静謐のユートピア

永久保セツナ

静謐のユートピア(1話読切)

「奥様」


 執事の声に、女主人は書き物机から顔を上げた。

 彼女の部屋は、いつでもインクと紙の匂いがする。

 その香りを、執事はこよなく愛していた。


「本日もお早いお目覚めですね」


「今書いている物語の一節が浮かんだから、早く書きたくて」


 執事を見つめる女主人の目が細められる。

 その姿を見ると、執事の心臓が甘く疼くような心地になった。

 それをひた隠しにして、彼は女主人の前に跪き、手を取って己の胸に当てる。


「早起きなのはたいへん素晴らしいことでございます。しかし、奥様の一日の始まりは、わたくしの声であってほしい……」


 声は熱を帯びて、女主人の手に執事の指が絡められた。

 当の彼女は、その光景を見ても眉をひそめるでもなく、じっと執事を見つめている。感情の読み取れない目だが、執事はそのことを全く気にしていなかった。


「さて、朝食にいたしましょうか。焼きたてのパンがございますよ」


 彼は何事も無かったかのように、スッと立ち上がり、テキパキと食事の用意をする。

 温もりを残したフワフワのパンに、バターが塗られ、チーズとハムが塩気を添えていた。シャキシャキのレタスと色鮮やかなパプリカのサラダ。デザートにはメープルシロップのたっぷりかかったパンケーキ。

 女主人は、それを慣れた手つきで小さく一口ずつ、上品に食べていく。

 その咀嚼する口の動き、飲み込む喉の動きを見つめる執事の視線は彼女に絡みつくようだった。女主人はそれを気にしている様子は無い。

 食後にレモンの添えられた紅茶を飲むと、彼女は「街まで降りて買い物をしているの?」と尋ねる。執事の肩がピクリと硬直するように震えた。


「……街にご興味が?」


「いいえ? ただ、この食事を森の奥で用意するのは難しいだろうから、街に行ってるのか聞いただけなのだけれど」


 小首を傾げる女主人に、執事は文字通り、胸を撫で下ろして息をつく。


「……それは、その。屋敷まで行商人を呼んでおります。街の汚れた空気を纏った部外者をここに招くのは不本意ですが、わたくしがこの屋敷を離れて、奥様をおひとりにさせるわけには参りませんので」


「私、いい大人なのだから、ひとりでお留守番くらいはできるのだけれど」


「そういう意味ではございません……」


 言いながら、執事は女主人の愛らしい台詞に顔が綻んでしまった。ああ、このお方は、本当に屋敷を逃げ出すなどという愚かな考えは持たないのだ。ずっと、疑うこともなく、わたくしと共にいてくれる。


「メイドくらいは雇わないの? あなたひとりで屋敷を管理するのは難しいでしょう」


 この日の女主人の言葉は、次々と執事の心を凍りつかせてきた。


「……奥様。わたくしと二人きりで過ごすのは、息苦しいとお考えですか?」


「そうは言ってないけど」


 女主人は相変わらず感情の読めない目で執事を見ている。無機質で、人形のような目。執事は、この目に見つめられると、身体が熱くなると同時に、自分のことをどう思っているのか分からなくて恐ろしくなるのだった。


「奥様。屋敷のことなど、気になさらなくて良いのです。貴方様はただ、大好きな物語をお書きになっていればよろしい」


 執事が子供に言い聞かせるようにすると、女主人は書き物机に向き直り、執筆の続きに戻ってしまう。

 彼はやっと安堵して、女主人の部屋から引き下がった。

 執事の仕事は、屋敷が老朽化しないよう管理し、女主人のために甲斐甲斐しく世話を焼き、彼女を危険から守り続けることである。

 森で摘んできた、朝露に濡れた花を彼女の部屋の花瓶に挿していると、街からの行商人が食べ物や生活必需品を携えて屋敷にやってきたのが窓から見えた。


「アンタたちも物好きだな。こんな森の奥深くに屋敷なんか建てて閉じこもるなんて」


「他人の生活に首を突っ込むな」


 屋敷の住人に好奇心を抱く者に、執事は厳しい。

 黙って持ってきた商品をこちらに引き渡して、さっさと帰ってほしいと目で語る。

 行商人は肩をそびやかして、お金と引き換えに必要なものを受け渡した。

 帰る間際にも商人は屋敷の窓をチラチラと見ており、執事は女主人の姿を見られやしないかと生きた心地がしない。彼女の美しい姿を見れば、みな恋に落ちて自分から奪い取るに違いないと世の中の全てを疑っている。

 行商人が立ち去ったあと、すぐに女主人の部屋に戻り、掃除をしているふりをしながら、彼女の机に向かう後ろ姿を眺めて恍惚の表情を浮かべた。首筋から服に隠れた背中、柔らかな曲線を想像し、ゾクゾクと震えが走る。

 この身体をいつでも自分の所有物にできるのにそうしないのは、純粋な愛ゆえだと執事は思っていた。


 この二人はもともと、別の屋敷で暮らしていた貴族の娘とその執事である。そこにはメイドも従僕も何人もいた。

 しかし、彼女に恋焦がれた執事が、父親の留守を狙って突如、森の中へと連れ去ったのである。

 屋敷はもとから森の奥にあったもので、執事が時間を見てはいつでも暮らせるように綺麗に手入れしていた。

 屋敷の女主人となった娘は、幼い頃から物語を綴るのが趣味で、執事はその文才にいたく感動している。

 この才能を、美貌を、自分だけのものにしてしまえたら。

 それを行動に移した結果の狂気であった。


 夕暮れになり、木々に覆われた屋敷は闇に包まれ始める。


「奥様、そろそろ夕食にいたしましょう」


 机のランプをつけると、女主人は暗くなっていたことにも気づかなかった様子で、明かりにパチパチと瞬きをしていた。

 彼女は、窓の外の世界には全くもって関心がない。

 それゆえに、執事に攫われてのちも、屋敷を脱走しようなどという考えには至らず、こうして相変わらず物語を書き続けている。


「今回も素晴らしいお話ですね」


 書き上げた物語は執事が大切に読み、感想を述べ、女主人を褒めたたえた後に適切に管理される。

 夕食、湯浴みを済ませて寝間着に着替えた彼女を、ベッドに寝かせて眠りにつくまで寄り添い続けた。

 こうして、執事と女主人、二人きりの静謐な理想郷に、今日も夜の帷が降りるのである。


〈了〉

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