春は来る【2025改稿版】

流々(るる)

天気予報

 木枠の窓ガラスがうっすらと曇り始めている。

 テレビから流れてくる言葉にも耳が少し慣れてきた。

 見知らぬ誰かの声が聞こえているだけで心が安らぐことも知った。

 その声が女性へと変わり、キーボードの上に置いていた手を止めて顔を上げる。


 白み掛かったブロンドの長い髪を右の肩に垂らしたアナウンサーが、その薄茶色をした瞳をこちらへ向けていた。背後に映し出されたデンマークの地図の上には、万国共通ともいえるお天気マークが散りばめられている。


 どうやら今夜から雪になるらしい。


 窓の外へと目を移せばすでににび色の雲が覆っていた。変わりやすいと言われるこの国の天候も、さすがに今日は予報を外しそうにはない。


 この町へ来て三カ月、もう冬の厳しさを肌で感じてはいたが雪はちらつく程度だった。これからは雪の降る日が増えていくのだろう。

 独りで暮らすにはいささか広すぎるこの家にも慣れてきてはいたけれど、そもそも東京生まれなので雪に囲まれた生活というものに想像がつかない。幼い頃のワクワクした思いよりも漠然とした不安が勝っていた。


 自分で決めたことなのに。


 とりあえず暖房については地域熱供給と呼ばれるシステムがあるので心配はない。食材はどうだったかなと立ち上がって冷蔵庫に近づき、中を見ようとしたときチャイムが鳴った。

 きびすを返して入り口の木製ドアを引き開けると、見知った二つの顔があった。


「Hej」「こんにちは」


 もっこりとしたダウンジャケットを着こんだ背の高い老紳士がにっこりと微笑む隣で、口ひげを生やした仏頂面の吉村さんが小刻みに体を前後にゆすっている。

 きっと休憩時間に無理やり連れだされたのだろう。この町で僕への通訳が出来るただ一人の日本人である吉村さんは、薄い水色の診察着を着たまま、ジャケットを羽織っているだけの格好で寒そうにしていた。


「こんにちは。どうぞ中へ」

 二人を招き入れて椅子をすすめながら、テーブルの上に広げていたデザインスケッチを片付ける。


「すぐに帰るからそのままで構わないよ」

 椅子を引いて腰を下ろした吉村さんが低い声で言った。老紳士は微笑んだまま黙って僕たちのやり取りを眺めている。


「今日は何か?」

「いや、神父さんが君のことを心配してね」

 吉村さんがちらと横を見ると、それに応じた神父さん――顔は分かるけれど名前は覚えていない――がにっこりとうなずいた。


 初めてここを訪れたとき、こんな小さな町には不釣り合いなほど立派な聖堂に驚き、暮らしに深く根づいていることを知った。どうやら些細なことでもすぐに神父さんの耳に入るらしく、部屋を借りることが決まって最初のお客様は彼だった。

 まったく言葉が分からない僕に対し、片言の英語で「困ったことがあれば何でも相談しなさい」とだけ言い、微笑んだまま帰っていった。


「Sneheksen kommer」

 神父さんが何を言っているのか分からず、吉村さんへ顔を向ける。

がやって来るそうだ。ここらでは大雪になることをそう呼んでいる」

 あぁと合点した僕と目が合うと、神父さんはまたにっこりとうなずいた。


「テレビの天気予報を見ていて、雪になるのかなとは思っていました」

 僕の答えを聞いた吉村さんが体を捻ってテレビに目をやると、それにつられて神父さんもテレビの方へと向き直った。


「Han hørte vejrudsigten天気予報を聞いて、 og vidste,雪になると at det ville sne思っていたそうです。

 吉村さんの説明を聞いて、神父さんは口を閉じたまま鼻から抜ける音を出して相槌を打つと、用は済んだとばかりに立ち上がって入口へと向かった。慌てて後を追って見送る。

 吉村さんは座ったままテレビへと顔を向けていた。


Mange takありがとうございました

 僕が使える数少ない言葉で御礼を伝えて頭を下げると、神父さんは大きな右手でポンポンと僕の肩を叩いた。



 テーブルへ戻ると吉村さんがデザインスケッチを手に取り眺めている。

「コーヒーを淹れますね」

「仕事は順調なのか」

 画面越しではない応対コミュニケーションが久しぶりのせいか、噛合かみあわない会話を放っておいてドリップ式のインスタントコーヒーをカップに乗せる。


「あの爺さんは自分がやっていることはすべて誰かのためになると思い込んでいるんだ。だから、それを手伝うのは当然。俺にひと言の礼もありゃしない」


 スケッチを手にしたまま神父さんへの愚痴を言っている吉村さんも、なんだかんだ言って面倒見がいい人じゃないかと疑っている。そうじゃなければ、日本人などという珍しい人種が誰一人としていないこの町で、訪問診察の医師として十数年も暮らしていけるわけがない。

 カップを口に運びながら、吉村さんがぼそっと呟いた。

「このチェスト、なかなかいいデザインじゃないか」

 それは僕も気に入っている。



 この国の家具メーカーが日本向けのCMを作りたいと言ってきたのが始まりだった。

 素朴な北欧家具の魅力を知るにつれ、自分でも家具をデザインしてみたいと思い始めた。広告代理店の仕事の合間を見てはスケッチを書き溜めて、そしてついに夢をかなえるために、このデンマークの地へ――というのは半分が嘘だ。



「ごちそうさん」

 残っていたコーヒーを一気に飲み干した吉村さんは入り口の扉の前で振り返った。


「必ず当たる天気予報というのがあってな」


 その答えを聞いて鼻白んだ気分になり肩をすくめてしまった。東京にいた頃はこんな仕草なんてした覚えがない。

 吉村さんは右手をジャケットのポケットに突っこんだまま、ポーチの石段を降りていく。軽く左手を挙げたが今度は振り返らなかった。

 その背中越しに見える教会の尖塔には影を増した雲がのしかかろうといていた。



 夕食が済んだころから降り出した雪は、日付が変わろうとしている今も止む気配はない。

 WEBによる打合せを終えて、四枚のデザイン画をデータで送った。せめて一枚でもいい。採用されることを願ってパソコンを閉じる。


 窓で切り取られた白い世界から手前のガラスへと焦点を移すと、さえない顔をした男がぼんやりと映り込んでいた。

 怒っているような、悲しんでいるような。少なくとも笑っていないことだけは僕にも分かる。


 家具のデザインをやりたかったのは嘘じゃない。

 あのころの僕はただただ、他人に疲れていた。要求、プレッシャー、比較。時間的な制約の中で、何かを失いながら仕事をこなす。そんな環境から逃げ出したかっただけなんだ。

 誰も僕を知らない、言葉さえ通じないこの町で自分の時間を取り戻せると思っていた。

 でも……。


 点けっぱなしにしているテレビの音声が今も聞こえている。

 フリーのデザイナーが簡単に仕事を得られるほど甘くないのは、どこへ行っても変わらない。そんな分かりきったことからも目を背けていた。

 他人を遠ざけたかったはずなのに人恋しい。けれど、数カ月で戻るなんて恥ずかしくて出来やしない。


 ふと立上り、木製ドアを開けると眠気を吹き飛ばすほどの冷気が綿毛のような雪を舞わせて一気に流れ込んできた。ダウンジャケットを取り、外へ出る。すでにポーチの石段は雪に埋もれて見えなくなっていた。


 何だろう、この静かさは。

 風もなく、間断なく舞い落ちる雪に音が吸い込まれていくかのよう。

 誰の声も聞こえてこない。


 おそるおそる足を前に出すとゆっくりとくるぶし辺りまで沈んでいく。通りの向こうへと目をやれば、家々から漏れる光を受けて白く揺れる雪の幕が幾層にも重なっていた。


 いま、僕が見ている世界には僕しかいない。この雪を独り占めしたくなった。


 体の向きを変え、そおっと腰を下ろして雪の上に座り、小さな声で「せーのっ!」と合図をして両手を水平に広げたまま後ろへ倒れ込んだ。

(この年齢としになって、雪の上で大の字になるなんて)

 こうしている間にも真っ暗な空から僕の顔へ雪が落ちてくる。広げた両腕も背中も冷たくなっていくのを感じる。このままこうしていたら――。

 ふいに吉村さんと最後に交わした言葉が浮かんだ。


「必ず当たる天気予報というのがあってな」

 僕が黙っていると吉村さんは言葉をつづけた。

「どれだけ寒くなろうと、雪が降ろうと、春は来るから」


 そんな当たり前のこと、とあのときは思ったけれど。

 吉村さんなりの気遣いだったのかもしれない。


「よしっ!」

 気合を入れて上半身を起こした。頬の水滴をぬぐい、立ち上がって振り返る。

 雪の上に広がった人型のくぼみを見て、思わず笑みがこぼれた。

 肌の感覚が薄れていくなか、胸の奥に小さな芽吹きのような温もりが宿る。

 ほの白い世界の静けさに包まれて空を見上げた。――春は来る。



― 了 ―

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