狩りのあとさき
柏木椎菜
一話
ワタシは上機嫌だった。まさかこんな獲物を捕れるなんて、今日はツイてるのかもしれない。お目にかかるのはいつぶりだったか。自分で捕るのはこれが初めてだから……はっきり憶えてないけど、かなり昔のことには違いない。だってその時はワタシ、まだちっちゃい子供だったから。
歩き慣れた木々の間をズンズン進んで、ようやく寝床に着いてホッとする。横取りするようなやつが現れなくてよかった。コレはとにかく美味しいから、そういうやつに見つかったら面倒だなって思ってたけど、何事もなく戻れて一安心した。ワタシはとりあえず、くわえてた獲物を地面に下ろす。
コレを食べたのは子供の頃……その時に初めて見て、食べたんだ。捕って来たのはお母さんで、得体の知れない生き物に怖がってたワタシに、少し食べてみなさいって言われて、恐る恐る口にしてみたんだ。そうして食べた味に子供ながら驚いたことは今も鮮明に憶えてる。今まで食べた獲物とはまるで違う美味しさに、ワタシはその後夢中で頬張った。柔らかくて、とろけるような感じもあって、ただちょっと臭かったけど、そんなことも忘れるぐらい肉は美味しくてワタシを満足させてくれた。次はいつ食べられるんだろうって毎日楽しみにしてたけど、それからお母さんが捕って来ることはなかった。子供のワタシはまた食べたいってせがんだけど、お母さんは大きくなったら自分で捕りに行きなさいって言うだけだった。その時は意地悪だなって思ったけど、独り立ちして、自分で食べ物を探すようになってから、お母さんがそう言った理由が何となくわかった。コレはワタシの寝床の近くにはあんまり現れなくて、探そうとすれば山を下って森を出ないといけない。森の外はコレの縄張りで、気軽に出歩くのは危険だ。しかも見つかれば攻撃してくる凶暴さもある。肉の美味しさに引かれて群れに突っ込めば、大怪我や、最悪命を奪われかねない獲物だ。だからお母さんも、そう何度も狩ることができなかったんだと思う。小さいワタシを残して死ぬわけにはいかないから。
そんな思い出の味を今、ワタシは自分の力で手に入れたんだ……その達成感に気分がまた高まってくる。そもそもコレを狩ったのは偶然で、別に探してたわけじゃない。いつも通りに獲物がいないかと歩いてたら、不意に嗅ぎ慣れない臭いがして、気になったからその先へ向かってみた。そうしたら木陰にコレが隠れてるのを見つけたんだ。見た瞬間「あっ」って思って、直後向こうもこっちに気付いて、何かゴソゴソ動き始めたから、ワタシは反射的に襲いかかった。身体を押すような形になって、木に勢いよくぶつかって、獲物は動かなくなった。こんな一瞬で狩れたことに驚いたけど、じわじわ嬉しさが込み上げた。またこの肉が食べれると思うとよだれが止まらなかったけど、それはもうちょっと我慢して、ワタシはくわえて、そそくさとその場を離れ……そして今に至る。
「どうしよっかな……」
地面に置いた獲物をじっと見つめて考える。あの忘れられない美味しさを思うと、今すぐかぶり付いて味わいたい。どこから食べようかな……。
そんなことを考えてたら、うつ伏せだった獲物がモソッと動いた。これにワタシはちょっと驚いた。まだ生きてたのか。てっきり死んだものだと思ってた。獲物は鈍い動きで身体を起こすと、ワタシのほうへ顔を向けた。目を大きく見開いて、緊張してるように固まってる。そんな様子にワタシは少し警戒する。コレは敵に対しては凶暴になる生き物だ。突然襲って来てもおかしくない。でも今はたった一匹。仲間はどこにもいない。一匹ならワタシの爪でどうにでもできるだろう。群れじゃないならそこまで警戒することもないか――獲物の目をじっと見ながら、ワタシは顔をそっと近付けた。すると獲物は慌てて身体をのけぞらせて逃げる素振りを見せた。おっと、逃がすわけにはいかないよ――前足で身体を押さえ込もうとしたが、その前にワタシは獲物の異変に気付いた。
一度立ち上がろうとするも、上手く動けてない。その視線は自身の足を見下ろしてた。細く頼りない二本の足……その一本を獲物は前足を伸ばして撫でるように触る。
「……クッ」
獲物が小さな声を出した。わかんないけど、何だか苦しそうな声に聞こえた。これは、もしかして……怪我をしてる? 血は流れてないけど、痛めて動かせないのかもしれない。コレは普段、二本の足で歩いてるから、その一本を痛めたせいで立ち上がれないんだろう。
さらに緊張した目で獲物がこっちを見てくる。逃げられそうにないとわかって怯えてるようだ。ワタシはそれを見つめて溢れるよだれを飲み込んだ。さぁて、ごちそうをいただく時間だ。まずは足からいこうか。それとも頭? 食べるところの多い胴からいってもいいけど、うーん、迷っちゃうなぁ……。
獲物を見ながらあれこれ考えてるうちに、ワタシの中に別の気持ちが湧いてきた。このまま食べるのもいいけど、何だかもったいなくも思えてきた。だってコレはいつも食べてる熊なんかと比べて小さいし、食べたらすぐになくなっちゃう大きさだ。せっかく狩ったのにもうなくなるのは惜しい気がする。何せ滅多に食べられない肉なんだ。貴重なものは簡単に失いたくない。だからと言って食べないわけにもいかないけど……。
そこでワタシはふと思い出す。お母さんが言ってたかつての教えだ。万が一狩りが上手く行かなくて、何日も食べられない日が続いた場合に備えて、捕った肉は食べ切らず、自分だけが知る場所に隠しておきなさい――この教えのおかげで、独り立ちした頃のワタシは何度か飢えから助けられたことがある。でも一つ難点もあって、隠したことを忘れちゃうと、せっかくの肉を腐らせて食べられなくなったりするのだ。それを見つけた時のがっかり感ったらない。忘れなかったとしても、時間が経ち過ぎると肉が腐って、やっぱり無駄にすることもある。忘れず、時々気にかけることが肝心なのだ。この教えは今もやってて、ちょっと前に捕った熊の肉を近くの穴に隠してある。
すぐに食べちゃうのはもったいない。それならしばらく穴に隠しておくのもいいかも……うん。楽しみは取っておいた方が、後でもっと楽しくなるはず。決めた。コレはまだ食べずに、もっとお腹が減った時用に隠しておこう! そうと決まれば――
ワタシは口を開けて、怯えて固まる獲物をくわえる。そのまま噛み砕いて味わいたいけど、それはどうにか我慢だ。寝床から離れて、目と鼻の先にある食べ物の隠し場所へ行く。
土と落ち葉がこんもりと積もった小さな山。そこにはもともと他の生き物が掘ったらしい巣穴があったんだけど、中に誰もいなかったから、ワタシが使わせてもらうことにして、自分で入り口と中を大きく掘り広げて食べ物の貯蔵庫に作り変えた。肉を盗まれたら大変だから、入り口には大きな石を置いて安全も確保してる。これを思い付いた時は、何て賢いんだろうって自分を褒めたぐらいだ。おかげでここに泥棒が入ったことは一度もない。
その穴を塞いでる石を前足で横にずらして、ワタシは中に入る。ジメッとした空気を感じつつ、一番奥へ獲物を置く。我慢して溜まったよだれが垂れそうになって、ワタシは舌でペロリと舐めて飲み込んだ。獲物は奥の壁にすり寄ると、こっちを見ながら怯えた様子を見せてる。……思えば生きた獲物をここに入れるのは初めてのことだ。いつもは食べ残した肉しか入れてないから、獲物自体が逃げ出すなんてことは考えられなかった。だけどコレはまだ生きてる。怪我して上手く動けないとは言え、逃げようと思えば逃げることもできるかもしれない。それは困るな。楽しみにしてるごちそうなんだ。絶対に逃がしたくない。
土の壁に張り付くように身を引いてる獲物を見ながらしばし考える。逃がしたくないなら、息の根を止めちゃうのが確実だ。死ねば動きようがないんだから。しかし頭の一方では、それを拒む自分もいる。と言うのも、獲物というのは死んで時間が経つと、その肉の味を大きく落としてしまうのだ。ワタシはこの経験を何度もしてるから知ってる。死んで時間が経った肉は、なかなか不味い。だけど不味いだけで食べられないことはない。空腹で、それしか食べるものがないなら、満足できなくても食べることはできる。でもワタシが求めてるのは、ただコレを食べることだけじゃないんだ。コレの味を、お母さんが教えてくれた思い出でもある味を味わうことなんだ。息の根を止めれば、その瞬間から肉の味は落ち始める。そうすればあの美味しい味のために今すぐ食べなきゃならない。それでもいいんだけど――ワタシは視界の隅にあるちょっと前に捕った熊肉を見た。せっかく取っておいた肉を腐らせるわけにはいかない。食べるならまずこっちが先だ。だからコレはまだ食べずに取っておきたいのだ。特別なごちそう……できれば最善の状態で口にしたい。
コレを生かしておくとなると、逃げる可能性は消えなくなる。だけどワタシの優先順位はやっぱり味なんだ。今食べる気がないなら生かす他ない。ちょっと心配ではあるけど……ここの肉を盗まれたことはないんだ。今まで通り石で塞げばきっと大丈夫だろう。うん。怪我もしてるし、力もなさそうだし、多分逃げられないよね。
ワタシは向きを変え、置いてある熊肉をくわえて貯蔵庫を出た。穴の奥から獲物に見つめられながら、前足で石を動かし、入り口を塞いだ。よし、これでいっか――問題を済ませて、ワタシはいい気分で寝床へ戻った。そして少し硬くなった熊肉をバリボリ食べて、満腹になって眠くなったから一眠りすることにした。
次に目を開けると、辺りは薄暗くなってた。夜は近いみたいだ。ちょっと喉が渇いたな。水でも飲みに行って来るか――寝起きの身体を起こして伸ばし、水場のほうへ歩き出そうとしてふと思い出す。あの獲物、ちゃんと穴にいるかな……気になるから確認して行こう。
ゆっくり歩き進んで、入り口を塞いでる石の前で止まる。素早く動けるようには見えなかったけど、石をどかした瞬間、いきなり飛び出て来ないとも限らない。何せまだ生きてるんだ。逃げられるヘマだけはしないように注意しないと――ワタシは石の端を前足でつかむと、力を入れ過ぎず、慎重に横へ押しずらした。入り口から完全にはどかさずに、中が見える程度の隙間を開ける。
「……っ!」
一番奥でうずくまってた獲物と目が合った瞬間、ハッと息を呑む音が聞こえた。そしてモゾモゾと身じろぎした獲物の前足が、素早く身体の後ろへ隠れたのが見えた。……何だ? 何かを隠したようにも見えたけど。獲物は両前足を後ろに回した不自然な姿勢でこっちを見つめて固まってる。うーん、気になるところはあるけど……特に変わった様子はなさそうだし、まあ問題ないだろう――ワタシは隙間から離れて石を元に戻す。
「……水、飲みに行こう」
とりあえず安心を得て、薄暗い森の先を目指して歩き出す。ふふっ、いつ食べようかな……それを考えてるだけで、何だかいつもより楽しい気分だ。
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