妖精のメガネ

鳥尾巻

妖精の粉

 ある朝、鬱々とした夢から覚めると、隣に寝ている夫が妖精になっていることに気がついた。

 妖精といってもアニメに出てくる可愛らしいものではなく、古い神話や残酷な御伽噺に出てくるような、薄い翅の生えた異形の生き物だ。昨晩は疲れ切っていて、メガネをかけたまま寝落ちしてしまっていた。私は慌ててメガネを外し、まじまじと夫の顔を見つめた。視界はぼやけているが、それは数年連れ添った夫に見える。少し不機嫌そうに眉を寄せて眠るさまは見慣れたいつもの光景だった。

 私は再びメガネをかけて、彼の方を向いた。薄い翅が呼吸に合わせて、カーテンの隙間から差し込む朝陽にきらきらと震えている。

 やはり原因はメガネのようだ。



 思えば昨日は疲れが限界だった。

 お子さんが熱を出して早退した後輩の代わりに仕事を引き受けたからだ。遅くなると夫に連絡を入れると、うちは子供のいない共働き家庭だし、そんなにがむしゃらに働く必要はないと嫌味を言われた。要するに家事もできない(しない)自分の世話は誰がするのだ、と言いたいのだろう。

 でも私は今の仕事を手放す気はなかったので聞かなかったことにした。いつ何が起きるかなんて誰にも分らないのだ。備えあれば憂いなし、だ。

 こんな時のために、手作りにこだわる夫には、冷凍庫に作り置きしてあるおかずを温めるように言ってある。まさかそのくらいはできると思うのだけど……。

 キリのいいところまで仕事を片付け、さすがに目に違和感を覚え、PCを閉じた。疲れた足を引きずって、いつもとは違う時間の電車に乗る。暗い窓に自分の顔が幽霊のようにぼんやりと浮かび上がるのを、なんの感情もなく見つめていた。

 駅からマンションまでの帰り道、夕方はそれなりに活気にあふれている商店街も、ほぼシャッターが下りて暗くなっている。コンタクトを入れている目がごろごろする。私は何度か目を瞑り、開き、それでも消えない違和感に微かな苛立ちを覚えた。家に帰ったら、メガネにしよう。ずいぶん使っていないけれど、一時しのぎにはなるだろう。

 急ぎ足で歩いていると、商店街のメイン通りから外れた細い路地の奥に、まだ煌々と明かりのついている店があった。目を凝らすと「丸井メガネ本舗」という掠れかけた看板が見える。どうせ遅くなるなら、ついでにメガネを買っていこうか。普段なら寄り道などせずに帰るけれど、正直その時は家に真っ直ぐ戻りたくない気分でもあった。


「いらっしゃいませ」


 レトロな摺りガラスのドアを押し開くと、奥の方から上品な男性の声が聞こえた。店内にはクラシックが流れ、壁にかけられた時計もアンティークな雰囲気を醸し出している。

 私は平台やショーケースに並べられたメガネを眺めながら、声のする方へ歩いて行った。奥のカウンターの向こうに、紺のスーツを着た白髪の男性が立っている。老齢ながら背筋はしゃんとして、鼈甲縁のボストン型メガネの奥の瞳は理知的で穏やかだ。


「こんばんは。まだ営業してますか?」

「こんばんは。ええ、うちは遅くまでやってます。今日はどのようなメガネをお求めですか?」

「目が疲れてコンタクトだとごろごろするんです……。前のメガネも度が合わなくなってると思うので、新しく作ろうかと」

「そうですか。いくつかご提案しても?」

「はい、お願いします」


 店主と思しき男性は静かに頷くと、私に座って待つように椅子を勧めてくれた。気遣いはありがたいが、そんなに疲れているように見えただろうか。彼は白い布の手袋をはめ、しばらくしてビロード張りのトレイに、何本かのメガネを載せて戻ってきた。

 オーバル、スクエア、ボストン、ウェリントン、フォックス。フレームの型は様々だが、私の好みはオーバルだ。楕円のレンズは服装や髪形を選ばずかけやすい。しかし気になったのは、クラシックなウェリントン型だった。上辺が下辺よりも長く、少し丸みのある四角いメガネだ。ベージュとゴールドを混ぜたような、細いフレームとテンプルの不思議な光沢に目が惹きつけられる。


「これ、素敵ですね」


 私がおずおずと指さすと、店主は楽しそうに口角を上げ、丁寧にメガネを持ち上げた。


「かけてみますか? きっとお似合いになりますよ」


 私は頷いてコンタクトレンズを外した。そっとかけられたメガネは重さを感じないほどに軽く、度を合わせてもいないのに視界がクリアに見える。その時は不思議にも思わず、顔の前に立てられたスタンド式の鏡を覗いてみると、そこに映る私の顔は、ほんの少し生気を取り戻したように見えた。本当だ。まるで私のために誂えられたようなメガネ。


「これにします」

「ありがとうございます。これで周りがよく見えるようになりますね」


 メガネを着用すれば見えるようになるのは当たり前だ。だが、私はその言葉の意味を深く考えることもしなかった。支払いを済ませると、店主は店の出入り口まで送ってくれた。アーケードの隙間から覗く半分の月もくっきりと目に映る。

 振り返ると、月光が店主の髪を銀色に照らし、その口元が意味ありげに弧を描くのが見えた。



 そうだ。

 あの後帰宅したら、片付けていない食べ物や食器がテーブルの上に置かれたままなのを見て、また疲れがぶり返したのだった。きれい好きな夫にはいい顔をされないだろうが、お風呂は朝入ろうと思い、後片付けと着替えだけは済ませてベッドに潜り込んだのだ。メガネを外した記憶はない。通常なら鼻や耳の付け根が痛んでもよさそうなものだが、新しいメガネはまるで私の一部のように馴染んでいる。

 それにしても。なぜこんなものが見えるのだろう。すぴすぴという夫の平和な寝息を聞きながら、しばしメガネを着けたり外したりしてみる。やはりレンズを通すと妖精が見える。細身で神経質ではあるものの、人間の時の夫はとうてい妖精には似ても似つかない。そのギャップがおかしくて、変な笑いが洩れそうになった。

 そうこうするうちに、いつもの起床時間が迫っていることに気づく。不思議なことはさておき、今朝はお風呂にも入らなくてはいけないし、朝食とお弁当の準備もしなくてはいけない。もう体に染みついた習慣と時間感覚が、私を無意識に動かしている。

 慌ててシャワーを浴びて、朝食とお弁当を同時進行で作っていると、妖精(夫)がのんびりと起きてきた。本人はまったく違和感に気づいていないようだ。となると、これは私の見え方が変わっただけらしい。平静を装って「おはよう」と言いながら、淹れたてのコーヒーを差し出した。不機嫌そうな妖精は、きらきらとした虹色の粉を振りまきながら、キーキーと甲高い声で何かを呟く。耳を澄ませてよく聞いてみると、それは昨日のことに対する小言のようだ。


「まったくきみは鈍臭いな。そんなんだから他人の仕事を押し付けられるんだ」

「困ったときはお互い様じゃない」

「きみが困った時に手を貸してくれる人なんているのか?」

「いるわよ」


 そうは答えたものの、残業や手間のかかる仕事を任せられるのは、独身者かサポートしてくれる配偶者がいる社員が多い気がした。それについて不満に思ったことはない。私たち夫婦はまだ子供がいないけれど、子供を持たないまでも、親や家族の介護などでいつか同じ立場になるかもしれない。

 考え込んでいたら、また妖精が騒ぎ出した。


「え? なに?」

「箸がないよ。手で食べろって?」

「はいはい」


 私だって疲れているのにお構いなしね。箸くらい自分で出せばいいのに。いつもは腹立たしく感じるその態度も、妖精の姿だとなんだか面白い。伝承の中の妖精というのは、気まぐれで人間の都合など関係なしに好き勝手をすると聞いたことがある。

 私は呆れながら妖精に箸を渡した。



 今日はゴミの日だ。出勤のついでにゴミ袋を持ってマンションの収集場所に行くと、そこは幻想的で醜悪な魔法生物の溜まり場と化していた。

 緑色の髪をした木の精のような美しい女性、髪を振り乱し真っ赤な目をした老婆、ひれのついた下半身を持ち、口から泡を吐く女性。中でも強烈だったのは、裸で山羊の角が生えた足が馬の男性。露出した下半身に立ち上がった性器も丸見えだ。

 あれはなんという生き物たちだろうと、ネットで検索してみる。ドライアド、バンシー、セイレーン、最後はサテュロスか。これもメガネのせいならば、人間だと誰なの? 私はうつむき加減に彼らに挨拶をしながら、細い縁の上の方から覗き見る。

 ドライアドは時々見かける三階の色っぽいおねえさん。バンシーは近所の人を見かけると掴まえては愚痴ばかり言う一階のおばあさん。セイレーンは噂話が好きな五階の人妻さん。

 そして、驚くべきことに、サテュロスはうちの隣の若い父親だった。よくベビーカーを押して歩いているのを見かける。今どきのイクメンパパのようだが、今はセイレーンとドライアドに下半身丸出しでデレデレしている。保護者会活動を頑張っていると聞いたことがあるが、実は若いママや保母さん目当てなのかもしれない。


「おはようございます。ねえねえ、知ってる? 四階の山本さんの奥様、不倫してるんですって」

「おはようございます。そうですか。急ぎますので、失礼します」


 セイレーンの口から出る大きな泡が私の頭を包む。そういうの関わりたくないのに、いつも絡んでくるのよね、この人。二重映しの視界に、なんだか頭痛と眩暈ががしてきた。

 あまりものごとに拘らない質ではあるけれど、こんな機能がついているのは、少し困る気がする。もし返品が可能ならば、今日の帰りにでもあの店に行って、どうにかならないか聞いてみようと思った。



「昨日はすみませんでした」


 職場に着いて早々、緑色のとんがり帽子を被った小人が声をかけてきた。あれだわ。童話に出てくる働き者の小人。たしかレプラコーンて言ったかな。そっとメガネをずらして見ると、昨日早退した後輩の香川さんだった。


「いいのよ、まだお子さん小さいものね。私に手伝えることがあったら言ってね」

「ありがとうございます! 私も何かあったらお手伝いします。あ、先輩、今日はメガネなんですね。素敵です」

「ありがとう」 


 人間の時でも小柄な香川さんは、ぴょこんと頭を下げてちょこまかとデスクの間を歩いて行った。

 見渡せば社内は異形の者であふれていた。朝礼でやたらと自分語りの長いパワハラ気味な加藤部長は、腐ったような臭いを放つ巨大なオーク、部下の手柄を吸い取る寺田課長は青白いヴァンパイア。道理であの人のそばにいると疲れると思った。そして、サバサバしていると言えば聞こえはいいが、単に口が悪いだけの派遣社員の元木さんはハーピー。上司にへつらい自分たちだけでは何もできない人たちはゴブリンの群れ。遠目には、ユニコーンやケンタウロスのような生き物も見える。確かめてはいないが、きっと若手や仕事のできる人だと思う。

 どうやら、その人の本質のようなものが、魔法的生き物の特徴として見えるらしい、と気づいた。だからと言って何ができるわけでもないが、同じ人間だと思わなければ、多少は諦めがつく。そもそも、人間同士であったとしても、話が通じる人などほとんどいないものだ。

 じゃあ、私自身は? 自分の姿を鏡で見ても、いつもの自分しか映らない。私は誰かがかけたこのメガネで見たらどう見えるのだろう。

 PCに向かい、ぼんやり考え込んでいると、部長が私を手招きしているのが見えた。オークの鼻息の荒さから察するに、きっとろくなことではない。その傍では不気味な笑みを浮かべたヴァンパイアが佇んでいる。


「お呼びでしょうか」

「この前の案件、どうなった?」

「は?」

「寺田に聞いたらきみに任せたと言っているんだが」


 私はオークとヴァンパイアを見比べた。おそらく、任せられてもいない案件の責任を取らされそうになっている? 課長は人の手柄は横取りするのも上手だが、失敗を人に被せるのも得意なのだ。

 昨日、香川さんが早退する時に分かったのだが、彼女一人では抱えきれないほどの仕事を丸投げされていたのだ。たしかに引き継いだ私が手を入れた部分もあるが……。きっと私と彼女とのやり取りを見ていたのだろう。

 しかしもとはといえば課長の責任では? 助けを求めるように課長を見たが、彼は「早く答えなさい」などとニヤニヤするばかりだ。言い返すだけ疲弊していくだけだ。関わった以上、彼女一人の責任にするのも申し訳ないし……。私は諦めて頭を下げようとした。


「部長、待ってください。それならもうできてます。先輩が私に任せてくださってた分が遅くなり、申し訳ありません」


 いつの間にか隣に立ったレプラコーンこと香川さんが、忙しない仕草で頭を下げている。働き者の小人は、恩返しをしてくれることもあるのだ。部長たちに聞こえないように「ありがとう」と囁くと、とんがり帽子がぴょこんと可愛らしく揺れた。



 なんとか定時に上がり、丸井メガネ本舗へと急ぐ。今日も散々だったせいで、なんとなく頭痛がするし、腕の内側の皮膚が痒い。多分ストレスによる片頭痛と蕁麻疹、と今まで思っていたけれど、魔法生物たちの影響かもしれない、なんて非現実的な考えが浮かんだ。

 待って、非現実的なのは果たしてどっち? おかしなメガネをしている私? それとも人間の皮を被った異形たち?

 夕暮れ時の商店街は活気にあふれ、会社帰りのサラリーマンや学校帰りの学生でごった返している。あの店があった路地はどこだろう。焦燥に突き動かされるように古ぼけた看板を探す。

 ふと、あの店主の白髪頭と姿勢のいい後ろ姿を見た気がして、彼のいた方角に足を向けた。さして曲がりくねってもいない薄暗い路地の突き当りまで歩いていく。そこには埃を被った摺りガラスのドアと、汚れた壁があるだけだ。あの晩見たのはこんなに寂れた場所ではなかった。

 私は手が汚れるのも構わず、ガラスの埃を拭いて、奥を透かし見た。中は真っ暗で人の気配がしない。


「誰かいませんか?」

「あんた何してるんだ?」


 後ろからしわがれた声がして、私は慌てて振り返った。町内の人と思しき老人が怪訝そうに私を見ている。人間だ。人間?


「ここにメガネ屋さんがあったと思うんですけど」

「店なんかないよ。ここはずっと前からこんなふうだ」

「そんな……」

「疲れてるのかね。早くお帰り」


 老人は素っ気なく言って踵を返した。

 私は暗いガラスに映る自分の顔を呆然と見つめる。元より、返品するつもりで来たのに、なぜこんなにショックを受けているのだろう。見えるものが変わったくらいで世界は変わらないのに。

 そうか、変わったのは私の方だ。「これで周りがよく見えるようになりますね」という店主の言葉が脳裏に蘇る。


「なん、だ……」


 無性におかしくなってきて、力ない笑い声が漏れた。私は汚れた手を見下ろし、軽く打ち合わせる。傾きかけた陽光の中で、指先から離れた塵が虹色の粉のようにきらきらと宙を舞った。


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