星のあと、かわせみの記録

ベアりんぐ

星のあと、かわせみの記録


 桂花けいかは、実にみにくい人です。

 顔は、ところどころ、味噌をつけたような痣があり、くちびるは、ひらたくて、口裂け女のようです。

 足は、いつもおぼつかず、すこしもうまく歩けません。

 ほかの人は、もう、桂花の顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合ぐあいでした。


 私から見た姉の桂花はすくなくとも、そうだった。そういう扱いをされていた。そして本人はそれ以上の辛酸と苦痛を強いられていただろうことも、想像に難くない。

 

 みにくさから脱却しようという努力をしなかったからだ、と思う人もいるだろう。実際、桂花は変わらなかった。というよりむしろ、酷くなっていく一方だった。凄惨ないじめにあっていたから?高校卒業後に夜職へ就いたから?……定かではない。さまざまな要因が複雑に折り重なって、彼女を構成したのだ。

 

 実父から受けた傷が痣となり、閉ざすことに慣れたくちびるはひらたく育ち、貼り付けた笑みが頬を裂かんとしていた。どんどん歩みは下手くそになり、やることなすことすべてが裏目に出てしまうような女の子。


 しかし今、テレビをパッと点けてみれば、桂花のペンネームと写真(背を向けている)が映っている。名を「緑海みどりみ胡刻ここく」とし、現在世間を賑わせている。しかし彼女の声はない。写真と名前とそれらに付随する作品たちが、テレビの中の芸能人たちによって披露されている。

 

 人気のきっかけは一人の著名画家である。彼が何気なくネットサーフィンをしていたところ、偶然「緑海胡刻」へ到達したのだとか。数枚の絵を見て彼は確信した。「緑海胡刻」こそ天才だ、と(インタビューではそう言っていた)。

 

 そうして彼は持てる繋がりを駆使して、世界中に発信した。彼のように崇め、褒め称える者がいれば、一種の呪いとして恐怖する者もいた。しかし、「緑海胡刻」は稀代の才能を持っている。それだけは万人に通ずるものであった。

 

 併せて「緑海胡刻」には、絵と異なる作品がいくつも存在していた。小説、音楽、折り紙にワイヤーアートまで。そのどれもが驚異的……とまではいかなかったが、それぞれの界隈で大々的に注目を浴びるには十分な作品たちばかりだった。

 

 ある著名画家の発見が半年前。桂花のペンネームと背後写真が初めて地上波に映ったのが四ヶ月前。創作依頼が初めて来たのは……いつだっけ?

 

 しかしどうして桂花のことを、姉とはいえ、こんなに知っているのかを話さなくてはならない。「緑海胡刻」がどうして緑海みどりみ桂花けいかであると、胡刻が実父の苗字であると、から知っていたのか。ちなみに、胡刻が桂花の実父の苗字であると知っているのは、私と母だけである。

 

 とにかく、話さなければならない。彼女のことを。「緑海胡刻」として世間から称賛を浴びた、超新星のような人物が、緑海桂花として万人から疎まれ蔑まれてきた、人生を。




        * * *




 私、緑海みどりみ葉穏はのんの最初の記憶は、桂花が母に叫ばれ、ぶたれている姿である。私が三歳で、桂花が九歳の頃だった。無惨に散らばった皿の破片が、小さく灯るダイニング照明の光を反射し、ちらちらしていた。

 

 私はリビングに通ずる扉の陰から、こっそり、覗いていた。どうしてそんな場面に出くわしたのかは覚えていない。当時は、桂花がなにか悪さや失態をしでかしたのだろう、と考えていた。しかしそうではないと気づくのに、それほど時間はかからなかった。

 

 母は元夫と離婚してからずっと、桂花を邪険に扱った。それもとことん、だ。ものや虫ですら時折微笑みかけるだろう。しかし桂花に対して慈しみを見せたことはなかったように思う。それは両者の視線や言葉遣い、私や、私の一つ下の妹に対する母の対応から明らかであった。


 

 加えて桂花は、母以外の人間にも疎まれた。私の知る限り、彼女を好いた人間は存在していない。どこへ行ってもいやな顔をされ、クラスでも孤立していたと思う。

 

 実際こんなことがあった。単身赴任の父(桂花にとっては義父である)がまとまった休暇に際して、家族旅行を計画した。母と父、私と妹、そして桂花の五人で行った。父はあまり家庭を知らなかったが、それなりに家族像を持っていたらしい。


 泊まった旅館でそれぞれが羽を伸ばす中、桂花はトラブルに見舞われた。なんでも、廊下で転び、持っていた飲み物を他の旅客にかけてしまったのだとか。かけた、と言ってもほんの少し。しかも子どもである。

 

 きっと私や他の子どもであれば笑って過ごすようなものである。しかしそうはいかなかった。桂花は平身低頭、謝り倒した。土下座までした(私から見て、たぶん誰よりも綺麗な土下座だった)。まだ十四の女の子が、である。それは私たち家族が現場に到着し、相手にワケを訊くまで終わらなかった。

 

 それ以外にもたくさんの、おおよそ一人に降りかかる災難の容量を、遥かに超える災難が桂花に訪れた。加えてそれらが母に知れたなら、お釣りまでついてきた。


 

 そんな桂花の姉妹として(父違いである)、私と妹はあった。彼女のまともな話し相手は、私たちしかいなかった。特に私である。

 

 ……すべてを話すことは、残念ながら叶わない。が、なるべく時系列順に、彼女とのことを話していこうと思う。



 

        * * *




 まず初めに、私が八歳、桂花が十四歳になる頃のことだ。


「あ、あのさ葉穏ちゃんはさっ、わた、わたしとし、姉妹でっ、恥ずかしく、ない?」


 夜。桂花の部屋で、彼女はそう言った。話し方もそうなのだが、特筆すべきはその容姿。乱れた髪の隙間から見えるのは痣と、紫に変色し、盛り上がった左まぶた。しかし桂花はいびつに笑い、私の言葉を待っていた。

 

 恥ずかしくない、ときっぱり答えることはできなかった。出かかった言葉は喉弁につかえ、無音のうちに沈んでいった。私自身、彼女のことをどう捉えているのか、よくわからなかった(八歳なのだから)。しかし安易に、彼女を傷つける言葉を発してはならないと思った。それほど彼女は、当時の私から見てもあまりに可哀想で、無様でもあった。


 そのころ読んでいた絵本や児童書に出てくる不憫な子供たちが、あまり不憫でないように思えたのは、桂花の存在が大きかった。認知を歪ませて、それを鼻にかけていたわけではない。光を自然と歪ませるほどの重力を、桂花が持っていたから。

 

 簡素な部屋の隅を眺めながら考えていると、ひょっこり桂花が私を覗いた。より近づいた顔をよく見れば、口の端が切れて赤黒くなっている。しかし笑みはやめず、余計に傷口が広がっているようだった。

 

 彼女は醜く可哀想であったが、人と違う視点を持っていた――今思えばこのときから「緑海胡刻」はいたのだ――普段はそれらを言葉としないが、私や妹にはそのことをよく話してくれた(私は特に)。だから恥ずかしくない、わけではないが、面白い人だとは思っていた。

 

 だから、質問にはそう答えることにしたのだ。


「面白い、と思うよ」


「はっ、恥ずかしくはな、ない?」


「うーん、そんなに。でも服はきちんとしてほしいかも。もっとおしゃれしてもいい気がする」彼女の服はあまりにも、みすぼらしかった。制服も、私服も。


「服……ど、どうだろっ? へへっ、おこづかいもらっ、あっ、あんまりもらえ、貰えてないからなあっ」


 桂花はいっそうニヘラっと笑い、頬を掻いた。


 そう、彼女は家の支配者である母におこづかいを貰えていなかった。加えて、彼女の要求は、ことごとく却下されていた。桂花の言ったあんまりは、皆無と同義である。言葉を変えるのは私に対する配慮のようなものだった。

 

 しかし私も妹も、そんな母の横暴を知っていた。普段から私たちと桂花とでは態度が違っていたし、それを隠そうともしていなかったから。


 だから、なぜそのことを知っていながら桂花に服のことを言ってしまったのか、ハッとし、すぐに後悔した。同時に髪型や肌感のことを言わなくて良かった、とも思った。なにも良くはないのだけれど。


 その後は、特筆すべき会話はしなかった気がする。せいぜい変な豆知識を、桂花がもちょちょと話しただけ。

 

 しかし、似たような会話は後に何度かあった。桂花は数ヶ月に一度ほどの頻度で、私に同じことを訊いてきた。


 場所はいつもきまって桂花の部屋。そして夜。質問の内容はさほど変わらない。ただ、回数を重ねるごとに具体性が増していった。あるときは学校では恥ずかしくないか、あるときは家、あるときは街中。どんな様子であると恥ずかしくないか。歩き方や話し方、とにかくさまざまな視点で。


 けれど、私の回答もさほど変わらなかった。最初の回答から、服装やら髪やらをうんぬんかんぬん、というものがなくなっただけだ。ただ、面白い、ということだけは変わらなかった。その回答に、桂花は嬉しそうに笑っていた。いつも口元に血が滲んでいたが。



 しかしこの密会ともいえるものは、長くは続かなかった。桂花は十八歳で家を出たからである。裏切られ、追い出されたが正しい。




        * * *




 次に、私が十一歳だったときだろうか。


 桂花はその頃、ある女王様にいじめられていた。名を鷹峯たかがみね美桜みおという。


 以前から彼女は、桂花を執拗に嫌っていた。なぜそんなことを私が知っているのか? ……なんのことはない。彼女が家近辺まで、桂花をよく追い回していたからだ。なぜそこまで構うのだろう、と当時の私が疑問に思うほど。


 当然、いじめの範疇はとうに超えている。半ばストーカーにも思えてしまう。しかし桂花が高校二年のとき、当初のいじめすらも可愛く思えてしまうようなことがあった……らしい。もちろん本人の口から聞いたわけでもないし、彼女の学校生活を見ていたわけでもない。けれど、日に日により醜くなっていく桂花(それは表情や荷物などの無言の叫びたち)を見ていれば、すぐにわかることであった。



 それらがとうとう、私の目の前に現れた日があった。


 夕食の準備をしていた母に、受話器が渡った。私が子機を渡した。保護者の方に代わってもらえるかな、と言われたためである。少なくとも私にとっては保護者だったのだ。


 電話からはしわの増え始めたような声がした。相手が子供だったからか声音は優しかったが、その裏には疲労とストレスの色が確かに存在していた。


 子機を耳に当てた母は、数十秒のうちにみるみる顔を歪めていき、苛立ちをあらわにした。額に浮き出た青筋はピクリクピリとうごめいていたが、声音は申し訳なさで彩られていた。母は大人であった。桂花にのみそうでなかった、だけである。


 私はぽつり、家に残された。妹は歌のレッスンに行っていた。葉穏ちょっと待っててね、眼差しは恐ろしく冷たかった。



 一時間ほど待っていると、酷く沈んだ様子の桂花と母が帰ってきた。少しお部屋で待っててね、と言った母。私はリビングを後にし、扉を閉めて、さも部屋へ行ったかのように階段を上り、忍び足で階段を降りてリビングを覗いた(なぜそうしたのかは覚えていない)。扉の隙間、桂花の綺麗な土下座が見えた。母はムチのようなものを持っていた。


 桂花の、ごめんなさい。母の、産むんじゃなかった。私は途中から耳を塞いでいた。しかし目は離せなかった。そのあいだも、桂花はひたすら素晴らしき土下座を続けた。涙ぐむ声も、震えも、弁明もなく、ただ澱みなく謝り続けていた。……それが誤りであると桂花は知っていたみたいだけれど。


 ムチと骨と皮膚のロンド。奏者は母で、楽器は桂花。ときおり合いの手挟まって、演奏は母のため息で締めくくられた。私は立ち上がり、拍手の代わりに自身の心臓を変に鳴らした。おじぎをしたのは桂花だけである。


 

 後年、高校生となった私に、桂花が事の真相を話してくれた。話す流れとなった、と言ったほうが正しいだろう。


 下校中に迷子を見つけ、一緒に母親を探したのだとか。無事その子の母親は見つかったのだが、母親は桂花の見た目から、人攫いと間違えたらしい。母親は盗人から取り返すようにその子の手を引き、弁明しようとする子の言葉も聞かずに、桂花をひどく罵った……という。それで終わればまだましだった。


 問題は、あのとき鷹峯美桜がその現場を目撃していたということである。


 彼女は賢かったようだ(桂花はイジメの張本人でさえ良い面しか語らなかった)。まるで粘土のように事実と虚構を織り交ぜ、吹聴し、教員や生徒をけしかけた。中核に真実はない。


 母が学校に呼ばれたのは、それらの虚偽問題が生徒からその親へ、親たちから近隣住民にまで広がったことで、いくつかのクレームが入ったからだ。それに桂花は教員たちから理解されていなかった。救いたいと思う様相をしていなかったから。


 

 ……しかし私も似たようなものだ。あの鷹峯美桜や、母と。姉妹であるがために、一種の尊敬や愛があっただけなのかもしれない。もしも他人であったなら、その他大勢の人と同じように、こちょこちょと囁いて簡単なものにしてしまっていたかもしれない。


 そんな私の漠然とした、不明瞭で勝手な悩みを、桂花は見抜いていたのかもしれない。もしそうでなくとも、わざわざ私に対して手紙を書き置くなどしないはずだ。考えすぎかもしれないが。




        * * *




 だからその後、すぐに桂花が昼間の星のように消えたことは、不思議なことではなかった。大抵、人は最期に星や風、あるいは生物となって託そうとする。桂花も例外ではなかった。そして今、誰よりも燦然と輝く星となったのは、すべてを溜め込み、すべてを作品へと昇華したからにほかならない。死にすら変換しなかった。



「急にどうしたの? お母さんすぐ帰ってきちゃうよ」


 ビル街の向こう、赤く燃えるような西空に、薄曇りのなかそよそよと降って煌めく雪。象徴的な冬の夕暮れに、桂花は現れた。


「玄関で大丈夫、すぐ行くから」


 その日の桂花はまったく別人のようだった。数ヶ月前に会った彼女はどこにも存在していないような……そも、これまでの彼女は最初から嘘だったみたいに、表情はどこか澄み切っているようで、すこし、怖かった。


「……上がっていかないの?」


「すぐ帰ってくるんでしょ? それに、上がってもいられないから」


 声音もどこか冷めている。特有のどもりもない。


「私の部屋で静かにしてたら大丈夫かも。だから、さ?」


 変な気がした。咄嗟に、普段は口にしないことを言った。呼び止めたりしないのだ、私は。


「いい、葉穏ちゃん、私はもうすぐ遠くへ行っちゃうの。もう会えないぐらいに遠いの」


「会えないって……どこに行くの? 詩音だって遠くにいるのに。とにかく上がって話そうよ」


 なぜ妹の名前が出てきたのかはわからない。ただ、妹は声楽を学ぶために遠方の高校に通っていた。家から出て寮で暮らしているのだ。それと結びついたからなのか? それとも疎遠になっていたから?


 私も桂花も、平常ではなかった。桂花は、私の問いや提案をまったく無視して、らしくない素振りで言った。


「葉穏ちゃんはそのままで、健やかにいてね。でもなるべく、芯を持っていてね」


 振り返り扉を開ける桂花。彼女の空いた左手を、私は掴んで止めた。


「行っちゃだめだよ」


「ばいばい、もう話せないよ、ばいばいね」


 私の手に力は入っていなかった。桂花は私の手をするりと解き、扉を閉めて行ってしまった。すきま風はこれまでにない香りを運んだ。それは冷たくなく、温かくもない、真空そのものが吹いたようだった。


 私は追わなかった。桂花を見て、もう追ってもどうしようもないことが、わかってしまったからだ。




 その後、桂花がやってくることはなかった。連絡先も使えなくなっていたし、彼女が勤めていた場所にもいなかった。


「ポンっと消えたみたいね。まあここらじゃ珍しくもないことよ。……それよかさっさと出ていきな。夜になればここらは、あんたのようなやつ、すぐ攫われちまう」


 私は、桂花の勤め先の店長におじぎをして、そそくさと店を出た。夕暮れの街、ハエもたからぬような濃い香水の漂う道を、足早に歩いた。


 桂花の住んでいたアパートに着き、ドアノブを回すとすんなり空いた。中には誰もおらず、若干のカビ臭さが身体を通り抜けた。陽はすでにビルの向こうへ。宵の明星がぽつりと輝き出していた。


 室内には古びたラップトップと、幾重にも積み重なった紙。それ以外はなにもなかった。本当に、なにもなかったのだ。


 紙一枚一枚には、文字やら記号やらが書かれていた。変に崩れた絵などもあり、それらがところ狭しと一角に詰められている。姉の字であることは一目でわかった。でもこの絵は……?


 パラパラと紙束をめくりながら窓辺を見れば、遠くの線路で電車が揺れた。ほんの少し視線を下げる。なにか一枚、まったく違う紙質の、丁寧に折り畳まれたものがあった。めくる、一枚だけ。


 手紙だった。



 

 拝啓


 すっかり枝葉も燃え落ちて、木々には水葉が盛っています。時に雪などちらつきますが、体調を崩すことがないようお祈り申し上げます。


 この手紙が読まれるころ、私はとうに、この部屋を去っていることでしょう。しかし良いのです。私はあまりに醜いし、惜しむ者はおりません。ですからもし、この手紙を読んでいるのが……(ここは何度も消された跡のある空白)でなければ、捨てていただいて構いません。


 ここまで読んでいるということは、きっとあなたが読むべきだと感じたのでしょう。きっとあなたであると、信じています。お元気ですか? 別れよりいくら経ったかはわかりませんが、元気に過ごせていますか? 私からの心配などいらないでしょうが、念のためです。しかしあなたのことです、すぐに読んでいるのでしょうね。


 あまり伝えることはありません。しかしどうしても、してほしいことがあるのです。それは作品(誰にも見せたことのないものです)を、どうか放ってあげてほしい、ということです。私自身の手で……とも考えましたが、あなたにしてほしいのです。そして見てほしい。誰よりもそばにいた、あなたにね。作品はすべてパソコンの中です。壊れていないことを願っています。


 それだけです。私はどこか遠くにいます。かならずいます。そしていつまでも、あなたの幸せを願っています。さようなら。


 敬具




        * * *




「これを残した桂花……緑海胡刻がいまもどこかで、自身の作品が鑑賞拝読されていることを、知っていてほしい。そしてこのも、できればどこかで、聴いていてほしいと願うばかりです」


 ホルンを取り出し、楽譜をセット。たった一人の壇上に、集まった観客は視線を離さない。


「それでは私、緑海葉穏に残された曲である……『ホルン独奏曲 睡蓮』」



 

 静まった会場にホルンが泣く。あまりに小さな音は、いまにも消え入ってしまいそうなほど。


 しかし曲は、やがて朝陽のように昇り始める。これまで眠っていた鳥たちが、山間の大火事を見て一斉に鳴き始めたように。盛り上がり、しかし水面を滑るようにおおらかで。


 同じ音を繰り返す。かと思えば新鮮な空気。振動は止むことなくなめらかに続き、華やいだ、と思えばまた消え入るようで……そうしてあっという間に曲は終わった。会場にいた誰もが、自身の時間を奪われた。



 

 ホルンを椅子に置き、楽譜を取る。一人の男がフライング気味に拍手をした。他に釣られて拍手をする者も現れた。しかし誰かが拍手を止め、またも会場には沈黙。奏者は楽譜を持ち、立ったまま微動だにせず。観客は演奏の余韻と、謎の時間による困惑。とても奇妙な時間が流れた。


 すると、しばらくして――奏者であるは、手にしていた楽譜を天へと投げた――楽譜は舞う。壇上のライトを反射し、彼女の足元へとヒラヒラ落ちていく。そしてゆっくりと、彼女はお辞儀をした。今度こそ観客は、盛大な拍手喝采によって彼女の演奏と、緑海胡刻の楽曲を讃えた。


 最後の楽譜嵐、あれはまったく不思議で、同時に象徴的であった。




「演奏の最後、どうして楽譜を?」


 会場の楽屋にて。私はさまざまなことを緑海葉穏に質問をした後、そう言った。恐らく気にならなかった者はいないと思う。


「あれまでがで、楽譜の中にありました。音が終わった後も楽譜は続いていたんです。ずっと空白の先、ひとつだけ音符を置いて」


「……ありがとうございます。最後に、お姉さんのことはどう思っていましたか?」


 彼女はずいぶん言葉を探しているようだったが、きっぱりと、嘘らしいものはなく、答えてくれた。


「やっぱり好きだったんです。どれだけ蔑まれていても、彼女は本当に、おもしろい人でしたから」

 

 彼女は爽やかにそう言った。表情に雑多の憂いはない。


 演奏前の話から、複雑で大小のある感情を「緑海胡刻」……桂花さんに抱いていたことは明白だ。きっと言葉では表されていないものもあるだろう。


 彼女はひとつ、それらを昇華できたのかもしれない。でなければこんな、晴々しい顔にはならないだろうから。


 私は礼を言って握手し、楽屋を離れた。



 

 会場の外では何組かが、演奏の余韻に浸っていた。さまざまな声が夜の闇に溶けていく。夜風とともに電車の音、まったく別の音も流れていく。


 そんな時、空になにか一筋の光がよぎった。流れ星である。


 私は立ち止まり、しばらく空を見上げた。流れ星はとうに消えてしまっていたが、幾星霜の宇宙に無数の星があった。そこに「W」のアステリズム。ティコはあまり見えていない。


「おっと」


「あっ、ごめんなさい」


 誰かがぶつかる。私はすこしよろめいたが、痛くもなかった。相手はお辞儀をしながら、私の前に伸びている道をゆっくり歩いていった。


 私も行かなければ。明日はインタビューの内容をまとめ、仕事をしなければならない。


 私は歩き出し、ちらりちらりと空を見ながら道を行く。燃え続けている星を見ながら。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星のあと、かわせみの記録 ベアりんぐ @BearRinG

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画