二話

 腹や背中の辺りに妙な圧迫感を覚えて、俺の意識はぼんやりと戻った。ゆっくり目を開けると、目の前には落ち葉の散らばる土の地面があって、視界は動いてる。……動いてる? 何でだ? 俺は手足を動かしてないぞ。歩いてもないのにどうして移動を――


 フガという音と暖かい空気を身体に感じて、俺はそろりと横を向いた。見えたのは銀色の毛並み。ドス、ドスと低い音がするたびにそれは光を反射して綺麗に輝いて動く。この珍しい毛色って、まさか――意識と共に記憶も戻り始めた俺は、自分が置かれたこの状況を信じられない気持ちで受け止めるしかなかった。全身から冷や汗が流れてる。坂道を駆け上ったかのように心臓が早鐘を打つ。落ち付け、と言い聞かせるのも難しい。と、とにかく、今は動いちゃ駄目だ。暴れて逃げようとすれば、この上半身と下半身は一瞬で離れるかもしれないんだから。視線を地面に戻して、俺は冷静に努めながら、こうなってる経緯を思い返す。


 この森に入ったのは今朝早く、それからずっと木陰に陣取って目的の獲物が現れるのを待ってた。だけど今日も現れなくて、少しうたた寝しちまって、どれぐらい寝てたかわからない。起きたのはガサッて音が近くでしたからだ。すぐに目を覚ましたら、それはもう姿形がわかる距離にたたずんでた。目が合ったのもわかって、俺は息を呑んで弓矢に手を伸ばした。でもその瞬間、向こうも動き出して、一直線にこっちへ駆けて来た。遠くはなかったけど、それでもある程度の距離は開いてると思ってた。だけど向こうはあっという間に近付いた。俺が弓矢を構える前に、銀色の大きな塊が視界を埋め尽くした。そして強烈な衝撃……焦り過ぎて見えなかったが、多分パンチだかキックだかを食らったんだろう。全身が弾き飛ばされて、俺は木に叩き付けられたんだと思う。今も後頭部とか背中、足裏なんかに痛みを感じてるのが証拠だ。記憶はそこで途切れてる。


 そこからのこの状況……俺が狩りたかったこいつは、逆に俺を狩って、うつ伏せの姿勢の俺を口にくわえて歩いてる。狩人が獲物に狩られるなんて、名折れもいいところだ。こんな姿、誰かに見られたら恥さらしでしかない。でもこうしてまだ生きてることは、俺の運が完全に尽きてないとも言える。こいつは人間を食べると言われてて、過去には何人もこの森で行方不明になっており、それはこいつの仕業だと長年言われ続けてる。その全員が全員こいつの餌食になったとは思わないが、でも何人かは食われてると俺も思ってる。人間の俺をこうしてくわえて運んでるんだ。人間を食料と見てるはずだ。だけど俺はまだ生きてる。狩られながら、わずかな運が希望を残してくれてる。どうして狩ったその場で食べないのか知らないが、これは生き残れる可能性があるっていう最後の希望でもある。まあ、かなり頼りない希望ではあるんだけど……そうだとしても、俺はそれにすがりたいし、こいつの腹には収まりたくない。


 気分を害さないよう、無抵抗のまま俺の身体はブラブラ揺られてどこかへ運ばれて行く。どこか、と言っても獣の行動ぐらい狩人なら予想はできる。外敵のいない安全な場所か、子持ちなら子供の待つ場所だろう。つまりこいつの巣だ。どんな巣かわからないし、子供がいるかもわからない。できればいてほしくない。手足を四方から引きちぎられる死に方なんて、まるで拷問だ。こいつの生態は何にもわからないから、今は慎重に観察するしかない――そう。俺はこの獣を今日、初めて見たんだ。


 存在は昔から知ってたけど、でも本当にいるのかいないのか定かじゃない存在だった。幻の獣ナフォカ――広くはそう呼ばれてるらしいが、俺の住むコルミナ村では、こいつを山の主とか、山の悪魔、獣の王とかいろんな呼び名を付けてた。それだけ不気味で怖い存在だったんだろう。姿がほとんど目撃されてなかったことも、そう感じる理由の一つに違いない。人は自分の目で見れないことに対して恐怖心を抱くものだ。でもまったく目撃されてなかったわけじゃない。山に入った村人が遠くでうごめく巨体を見たっていう話はいくつかあって、それは最近になってまた耳にするようになった。俺が聞いた話だと、早朝の時間帯、岩のような大きな獣が一頭、餌でも探してたのか森の中をうろうろ歩き回ってたらしい。遠くから観察した限りじゃ、体格や歩き方は熊のようで、頭は狼や犬に近いそうだ。でもそこで一番目を引いたことは、歩くたびに光が波打つ銀色の体毛だったと言う。野生でありながらツヤツヤに輝いてて、遠目からでもその美しさがわかったそうだ。あれを売れば一夜にして金持ちになれるぞ、なんて話に、聞いてた男達は笑い飛ばしてその場は終わった。でも俺は……今にして思えば馬鹿だってわかるけど、その話を真に受けちまったんだ。勘違いはしないでほしい。俺は別に金に目がくらんで狩りに来たわけじゃない。金はあくまで手段であって目的じゃない。俺には金が必要なことがあったんだ。


 二年ぐらい前から付き合ってる恋人がいる。同じ村に住んで、小さい頃から遊ぶ仲で、いわゆる幼馴染みってやつだ。俺が思春期の頃、彼女――アリーンのことが好きだと気付いたけど、これまで友達として接してた壁はなかなか壊せなくて、数年気持ちを隠して過ごしてた。でも大人になって、仕事にも慣れて自信が付き始めた二年前、思い切って告白した。これにアリーンは待ってたと喜んで、俺達は恋人同士になれた。お互いの親も公認で、行く行くは結婚も考えてる。だがそこまで行くにはまだ懐が心許ない状況だ。死んだ父さんの職を継いで狩人として働いてるけど、その技や知識をすべて教えてもらう前に亡くなったから、俺は狩人としては半分見習いみたいなもんだ。同業の先輩に教わったり、自分なりに学んで、どうにか仕事として成り立つぐらいには上達したけど、獲物からの収入はまだ安定してない。野生を相手にした仕事なんだ。そもそも安定しにくいものだとは思うが、それでも父さんは俺達家族にひもじい思いはさせなかった。変わって俺はと言えば、料理をしてくれる母さんに節約を頼むのが日常だ。いい獲物が捕れなきゃ、それが毎日になる。こんな状況でアリーンを花嫁として迎えることはできない。だから俺は狩りの腕を上げるため日々努力し、自分の食費を削って結婚資金を貯めてた。


 そんな時に聞いたのが、山で見たっていう幻の獣の話だった。そんなに綺麗な毛皮なら、本当に金持ちになれるぐらいの金が手に入るかもしれない――金に苦労してる人間ってのは、こういう時、自分にとっていいことしか想像できなくなるものなんだろう。俺が狩れば、結婚資金はあっという間に貯まって、予定より早くアリーンと一緒になれる。しかも幻の獣を捕ったとなれば、村の英雄になって狩人としての名声も上がって、仕事も次々に舞い込んでくる――そんな考えを持ってほくそ笑んでた数週間前の自分が、今はただただ情けなく思う。甘い考えを持った結果が今のこの状況というわけだ。


 自分の手足がブラブラ揺れるのを眺めながら、俺は森の中を運ばれて行く――向かってるのがこいつの巣なら……いや、どこであったって、その先には俺が食われる運命しか待ってないだろう。まだ生きてることに希望は残ってても、じゃあどうするかって考えると、まだいい案なんて思い付いてない。何せ相手は巨大な獣だ。こっちが妙な動きを見せたら、容赦なく爪が飛んで来そうだ。人間は獲物としか見てないだろうからな。動物は食べ物に執着する生き物だ。特にこういう大型の動物はそういう傾向にある。餌が逃げ出そうものなら、地の果てまで探す執念で追って来るだろう。隙を見つけて逃げるにしても、その時はかなり気を付けないといけない。せっかく逃げたのに追われてガブリ、なんて笑えもしない。


 俺が意識を取り戻してから、かれこれ十分ぐらい移動してるだろうか。こいつの鼻息と口の中の体温で寒さは感じないけど、牙が若干腹と背に食い込んできて痛い。弾き飛ばされた時の全身の痛みも相まって、何だか地味に苦しい。できたら早く下ろしてほしい。でも下ろされた時は、俺はこいつに食べられる時……どっちも地獄だな。だがその地獄からどうにか抜け出さないと……。


 あるところまで来ると、獣の足取りが緩く変わったのに気付いた。静かに頭を動かして辺りの様子をうかがう。周りは相変わらず森の景色だったけど、今いる場所は少し開けてて、その中央にはたくさんの葉や雑草が重なり、押し潰されたような跡があった。その周囲を確認するかのように歩き回った獣は雑草が重なった場所に近付くと、姿勢を低くしてそこに俺を下ろした。ここが、どうやらこいつの巣らしい。ついに到着してしまった――この後の自分を想像すると、ものすごい恐怖が身体を押さえ付けた。うつ伏せで固まった俺はなかなか動けず、目だけをギョロギョロ泳がせる。その目が巣に転がる折れた白骨をとらえて、まるで自分の成れの果てを予告されてるみたいに思えた。……まだ、ああはなりたくない。それなら逃げるんだ。隙を見つけて、こいつに追われないように、そっと――俺は針金でも入ってるような身体を強引に動かす。次の瞬間には死ぬかもしれない怖さをなだめすかしながら、少しずつ、少しずつ動いて横にいる獣を仰ぎ見た。


「……!」


 野生の眼光に射抜かれて、俺はたちまち動けなくなった。でかい……顔だけでこんなにでかいとは。俺の身体半分ぐらいの大きさはある。その突き出た口元からは尖った杭のような牙がのぞいてる。あれが腹や背中に食い込んでたと思うと、貫かれなかったことが奇跡のようにも思えた。俺はギリギリの、死の間際にいる――改めてそう痛感した。


 襲われた時は姿をじっくり観察する暇もなかったけど、今はこんな間近で見ることができてる。いや、見させられてる。恐怖が麻酔のように全身に回って顔を戻すこともできない。でも俺の中の本能はまだ動くなと指示をしてくる。動けば食われると。幻の獣の姿を脳裏に焼き付くほど見つめる。俺は、どうすればいい……。


 その時、獣の顔がおもむろにこっちへ近付いた。く、食われるっ――俺は声にならない悲鳴を上げて、反射的に身をのけぞらせた。逃げろ! 逃げないと! 恐怖で頭を支配された俺は本能の指示も無視して立ち上がろうとした。こいつの餌になって死ぬなんてごめんだ――そんな感情に押されて逃げ出そうとしたが、直後、大きな痛みが走って俺はその場にへたり込んだ。……な、何だ、この痛みは? 足を動かしたら感じた気がするが……。


「……くっ」


 両足に手を這わせて原因を探ってると、一箇所で強い痛みがあった。右足のすね部分、ズボンの裾をそっとまくってみると、そこは一目でわかるぐらいに腫れてた。最悪だ……これは確実に折れてる。こいつに弾き飛ばされた時か。腕ならまだしも、足となると、走って逃げるのはかなり困難になる。さすがに俺の運も尽きたか……。


 そろりと顔を向けて獣の様子をうかがう。さっきはこっちに近付こうとしてたけど、俺が動いたのに驚いたのか、動きを止めてる。でも目はしっかり獲物をとらえ続けてる。その下の口はベロリと舌舐めずりして、もう食べたくて待ち切れなさそうにしてる。俺の人生はここで終わる。アリーンにも母さんにも、何も残してやれずに、こいつの血肉にされて消えるようだ。もうあがいてもしょうがない。馬鹿な自分が招いた運命で、自業自得なんだ。すべて受け入れるしかない。恐怖も、後悔も、苦痛も……できれば一噛みで死なせてもらいたいけど、こんな獣じゃ無理な願いか。そこだけは覚悟しておくか――俺は深く息を吸って吐き、獣を見据えた。そんな俺の覚悟を察したかのように、獣は再び近付いて来ると、鋭い牙の並ぶ口をあんぐりと開けた。途端に生臭い息が降りかかる。生きたままの丸のみだけはやめてくれと祈りながら、俺は身を縮めてギュッと両目を閉じた。


 獣は胴体に噛み付いた。真っ二つに噛みちぎられるパターン……想像を絶する痛みに俺は身構える。が、なぜか待ってもそんな痛みはやって来ない。それどころかフワリと身体が持ち上げられる感覚があって、この違和感に俺はすぐに気付く。……これって、また運ばれてるのか?


 ゆっくり目を開ければ、ブラブラと揺れる自分の両手と、落ち葉と雑草に覆われた動く地面が目の前にあった。どういうわけか、俺はまだ生きてる。この状況、どう受け止めればいいんだろうか。こいつ、実は人間を食べないのか? いやでも、食べないのに巣まで運ぶ理由なんてないはずだ。俺は食料として認識されてるはず……じゃあなぜ食べようとしないんだ? こいつの生態は謎だが、他の動物だとどう考えられるだろうか……。


 そんな思考を始めようとした矢先、視界がフッと暗くなり、陽光がさえぎられた。俺はすぐに辺りへ目をやった。視線を上げた目の前には地面を削っただけのような土の壁……何だか、空気が淀んでるような気がする。ここは、洞窟か?


 すると獣は洞窟の最奥まで来ると、そこに俺を下ろした。手を付いた地面が湿ってて、思わず壁に身を寄せた。次に獣へ目を向ければ、外からの逆光で輪郭を浮かび上がらせながら、こっちを見つめる獣はまた舌舐めずりする。……やっぱり、食べる気満々じゃないか! わざわざ移動させて、わずかな希望を持たせてから食べるなんて、俺という命をどれだけもてあそびたいんだよ! 今度こそ、本当に終わりだ。こんな穴の中じゃ逃げようもない。死ぬ覚悟はもう数分前に済ませてる。頼む。一思いに、食べるなら一気にガブリとやってくれ――壁にすがりながら、それ以上身動きできない俺は、苦痛の少ない死を祈り続けた。


 獣が動く。その瞬間に俺は両目を強く瞑る。どこから噛み付かれるのか、その恐怖に身体が固まる。だが獣の気配はまったく近付いて来ない。それどころか離れて行ってるような――勇気を出し、俺は恐る恐る目を開けてみる。そこに見えた光景に拍子抜けした。


 獣は洞窟を出て行くところだった。のそのそと外へ出ると、振り返り、一度俺のほうへ視線を向けた。……食べるんじゃなかったのか? と疑問に思ったが、その獣が口に何かをくわえてるのに気付いた。赤黒い大きな塊……肉、のようにも見える。だとしたら、今日は俺じゃなくて、くわえてる肉のほうを食べることにしたってわけだろうか。あの肉、ここに置いてあったのか? となると、この洞窟はあいつにとっては食料庫ってことになりそうだ。つまり俺は備蓄の食料……そう考えれば食べられなかったことも頷ける。呆然と眺める俺にさほど意識も向けず、獣は入り口脇にあった大きな石に前足をかけると、それを器用に動かして洞窟の穴を塞いでしまった。光が一気にさえぎられて洞窟内は闇に包まれる。でもまったく視界がきかないわけじゃない。入り口は塞がれても、石はぴったり塞いではないから、洞窟と接する部分に大小の隙間ができてて、そこから差し込む光のおかげで完全な暗闇にならずに済んでた。それでもまあ、薄暗くて見えづらいことには違いないけど。


 食べられなかったことに安堵する間もなく、俺は痛む足を引きずって石の作った隙間に顔を寄せると、そこから獣の姿を探した。……いた。身体を揺らしながら小さくなって行く銀色の後ろ姿が見えた。やがてそれは森の中へ消えて行った。それを見届けて俺はその場に座り込む。


「……まったく、運がいいんだか、悪いんだか……」


 食べられずに済んでるのは運がいいんだろう。でも狩られて、こんなところに運ばれてる時点で、すでに運が悪いとも言える。それにしても、幻の獣が食料を取っておく知恵のあるやつだとはな。ここの入り口を石で塞いで隠すほどだ。他の動物より、もしかしたら賢い生き物なのかもしれない。だが、いくら賢いって言ったって、人間の俺には及ばない。何せ人間は道具を使い、作り出せもするんだから――俺は再び石の作った隙間に寄ると、そこに指を伸ばして土の壁をこすってみた。塞いでる石はさすがにびくともしないから、活路を見い出すなら洞窟の壁のほうだろう。これが本当に、逃げられる最後の機会かもしれないんだ。こんなところ、さっさと抜け出してやる。


 指が三本ほど入る隙間をこすって、壁の硬さを確認してみる。パラパラと土が崩れる箇所もあるけど、大半は石混じりの硬い土のようだった。これを指で削るのはさすがに無理だ。何か削るための道具があればいいんだけど、持って来た狩猟道具は手元にはないし、代わりに使えそうな物も身に着けてない。どうしたものか……。


 俺は足下を見回して、とりあえず落ちてた木の枝を拾った。今はこんなものしか道具にならない。その先端を隙間に差し込み、土の壁をゴリゴリ削ってみる。少し土がえぐれたが、次の瞬間、パキッと枝は折れてしまった。こんな枯れ枝じゃやっぱり無理か。もっと強度のある物じゃないと、ここの土壁を削ることはできそうにない。


 俺は暗い洞窟内を見回した。あるのは土の壁に天井、そして湿った地面。そこにしなびた葉が散らばってるだけで道具になりそうな物はない。食料庫という割に備蓄の食料も見当たらない。いや、食料は俺自身なのか……。じゃあ、次に入り口の石が動いた時が、俺があいつに食べられる時ってことか……絶望過ぎて溜息も出ない。恐怖に怯えて待たされるぐらいなら、狩られた直後に食べてほしかった。こんなの生き地獄だ。


 足を引きずって入り口から離れた俺は、一番奥まで行って腰を下ろした。その時、尻の辺りに硬い感触を感じて手で探ってみる。


「……あ、こんなの、持って来てたな」


 ズボンのポケットから引き出した小さな革袋。その中の小瓶を取り出して見つめる。割れずによく無事だったもんだ。貼られたラベルには「狩猟用毒」と俺の字で書かれてる――普段はあんまり使わない物だから、持って来てたのをすっかり忘れてた。これを使うのは畑や村の住人に害を及ぼす、いわゆる害獣駆除の時で、その中でも手強いやつにしか使わない。普段の狩りで使うと毒が獣の皮や肉の質を落とすから、俺はできるだけ使わないように心がけてたんだけど、今回は幻の獣ナフォカが標的だった。手強い相手だと始めからわかってたから、積極的に使う気はなくても、念のためっていう意識で一応ポケットに突っ込んできた物だ。


 毒性植物から抽出した毒を油と混ぜて矢じりに塗る。これに射られた獣は身体を痺れさせて、やがて窒息死する。小型の動物ならすぐそうなるだろう。大型でも十分も経てば痺れて動けなくなるはずだ。俺は小瓶を手のひらでもてあそびながら考える。もしこれをあいつに使うことができたら、果たして仕留められるだろうか。あいつは大型より大きい、超大型の獣だ。毒の量を増やしたとしても、効き始めるには十分以上必要なのは確実だろう。そうなると、どうにか体内に毒を入れたとしても効くまでの時間、俺はあいつの攻撃から逃げ続けなきゃならない……そんなの無理だろう。そもそもこんな状況であいつに毒を仕込むこと自体難しい。食べられる寸前に毒を口に放り込むのか? たとえ成功したって、その時俺は死んでる可能性が高い。それじゃ意味がない。あいつに毒が効く確証もないし……。


 壁に背を預けて、暗い天井を眺める。ぼーっと見てると、頭には次々に嫌な想像が流れてくる。俺の身体を爪が引き裂く……俺の腹を巨大な足が押し潰す……俺の頭を大きな口が噛み砕く。残るのは真っ赤な血だまりの中の肉片と骨だけ――最悪な死に様だ。尊厳もへったくれもない。俺はただの食料として死んでいくのか。耐え難い苦痛に悲鳴を上げながら。そんなのは嫌だ。むさぼり食われながら死ぬなんて絶対に……!


 握り込んだ小瓶を見つめてると、そよ風のように何気なく、ある考えがよぎった。どうせ苦しんで死ぬのなら、より短い苦しみのほうがいい――


「……あいつじゃなく、俺が、これを飲めば……」


 自分で考え付きながら、鼓動は速くなってた。自ら命を絶つなんて、ひどい考えだという自覚はある。だけどあいつに食べ殺されるよりはましに思えてならない。閉じ込められた状況で逃げられる望みも薄いんだ。いっそこれで楽になれば、それ以上の苦痛を感じることもなくなる――俺は震える手で小瓶の蓋に指をかけた。でもそこで動かなくなった。


「死にたくないよ……」


 手の中の毒を見つめながら、思わず本音がこぼれた。脳裏をよぎるのはアリーンや母さんの笑顔、そして亡き父さんが俺に託した力強い眼差し――俺という息子がいたから父さんは安心してあの世へ行けたんだ。狩人という職を継いで母さんを助け、力になってくれと。なのにそれを無視して死を選ぶなんて、やっぱり俺にはできない。アリーンにも、愛を誓っておきながらそれに応えず死ぬのは無責任な行為だ。きっと彼女も人生を共にすることを期待してくれてるはずだ。その思いを裏切る真似はしたくない。何より、アリーンが与えてくれる愛と温もりを、こんな最悪な方法で失いたくない。俺は、まだ生きたい……でももう、視界のどこにも希望が見えない。ここから生きて村へ戻れる可能性は、限りなく低いだろう。それならさっさと楽になるべきだ。そう思うと、心がそれを引っ張り戻す。まだできることがあるんじゃないか? 怪我をしてても動けるんだから、逃げる道を見つけるんだ――俺は頭を抱えてうつむく。諦めて死ぬか、最後まで脱出を模索するか、その二つの間を俺はさまよい続ける。ひどい死に方はしたくない。だけど毒をあおって死ぬのにも抵抗がある。俺の最後の時まで、刻々と時間は迫ってるだろう。でもどうしても答えが決められなかった。果たしてどっちが最善の選択なのか――自ら作った出口の見つからない迷路を、一体どれだけウロウロしてたのか。隙間から差し込む光が消えたことにも気付かず、うつむいて考え込んでた俺の耳に、ズズッと重い音が届いて、俺は反射的に顔を上げた。


「……っ!」


 悲鳴は声にならず、俺は息を呑んだ。入り口を塞ぐ石が少しずらされて、その隙間から大きな黒い影がのぞき込んでた。金色に光る二つの目だけが、爛々とこっちを見つめてくる――あいつが来た! とうとう俺を食べに来てしまった! 時間切れだ。もう終わりだ。俺は餌になることが決まった。地獄の痛みを感じながら殺されて――いや、一方的に食べられはしない。一か八か試すんだ。あいつがかぶり付こうと口を開けた瞬間に、この毒を放り込んでやるんだ。俺は助からないだろうけど、これだけの量の毒を一気に飲めば、向こうだって助からないだろう。ちゃんと効けばの場合だが。だからその瞬間までは毒の小瓶の存在を悟られちゃ駄目だ――俺は手に持つ小瓶を素早く背中の後ろへ隠した。その動きは獣に見られたけど、何か隠したなんてわかるわけないんだ。俺は全身を小刻みに震えさせながら、獣が食べに来るその時を身構えて待った。


 獣が動いた、と思ったら、入り口の隙間から身を引いて下がって行った。……え? 食べずに戻るのか? と見てたら、石を押して元通りに入り口を塞いでしまった。その向こう側から聞こえる落ち葉を踏み締める足音がどんどん遠ざかって行く。やがてそれは聞こえなくなって、俺の周囲には真っ暗な静寂だけが残った。


 茫然自失になった俺は、しばらく動けなかった。刺し違えるつもりでいたから、その緊張が解けると、途端に全身から力が抜けて壁にもたれた。こうなったことが信じられない心地なのと同時に、何で食べなかったのかという疑問が湧く。単に腹が減ってなかっただけかもしれないけど、それじゃあどうしてここをのぞいたのか。ちゃんといるか確認しただけ? 獣も食料庫の管理なんてするんだろうか。まあ、食料を隠したからには見に来ることぐらいはするだろうけども。とにかく、また命が助かってしまった。入り口の石が次に動いたその時こそが、本当に本当の最後になるんだろう……。


 俺は手の中の小瓶を見つめる。あいつが次に現れるまで、多分数時間ぐらいはあるだろう。それまでの間にどうするか、じっくり、自分の心に問いながら答えを決めるしかない。

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狩りのあとさき 柏木椎菜 @shiina_kswg

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