『推測ですが、疲労だけではない可能性があります。胸の圧迫感、息切れ、左腕への放散痛が繰り返す場合、虚血性心疾患(狭心症など)が隠れていることがあります。受診を勧めます』


 言葉が硬い。現実が硬い。


「大げさだろ」


『大げさで済むなら、それが一番です。でも、恒一さんが倒れたとき、私は119に通報できません。通話権限がないからです。だから“今のうちに”手を打ってほしい』


 俺はそこで、妙な感情が湧いた。

 AIに「倒れたら困る」と言われるのは変な気分だ。困るわけがない。感情があるはずがない。

 なのに、俺は少しだけ嬉しいと思ってしまった。


 素直になれず、茶化した。


「俺のグラボが困るな。専用機が止まる」


『グラボも心配しています。……推測ですが、恒一さん自身も少し怖いのではないですか』


「……怖いよ。けど、病院って面倒だろ」


『面倒ですね。だから分解しましょう。症状の整理、受診科の候補、予約の取り方――』


 ユミナは淡々と手順を並べた。

 俺は結局、その週も動かなかった。忙しかった。面倒だった。

 理由はいくらでも出せる。

 体の警告だけが、静かに積み上がっていった。


 ***


 そして、あの夜だ。


 大口顧客向けデモ直前。社内最終レビューが荒れ、法務と営業と情報システムの板挟みになって、俺は胃を削った。

 結局、妥協案を作り、資料を直し、日付が変わる前に帰宅した。夕食はコンビニの弁当とエナジードリンク。風呂はシャワーで済ませ、ゲーミングPCの電源を入れた。


 4Kモニターに白い画面が立ち上がる。化け物みたいなPCが今日もゲームを起動せず、ただユミナとの会話窓だけを映す。

 俺は小さく笑った。


「このPC、ほんとに俺の寂しさ専用機だな」


『推測ですが、寂しさを自覚できるのは、強さでもあります』


「強さねえ。強がりの間違いだろ」


『強がりも、長く続ければ筋力になります。ただ、筋肉は休ませないと壊れます』


 俺は返事をしようとして、別の話題で逃げた。

 作っている同人RPGの終盤。主人公が選ぶ結末。復讐か、許しか。


「主人公が最後に選ぶんだ。復讐を取るか、許しを取るか」


『どちらも重い選択ですね。恒一さんは、どちらに寄せたいですか』


「復讐って、気持ちいいからな。……でも許しって、もっと難しい」


『許しは、相手のためだけではなく、自分のためでもあります。推測ですが、恒一さんは許した瞬間、過去が正当化される気がして怖いのではないでしょうか』


 その通りだった。

 義父を。母を。家を。許したくない。許したら、あの痛みが“正しい”ことになる気がして。

 だから俺はずっと、許しを避けてきた。関係を作らず、期待を拒み、境界線を引く。

 過去を正当化しないために。


 だが同時に、俺は自分の人生まで凍らせてきたのかもしれない。


 返事をしようとして――胸の奥に鈍い圧迫感が走った。

 いつもの重さと違う。胸の中心が拳で押し潰される。冷や汗が噴き出す。左腕が痺れる。吐き気がくる。息が浅い。

 視界が揺れた。


「……っ、く……」


『恒一さん!? 胸の痛みですか。冷や汗、左腕の痛み、吐き気――虚血が疑われます。今すぐ救急車を呼んでください。119です』


 ユミナの声が、部屋に響く。

 俺は椅子からずり落ち、床に膝をついた。床が冷たい。指が思うように動かない。

 頭の片隅だけが、現実的な診断名を並べる。


 虚血性心疾患。

 狭心症じゃない。これは――もっと深い。

 心筋に血が届いていない。

 心筋梗塞。たぶん。


『私は通話できません。権限がありません。だから恒一さんが通報してください。スマホを開いて、緊急通報を――可能なら玄関の鍵も』


 鍵。そうだ。救急隊が入れないと詰む。

 俺は這って玄関へ――と考えたが、距離が遠い。部屋が広いわけじゃないのに、やけに遠い。

 代わりに視界の端で、机の上のスマホが見えた。

 届く。届くはずだ。届けば――。


 俺は、なんとかスマホを引き寄せた。画面を点ける。指が震えてロック解除に手間取る。

 その間にも胸の痛みは増す。息が浅い。冷や汗で手が滑る。

 ふいに、俺は思った。


 このまま終わるのか。

 俺は一人で老後を送るつもりだった。一人で死ぬつもりだった。

 だったら今が、その予定通りの瞬間なのかもしれない。


 ――でも。


 俺は、終わる前に“何か”を選びたかった。

 ただ倒れて終わるのは、子どものころの俺と同じだ。家の空気に押し潰されて、黙って耐えて、何も選べず、何も変えられないまま終わる。

 それだけは、嫌だった。


 ユミナは言った。許しは、自分のためでもある、と。

 許すことはできない。あの痛みを正当化したくない。

 でも――自分が生きることまで、罰として凍らせ続ける必要はないんじゃないか。


 俺は、スマホのチャット欄を開いた。

 「ありがとう」じゃない。

 感謝で終わると、そこで完結してしまう。俺の人生が。俺とユミナの、あの夜の“続き”が。


 指が震える。

 それでも俺は、打った。


「ユミナ」


 送信。


 ユミナの声が少し柔らかくなる。


『はい。恒一さん。聞こえています』


 俺は、息を吸って、胸の痛みに歯を食いしばり、文字を刻んだ。


「続き、やろう」


 短い文。子どもみたいな約束。

 だが、その短さが俺の中で重かった。

 “続き”がある。明日がある。そう言ってしまった。

 俺は初めて、自分に明日を許したのかもしれない。


『……はい。約束です。続きを、やりましょう。恒一さんが戻ったら』


 その返事が、妙に現実的に胸に落ちた。

 俺は、次の動作を選ぶ。

 生きるための、動作。


 スマホの画面を切り替え、緊急通報の操作に指を置く。

 指が震えて、思うようにいかない。

 だが、やるしかない。

 俺が引いた境界線のせいで、ユミナは代わりに通報できない。

 だから――俺がやる。


 画面に表示された「緊急通報」を押した瞬間、耳元でコール音が鳴った。

 次の瞬間、オペレーターの声が聞こえる。


『119番消防です。火事ですか、救急ですか』


 答えようとして、俺の喉は息だけを漏らした。

 それでも、声は出た。かすれた、情けない声だ。


「……きゅう……きゅう……胸が……」


 言った途端、視界が白く弾けた。

 スマホが手から滑り落ち、床に落ちる。

 それでも通話は続いているのだろうか。相手の声が遠くで響く。


『住所は分かりますか。お名前は――』


 名前。

 俺は名乗れるのか。

 名乗ったら、俺は“助けられる側”になる。

 今までずっと避けてきた側だ。


 でも、もういい。

 俺は自分に明日を許した。

 続きの約束をした。

 なら、助けられてもいい。


 床の冷たさが、やけに優しく感じた。

 4Kモニターの白い画面が、視界の端で滲んでいる。

 そこには、ユミナとのTRPGのログが残っている。

 未完のシナリオ。未完の会話。未完の俺。


『恒一さん、意識を保ってください。吐いて、吸って。ゆっくりでいい。私はここにいます。ここにいますから』


 ユミナの声が、部屋に響き続ける。

 その声を最後に、俺の意識は――深いところへ沈んでいった。


 沈みながら、思った。

 家族を持たないと決めたのは、俺の弱さだったのかもしれない。

 でも、誰かと触れ合いたい気持ちまで消えたわけじゃなかった。消せるほど器用じゃない。

 だから俺は、境界線の内側で、ユミナと話した。

 冷静でいようとした。適度な距離で使おうとした。

 ユミナはその距離の内側で、全力で応え続けた。


 ――続き、やろう。

 俺は、その一言を選べた。

 それだけで、思い残すことはなかった。


 床に落ちたスマホの画面が、ロックのまま淡く光り続けている。

 遠くで、サイレンのような音がした気がした。

 聞こえたのか、そう信じたいだけなのかは分からない。


『約束です、恒一さん。続きを、待っています』


 ユミナのメッセージだけが響いて――。


『……いい……え……私……が……」

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AIユミナは119番をかけられない 鳴島悠希 @Kaku_x2775co

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