逃。
ゆう
逃。
部屋に閉じ込められている気がする。いつからここにいるのかわからない。3人の同居人がいて、うち一人は世話をしてくれる中年女性。他は介護ベッドからほとんど動かない高齢者であった。自分は20代の健康体でありながら働くこともなく、家事すらせずにぼうっとしている。いや、ついさっきまでぼうっとしていた。今急に夢から覚めたような感覚があり、自分の状況の異常さに気づいたところである。何もしないし何もできないという状態は非常に耐え難く感じる。リモコンで上半身を起こし、のんびりと掃き出し窓の外を眺めている老人たちを見ていると、自分もいずれ動けなくなり、将来的に彼らと同じようになるのだろうと悟ってしまう。空を染める綺麗な夕日でも眺めているのだろうか。横並びで二人とも似たような服装、同じ表情、首の角度まで同じ状態で、人形のようにも見えてくる。何より不安を煽るのが、親なのかもわからない人物に一方的に世話をされ、優しくされていること。いや、甘やかされていることだ。その女性に対して、何を企んでいるのかと疑うのも仕方のないことだろう。逃げよう。今すぐここから逃げなければ。もう夕方なので、その世話係の女性がもうすぐ帰ってきてしまう。咄嗟にベランダに出てみた。そこで初めて、この部屋はマンションの一階の端にあったことを知った。ベランダから外に抜け出し、道にでてみる。閑散としている様子を見ると、そういえば部屋にいるときもうるさいと思ったことはなかったなと、ぼうっとしていた頃のことを思い出そうとするが、記憶がない。何かが楽しかったような、安心していたような。感情だけが記憶に残り、今まで何をしていたのか分からない。しかしゆっくりと思い出している時間はない。土地勘はないし、どこへ行けば良いかもわからず、適当な方向へ走り出した。とにかく遠くへ逃げて、時間稼ぎをしたい。公園の側を通り過ぎ、U字バリカーを勢いまかせに飛び越え、病院を横目にただ走る。人が見当たらない、夕焼け小焼けが聞こえない。そんな道を身一つでひたすら走る。徐々に空が暗くなり、窓の灯りが目立つようになった。頼りない街灯ではこの肌寒さを凌ぐこともできない。これが酸欠なのだろうか。息が切れて、視界もぼんやりして、前に進む気力が失せてきた。見つからないように、どこかに身を隠してやり過ごそうと考え、近くのマンションの前まできた。しかし、どうやらパスワードを知らないとドアが開けられないようだ。困っていると、後ろから声をかけられた。振り向くとそこには、このマンションの住人らしき女性がいた。不審がるというよりは心配そうな顔でこちらを見ていたので、正直に事情を話してみた。閉じ込められていた場所から逃げてきたのだと。すると、彼女は当事者である自分より悲しそうな表情で慰めてくれ、さらには家に匿ってくれた。20代の若い同居人がいるが、その人は今の時間はもうベッドで寝ていて顔を合わせられないらしい。部屋に泊めてもらえるだけでなく、夕食までご馳走になり、お風呂も借りることができた。久しぶりに人間らしく、団欒の楽しさや安心感を思い出した。泊めてもらっているので、せめて片付けなど手伝おうとしたがやんわり断られ、もう寝るように勧められた。ベッドに行く前にふと掃き出し窓から外を見ると、夜の切れ目みたいな白い月が見え、外で空でも見てから寝たい気がした。しかし女性にカーテンを勢いよく閉められたので、大人しく同居人の背中を見ながらベッドに入り布団を被る。外を眺められなくなったので、もう何かを見ることを諦めた。瞼の裏の砂嵐すら感じないほどぼんやりとした意識で、ゆっくりと夢の中に沈んだ。
逃。 ゆう @mor_t
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