白月つむぎ

 夜のアパート。私は一人、自分の部屋の電気を消し、ベッドの上で足を組んでいた。

 窓から差し込む月光に、自分の影が壁に長く伸びている。いつもなら何も感じないのに、今夜は妙に目が離せなかった。


「……紗夜?」


 自分の名前が、かすかに聞こえた気がした。

 振り返ると誰もいない。耳鳴りかと思った。だけど、影が微かに動いているのに気づく。


 影は、私が動かないのに壁の上でそっと手を動かしたり、首をかしげたりしている。

 まるで、自分だけの意思を持っているかのようだった。


「……ねえ、紗夜」


 今度は、はっきりと聞こえた。

 自分の声に似ている、けれどどこか冷たく、響くような声。


 恐怖で心臓が跳ねる。

 でも、影はじっとこちらを見つめ、少しずつ近づいてくる。


「な、なに……?」


 私は後ずさる。壁まで追い詰められると、影が動き、まるで私を押し込むように形を変えた。

 月明かりに映る影は、私の姿とぴったり重なっているはずなのに、どこか独立して、自分の意思で動いている――。


 その瞬間、私は理解した。

 影は、私の行動や感情を模倣し、さらに自分で考え、動いている――まるでもう一人の私だった。


「紗夜……怖がらないで」


 囁き声に振り向くと、部屋にはやはり誰もいない。

 影だけが、私をじっと見つめていた。


 逃げ出そうとしたけれど、影が床に広がって足元を覆い、まるで出口を塞ぐ。

 私は息を詰め、影に触れようと手を伸ばす。


 ――その瞬間、影が笑った。

 いや、私自身の笑い声のようで、でも微妙に違う――冷たく、そして滑稽なほど完璧に私の真似をしていた。


 慌てて部屋の灯りを点けると、影は元の位置に戻っていた。

 でも、壁の上にはまだ微かに動く気配が残る――私をじっと観察しているような、その瞳のような影の輪郭がそっと揺れていた。


 ◇


  翌日、夜のアパート。月明かりだけが差し込む部屋で、私はベッドの端に座り手に汗を握っていた。

 壁に映る自分の影が、ふいにゆらりと揺れた。


 ――また、影が動いた?


 息が詰まる。心臓が早鐘のように打ち、手のひらは冷たく汗ばんでいた。

 視線をそらしても、部屋には誰もいないはずなのに――影だけが、私の動きに関係なく、不気味に揺れている。


 小さく「……いや、見間違い」と自分に言い聞かせる。

 でも、もう一度見ると、影は壁の上で手をわずかに動かした。

 その動きは、確かに自分の意思ではなく――まるで、影が独りで考えているかのようだった。


 背筋が凍る。思わずベッドの端に身をすくめ、震える手で毛布を握りしめる。

 影の輪郭が月明かりに照らされてゆらゆらと変形するたび、心臓が跳ねる。


 ――こんなの、絶対おかしい。


 なのに、目が離せない。

 影が、じっとこちらを見つめているような感覚が、体中に張り付く。

 息を整えようとしても、胸の奥がひりひりと疼く――恐怖と、理解できない好奇心が入り混じった、気持ちの悪い感覚だった。


 部屋の中で震えていると、今度はっきりと声が聞こえた。


「……紗夜、右に寄って」


 耳元で囁かれたような、でも壁の影から直接響くような声。

 思わず体が硬直する。


「え……誰……?」


 声の主を探して周囲を見回す。部屋には、私以外誰もいない。

 月明かりの中、影だけが壁に揺れている。

 その影が、さっきよりもはっきりと、手や肩を動かしているのが見えた。


 鼓動が早まる。息が浅くなる。手のひらの汗がベッドシーツに伝う。

 ――でも、どこか、従わざるを得ない気がした。

 不気味で恐ろしいのに、声には妙な確信が宿っていて、私を守ろうとしているように感じられたのだ。


 恐る恐る視線を落とし、かすかに頷く。


「……右、に、寄れば……いいのね」


 手足が思うように動かない。胸の奥で心臓が波のように押し寄せる鼓動で震え、視線は影に釘付けのまま。

 月明かりの中、影の輪郭は微かに歪み、確かに自分の意思を持ったように揺れ続けていた。


 ◇


 ――会社に向かう交差点。

 朝の光はまだ柔らかく、通勤ラッシュの人々が足早に行き交う。自転車がぶつかりそうになり、クラクションが遠くで鳴る。


 私は影の声を思い出した。


「右に寄って」


 その瞬間、左側の車線に突っ込む白い車が目に入った。ブレーキの音と、悲鳴。衝突寸前――。


 私は思わず歩くペースを少し速め、右側の歩道に体を寄せた。心臓が早鐘のように打つ。


 ――その瞬間、白い車が左側の歩道に突っ込んでくる。

 人々の悲鳴と金属の衝突音が響く。だけど、私は安全な場所にいたため何事もなく通り過ぎることができた。


 足が震え、手のひらに汗が滲む。心臓の鼓動はまだ鳴りやまない。

 周囲の人々は混乱したまま、警察のサイレンが遠くで鳴る。車の運転手は慌てて車から降り、被害者を確認している。


 私はその光景を眺めながら、影の声に感謝するしかなかった。

 ――あなたの声のおかげで“助かった”


 影の言葉の通りに歩道の右側に寄っただけで、命が救われた。

 その時、影が本当に自分を守ってくれているのだと初めて実感したのだった。


 ◇


 翌朝、朝の光が部屋に差し込む。昨日の交差点での出来事を思い出すと、今でも心臓が早くなる。


 ベッドに腰掛けていると、壁の影がゆらりと揺れた。明るい時間帯だからか、昨日よりも動きがはっきりしている気がする。


「……紗夜、今日は、窓際を歩かない方がいいよ」


 声は昨日と同じで、私の耳元に直接響くように冷たく、でも不思議と理性的だった。

 体が震える。息が浅くなり、思わず布団の端をぎゅっと握る。


 窓際――?

 恐怖で心が固まる。だけど、昨日の影の言葉が現実に命を救ったことを思い出し、従うしかないと思った。


 ◇


 出勤途中、いつもの道を歩きながら影の言葉を思い出す。

 ――窓際を歩かない。


 私は自然に、アパート沿いの歩道の中心寄りを歩くように足を運んだ。

 窓際の方には近づかず、距離を取るように意識して歩く。


 すると、三階建てアパートの窓際に置かれた鉢植えが、不自然に揺れているのが目に入った。

 ガシャン、と音を立てて道路に落ちる――もし影の指示を無視していたら、間違いなく直撃していた。


 全身の血の気が引き、息が止まりかける。手足は震えて動かない。

 恐怖で思わず膝を落としながらも、影に向かって小さく呟く。


「……ありがとう……」


 影は揺れるだけで返事はない。

 でも、確かにそこに存在し、私を導いている――そう実感するには十分だった。


 ◇


 日差しが心地よく差し込む休日の朝。

 特にあてはないけれどふらっと出かけようと思っていたら、影がそっと声をかけてきた。


「紗夜、今日は駅の南口を抜けて、三番ホームに行って」


 その指示を聞いた瞬間、私は思わず息を詰めた。

 ――また何か、危ないことが起きるのかもしれない。先日の事故も鉢植えも、すべて影の予言通りだった。


 駅に向かう道すがら、頭の中で最悪のシナリオを想像する。

 電車が脱線する、ホームに落ちる、人ごみで押し潰される――怖くて歩く足が震える。


 恐る恐る駅に着くと、三番ホームには普段よりも人が少なかった。

 冷たい風が吹き抜け、ホームの向こうから電車の金属音が響く。


 そのとき、私の目の前に立っていたのは――


 柔らかく微笑む男性だった。


「大丈夫ですか? 顔色、悪いですよ」


 彼は透き通るような深い瞳をしていた。艶のある黒髪は自然に風になびき、身に着けたジャケットも品があるのに肩の力が抜けた印象。立ち姿から、穏やかさと自信が同時に伝わってくる。


 瞬間、胸がぎゅっと締め付けられ、心臓が跳ねる。こんな感覚……今まで経験したことがない。


 彼は首をかしげるように、少し不思議そうな表情で私の顔を覗き込んだ。

 まるで、私の内側まで見透かすような、静かで澄んだ瞳。


「……本当に、大丈夫ですか?」


 問いかけられ、私は思わず頬を赤くして目を逸らす。

 言葉に詰まり、咄嗟に手を組む。胸の奥で、鼓動が暴れ出す。


 その仕草に彼は微かに笑みを浮かべ、少し身を乗り出して近づく。

 距離が縮まるだけで、空気が張り詰め、心臓の音が耳に響くように感じた。


 普段なら気づかない些細な動作や表情に、自然と意識が集中する。

 そして、初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしいような、不思議な親近感さえ覚えた。


「……あの、どこかでお会いしたこと、ありますか?」


 私の声に、彼は首を横に振る。

 少し間を置いて、彼はにこりと笑った。


「でも、なんだか懐かしい感じがするんですよね。雰囲気かな」


 胸がぎゅっと締め付けられる。懐かしいような、でも初めて会った相手――不思議な感覚に、思わず目を逸らす。


「……そうなんですね」


 言葉少なに答える私に、彼は軽く首をかしげ、でも優しく続ける。


「もしよければ、また会えませんか? あ、連絡先を交換できたら……」


 その言葉に、私は少しだけ頬を赤らめる。

 胸の奥で、昨日までの不安や恐怖がふっと薄れる感覚があった。


 私はスマートフォンを取り出し、少し手が震えながら番号を入力する。

 彼も同じように画面を差し出し、自然な笑みを浮かべて待っていた。


 目の前の男性は優と名乗り、柔らかい笑顔で「これでまた会えますね」と言った。


 その言葉に、思わず微笑む。

 何かが少しだけ、動き出した気がした。


 そして、壁の影はいつものように揺れるだけで、何も言わなかった。


 ◇


 その夜。

 家に帰り、コートを脱いでようやく一息ついたころだった。


 スマートフォンが小さく震えた。

 画面には、つい数時間前に出会ったばかりの――優の名前。


『今日は声をかけてしまってすみません。でも、お会いできてよかったです。帰り、大丈夫でしたか?』


 思わず胸が熱くなり、指先が少し震える。

 出会ったばかりなのに、こんな丁寧で優しい言葉をもらっていいのだろうか――と、戸惑いながらも嬉しさが込み上げる。


 私は少し迷ってから返信を打った。


『ありがとうございます。無事に帰れました。声をかけてもらえて、助かりました。』


 送信した瞬間、胸の奥がくすぐったくなる。

 しばらくして、またスマホが震えた。


『よかった。もしよければ、今度ゆっくりお話ししませんか?この間のホームみたいに、また偶然……じゃなくて、ちゃんと会いたいので』


 画面の文字を読んだ瞬間、心臓が跳ねた。

 偶然じゃなくて――また会いたい。


 それは、私も同じだった。


『はい。私も……お話ししたいです』


 送信して、胸に手を当てる。


 そのとき――

 部屋の隅、薄暗い壁に映る影が、すうっと揺れた。


 私が動いていないのに。


 影は、ゆっくりと頭を傾けるように形を変え、囁くように揺れた。


 ――よかったね。うまくいきそう。


 空耳かと思う。

 でも、そう言ってくれている気がした。


 ◇


 優からの連絡はその日を境に少しずつ増え、メッセージのやり取りは夜の習慣になっていく。


 「おはよう」と「おやすみ」を交わすようになったのは、一週間後。

 駅で会う約束をしたのは、その数日あとだった。


 影がそっと揺れる夜――

 私は気づいていた。優との距離が縮まるたび、影もうれしそうにゆれていることに。

 まるで、私の恋を応援しているみたいに。


 ――その理由を、私はまだ知らなかった。


 ◇


 ある日、カフェで向かい合った二人。


 紗夜は影の声に従って事故や植木鉢を避けた出来事を、少しずつ優に話すようになった。

 優は笑いながら「紗夜さん、不思議な話ばかりですね。でも、なんだか面白い」と言った。

 紗夜は顔を赤らめながらも、自然と笑みを返す。


 カフェでランチをした後、昼下がりの公園で散歩をした。

 少しずつ優さんとの距離が縮まる。

 触れるか触れないかの肩先の距離、見つめ合う視線――そのたびに心臓がざわつき、紗夜は自分でも気づかぬうちに、優に心を許していった。


 ◇


 そして、ある日の夜。

 帰り道の公園で、二人は月明かりの下に立っていた。

 優がそっと手を差し出す。


「紗夜さん……付き合ってくれませんか?」


 紗夜は一瞬息を詰め、胸の奥で何かがはじけた。

 影の声が耳元で囁くような気もしたが、今は優を信じたい――そう思えた。

 小さく頷き、優の手を握る。


 初めてのキスは、公園の静けさと月明かりに包まれた一瞬だった。

 心臓が高鳴り、言葉では言い表せない幸福感が全身を満たす。


 しかし、その夜――静かに揺れる影は、ただの影ではなくなっていた。

 紗夜の背後で囁く声は、彼女の意思ではなく、誰か別の存在の意志を帯びているように感じられた。


 ◇


 ある夜――

 影は初めて、私の方をまっすぐ向いたように見えた。


「ねえ、紗夜。そろそろ……返して?」


「……返す?」


 影は静かに語り始めた。


「私はね……三年前に事故で死んだの。気づかなかった? 優くんのスマホのロック画面……あれ、写真だったでしょ。私と優くんの」


 その囁きは、いつもの見守るような声ではなく、意志を帯びていることがはっきり伝わってくる。

 心臓が跳ね、背筋がぞくりと冷たくなる。

 確かに優さんのスマホの待ち受けは、ぼかされた女性とのツーショットだった。


「私、優くんの彼女だったんだよ。……死んじゃっても、そばにいたかった。でも体がないと、何もできないから」


 影が、壁からずるりと剥がれ落ちて床を這う。

 黒い液体のように、じわじわと私の足元へ広がってくる。


「ずっと見守ってきたの。紗夜が優くんと近づくように導いたのも、全部ぜんぶ……替わってもらうためだよ」


「や、やめ……!」


 影は私の足に絡みつき、冷たい腕のように体を這い上がってくる。

 息が詰まり、視界が揺れ、声にならない悲鳴が喉にひっかかる。


「大丈夫。すぐ終わるから」


 影が、私の胸の中心にゆっくりと入り込んでくる。

 心臓が締め付けられ、意識が薄れていく。


「紗夜……ありがとう。これでようやく、優くんのそばに戻れる」


 最後に聞こえた声は、私の声とまったく同じだった。

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