我狼

緋櫻

我狼

 日が暮れかけていた。木々が生い茂る森の中、既に陽光は届かず、枝をくぐる風は夜の冷たさを運んでくる。

 一匹の狼がぼんやりとたたずんでいた。目蓋は開いているが、その瞳は眼前の景色を映していなかった。彼の周囲には一匹、また一匹と狼が集まってきていたが、それにも気が付かないでいた。

 やがて群れの全てが集まったとき、彼らの中から一際体躯たいくの大きな狼が、立ち尽くす狼の前に歩み出た。向かい合う二匹の差は歴然だった。一方は堂々と立ち、もう一方は悄然としている。

「我が子よ、お前は何をしたのか、理解しているか」

 その問いに答える声は無かった。風の音と呼吸だけが響く時間が、硬質な緊張の上を流れていった。

 風が百の木々を通り過ぎたころ、黙り込んでいた狼がようやく口を開いた。

「お父さん、僕は、間違えてしまったのでしょうか」

 やっとのことで絞り出した問いは、酷く震え、強い怯えの色を含んでいた。再び重苦しい沈黙が場を支配する。口を出す者はいなかった。

「既に起きたこと。その是非を論ずる価値はない。しかし、お前は罪を犯した。どうあれ、それは事実だ。お前をこれ以上群れに置いておくことはできない」

 狼の群れは一つのつがいを頂点とした家族で構成されている。そこから順に雌雄ごとの序列を形成するのだが、この狼が位置していたのは、まだ小さな子供を除けば最底辺だった。

「丁度いい機会だ。今このときを以て、お前を一匹の狼として認めよう。そして、今後一切我々と関わることを禁ずる。三つ夜が明けるまでに、我々の縄張りから出ていけ」

 成熟した狼が群れを離れることは、特段珍しいことではない。群れから離れた狼は、他の群れに追従するか、あるいは番を作って新しい群れの主となる。

 しかし、告げられた彼にとってそれは、事実上の死刑宣告に等しかった。彼がひとかどの狼として認められるのは、本来であればもう少し先のことだった。体格は既におとなと遜色ないまでに成長しているが、その精神は未熟の一言に尽きる。彼は一際臆病な性格であり、一匹では小便もできない始末であった。

「分かり、ました。今までお世話になりました」

 彼は己の分際を正しく理解していた。群れを出ては、おそらく太陽を数度拝むくらいが精々だろうと。しかし、異論を唱えることはできなかった。例え父親が残ることを認めようと、その周りが絶対に認めないだろうことは簡単に想像することができた。周囲の狼達の目は昨日までの侮りを含んだものとは異なり、明確な敵意を込めて彼に向けられている。

 狼はじっと父親の目を見つめてみたが、何の感情も読み取ることができなかった。ついぞその考えを理解するに至らなかったことが、彼はとても口惜くやしかった。

 彼は次いで母親の目を見ようとして、止めておけばよかったと強く後悔した。母親の顔は、彼を向いてすらいなかった。

「行け。そして二度と振り返るな」

 会話が終わり、狼達は互いに背を向けた。

 日はとっぷりと暮れ、闇が地上をめとっていく。空の上には星々がまたたいているが、雲と木々がそれらを覆い隠した。

 どこかで響いた一つの遠吠えが、夜の訪れを告げた。



 白くそびえるさんれいの南側に広がる森林地帯。その一角で、ちっぽけな狼は東へとひたすら歩いていた。彼が目指すのはさわである。一心に願うのは、可能な限り早く不快感を除くこと。それだけを思い、ひたすら歩いていく。彼の精神は既にいちじるしく疲弊ひへいしており、余計なことを考えればそれだけで、四肢がくずおれてしまいそうであった。

 鋭敏な狼の聴覚が、遠くを流れる水の音を捉えた。眠る者達を構うことなく、水はただ低きへ流れる。その恵みは周囲の者達へ分け隔てなく与えられる。もちろん、行き場を失くした狼にも、その権利はある。

 ようやく目的の沢へと辿たどり着いた狼は、倒れ込むようにその口を冷たい水の中に突っ込んだ。透き通る清水は彼の顎に並ぶ歯の隙間をくぐり抜け、汚れを飲み込み流れていく。

 狼は何度も何度も口をすすいだ。消えないけがれを取り払うように。不快な臭気を散らすように。

 しかし、幾らゆすいだとしても不快感が除かれることはなかった。舌の根に残る生臭い鉄の匂いが、牙の表面をべっとりと覆う脂が、こびりついて離れない。故に彼はその顎で水を掬い、濯いでは吐くことを繰り返す。とっくにその汚れが落ちていたとしても、汚れているような気がして止まなかった。

 慣れている感覚のはずだった。獲物の首筋に喰らいついてその命を奪ったことは、群れの中で飛びぬけて臆病だった彼でも幾度となく経験してきたことだ。これまでと同じだ、大したことはない。狼はそう自分に言い聞かせて冷静になるよう努めた。

 水を被って冷えた頭で、狼はこれからのことを思案しようとした。しかし、どうにも思考がまとまらない。やけに軽く感じる身体に、彼はしばらく肉を食べていないことを思い出した。

 ――お腹が空いた。

 意識すればするほど、飢餓感は一層募っていく。先程まであれほど忌避していたはずの血が、肉が、恋しくてたまらない。虚ろで満ちた腹の中に、滴る血肉を詰め込みたい。身体が求めて止まないのだ。

 今の彼はまさしく餓狼。獲物を求めて夜を流離さすらう。道を外れた、或いは正しく本能に従う、ただのケダモノであった。

 一つ、虚空に吠える。その声を、群れにいる狼達はどう思っただろうか。



 月の前を三つの雲が横切り、四つ目の暗雲が月を覆い隠したころ。背の高い針葉樹の下にいたのは、息を荒げてへたり込む若い狼だった。

 本能に任せて勢いよく飛び出した彼だったが、今やその影は無く、意気消沈して横たわっている。飛び出したはよいものの、彼は獲物の探し方さえ満足に知らなかった。広い樹海を闇雲に走り回ったところで、簡単に獲物にありつくことができるほど自然は甘くなかった。

 お腹が空いた上に疲れ果てた狼は、視線の先遠くで何かが動くのに気付いた。彼が見つけたのは鹿だった。こんな夜更けに何をしていたのだろうか。不幸にもこの時間、この場所にいた鹿は、飢えた狼の標的として捉えられた。

 彼の目には、その鹿は既に美味しそうな肉にしか見えなかった。追い風に吹かれ、待ち焦がれた食糧へと一直線に飛び出した。さながら風と一体となったかのように、狼は駆ける、駆ける、駆ける――。

 暫し後、彼は再び木の下でへばっていた。幾ら四肢を動かそうとも、狼は首筋に牙を突き立てるどころか、その影を踏むことさえできなかった。彼が鹿へと飛び出した瞬間に、その鹿も直ぐに駆け出していたのだ。疲労困憊こんぱいの彼では彼我ひがの開いた距離を詰めることは能わず、結局のところ彼は再び地に伏せることになった。

 ――どうして上手くいかないのか。群れにいたころは何度も獲物を捕まえたのに、どうして思い通りにならない?

 その答えは、彼が未熟だというただそれだけの理由であったが、彼はその未熟さ故に気付くことができない。今までどのように狩りをしていたのか、彼は知ろうともしていなかった。風上にいれば匂いで気取けどられることは、狩りを始めたての者ですら知っている。冷静さを失えば当然のことすら上手くいかないなんてことは、普段の臆病な彼なら分かっていたはずだ。しかし、彼を導いてくれる者は、もういない。

 度重なる失敗と、存在感を増し続ける飢餓感に、彼の中でうねるような苛立ちが募っていく。狼は今にでも駆け出したい気分だったが、疲労がそれを許さない。しかし、かえってその状況が彼を落ち着かせた。

 ようやく冷静になった彼の鼻が、周囲の違和感に気付いた。周囲のあらゆる匂いが強く、そして多くなっている。

 ――雨が降る。

 この状況で雨に濡れるのは都合が悪い。ただでさえ消耗しているというのに、濡れて体温まで奪われてしまえば、さらに動くことが難しくなるだろう。

 彼は疲労を訴える脚を無理矢理に動かし、雨を凌ぐことができそうな場所を探して北へ向かった。



 雨が降っていた。

 雲は月明かりを遮り、世界はより深い闇に閉ざされる。そんな世界を嘆くかのように、無数の雨粒は地表へと降り注いだ。その涙はきっと、生い茂る木々にとってはまさしく慈雨じうと呼ぶべきものだろう。

 しかし、地を彷徨さまよう狼にとってはむしろ、自らの身を焦がす太陽のようにさえ思えた。雨粒が身を叩く度に、己から熱を奪っていく。濡れそぼつ毛先から雫が落ちる度に、命が零れ落ちていくのを感じた。

 このままではもう長くはたないだろう。自らの行く末を案じ、狼は自嘲する。分かっていたはずだったろう、と。群れから放逐ほうちくされたあの瞬間から、そう遠くないうちにこうなる未来は彼にも見えていた。それが少し早くなっただけだ。

 それでも尚、諦めの悪い身体は命を欲する。その鋭敏な鼻が、複数の動物の匂いを感じ取った。狼は己の生き汚さに少し呆れながらも、匂いの元へと歩みを進めた。


 山のふもとの小さな崖の下に、洞穴ほらあながあった。奥行きはそれほどでもないが、ある程度幅があり、木が三つほどは入るような広さがある。そこには今、十を超える動物達がつどっていた。蛇に蝙蝠こうもり、兎、狸、果ては熊までが、降り注ぐ雨を凌ぐため、外での関係を忘れて共存していた。無論、友好的というわけではない。それぞれが距離を取って壁際に並び、静かな不可侵状態が作られている。言葉こそ通じないが、互いにこの雨によって困窮していることだけは明らかであり、ただ雄大にして迷惑な自然によって、この奇妙な均衡は保たれていた。

 そこにまた一頭、新たにやってきた動物がいた。狼である。兎は思わず跳び上がりそうになったが、どうにかして堪えた。しかし、狼を前にして身構えたのは、何も被捕食者である兎だけではなかった。体格で大きく勝る熊をして気圧けおされるほど、その狼は異様とも言える雰囲気をかもしていた。

 その狼は全身を雨でぐっしょりと濡らし、息を大きく繰り返している。四肢はガタガタと震え、今にも倒れそうであったが、それとは対照的に眼はらんらんと輝いている。

 彼は覚束おぼつかない足取りで一歩、また一歩と踏み出し、洞穴の丁度中央あたりまで進んだ。そしてそのまま力尽き、体を横たえて目をつむった。

 洞穴に集っていた動物達は静かに彼を見ていたが、やがて興味を失くしたのか、それぞれ目を逸らしていった。その中でただ一匹、兎だけは、狼のことをじっと見つめていた。

 外は騒がしく雨が打ち付ける中、洞穴では静かに夜が更けていった。



 狼は微睡まどろみの中にいた。どれだけの時が経っただろうか。時間間隔は曖昧で、起きているのか寝ているのかさえ判然としない。身体の輪郭がぼやけ、自他の境界がけ合わさっていくような、そんな心地良い感覚に身を任せていた。

 摩耗した心身は全ての刺激に漫然と反応を示す。冷たい地面も、今はまるで枯葉を敷き詰めたかのように感じられた。近くに佇む何者かの呼吸の音も、木々が風に揺れるささやきのように聞こえた。鼻腔びくうをくすぐるかぐわしい香り。歯に伝わる小気味良い繊維を断つ感覚。舌を刺し貫くほどに鮮烈な――血液の味。

 ぱっと視界が開ける。もやがかかっていた意識が段々と鮮明になり、そして、急速に身体が冷えていくような気がした。

 ――僕は今、何を食べている?

 肉だ。今まで何度も食べてきた、己を形作るかて。しかし、そこに肉がある理由が分からない。狩りに成功した記憶も無ければ、分け与えてくれる家族もいないはずだった。

 恐る恐る、視線を下に向けた。牙の先から真紅の液体が伝い零れる。雫が落ちた先にあったのは、老いた兎の屍。そしてその奥には、彼を眺める亜麻色の毛をした兎がいた。

 狼はわけが分からなかった。兎の前で兎を食べている。どうしてこんな珍妙な状況になっているのか。どうしてこの兎は逃げもせずただこちらをじっと見ているのか。何一つとして意味が分からなかった。

 思考と共に動きを止めた狼を前にして、兎は死体をずいと彼の方へ押した。まるで『どうした、食わないのか』とでも訊いてくるかのように。

 狼は余計に混乱した。もしかして自分は死んでしまっているのではないか。或いはまだ眠っているだけで、これは夢なのではないか。そんなことを思うほどに、彼の目の前にある光景は荒唐無稽こうとうむけいであった。

 奇妙な光景を前にし、必死で考えを巡らせていると、一つの違和感が彼の感覚に姿を見せた。肉だ、肉がおかしい。兎にしては臭みが強く、また食感もどこかおかしい。老いた兎にしてはやけに硬い。そう、記憶に新しいあのときも、これよりずっと柔らかく、温かかった。

 そして、狼は答えに辿り着いた。

 ――この肉は、新鮮じゃない。死んでから少なくとも一日は経っている。

 そう考えると、兎の行動にもある程度の憶測が立てられた。おそらく、目の前にいるこの兎は、弱っている自分を哀れみ、少し前に死んだ己の肉親を自分に食べさせたのだと、狼は予想した。

 様々な感情が狼の中を駆け巡った。戸惑い、喜び、感謝、そして、絶望。

 ――僕は、生きていてもよいのだろうか。ここまでして生に執着する意味は、果たしてあるのだろうか。

 狼は先日の夕刻のことを思い出した。それは、彼が群れを追い出される原因となった出来事だった。


 彼は群れの中で最も序列の低い狼であった。共に育った兄弟と比べると体格は一回り劣り、性格も臆病で狩りに向いていなかった。それ故に、彼は他の雄に見下され、虐められていた。育ちつつある次代の子供達も、彼を見る目は冷ややかであった。まるで母から『あんな風になるな』と言われているかのようだった。

 そのときもいつもと同じように、他の狼から揶揄からかわれていた。いつもと変わらない光景、そのはずだったのだ。

「ほら、痛いからちゃんと耐えろよ?」

 そう言って上に圧し掛かってくる兄弟達。幾度となく繰り返された行為だったが、このときは体勢がよくなかった。屈強な兄の身体によって首が圧迫され、意識が朦朧もうろうとしてくるが、赦しを乞おうにも声が出せない。幾ら藻掻けど彼らは止めてくれなかった。ここで死んでしまうのかと思った。

 圧力が消え、ようやく解放されたと思った矢先、彼の曇った視界に再び跳びかかる兄の姿が映った。

 ――殺される!

 命の危機に瀕したと感じた身体は、今まで生きてきたどの瞬間よりも機敏に、そして的確に動き、彼は素早く地を蹴った。空中で二匹の狼が交錯し、そして彼はその喉笛に噛みついた。〈敵〉を速やかに排除するために。

 体毛を掻き分けた牙が、ぞぶりと皮下に潜り込み、いとも容易たやすく引き裂いた。隙間から勢いよく血液が吹き出し、口内に溢れ返る。じたばたと動く手足の付け根に、体重を乗せて押さえ込む。次第に尾が地を擦る音も、掠れた風の音も聞こえなくなった。

 彼はどこか他人事のように、その光景を冷めた目でじっと見ていた。まるで、自分が自分でないように感じた。己の両目ではなく、虚空に浮かんだ目で自分を見下ろしているような、そんな気がした。

 どれだけの間そうしていただろうか。組み敷いた敵はうに動かなくなり、顎から垂れた血がこびりつく不快感に唸り声を上げたとき、不意に己の下にあった敵の死骸がひったくられた。

 気付けば群れの狼達が集まっており、敵の死骸を囲んで泣いていた。

 ――皆どうして敵を? 敵、いや、あれは兄さんで、僕は、……あれ? 何をした? 僕は、何を……。

 ただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。頭が理解することを拒むこの光景が意味することは、疾うに分かっていた。


 牙が沈み込んでいく感覚も、むせ返るような臭いも、温かい液体が滴る様子も、全て、鮮明に覚えていた。ただ一つ、〈敵〉の姿だけが、もやがかかっているかのように不確かだった。

 ふと、狼は自分が食事中であることを思い出した。それと同時に、不鮮明だった敵の姿があらわになる。生まれたときから、肩を並べて歩いていた兄の姿。

 歯が肉を突き刺すのを感じて、鼻を衝く臭いを嗅いで、滅茶苦茶になった死骸を見て、吐き気がした。

 しかし、それは久方振りの貴重な食糧であり、そして、目の前に大きな覚悟を以て差し出したであろう兎がいる手前、吐き出すわけにはいかなかった。

 飲み込むことを強く拒否する身体をどうにか抑え込み、無理矢理にでも喉の奥へと突っ込む。それがまた吐き気を助長し、最早食べているのか吐き出そうとしているのか分からないほどに苦しみながらも、狼は差し出された兎を食べ尽くした。

 この前のそれとはまた別物の強い疲労を覚えた狼は、胡乱うろんに兎のことを見下ろした。どうして自分にここまでするのか。こんなことをして何になるというのか。

 兎は、ただじっと狼の瞳を見つめていた。まるで、お前はこれからどうするのか、と問うているかのように狼は感じた。

 ――それは、少々卑怯ではないのか?

 救ってくれと頼んだわけではない。むしろ、もう死んでしまえばいいとさえ思っていた。それなのに、勝手に救い出して、あまつさえ生きろと、そう命令するというのか。狼は、この小さな存在が押し付けてくる理不尽に、もう無理だと弱音を吐きたくなった。

 ――一体、何のために生きればよいというのか。この罪深い僕が、血を分けた兄を殺し、他者の遺骸をむさぼって、そこまでして、生きる価値はどこにある?

 彼の心は既にぐちゃぐちゃな有様であった。身体は生きろと言う。兎も生きろと言う。しかし、その心は、死ね、くたばれと、そう声高に叫んでいるのだ。

 尚も兎は狼を見つめ続けた。射貫いぬくようなその眼差しに、狼はたじろいだ。狼が真に理解できなかったのは、その目に一切の憐憫れんびんも、あざけりも含まれていないことだった。同族が彼を見る目には、いつだってその二つが付きまとっていた。それは彼が弱かったからだ。臆病だったからだ。それ故に、目の前の兎という、自分と比べても圧倒的弱者であるはずの存在が信じられなかった。

 ふと狼は思い出した。臆病さを忘れ、本能に衝き動かされて足掻いた日のことを。何をしようとも全く上手くいかなかったあのときの狼は、言い訳のしようもないほどに弱者だった。

 逸らし続けていた視線を、今度は狼の方から合わせてみた。兎の目に覗いたのは、意外なことに臆病さであった。彼もまた、弱いなりに必死で生きてきたのだろう。

 言葉は無くとも、狼はその眼差しに宿る強い意志を感じざるを得なかった。『せめて、永らえた分だけはその命、まっとうしろ』と、確かにそう語っているように見えたのだ。

 ――ああもう、分かった、分かったよ。生きればいいんだろ。ああ、生きてやるとも。

 ついに狼は負けを認めた。己よりもずっと小さな、矮小わいしょうで劣る存在のはずなのに、彼にはその兎が、ものすごく大きく見えたのだった。

 その意志を確認してか、兎は狼に背を向けると、洞穴から出ていった。きっと、彼もまた己の命を全うしに行ったのだろう。

「さて、これからどうしようかねえ……」

 自嘲するように零した狼の独り言が、狭い空間の中に木霊した。

 キキィッと、天井に吊り下がっていた蝙蝠が返事をした。何と言っているのか、彼には分からなかったが。



 白い雪の上を一匹の狼が歩いていた。フラフラと倒れそうになりながらも、一歩一歩踏みしめて進んでいく。

 そんな彼の様子をじっと見ているのは、夜空に浮かぶ月と星々のみ。ずっと前に降った雪が未だ融けずに残っているこの場所は、木々が背を高く伸ばせないほど、天に近づいていた。下方、白く染まった大地以外の全てが空である。純白の雪の中、狼の踏みしめた足跡が、くすんだ大蛇のように続いている。

 あの日、兎と別れた狼は自分なりに生きる方法を考えた。どう足掻いたとしても、近いうちに死ぬ運命は変えられない。この命に定められた生を正しく全うする能力を、彼は持っていなかった。ならばどうするか、どうしたいか……。

 ――そうだ、この世で最も高い場所に行って、そこで死のう。

 真っ当に生きているものが聞けば、ふざけるなと一蹴されるような考えである。しかし、己の身体以外もう何も持っていない彼にとって、死に場所だけが、唯一の生きる理由であった。

 そうして目的地を定めたその日から、彼は山をひたすら登り続けた。餌を求めることもせず、草木に残ったわずかな露を啜って、一心不乱に頂上を目指した。

 狼が山を登り始めてから、太陽が五回沈み、月は四回沈んだ。既に動く体力は残されておらず、疲労に疲労を重ねた肉体を動かしているのは気力だけという有様であった。最早眼前の景色さえ覚束なく、足元だけをずっと見て、感覚だけを頼りに一歩一歩上へと進んでいった。

 彼を横へと押し流そうとしていた風も、今では彼を後ろから押していた。崩れて落ちてしまいそうだった雪も、彼の姿を見て踏ん張った。

 丸い月が天の一番上に辿り着いたとき、狼はとうとう四肢を宙に投げ出し、冷たい雪の上にその身を横たえた。彼もまた、この世の一番高い場所に、辿り着いたのである。

 ここが、彼の死に場所だ。

 狼はどうにか首を動かして周りを見渡し、最期に上を見て、こう言った。

「綺麗だ」

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我狼 緋櫻 @NCUbungei

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