第3話

 市営地下鉄コート・スクエア・ステーションの駅を降りる頃には、どうにもなるまい、と諦めが頭をもたげていた。誰もがいつかは死ぬのだ。消毒液のにおいに包まれて死ぬかもしれません、と伝えたところで変人扱いされるのがおちだ。


 しかし、同時期にこれほどの人々が、同じにおいに包まれて亡くなるとは、どういうことだろう。何かのっぴきならない事態が持ち上がっているのだろうか。消毒液のにおいがするところと言えば病院だが、大勢が入院するような事態に想像がつかない。


 考える内に、目的地に着いた。美しい外壁の家が並ぶ、瀟洒な住宅街だ。レンガ色やアイボリー、薄い黄色に塗られた家並みを見るだけで楽しい。街路樹からの木漏れ日も爽やかだ。インターホンを押すと、すぐにマリアの声が答えた。


「はい」

「皐月だよ」

「待ってた」


 ドアの近くまで足音が近づいてきて、扉が開いた。晴れやかに笑んだかつての同級生の顔を見てから、皐月はふと上から下まで彼女を眺めた。明らかに、以前会った時と体型が変わっていた。


「もしかして――」

「妊娠した」


 なかなか子どもに恵まれず悩んでいたのを知っていたから、皐月は自分も満面の笑みを浮かべた。


「とうとうだね。おめでとう」


 お腹に当たらないよう気をつけながら、玄関で皐月は、二年前にマリア・ヴェルナー・バスケスへ名の変わった同級生と抱擁した。屈託のない笑顔が、奇妙な考えに沈んでいた心を解きほぐしてくれる。


「サプライズが成功したね」


 家の奥から出てきたハンスが、ハグするふたりを眺めて言った。


「ハンスもおめでとう。久しぶり」


 ハンスとも抱擁した皐月は、ダイニングへ案内された。整えられた食卓には、すでに数皿の料理が並んでいる。家具のどれもが、上品で落ち着いた雰囲気だ。柔らかそうなソファのむこうで、テレビからニュースが流しっぱなしになっていた。


 手土産にパイを持ってきていたけれど、懐妊祝いにはまったく足りない気がした。


「言ってくれれば、お祝いを持ってきたのに」

「驚かせたかったんだ。気を遣わせたくなかったし」


 ハンスがにこやかに言うと、マリアも頷く。ふたりは、結婚してからもちょくちょく連絡をくれる。ハンスは国連本部で、マリアはすぐ近くのロングアイランド市裁判所で働いている。皐月はマンハッタンに職場と家があり、ここロングアイランドシティまでは地下鉄で一時間だ。数か月前までマリアたちもマンハッタンに住んでいたので、もっと頻繁に会っていた時期もある。


「引っ越したのは、家族が増えるからだったの?」


 マンハッタンは利便性ではここに大きく勝る。なのにふたりが引っ越したのは、同じ家賃でより広い家を借りられるからだろう。


「うん。ブルックリンでも探したんだけど、マリアの職場にも近いし、ここにした」

「予定日はいつ?」

「七月の中旬。エルムハーストで産むの」


 エルムハースト総合病院は、クイーンズ地区にある大病院だ。名前は聞いたことがある。


「体に気をつけて過ごさないとね」

「特に変わったことはないよ。お酒が飲めないだけ」


 マリアが言ったところで、ハンスが苦笑した。


「それがいちばん大変だけどね。他に気をつけることなんて、あれくらいかな」


 ハンスが指さしたのは、抑えた音量でニュースを流し続けているテレビ画面だった。

 映っているのは、皐月にもどこか見慣れた風景――日本の港だ。ハンスやマリアにとっても、最近では見慣れた眺めかもしれない。先月から、横浜沖に停泊した豪華客船の船内で、新型ウイルスが蔓延しているとのニュースが伝えられていた。


「皐月のお母さん、日本にいるんでしょ? 元気にしてる?」


 半ば上の空で、皐月は頷いた。


「うん」


 皐月の母は今、日本にいる。皐月の祖父が高齢になり、闘病がいよいよ深刻になってきたと知らされたからだ。今後も長く戻らないかもしれなかった。


 ニュースでは、忙しい皐月があまり真剣に聞いてこなかった情報を、おそらくは同じような境遇の人々のために、あらためて解説していた。


 中国で最初に感染拡大したウイルスは、次第に主戦場をヨーロッパに移し、ここ一週間はイタリアで急激に感染者が増えていること。高齢者がかかった場合には、重篤化する可能性が高いこと。

 皐月ははたと考え込んだ。


 グランド・セントラル駅ですれ違ったにおいの持ち主たちは、ほとんどが老人だった。数少ない若い女性は、バックパッカーだ。スペイン語を喋っていたけれど、ハンスやマリア曰く、ヨーロッパ人にとって域内での旅行や転居は、米国内で言えば州境をまたぐような感覚らしい。複数の言語を問題なく操る人も多い。彼女が渡米前にイタリアに寄っていたら――あるいはスペイン語を話すイタリア人だったら。


「どうしたの」


 目の前に立ったマリアが尋ねた。椅子に座ったまま膝の上に肘を載せ、前のめりにテレビを見つめていた皐月は我に返った。


「真っ青だよ」


 ハンスが心配そうに言った。マリアも神妙な顔をする。


「お母さん、本当に大丈夫なの?」

「もちろん――東京にいるけど、元気にしてる」


 慌てて言った皐月の顔を、ハンスが考え込むように見つめてから言った。


「あのときみたいだ。ボストンマラソンの難を逃れた日」


 ずばり言い当てられて、皐月は動揺した。マリアがかたわらで頷く。


「あの日も様子が変だったよね。友達は無事だったのに、ずっと顔面蒼白で」

「もしボストンにいたら、爆発に遭遇してたかもしれないから?」


 曖昧に頷いてから、皐月ははっとした。


 あの日、自分はマリアとハンスに会うために、ニューヨークに帰ってきた。もしあのままボストンにいたら、アニカとともに昼頃起き出して、市内を散歩しに出かけたのではないか。コプリー広場周辺をうろついて、ゴール場面を見ようとしたかもしれない。私も見に行こうかな、とアニカはあの時口にしたのだから。


 でも結局、皐月はニューヨークに帰ったし、アニカは皐月を駅に送ったら疲れ果て、夕方近くまで眠っていた。皐月自身だけでなくアニカも、おかげで難を逃れた。


 ふたりは自分とアニカを救ってくれた。三百人近くが怪我を負ったあの事件から。


 そのふたり、いや今や三人が、ニューヨークで未知のパンデミック――と認めるか認めないか、ジュネーヴではまだ決めかねているらしい――に遭遇するかもしれないのに、黙っていていいだろうか。


 この秘密は、誰にも打ち明けたことがない。誰も信じないに決まっている。それに、人の死の場面を知ったところで、皐月にできることは何もない。


 マリアとハンスは、信じないだろうか。あるいは、ボストンマラソンの日の皐月の様子を知っていたふたりなら、信じてくれるだろうか。


 皐月にできることは、何もないだろうか。いま絶対に危険に晒したくないはずの新たな命を待っているふたりに、リスクを知らせることはできないだろうか。


「大丈夫よ、きっと」


 マリアが明るい声で言った。


「皐月はあの日、ボストンから生還した強運の持ち主なんだから。お母さんだって、きっと日本で無事生き残るよ」

「SARSや豚インフルエンザみたいに、限られた地域での流行に留まるんじゃないかな」


 ハンスも頷いた。専門は保健衛生でも何でもないけれど、国連で働く彼が言うなら、信じたかもしれない――今朝、グランド・セントラルに降り立つ前の自分だったら。


「ニューヨークには世界中から大勢、観光客が来るでしょ。いつ急激に広まってもおかしくないよ」


 やんわり伝えても、マリアは皐月の焦りに気付いた様子はない。


「今のところ、そんなに感染例は出てないよ。ウエストチェスターで初めて感染者が出たのもつい最近だし」


 ウエストチェスターは、広々とした家が立ち並ぶ郊外の住宅地だ。しかし、ここロングアイランドシティは、それよりはるかに人口密度が高い。近接するクイーンズやブルックリンも同じだ。


「もし深刻化して国際移動が制限されたら、実家に帰れなくなるな」


 ハンスが笑った。彼の両親や兄弟はチューリヒにいる。

 皐月は知らず知らずのうちに両手を握りしめていた。指を固く握り合わせて、しばらく黙り込んだ後に言った。


「聞いてほしいことがある」


 思いがけず神妙な口調に、ハンスもマリアも不思議そうにした。

 息を詰めてから、皐月はふたたび口を開いた。


「ふたりとも、ニューヨークを出てほしい」

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March 7th, Grand Central Terminal 丹寧 @NinaMoue

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