キエルマツリ
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キエルマツリ
昭和の 赤土は、死を運び、声を抱えた。
黒い着物の葬列が村を横切り、白い三角の紙が風に揺れた。
その景色は幼い日の記憶として埋め込まれ、今も赤土の匂いとともに蘇る。
村が消えても、昭和の声だけは赤土の下で呻き続けていた。
彼女は中横線の窓から、沈む夕陽を見ていた。ビルの谷間に橙色の雲を掲げて、雨上がりの空は都市部には珍しく透明である。口の端だけで笑う中年の女に誰も気を留めないだろう。それが嬉しい。北東に向かい走り続ける列車がたどり着く場所は、黄昏の赤さも無しに突然宵闇が訪れた。
都会の透明な空を抜け、列車はやがて山間へと入る。
今日は駅ビルの十三階にあるイタリアンレストランでランチを食べた。丁寧な態度で給仕が運んでくる皿に、ゆっくりとフォークとスプーンを入れる。
布のテーブルクロスの上に、舅や姑の決して喜ばないパスタとパンとバター、生野菜のサラダが並んでいる。
イカスミの黒いパンにバターを塗る。彼女の所作はよどみない。カップルや若い女性のグループに囲まれて、一人で食事する女は、少し奇異に映っているかもしれないが、気にしない。
赤土の匂いは、幼い日の記憶を呼び戻す。
黒い着物の葬列、白い三角の紙、長い列が赤土の道を進んでいく。
階下の高島屋を見て回り、なるべく安価な下の階で、シルクのスカーフを買う。二ヶ月前には淡水パールのネックレスを選んだ。
その暗がりの中で、幼い日の記憶が胸に蘇る。
赤土の道を、黒い着物の親戚たちが列をなして歩いていた。
男衆は棺をぶら下げ、頭には白い三角の紙をつけていた。
長い葬列は赤土を踏みしめ、やがて墓の影へと吸い込まれていった。
快速は止まらない駅から車で一時間、そのルートは大蛇がのたうち回った挙げ句に絶命し、そのまま山道に姿を変えた場所かもしれない。
落石の多い崖を内側に、深淵を覗き込むとこんな気持ちになるであろうかという暗闇を外側に、忙しく左右にハンドルを切る。標高差400メートルはあるかというような山中にその村はある。
櫛ヶ原村。かつて人口千人を誇った自治体は、補助金規制で吸収され、忘れられた山村となった。家の横も背後の山も、すべて墓に囲まれている。苔むした石、傾いた墓標、夜の湿気に濡れた赤土の匂い。共同墓地には個人の区画はなく、土葬の棺が腐り、地面が沈んで傾いた石が並ぶ。
彼女が嫁いできたとき、道はまだ舗装されていなかった。
苔むし、元の形もわからなくなった墓石は、いつの時代ともしれぬ。傾いているのは土葬のため棺桶が腐り、土が落ちた、比較的新しい石。共同墓地には、個人所有の区画がない。火葬が義務づけられてからは、適当な場所を掘っては遺骨をバラバラと放り投げて埋めるのだ。
赤土は家を支える土であり、墓を覆う土でもあった。
その境界が失われるとき、村は生と死を同じ赤土に呑まれていく。
夫が埋められるとき、妻は土葬の場所に行かないのが習慣である。葬式は村の数少ない娯楽の場であれば、墓堀役、葬列の旗持ち役から縁起物の小銭を投げる役までしっかり決まり、厄払いになるというので、組の衆が争って拾う。彼女は喪服姿でその様子を冷めた目で眺めていた。三日三晩、次々と訪れては飲み食いし、一度腰を据えたら帰らない弔問客も、彼女が作る客のための総菜を、泊まり込みで居座り平らげてしまう親戚も、すべてをどうでも良いと思った。
今はぬばたまの闇に包まれ、共同墓地の方角さえ見失っている。夜陰の中に、戦国時代からの死体が降り積もって成された土塊達が音無き声を発する気がした。いや、現実に会話していた。
「おお、あの女が帰ってきた。」
意外だと言わんばかりの口調であったが、意識の裏には、人形神楽のように思い通り演じてくれる、という響きがある。
「ぬしが、帰れと命じたのであろう、哀れなことだ。」
最初に響いたのは、織田方に付いた武将の声だった。
「我が
続いて、武田方の市川弥五郎の声が低く囁いた。
「我らはただ命じられるままに斬った。だが赤土に還っても、村を
櫛ヶ原守景は報償の代わりに紋を与えた。
武田の鎧を売り飛ばしておきながら。
名刀は蔵にしまい込んでおる。
誰が手入れをするのじゃ、哄笑
声は次々と重なった。若い兵の叫び、老いた女の嘆き、名もなき農民の呻き。百の囁きが夜の赤土を震わせる。
「我らは命じられるままに斬った。」
「子を奪われた母の声は、赤土の下でも消えぬ。」
「血に染めた命令を悔いる。だが、悔いは子孫を救わぬ。」
相槌を打つ声は、
嫁がイタリアンレストランで食事をするような時代になった。
ずっと以前から、そのしわがれた声の女は根の国をでることはない。
嫁が絹を買った。嫁が真珠を買った。
電車とやらに乗り、別の世界へ逃げようとしている。
声は重なり合い、地面の下から湧き上がるように響いた。
若者の怒号、老婆のすすり泣き、幼子の呼び声。
怨霊の群れは、村の未来を見透かしているかのようだった。
まるで赤土そのものが呻いているように。
「キエルマツリは続かない。」
その声に重なるように、別の囁きが聞こえた。
男はダム湖の横のトンネルを歩いていた。湿った空気が肌にまとわりつき、足音が反響していつまでも繰り返す。村娘と交わした約束が胸に残っている。
名を呼びながら歩き続けても、何処まで行ってもたどり着かない。トンネルの出口は見えず、ただ湖面に揺れる月の光が彼を嘲笑うように照らしていた。
ふと気がつく。ああ、この村はダムに沈んだのだ。沈んだ家々の影が水底に眠り、約束もまた水に呑まれていた。
日本家屋には江戸時代から引き継がれてきた女の悲鳴が染みついている。
村に生まれては死んでゆく代々が、
嫁に田畑をまかせ、着物を縫わせ、食事を作らせ、子供を産むことを強いられた。
産気づくまで畑で芋を掘る。
生んだらすぐに畑に戻る。
村の外には決して出さず、「食わせてやるからには働け」といわんばかりに、食べさせてやったと恩に着せ、みすぼらしい雑炊の、見返り以上の労働を女から奪って生きてきた。
とうとう家に着いてしまった。彼女はため息をつく気力さえ無い。
その瞬間、足音は自分のものではなくなった。湖底から響く無数の足音が、赤土の記憶と重なった。
「キエルマツリは続かない。」
声と足音が一体となり、夜の共同墓地は静まり返った。だが、赤土からの響きだけが、永遠に続いていた。
雨漏りする、床も抜けそうな家だった。貧しさに歪んだ人間性は、生涯変わることがない。家にとっては大切な跡継ぎを生んではまた、嫁を取って、働かせて食いつなぐ、跡継ぎの子以外は働きに行かせる。そういう家柄だった。
結婚が決まり、初めて夫の家に挨拶に訪れたとき、舅が発したことばは、
「百姓しろとは言わんでな。」だった。
恩着せがましい。赤土の下から声が響いた。
「キエルマツリは続かない。」
家の主は精一杯の恩恵を、若い嫁に与えたつもりだったが、肝心の若い嫁は、いかにも現代の普通の女らしく、もとより農家の嫁になったつもりはない。男と結婚しただけのつもりだ。これまでに義理も恩も受けていない他人の家で農作業を免除されてもありがたくも何ともなかった。
村の赤土の道は、茶畑の斜面へと続いていた。
雨に濡れた葉は黒々と光り、摘み残された茶の根が赤土に絡みついていた。
その下には川が流れ、音は遠く響くばかりで、誰の声も届かなかった。
「ただいま。遅くなりましてすみません。」
と奥に声を掛けると、
「おかえり。実家のお父さんの具合はどうだった。」
と姑が訊く。実家など、結婚以来寄りつきもしないでいるが、女は優しげな口調で答えた。
「随分弱ってきましたけど、まだ一人で歩けるし、あちらはあちらで家族があるので支えてくれると思います。」
話を打ち切るように、
「夕飯を作りますわ。何にしましょう。ジャガイモを煮ましょうか。こんにゃくを煮ましょうか。切り漬けはまだ終わっていませんよね。」
手早く、ご飯をとぎ、水は二目盛りほど多めにして炊飯器のスイッチを入れる。それだけで、電圧が下がり、蛍光灯は一瞬揺らめいて少し暗めに部屋を照らしている。
家の壁土が剥がれ落ちると、赤土の土台がむき出しになり、
さらに崩れると窓の外に墓の影が見える。
茶畑と墓と川が、同じ赤土に支えられている。
村は孤立していた。赤土が崩れるたびに、茶の根も墓石も川の音も、
すべてが一緒に沈んでいくようだった。
かつては夫婦の部屋で、今は彼女の部屋だった。
親戚が泊まりに来ると、着替え中で彼女が裸でも勝手に入ってくるので、夫婦の部屋と認知しているのは彼女だけだったが、とにかく今は彼女一人だけの一間で、今日の荷物をほどく。
昭和の赤土は、まだ死を運ぶ道だった。
黒い着物の葬列が村を横切り、白い三角の紙が風に揺れた。
その景色は幼い日の記憶として埋め込まれ、今も赤土の匂いとともに蘇る。
村が消えても、昭和の声だけは赤土の下で呻き続けていた。
彼女は貧しい時代を知らないが、村では貧しかった時代から現在に至るまで「贅沢」が最も忌むべきものなのだ。人間が本能的に求める「楽しみ」を、村人は知らない。ひたすら生活水準において、心の貧しさにおいて「平等」であろうとした。舅が他界し、姑も少しは自由になったかと思ったが、生前、姑は夫に対し、苛立ちや憤りを抱き、ときには憎しみさえあったであろうに、死んでしまうと嘆き、少しは投げやりになった。彼女はそれを黙って見ていたが、やがて少しずつ立ち直っていった。だがそこへ今度は息子の急死、これは姑に決定的な衝撃を与え、未だ立ち直るには至っていない。
櫛ヶ原村。かつて人口千人を誇った自治体は、補助金規制で吸収され、忘れられた山村となった。家の横も背後の山も、すべて墓に囲まれている。苔むした石、傾いた墓標、夜の湿気に濡れた土の匂い。共同墓地には個人の区画はなく、土葬の棺が腐り、地面が沈んで傾いた石が並ぶ。
夫の生前、姑は長男である息子に何もしてあげなかったと言い、それを気に病んでいた。夫も母親から、というよりは、家全体から何らかの恩恵を受けているとは露ほども思っていなかったし、事実家がもたらすのは、生活するのがやっとの老人に援助をするだけだと割り切っていた。彼女は夫のそういった自立心を誇りに思っていたが、愛していたかというと、そうではなかった。
彼女は実家の親も姉妹も、嫁ぎ先の家も、ほんの少しも愛していなかった。ただ、生まれるままに、流れるままに育ち、嫁いで、子供を産んだ。高皇産霊神(タカミムスビノカミ)にしたがって。
舅は男の子の跡継ぎを欲していたが、生まれたのは女の子だった。
姑は大層孫をかわいがり、子供らしいままごとに、根気よくつき合った。やがてその子も成長し、都会の大学へ進学した。彼女は娘を村の外に開放したのだ。彼女自身は村を出ようとしない。
家の壁土が崩れると、赤土の下に茶の根が見え、さらに崩れると墓の影が現れる。
舅という「枷」が消えると、彼女には見えていなかった姑自身が作り出し、縛り付けている「枷」が見えてきたように思った。ただ働きつづけ、外の世界から遮断されていた老女は、それまで舅がつき合ってきた「村のしきたり」に怯えていた。それまで全部舅が担ってきたものを、姑が受け継ぐのは、彼女の目には難しいことと映った。多分村の他の女達もそうであろう。だが、男達はそういったつき合いが好きでたまらない。
それが、彼女の最初に埋め込まれた景色だった。
赤土はただの土ではなく、死を運ぶ道であり、村の記憶そのものだった。
幼い日の恐怖は、今も胸の奥でじわじわと疼いていた。
家の壁土が剥がれ落ちると、赤土の土台がむき出しになり、
さらに崩れると窓の外に墓の影が見える。
赤土は家を支える土であり、墓を覆う土でもあった。
その境界が失われるとき、村は生と死を同じ赤土に呑まれていく
葬式など長寿の村の数少ない「非日常」なので、振り分けられた役を嬉しそうに、要領悪くこなす。他人との口の利き方も知らない、大切に育てられた家々の跡継ぎの老人集団を、彼女は軽んじた。物見高さにおいて、明らかに舅の死をだれも悲しんではいなかった。
他人の死など人の心にはさほどの悲しみも苦しみも与えはしない。彼女は鳥肌をたてた。夫の葬儀も、悲しむ暇などありはしなかった。村は陸の孤島という名の抽斗だった。社会に生きる人が誰も覗くことさえ忘れている、埃の積もった箪笥の抽斗そのもの。
彼女も、彼女だけの抽斗を愛した。誰も彼も、大した差はない。おのれもその中に埋没した、鍵付き抽斗の所有者だった。村は国に予算をねだっては、物産センターだの、ラジウム温泉などを作っては経営不振に陥らせていた。けれども村人は気にしない。また国にねだればいいのだから。
しかし、時代は変わろうとしていた。市町村の合併を推進して、国家予算の守りに入っている。近隣の町に吸収されるどころか、忘れ去られるのは目に見えていたが、元もと忘れられた抽斗なのであれば、死人が出るたびに、男は組を取り仕切ることで、女は炊事場を取り仕切ることで、それぞれの価値を見いだし、優越の心地よさに浸る。
そのとき、幼い日の記憶が胸に蘇った。
共同墓地の向こう側は、補助金をもらい植林した針葉樹林である。
緑の砂漠となり、土地は痩せ、僅かな作物はエサに飢えた野生の動物が食べた。山林を維持する労働力もなく、生態系は壊れ、大雨が降るたびに山は崩れ、川に流れ込んだ土砂は、魚を死滅させた。
ハクビシンが根菜を全滅させたよ。
怨霊の声は若くも老いてもいた。敗れた兵士たちの思念が、村の未来を見透かしている。 かつて戦を支えた祭りも、継ぐ人が途絶えた。人口を保つのは、思想家で、ハム作りの家と、働きに出ている外国人女性だけ。
数年後、姑が他界し、なけなしの家財は嫁いでいった娘達が持ち帰った。残ったのは彼女の嫁入り道具だった一枚板の重厚な和箪笥だけだ。農家には不要のきらびやかなレースをたたみながら、彼女は微笑み、それから静寂の涙を零した。財産放棄の手続きをすると、彼女は村を出る。鍵付き抽斗さえもそのまま置き去った。
ぬばたまの闇、共同墓地で何者かの会話が響いていたが、
村人は誰も聞かなかった。
いつか信仰はすり替えられ、そこには馬頭観音が祀られていた。
「これでまた一軒消える。」
と、男の声がした。まだ若く、しかし疲労と怨念は混ざっている。
喜びの色も含んでいる。
「あと何年も続かないね、この村は。」
老いた声である。
彼らは、葬られた後も残った思念。夜にもかかわらず、斜面の盛り土から、陽炎が揺らめく。
「戦からのがれて来た我らを、殺して、着物も鎧も槍もお館様から預かった印籠も剥ぎ取った。あやつらの子孫がもうすぐ消える……」
彼女の運転するヘッドライトが射すと、それらの揺らめきは霧散して跡形もなくなった。
最初に響いたのは、織田方に付いた櫛ヶ原守景の声だった。
「我が命令で村は血に染まった。だが子孫はもう絶える。」
続いて、武田方の一兵卒の声が低く囁いた。
「我らはただ命じられるままに斬った。だが土に還っても、村を呪う。」
下り道で彼女は急ブレーキを踏んだ。車に引かれた狸の親が横になって動かない。子狸たちが、母狸の体をつつきながら泣いている。
無き義父のことを思う。気の弱い人だった。家の中でだけ尊大になれた。
悲しい人、寂しい人……
ダムに沈んだ村のトンネルから、青年が手を振る。
やっと見つけた。随分探したよ。さあ行こう、と彼女の手をぐっと引っ張る。
いずれ二千人のよそ者が来て、土葬をしても、赤土は全てを飲み込むだろう。
女子供が男達に指図されて身動きできなくなっても。
どんな信心を持っても。
キエルマツリは続かない。
消える村、消える祀り。 赤土の下で、声だけが永遠に揺らめいていた。
キエルマツリ tokky @tokigawa
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