妖精の世界
私にとって大切なもの
妖精の世界
萩野 茜 著
「っ!眩し……!」
思わず目を細めて手をかざす。鳥のさえずり、葉の擦れる音に合わせて澄み渡る風が髪をさらう。周囲を見渡してみると見たことのない木々や苔が生い茂っている。一面の緑が照りつける日差しの中で何とも涼しげだ。
「荒廃した都市の真ん中にでも飛ばされるのかと思ったら、ずいぶん大自然だね―」
春花ちゃんが組んだ両手を突き上げて、体を伸ばしながら気持ち良さそうに言う。
「ここは何処なんでしょう。ぱっと見ではあの世界と変わりませんね。少なくとも日本ではありませんが」
キョロキョロしている蒼羽ちゃんはさながらリスのようだ。
「そうでもないよ。ほら!」
そう言うと、玲乃ちゃんは頭上を指さす。つられて全員が空を見上げる。葉っぱが重なり合う中にぽっかりと大きなすき間があって、そこから太陽?が眩しいほどによく見えた。………二つ。
「太陽が二つあるなんてワクワクするよね!季節とか夜とかどうなってるんだろう!?」
玲乃ちゃんは満面の笑みですっごく楽しそうだ。……この場合太陽と呼んでも良いのだろうか?他に適切な呼び方を知らないのでしょうがない気もするけれど。
「全くあなたは。私達が今どういう状況か忘れたんですか?」
呆れながらそんなことを言うが、蒼羽ちゃんもどこか楽しげだ。
「懲りずに寝癖つけてる人に言われたくありませーん」
「なっ!ちゃんと確認したはず…………」
顔を赤くし、ペタペタと頭を触る様子を見て玲乃ちゃんは物凄くニヤニヤしている。それはそれは楽しそうだ。変な笑い声まで漏れている。それに気づいて蒼羽ちゃんは真顔になる。
「……騙しましたね。そっちがそういう態度なら、こちらも相応の対応を取らねばなりませんね。……そのツインテ引っこ抜いて今日の晩御飯にします!」
そう言って取っ組み合いを始めてしまう。……ツインテールは美味しくないんじゃないだろうか。そう思っていると、隣に春花ちゃんがやって来る。
「とんぼちゃん調子悪い?ずっと元気ないみたいだけど」
二人をのほほんと眺めながらも、心配そうにそんなことを聞いてくる。
「緊張してるのかも。でも大丈夫だよ」
「……そっか。何かあったら何でも言ってね」
まだ何か言いたげな様子だったが、大したことではないのだろう。そう思っていると、
「とんぼちゃん、助けてぇ、もつ煮にされちゃう〜。あ、いや、髪だからもつ煮ではないか」
という何とも情けない声が聞こえてきた。いつの間にか目の届かないところまで行ってしまったようだが、そんなに困ってなさそうだ。苦笑いを浮かべる春花ちゃんと声のした方へ歩いて行く。
「えっ………と…何事……かなぁ〜?」
「春花、良いところに来ましたね。リュックの中にナイフくらい入っているはずです。私はコイツを押さえつけるのに手一杯なので、代わりに取り出してくれませんか?」
蒼羽ちゃんは仰向けの玲乃ちゃんに馬乗りになって両手を押さえていた。結構マジな顔だ。目がヤバい。玲乃ちゃんは涙目だ。
「……何に使うの?」
「丸刈りにします。二度と他人の髪を馬鹿にできないようにします。そしてその髪を煮込んでコイツに食わせます。泣かせます」
思ったより怖い返答が来た。春花ちゃんもちょっと引いている。
「た、たすけて………」
先程までの余裕なんて一欠片も残っていない、思わず足がすくむほど必死な目だった。蜘蛛の糸に縋った罪人たちはきっとこんな目をしていたのだろう。これを見捨てようとしたカンダタは、成る程悪い奴である。流石にまずいと思ったのか、春花ちゃんが蒼羽ちゃんを羽交い締めにする。
「離して下さい!悪人には罰を与えなきゃいけないんです!この世に悪が蔓延っても良いんですか!?」
随分大層なことを言っているが、この場合は手を離す方がよっぽど悪だろう。最後の方はほとんど金切り声だった。
「れのちゃん……大丈夫?」
玲乃ちゃんは私の後ろから頭だけ出して、様子をうかがっている。……母親の気分だ。
「ごわ、ごわがっだ〜。め、めがマヂ、まぢなんだも〜ん」
「でもれのちゃんにも非はあったわけだし、何より本気で丸刈りにしようとしたわけじゃないと思『絶対に許しません!ナイフがダメなんですか!?じゃあ毟ります!毟り取ります!』『いやいや余計だめだって!どうどう…ほら深呼吸〜』…………思うよ?たぶん。」
蒼羽ちゃんは怒髪天を衝くというか、「我が子を食らうサトゥルヌス」並みの形相だ。そこまで怒ることはないと思うのだが……もしかして。
「ねえれのちゃん。私たちが来るまで、あおばちゃんになんて言ったの?」
「えっ!?……いや、別に〜?大したことは言ってない………と……思うけどな〜?」
明らかに何か隠している。
「あおばちゃん。れのちゃんになんて言われたの?」
「良くぞ聞いてくれました!そいつ本当に酷いんです!」
蒼羽ちゃんはゴホンと咳払いし、玲乃ちゃんの真似をしながら語り始めた。
「それにしても昨日の寝癖面白かった〜w頭で珍しい生き物でも飼ってるのかな?って思っちゃったwwあんなに怖い顔で詰め寄りながらも髪はぼさぼさとか恥ずかしかったでしょwwwれのだったら恥ずかしすぎて2日くらい寝込んでそうwwwwそれに、今日も部屋から出てきた時ちょっと髪『ペタんっ』ってなってたよねぇwwwwwめっちゃ頑張って寝癖直してたんでしょwwwwwwどんな寝癖だったか当てていい?wwwwwwwトリケラトプスでしょwwwwwwwwその顔は絶対そうだwwwwwwwwwトリケラトプス蒼羽wwwwwwwwww絶対流行(以下略)」
玲乃ちゃんは必死に目を逸らしていた。春花ちゃんは凄く微妙な顔をしていた。言うまでもないことだが、もう、蒼羽ちゃんを止める者はいなかった。蜘蛛の糸を掴んだのは地獄の罪人である。地獄に落ちるだけの理由があるのだ。だからやはりと言うべきか、糸は……いや髪の毛はぷつりと音を立てて切れてしまったのだった。
「ごべ……ぐずっ……ごべんなざい」
仏のような蒼羽ちゃんは玲乃ちゃんの髪を毟り取ることなく穏便に済ませた。ならどうして玲乃ちゃんは泣きながら土下座しているのか。それは聞いてはいけないことだ。ともかく、そんなことをしている間に日が傾き始めていた。
「そろそろ夕方だねー。今日はここらへんで野宿かなー」
「そうですね。良い感じに開けてますし、この辺りにテントを張りましょう」
そう言って、蒼羽ちゃんと春花ちゃんは野営の準備を始める。
「れのちゃん、こっちも始めよう?」
テントは二つ、春花ちゃんと玲乃ちゃんのリュックに入っているらしい。今日はこのペアで寝ることになりそうだ。他にも最低限の水と食料、寝袋なんかが入っているらしいが、思えば中を確認していなかった。そう思い必要な物を取り出すついでに玲乃ちゃんと中を見てみる。
「テントに寝袋、水は思ったより少ないけど、浄水器があるみたいだね。後は……」
その他にも医療キットやロープ、調理器具、ナイフと色々揃っていた。特筆すべきは火起こしの道具だろうか。かなりの種類が揃っている。中には見たことがない物も3種類ほどあった。リュックを渡された時に、「緊急時に使えなかったら困るからね。中身は君達の世界にある物がほとんどだよ」なんて言っていたのだが。
「食べ物は……そりゃ非常食か。………なんか、すごい質素」
玲乃ちゃんが袋に入った硬そうなパン?を取り出しながら言う。それ以外にも色々あるみたいだけれど………まあこんなものだろう。調理せずに食べられそうなところと、十分なカロリーがありそうなところは評価できる。携帯食料もそんなに多くないし、調理器具があるところを見るに現地調達が想定されているのだろう。今日はなぜか食料を集める時間がなかったから我慢するしかない。
「こっちは終わったよ〜。そっちの調子はどうかな?」
設営を終えたらしい春花ちゃんがこちらにやって来た。
「こっちも今終わったとこ。暗くなる前に火起こしして、ご飯にしよっか」
幸いにも乾燥した枝や葉は辺りにたくさんある。リュックに入っていた着火剤を置き、枯れ葉や細い枝、太い枝の順に空気の通り道を考えながら組んでいく。
「それじゃあ火つけるよー………ってあれ、ライター全然つかない」
「何やってるんですか。ライターくらい小学生でも扱えますよ?ちょっと貸してください………点かないですね」
蒼羽ちゃんが必死にカチッカチッとやっている。玲乃ちゃんが「しょ、小学生がいる……w」とか言いながら今にも吹き出しそうだが、さっき懲らしめられたばかりなので何とか耐えている。その様子に気づいて蒼羽ちゃんがジト目を向ける。
「もしかして、不良品だったり?」
「神様から渡されたものなのに、不良品なんてことあるのかな~?」
自分のリュックからライターを取り出して試してみる。すると、シュボッと簡単に火がついた。
「あれ、ついた」
そのまま着火剤に引火させる。火は少しづつ大きくなり、葉、枝を飲み込んでパチパチと楽しげな音を奏でる。それを眺めながら玲乃ちゃんが何か思いついた様子で懐中電灯を取り出す。
「やっぱりそうだ」
そう言って懐中電灯をこちらに差し出してくる。
「?」
つけろということだろうか。受け取ってスイッチを押すが…
「電池入ってないのかな?」
そう思って開けて中を確認するも、電池は確かに入っていた。そこで一つの可能性に思い至る。もしかして
「電気が流れない?」
玲乃ちゃんが頷く。
「点かなかったライターってボタンを押して火を点けるやつだったでしょ?ああいうのは電気で着火してて、とんぼちゃんが使ったのは火打石を使って着火するやつだからもしかしてと思ったんだー」
春花ちゃんが感心している。蒼羽ちゃんは「こいつ馬鹿じゃなかったんですか!?」とでも言いたげだ。ちなみに、玲乃ちゃんはかなり勉強ができる。前にテストの点数を自慢しに行ったら大敗し、それ以来テストの結果を見せたことはない。あの時は一ヶ月程馬鹿にされたっけ……嫌なことを思い出してしまった。それを振り払うように缶詰を取り出して焚火の前に座る。それに続いて左に玲乃ちゃん、正面に春花ちゃん、右に蒼羽ちゃんが座った。四人で焚火を囲う形だ。
「それじゃあ食べよっか」
春花ちゃんの号令で皆が手を合わせる。異世界で初めてのご飯である。
「このっ……!へんっへんはみひれまへんへ!(全っ然嚙み切れませんね!)……っ…ものすごくボソボソしていますし」
「缶詰の方はおいしいよ。………比較的」
「とんぼちゃん!あーんして?そしたら3割増しで美味しくなる気がする!」
「それ良いね~。蒼羽ちゃん、口開けて?お姉ちゃんが食べさせてあげるよー」
「勝手に姉にならないでください。離れてください。……なんで離れてって言ったのに近付くんですか!ちょっ…無理やり押し込まモゴガゴ」
そんなことを言いながらにぎやかに食事をする。なんだかすごく久しぶりのような気がして自然と笑みがこぼれそうになる。玲乃ちゃんが楽しそうにこちらを見ているのが気まずくて、とっさに顔をそむける。
周囲はもう暗くなっており、焚火の明るさだけが頼りだ。
「見てください!あれ!」
そこで、蒼羽ちゃんが何かに気づいて声を上げる。視線を追ってみると、そこには紫の光の玉のようなものが浮かんでいた。
「なんだろう。妖精さんみたいだねー」
「見て!あっちにもいる!」
玲乃ちゃんが少し離れたところを指さす。そこにもやはり妖精が浮かんでいた。そちらは濃い青をしている。その時、光が降ってくる。
「すごい………」
空を見上げると水色、緑、黄、橙、赤と、様々な色の妖精がふわりふわりと落ちてきていた。星が雪として舞い落ちるようなそれはとても幻想的で、その場にいた全員が呼吸も忘れて見入るほどだった。たちどころに辺りは妖精に包まれて、イルミネーションに照らされた都市のように明るくなる。
「とんぼちゃん頭に妖精さんがついてるよ!」
その言葉に思わず目を上に向ける。
「そんなことしたって頭の上は見えないって(笑)。ほら、取ってあげるよ!」
よほど間抜けに映ったのかものすごく馬鹿にしたような言い方で少しムッとするが、おとなしく頭を差し出す。玲乃ちゃんが細い指で髪を優しく挟み、毛先の方へ滑らせていく。
「ほら、とれた」
玲乃ちゃんが手のひらに乗せた妖精を見せてくる。小さく輝く、赤い妖精だった。
「…かわいい」
「妖精さん乗っけてたとんぼちゃんもかわいかったよ?」
「……」
どうにも調子が狂う。これ以上おちょくられるのも癪なので、視線を合わせないようにする。「そっぽ向いちゃってかわいい~!」とか言ってるが無視だ無視。春花ちゃんが幸せそうな顔でこっちを見ているが知ったことか。
「二人は随分仲がいいんですね。どういう関係なんですか?」
「れのととんぼちゃんは幼馴染なんだ。保育園の頃から友達で、小中も一緒だったんだ〜」
「それは大変そうですね。同情します」
「?とんぼちゃんはしっかりしてるから困ったことなんてほとんどないよ?」
「何当たり前のように同情される側になってるんですか。どう考えてもあなたが迷惑をかける側でしょう?」
「なんだとてめー喧嘩かぁ?」
そうしてまたきゃいきゃいと取っ組み合いを始めてしまった。苦笑いを浮かべる春花ちゃんと目が合う。
「蒼羽ちゃん落ち着いて」
「玲乃ちゃんさっきのこと忘れたの?」
そんな風におとぎ話のような空間ではしゃいだり、お互いのことを話すうちに夜は更けていったのだった。
「それじゃあそろそろ寝よっか。おやすみ~」
「おやすみなさい」
春花ちゃんと蒼羽ちゃんが目をこすりながら立ち上がって、テントに向かう。
「おやすみ」
私もそう返しながら、妖精を踏まないように気を付けて歩く。数メートル程度で大した距離ではないが、足の踏み場が少なくてなかなか難儀した。
「とんぼちゃん、おやすみ」
「おやすみ」
玲乃ちゃんにそう言って目を閉じると、この二日間のことがぐるぐると駆け巡る。さっきまでは賑やかで意識せずにいられたが、こう静かだとどうしても考えてしまう。こんなことをしていて良いのだろうか。もう二度と家族と会えないんじゃないか。もしもあの時、世界から滑り落ちることなく普通に死んでいたら。――上手く笑えていただろうか。
もう玲乃ちゃんは眠っているだろう。そう思って起こさないように気を付けながらテントから出る。外は依然として幻想的で、いくらか胸の締め付けが緩くなる。少し歩くと手ごろな岩があったのでそこに腰掛ける。妖精に気を取られて気がつかなかったが、月がとても綺麗だ。太陽は二つあっても月は一つらしい。しかし表面の模様は全然違うので、どこか寂しい気持ちになる。と、そんなことを思ったせいで機嫌を損ねたのか、月は雲に隠れてしまった。仕方なくうるさいくらいの虫の音にまかせて足をぶらぶらさせたり、手に妖精を乗っけて遊んでいると背後から物音が聞こえてきた。ぎょっとして振り返るとそこには玲乃ちゃんがいた。
「なんだれのちゃんか。起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫。それよりごめんね?びっくりさせるつもりはなかったんだけど、突然出て行っちゃったから気になって」
そう言って玲乃ちゃんは私の右隣に座る。昼間は暑かったが今は涼しいくらいだ。
「…れのちゃんはすごいよね。こんなことになっちゃっても冷静で、明るくてさ」
嫌な言い方だ。わずかに顔を背け、小さく、小さく息を吐きだす。
「あははごめん、はしゃぎすぎちゃったかな?いやー蒼羽ちゃんの反応が面白くてついつい調子に乗っちゃった」
「ああいや、謝ってほしいんじゃなくて…なんていうか、すごいなって」
二人の間を風が通り抜ける。少し肌寒い。
「なんていうか……さ」
言っちゃいけない。
「大好きだった人たちから忘れられて、もう二度と会えないかもしれなくて」
今なら引き返せる。けれど……分かっているのに、
「たった四人で永遠にこのままかもしれない、のに。玲乃ちゃんは…それでも冷静で、明るくって。すごい、なぁって。でも………冷たいって…いうかさ」
「……」
「玲乃ちゃんだけじゃなくて、春花ちゃんも怖いはずなのに他の人の心配したりしてさ。……蒼羽ちゃんはあんなに泣いてたのに、私とは違って前を向いててさ。みんな……頑張っててさ。それ見て嫌なこと考えちゃったり、してさ。私ここに来る前、もうどうでもいいやなんて、思ってたんだよ?だから――――」
何を言えばいいのかわからない。さっきから震えが止まらない。
「だから、みんな、すごいなぁ。私には、無理だよ」
膝を抱えて顔を伏せる。何も見たくなかったし、何も聞きたくなかった。何も聞きたくないのに、玲乃ちゃんが何も言わないのがどうしようもなく落ち着かなかった。どれくらい震えていただろうか。身体の芯まで冷えた頃、ようやく玲乃ちゃんは話し始めた。
「私、とんぼちゃんの言う通り冷たいんだと思う。正直死んじゃったって聞かされた時も、最初からいなかったことになったって知った時も、そりゃあちょっとは悲しかったけど、ああ、そうかって。納得できたって言うか…諦めたって言うか」
私とは対照的に、玲乃ちゃんは落ち着いた声で続ける。
「私にとっては……多分、失ったものはそんなに大事じゃないんだ。だからきっと、とんぼちゃんの気持ちは半分も分かってない」
そう言う玲乃ちゃんはどこか寂しげだ。
「けどね、とんぼちゃんと一緒ですっごくうれしかったんだ。きっと大丈夫だって、何とかなるって思えた。ここにはまだ、大切なものがちゃんとあるって思えた」
玲乃ちゃんが私の手を握る。体温が流れ込んでくる。
「とんぼちゃんにとって大切なものは何?もしあの世界がどうしても大切なものなら、取り戻そう?きっと蒼羽ちゃんも春花ちゃんもそう思ってる。今すぐ気持ちを切り替える必要なんてない。きっと大丈夫だよ!れのはとんぼちゃんを一人にしない。ずっと一緒にいるから、だから…」
玲乃ちゃんがこちらをまっすぐ見つめる。
「一人にならないで。れのを……一人にしないで」
その声はひどく弱々しくて、いつになく必死だった。
「れのちゃん……」
目の前にはいつもの元気で明るい少女はいなくて、目の前にはどんな時も冷静な少女はいなくて、目の前には――震えながら恐怖にあらがうだけの、玲乃ちゃんがいた。
「…………やっぱり、れのちゃんはすごいなぁ」
一分の濁りもない瞳が気恥ずかしくて照れくさくて、思わず視線をそらしてしまう。いつの間にか月は再び顔を出して、暖かく辺りを照らしていた。
「……れのちゃん、昼間は私のためにわざとはっちゃけてたでしょ」
「そ、そんなことないけどな~?は、恥ずかしいから変な言いがかりやめてよ!」
「えへへ、お返し!」
私にとって大切なもの。いつか答えが出せるだろうか。
夢を見た。私たちは死んでなんかなくて、普通に高校に通って春花ちゃん、蒼羽ちゃんと出会って四人で普通に過ごす、そんな夢だ。でも家に帰ったら誰もいなくて、そこで目が覚めた。
「おはよう、とんぼちゃん」
「あ、れのちゃん。おはよう」
のそのそと寝袋から這い出して水を一口飲む。最初からリュックに入っていた水も心もとなくなってきた。近くに沢があったはずだから、顔を洗って歯を磨くついでに水を補充してこよう。そう思ってテントから出る。昨日はあんなに妖精がいたのに、今は影も形もなかった。……もともと影も形もなかったけど。ともかく水場に向かうことにする。
「ぐえぇ………」
なんか聞こえた。丁度春花ちゃんたちのテントを横切った時だ。……一応声をかけるべきだろうか。しかしそもそも人の声に聞こえなかったし、小さい音だったので聞き間違いかもしれない。いや、きっとそうだ。
「ぶ…ごぁ……」
聞き間違いではなかったらしい。しかも今度はしっかりテントの中から聞こえた。……正直関わりたくない。厄介ごとの気配がする。自慢じゃないがこういう勘は当たるのだ。とはいえ放っておくわけにもいかないか。
「はるかちゃん、あおばちゃん、起きてる?にわとりのおもちゃを潰したみたいな音が聞こえたけど……?」
「だ、げぁ………っ」
返事はない。いや、"助けて"に聞こえなくもなかった……ような気も……しないか。気のせいだろう。
「どうしたの、とんぼちゃん?」
玲乃ちゃんがテントから出てきた。
「いやなんか、はるかちゃんたちのテントから変な音が聞こえて」
「寝言じゃないの?」
「ん~、到底人の声に聞こえないんだよね」
勝手に開けて入っていいものか、しかしこのまま放置するのもいかがなものだろうか。
「っ……け…どぅぇ」
「…確かに、到底人の声ではないね。タスマニアデビルとかこんな感じだった気がする。よし、なんか武器になるもの取ってくる!」
「ぐぉぅぁ」
「いやいやさすがに大げさじゃ…」
「たす…べぎゅ」
「もしかしたらこの世界の動物がテントに入り込んだのかもしれないでしょ?二人の声が聞こえないってことはまだ無事だとは思うけど、備えあって憂いなしだよ!」
そう言って玲乃ちゃんはシュバッ!と私たちのテントに戻り、わずか5秒ほどで鍋を二つ持ってきた。…鍋?ナイフとかでなく?
「こっちの方が防御しやすいと思って。相手が分からない以上、倒すよりも身の安全の確保が優先だよ!」
成る程、考えあってのことらしい。盾にしては小さすぎる気もするが無いよりましだろう。
「じゃあ行くよ!3…2…1!」
中を確認すると……どうやら、予想は外れたらしい。そもそもファスナーは閉まっていたし、テントも破れた様子は無かったのだから考えてみれば当たり前だが、野生動物が入り込んだわけではなかった。そしてもう一つの予想、二人が無事だというのも外れたようだ。
「蒼羽ちゃん大丈夫!?」
そこには首が締まって顔を真っ青にしている蒼羽ちゃんと、縁側で日向ぼっこしてるご老人くらい良い顔をしながら蒼羽ちゃんに抱き着いて寝ている春花ちゃんがいた。大丈夫ではなさそうだ。魂が抜けかけている。急いで二人を引き離す。
「って全っ然離れない!れのちゃん、腕掴んで!」
「だ、だめ!これもう熊かゴリラでしょ!春花ちゃん起こすからそれまで気道を確保して!」
失礼極まりない例えだが……的確だ。玲乃ちゃんは春花ちゃんをがっくんがっくん揺さぶる。
「ごめんね、あおばちゃん。なんかアニメのゴブリンとかオークみたいなきっっったない声だったから入るの躊躇しちゃった」
「あ、なた…玲乃と……同じくらい…失礼、ですね……。って、い、一回ストッ、プち、ちぎれるぅ…!」
何と言ったかは聞き取れなかったが、さっきより大分人間らしい声なので元気を取り戻しつつあるのだろう。玲乃ちゃんはなかなか起きない春花ちゃんに持ってきた鍋を叩きつけている。ゴォンガァンといい音が鳴……いやそれはやりすぎでは?そう思ったが、一応効果はあった。
「あれぇ?ふたりともどぉしたのぉ?って、もうあさかぁ」
「起きたならあおばちゃんを離してあげて!すごい苦しそうだよ!」
「…?」
春花ちゃんが自分の腕に抱えているものを見る。良かった、蒼羽ちゃんが昇天する前に助けられたらしい。……いや、安心するのはまだ早かった。
「あおばちゃんはぁ、わたしのだきまくらになったのでーにどねにつきあってもらいまぁーす」
そう言って満足そうに眼を閉じる。蒼羽ちゃんは夏休み最後の一日に、全く手を付けていない問題集が見つかった時のような顔をしている。
「いやいやいやいやだめだめだめ!ほんとに限界だって!死んじゃう、死んじゃうから!」
必死にそう訴えかけると春花ちゃんは不機嫌そうに蒼羽ちゃんを離す。
「しょーがないなぁー。それじゃぁ……」
まずい気がする。嫌な予感が止まらない。テントから逃げ出そうとしたが、間に合わなかった。
「とんぼちゃんをだきまくらにしまぁーす!」
ふわっといいにおいが漂う。確かにこれは逃げられない。何ならあと一時間くらいこのままでもいだだだだだだ!だめだ、力が強すぎる。陸に打ち上げられた魚みたいに、びちびちすることしかできない。……今度からお魚さんには優しくしよう………いやそんなこと言ってる場合じゃ……まずい…意識が………
「とんぼちゃんはぁ……れのが守るー!」
ガゴォン!
と、銅鑼のような音が鳴って突然解放される。
「いったぁ~。あれ、皆どうしたのー?ってわぁ!テントぐっちゃぐちゃじゃん!このテント蒼羽ちゃんも使ってるんだよ?かわいそうとか思わないの?寝ぼけてるからって、やっていいことと悪いことがあると思うなぁ」
…………きっと、全員同じことを考えていた。
次の更新予定
2025年12月13日 00:00 毎週 土曜日 00:00
世界の終わりの見聞録 ながな @naganagatuki
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