春雷

@kagerouss

第1話

四月の山はまだ肌寒く、駅前で乗ったタクシーの窓を閉めたとき、耳の奥で軽い耳鳴りがした。

東京にある大手出版社の編集部での仕事を休職して三週間。心療内科の医師に「電波の届かない場所で、何も考えずに寝てください」と言われ、紹介されたのがこの山間の保養所だった。

山芳館(さんほうかん)という保養所。かつては結核患者の療養施設だったらしい。心療内科の医師から渡された紹介状に同封された古めかしいパンフレットにも、戦前からの歴史深い療養所であると書いてあった。

春の雷が多い地域らしく、電磁波の影響が強いともあったが、正直あまり気に留めていなかった。


数時間かけてようやくたどり着き、玄関を開けた瞬間、しんとした空気が流れ込んできた。濡れた木の匂いと、少し古いアルコールの香り。館内は静まり返っていた。


「ようこそお越しくださいました。大野(おおの)覚(さとる)様ですね」


ロビーにいたのは、白髪混じりの支配人・藤堂という男だった。無表情だが丁寧な物腰で、鍵と館内図を手渡してきた。


「お部屋は二階の端です。桜がよく見えますよ」


階段を上り、案内された部屋は意外にも暖かく整えられていた。大きな窓の向こうには、桜の木が一本、斜面に沿って咲き誇っていた。桜の花はこぼれそうなほど満開で、晴れていればさぞ美しいんだろうなとぼんやりと思った。


荷をほどいて一息ついたとき、部屋の電話が鳴った。受話器を取ると、若い女性の声が響いた。


「ご到着お疲れさまでした。部屋の温度は快適ですか?全館空調になっておりますので、何かあればお申し付けくださいね。 それと…今夜、春雷が来るかもしれません……お気を付けください」


名乗りもせずに切られた電話の後、しばらく沈黙が落ちた。俺は色あせた受話器をそっと置き、重い疲労感とともにためいきをついた。こうして気にかけてくれるのはありがたいが、今はそれさえも息苦しくなる。病気のせいだろう。


「夕食まで寝るか…」


俺は荷物もそのままに、畳に座布団を折り曲げて枕にし、横になった。



夕食時、食堂に行くと、フロント係だという高瀬と名札の付いた若い女性が案内してくれた。さっきの電話はこの女性だったのだろう。そして、もうひとり、先客がいた。高齢の女性で、無言のまま食事をとっていたが、目が合うと微笑んだ。


「春は、長く滞在されるの?」


「いえ……一週間ほどです」


「そう。早く良くなるといいわね」


不思議な口調でそう言うと、また黙々と食事を続けた。名札には「村田」とだけ記されていた。自分と同じ病気なのだろうか?どこか定まらない視線をしている気がした。


部屋に戻った頃には、風が強まり、窓を叩く音がし始めていた。横になって目を閉じると、壁の上部にあるスピーカーから、ノイズ混じりのアナウンスが流れてきた。


「……患者番号二〇九。治療の準備を……診察室へ……」


雑音の方が強く、チャンネルの定まらないラジオかなにかが間違って流れたのかと思った。だが、音ははっきりと耳の奥に残っている。奇妙な感覚だった。


夜半、雷鳴で目を覚ました。

窓の外は黒い空が裂けるように光り、直後に、腹の底に響くような雷鳴が轟いた。耳鳴りのような残響が脳の奥にこびりつき、寝返りを打っても離れてくれなかった。


その時、スピーカーから、再びあの声が流れてきた。


「……患者番号二〇九、治療の準備が整いました。診察室へ」


電子音混じりの女の声。寝る前に聞こえたノイズとまったく同じ。


ベッドの上で固まっていたが、音は止まない。何かが始まったような気配だけが、部屋を満たしていた。壁の時計を見ると、午前二時。フロントは当然閉まっているはずだ。


何かおかしい。


ノイズを止めてもらおうとパーカーを羽織り、部屋を出る。館内の明かりは点いていたが、妙に赤みがかって見えた。

足音だけが廊下に響き、誰にも会わないまま一階まで降りる。フロントのカウンターには誰もいなかった。壁際の「職員専用通路」へ目が向いたのは、ほとんど本能だった。


その奥、無造作に開いていた扉のプレートには「放送室」と書かれていた。

入ると、古い機材とマイクが並んだ小部屋。蛍光灯はちらついていて、空気がひどく乾いていた。ほこりと電気の独特な匂いが鼻を突く。


操作卓の上に、ノートが一冊。開かれたままのページに目を落とすと、手書きの名簿が記されていた。


209 大野覚


自分の名前。数字の横に赤いインクで二重線が引かれている。背筋がすっと冷たくなる。なぜ俺の名前が?あの部屋には番号なんてなかったのに…


その瞬間、背後で物音がした。振り返ると、薄く笑みを浮かべた支配人の藤堂が立っていた。


 

「深夜の徘徊は、お体によくありませんよ。それに、ここは関係者以外立ち入りは…」


「……この放送、何なんですか?それに、209って…俺の名前も……どうして……」


 藤堂は一歩、足を踏み出して言った。


「春雷は電子機器に影響を与えます。古い配線が反応してしまったのでしょう。失礼しました」


その微笑みは、昨日よりもほんの少しだけ深く見えた。


わけがわからない。とりあえず戻ろうと踵を返すと、廊下の奥に誰かの姿があった。

若い女性。フロント係の高瀬だった。


「……大野さん、起きていたんですね」


彼女は静かに言った。


「よければ、診察室へ。お連れします」


足元が動いた。恐怖よりも編集者としての好奇心が出てしまったのだ。


高瀬の背中を追いながら、廊下を進んだ。

静まり返った館内に、足音だけが響く。診察室は一階奥の、小さな部屋だった。高瀬がノブに手をかけたとき、不意に振り返った。


その顔が、ほんの一瞬――まったく別人に見えた。


頬がこけ、口元に深い皺があり、目が、目だけが異様に黒かった。まるで仮面が剥がれかけたように。だがそれはほんの一瞬の錯覚で、すぐに彼女の元の顔に戻っていた。


「……どうかしました?」


彼女の声は変わらず穏やかだった。


「いや……なんでもないです」


扉の向こうは、どこか病院めいた空間だった。白い壁と診察台、棚にはファイルが並んでいる。空気が冷たく、かすかに消毒液と金属の匂いがした。


部屋の奥に設置されたモニターは電源が入っているのに、画面は真っ黒だった。奇妙なノイズだけが鳴っている。


「お待ちください」と言い残して高瀬が出ていき、俺はひとり取り残された。


手持ち無沙汰に棚のファイルの背表紙を見ていると、そのひとつに自分の名前があった。


“大野 覚 209”


思わず手を伸ばし、引き出しを開ける。中には数枚の紙。カルテだった。


〈入院記録:209号〉

〈患者名:大野 覚(35)〉

〈診断:うつ傾向/幻覚性/記憶固定化/雷季反応性妄想〉

〈経過:春季電磁療法、定期実施中〉


眩暈がした。聞いたこともない病名がつらつらと並んでいる。俺はうつ傾向という病名だけで紹介状を持ってきたはずなのに。


誰かがノックもせずに扉を開けた。

そこに立っていたのは、村田だった。

夕食をともにした、あの老婦人。


「……ねぇ、思い出してきた?」


彼女の声は静かで、やさしい音色だった。


「あなた、前にもいたのよ。何度も春を繰り返してる。けれど今年は、ずいぶん遅かったわね」


僕の喉は、声にならなかった。

高瀬の足音が、廊下の向こうから近づいてきた。


「大野さん?」


僕は診察室に留まる気になれなかった。高瀬の問いかけを振り切るように廊下を走り抜け、非常階段を下った。鉄の手すりはひどく冷たく、息を切らしながら地下へ降りる。とにかく彼らから逃げたかった。


ようやくたどり着いた地下室。そこには、時間が止まったような空間が広がっていた。

古い診察台。変色した白衣。壁に沿って並んだファイル棚。低い蛍光灯の明かりがぼんやり揺れている。


足元に残る黒ずんだ輪染みの上に、なぜか雷の焼け跡を思い出した。


壁沿いにある机に近寄ると、机の上には一つのファイルが置いてあった。何気なく開けると、再び自分の名前があった。


“大野覚 患者番号209”


中には十数枚の紙が挟まれていた。端は古び、何度も触れられた痕がある。


〈入院記録:2005年4月〉

〈診断:幻覚性分裂症/雷季妄想傾向強〉

〈対応:春季電磁療法/記憶制御型現実誘導訓練〉

〈補足:社会適応型妄想への沈静誘導、一定の成果あり〉


思わず読み返す。妄想? 誘導? それに2005年なんて…

ページの最後に、こう書かれていた。


>「本人の妄想内における“編集者としての生活”は安定的。幻覚中における自律行動が確認されるも、現実判別能力は著しく低下。外部刺激による覚醒を定期的に行う必要あり」


ぞっとした。

編集部の仕事も、上司との衝突も、休職の話も――全部“妄想”だったと?


「思い出してきたようですね」


背後から声がした。支配人――いや、白衣を着た、医師の藤堂だった。


「あなたは2005年から、ここで治療を受けています。春が来るたびに、幻覚が深くなり、記憶は都合の良い物語に置き換わっていく」


「嘘だ……ここに来るのは初めてだ!出版社での休職だって初めてで…」


「その記憶も記録も、すべてあなたの頭の中の構築物です。あなたは春雷をきっかけに覚醒する傾向がある。そのため春になると、我々は“現実刺激”を強めて治療するのです」


彼が指を鳴らすと、奥の扉が自動で開き、電気ショック治療装置が現れた。

コードの先にある銀の板が、湿布のようなパッドの上に置かれている。


「やめろ……やめてくれ……!」


声が震え、足が動かない。どこにも逃げ場がない。


そのとき、高瀬が現れた。

だが彼女はもう、フロント係ではなかった。白衣を着て、看護師の名札をつけていた。


「大野さん。今度こそ、ちゃんと戻れるように頑張りましょうね」


彼女の声はやさしかった。だが、それが一番怖かった。

機械の唸りとともに、視界が白く弾けた。


目を開けると、白い天井があった。

薄いカーテン越しの光は静かで、蛍光灯のように刺すこともなかった。全身がだるく、喉の奥が渇いていた。そこは――病室だった。


「お目覚めですね、大野さん」


見知らぬ医師が立っていた。優しげな眼鏡の奥で目が笑っていない。


「……ここは」


声がかすれていた。


「東京中央病院の精神科です。あなたは春の初めに倒れて、こちらに運ばれました。過労と幻覚が重なったようですね」


春? 倒れた?

山芳館は? 藤堂は? 高瀬は……?


「すみません、俺は……山の施設にいたはずで。山芳館という名前の……」


医師は首をかしげた。


「山芳館、ですか? そんな施設は聞いたことがありません。おそらく、それも幻覚の一部かと」


穏やかに、しかし確信をもって言い切られた。


混乱する思考の中で、どこかで納得しかけている自分がいた。

春雷、桜、診察室、カルテ……すべてがつながっていたように見えて、よく思い出すと“曖昧な映像”ばかりだった気もする。


看護師が現れた。花柄のエプロンに、落ち着いた声。

彼女が顔を上げたとき、息が詰まった。


高瀬だった。間違いない。山芳館にいた、あの女性。


「ご気分はどうですか?」


彼女は笑った。ごく普通の病院の看護師のように。


「……あなた……」

「はい?」

「……いえ、なんでもないです」


言えなかった。言葉がのどに貼りついて出てこなかった。

彼女は笑みを浮かべたまま、ベッドサイドの水差しを整え、退出していった。


残されたのは、枕元に置かれた一枚の紙。誰が置いたのかはわからない。

白紙に、細い文字でこう書かれていた。


> 「春の患者・大野覚 次回治療予定:2026年4月」


紙を握る手がじっとりと汗ばむ。

窓の外では、桜が風に揺れていた。遠くで、雷のような音がかすかに聞こえた。

春が過ぎ、夏が来ても、あの紙切れのことが忘れられなかった。

「春の患者・大野覚 次回治療予定:2026年4月」


看護師も医師も、そんな紙は見ていないという。誰かのいたずらにしては、筆跡が妙に整っていて、何より、僕の中のどこかがそれを“事実”として受け入れていた。


秋の終わり、退院の許可が下りた。もう幻覚も耳鳴りもない。ただ、ときどき夢を見る。桜が咲く斜面。微笑む老婦人。白衣の支配人。風に揺れるスピーカー。


夢の中のすべてが作り物だとわかっていても、それでも、どこか懐かしさがあった。


年が明け、春がまた近づいてきた頃、担当医が異動になると言った。


「もう大丈夫ですよ、大野さん。春が怖くなければ、もう幻覚に引きずられることもないでしょう」


そう言って去っていったその背に、なぜか“あの支配人”の面影を感じた。


春分の日、僕はふらりと長野の山奥へ向かった。無意識に検索した“保養所 桜 雷”という単語で、たった一件だけヒットした古いページの写真が、見覚えのある桜と建物を映していた。


山芳館――とは書かれていなかった。ただの「旧療養施設跡地」とだけ。


電車とバスを乗り継ぎ、最後は登山道のような細い道を歩いた。

道中で話しかけた地元の老人は、「そんな建物はとっくに取り壊された」と言ったが、僕の足は止まらなかった。


斜面を登り切った先に、それはあった。

確かに、そこにあった。山芳館。瓦屋根、古びた玄関、風に散る桜の花びら。あの時と寸分違わぬ姿で。


建物の前には、あの人が立っていた。

支配人――藤堂が、白い手袋をつけ、僕を待っていたかのように。


「ようこそ、春の患者さん」


声は、あのときと同じだった。静かで、どこかで聞いたような響き。


言葉が出なかった。

気づけば、高瀬もいた。薄桃色のワンピース姿で、建物の奥からこちらへ歩いてくる。


「お帰りなさい、大野さん。今年は、早かったですね」


いや、幻覚だ。これはすべて、また幻覚に違いない。

そう思いながら、どうして僕の足は止まらない? なぜ息が乱れず、胸が妙にすうっとする?


玄関のドアを藤堂が開けると、スピーカーから微かなノイズが聞こえた。

「……患者番号二〇九。治療の準備が整いました」


風が吹いた。桜の花びらが、僕の肩に落ちた。その感触が、あまりにも現実だった。


「治療を始めましょうか、大野さん」


高瀬の声が背後から響く。


頷いたのは、僕ではなかったかもしれない。

けれど、次の瞬間、僕は館の中へと足を踏み入れていた。


その瞬間、雷が鳴った。空は晴れていたのに。


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