3話 ペイントマンの噂
汐くんが発した言葉『ペイントマン』
我が渡理町に、出現し、皆が恐怖した不審者の名前だ。
最近、担任の尾崎先生から注意喚起され、町内放送でも奴のことを言っていた。
ペイントマンは春になり、桜が咲いた頃に現れた。
最初に遭遇したのは、駅のすぐに近くにあるアーケード街。
あそこは夜になると立ち入り禁止になるのだが、住宅街と駅を繋ぐ最短ルートなので、塾帰りの学生などがたまに無断で通っている。
しかし、夜のアーケード街というのは昼の賑やかな様子とは一変し、静寂そのもだった。
アーケード街自体も、五十年という歴史があり、かなりボロボロで、夜には出るという噂もあった。
それでも、遠回りすると一時間以上かかる道を、十分ほどで帰れるのはとても魅力的であった。
その時も塾帰りの学生だったらしい。
ペイントマンという言葉を聞いて、影田が首を傾げている。
影田は、HR中、常に眠っているので尾崎先生の言葉でも聞いたことがないのであろう。
僕が説明しようか、と聞くと不満げに頷いた。
ゴホン。
「僕が聞いた噂はこうだった」と語りを入れた。
——————————————————
学生が、アーケード街の入り口に設置されたトラロープを跨いで進んで少しすると、向こう側から誰か歩いてくる。
学生は見つかったらまずいと思い、たまたま目の前にあった看板の後ろに隠れた。
足跡がだんだんと近づいてくる。月明かりで照らされたのは男だった。
幽霊の類でないことで、胸を撫で下ろしたが、男に違和感があることに気がついた。
服装が妙に引っかかった。
妙というのは、身体のラインが浮き出た服で、男の痩せ細ったシルエットがくっきりとわかった。
レザージャケットのように光沢があり、まるで美術館で見た油絵のような色合いの服だった。
表情は、目を飛びでんばかりに開いて、口角を限界まで開けていた。
学生は息を顰め、奴が通り過ぎるのを祈った。
一五メートルほどまで来た時だった。
何を思ったのか、男が急に立ち止まり、正面の何もない虚空を見始めたのだ。
学生はなにか得体の知れない恐怖に支配され、今すぐにでもその場を離れたい気持ちを抑えきれなくなった。
我慢できなくなり、深呼吸して、看板から飛び出そうとしたときだった。
アーケード街の天窓に光が差し込み、あたりが明るくなった。
奴の持っていたものが、月の光を反射した。
彫刻用だった。それも剥き身で、赤いものが付着していた。
ひっ、と、しゃっくりのような声が出てしまう。
声に気付き、男が学生を見ると、それは、身を乗り出して、腕を気負いよく前後に振って、急に走り出した。
学生は目の前の異常者が刃物を持っていたことに、思わず腰を抜かし、地面を這うようにして逃げ出した。
ペタペタという男の走る音を背に、足を動かすが思うように動かない。
ドン。
背後から衝撃があり、レンガ調の地面に叩きつけられる。
立ちあがろうとすると、背中を押さえつけられる。
学生の、恐怖で浅くなった呼吸ばかりが辺りで響いていた。
おそらく背中を襲え付けているであろう男は、何の音もさせず、意図も感じさせずにいた。
学生はひどく後悔していた。そして、恨んでいた。過去の自分を。
たった数時間のために命を落とすかも知れない絶望を恨んだ。
学生が全身の力を入れ、これから来る苦痛に備えている。
その時だった。
右足の膝窩に、鋭い痛みが走った。思わず苦痛に顔を歪め、叫びそうになった。
身を悶え、叫ぼうとする学生であったが、背中に乗った男がそれを許さず、口に何かを詰め込まれた。
おそらく、彫刻刀を刺されたのであろう。男は刺したそれはグリグリと回す。
叫ぶ声は、猿轡の中に吸収される。
「赤いぃ……。赤いぃ……ッ!」
興奮で息を荒くした男が叫んだ。周辺で男の声が奇妙に木霊する。
あまりの恐怖と、痛みに学生の意識はそこで途絶えた。
学生は次の日、アーケード街の店員により衰弱した状態で発見される。
膝裏から血を抜かれてはいたが、誰かにより止血されており、大事には至らなかった。
そして、学生の当時の記憶と、走るときの音から男の名前はペイントマンとなった。
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思わず、説明だけのつもりが、語りに力が入りすぎた。
自分の世界から戻ると、影田が僕を気持ち悪いものでも見るような視線で刺してくる。
汐くんは鳩が豆鉄砲でも食らったように、ぽかんとしていた。
しまった。置いてけぼりにしてしまったか。
「なにさ。僕の聞いた噂があまりにも出来が悪くてさ。せめて語りで良くしようと思ったんだよ」
影田はため息を吐いて首を振った。
それをフォローするように汐くんが、顔を引き攣らせたまま言った。
「あ、ありがとう。でも、あまりに血気迫るような顔で語るからちょっと気圧されたしまった」
それは、そうかも……。
次からはもう少し、落ち着いて語るようにしよう。
「それで、そのペイントマンがどうしたのさ。まさか、自分が襲われるなんて言うんじゃないよな?」
影田がぶっきらぼうに問いかけた。
汐くんがゴホンと、咳払いをして居住いを正す。まるで、これから告白でもするような神妙な面持ちだった。
妙な二人の間に緊張が走った。
「いや、襲われるのは俺じゃない。単刀直入に言う。今日の夜、影田さん。あなたはそのペイントマンに殺されてしまう」
僕と影田の時が止まった。
「「なんだって?」」
思わず二人して聞き返してしまった。
それも間抜けた声で。
「は? 何を言ってるんだ? なんで、そんなこと……」
僕が思わず口を開くと、汐くんが手を前に出して、それを抑えた。
「混乱するのはわかる……、と言いはしたけど、美都さんは理解してくれているようだね」
影田の方を見ると、至って冷静に汐くんを見つめていた。
なにか、分かっているようだ。
「でも、今回はそれを言いに来ただけ。理解が追いついたらこれを見てくれ」
そう言うと汐くんは胸ポケットから茶色の封筒を一枚出して、地面置いた。そしてそのまま背を向け、中腰の姿勢で扉を開けてそのまま出て行ってしまった。
「なんなんだよ……」
僕は地面に置かれた封筒をそう呟くしかなかった。
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