第3話

 自宅アパートの小さな部屋に戻ってきて、衝撃的な今日の体験を落ち着いて振り返っていた。指揮者曰く、うつろいやすい感情には辟易としているだろう、動じない心が欲しいだろうと私に言った。あの時は衝撃的な事実に気持ちが翻弄されていたが、深夜のしんと静まり返ったこの部屋で思いかえしてみると、その通りだと私は思った。私には心の平穏が必要なのだ。それは何よりも優先されることなのだということがわかる。私はA.H処置を受けたいと指揮者に伝えることを決めた。あっさりと決断したことに私自身が驚いた。一週間後の練習で、私は指揮者のところまで行くと、A.H処置を受けたいということを伝えた。指揮者は薄ら笑みを浮かべ、もちろんいつでも対応できますよと言った。私はただ、IQの向上は望まなかった。それは秋の無感情にも思える姿を見ると、IQの向上が手放しに喜べるものではないのではないかと思ったからだった。指揮者は、そういった選択をされる方もいますよと小声で言った。その一か月後に処置をすることになった。私は会社には一週間の休みを貰い、指揮者に促されるままに、A.H処置を受けた。

          

                *

 私は処置を受けた後の最初の練習のため、公民館にやって来た。二階に上り、引き戸を開けるといつも通り十人程が各々音を出している。私もいつもの位置のパイプ椅子に座り、楽器を取り出し、調弦を始めた。なにやらバイオリンの響き方がこれまでと違う。違和感と言ってもよいような感覚だった。音の感じ方が違う。調弦が終わったので、昔から弾きなれた音階の練習曲を弾いてみる。やはり何かが違う。言葉には表すことができないが、何か精神が浄化されていくような、そんな気持ちになった。

楽団員が集まり、指揮者が指揮段の上に立つ。アークタクトが振り下ろされ、交響曲の演奏が始まる。そして先ほどの感覚が単なる感覚的なものではないことがわかった。オーケストラの中で自分の音と周囲の音が混ざると、自分の体内に生気がほとばしる感覚が得られた。脳内は完全に澄み切っている。

少し後方を見ると、金管兄弟の奇妙なストライプの洋装が妙に面白く、頬がにやけた。にやけた瞬間に笑いの渦が沸き立ち、笑うことが止められなくなった。ただ、指先の感覚は研ぎ澄まされて、0.1ミリ単位で指を置く位置がわかり、一音たりとも音程を外す気がしなかった。斜め正面前方を見ると、コンサートミストレスの秋が私を見て笑っている。それを見て、私も笑いが止まらなくなった。

        

                 *

 私に処置されたセカンドロットのM.Mは負の感情に閾値を設けるだけではなく、喜び、安心、達成感、優越感などの正の感情をより増幅するように設定されていた。

そしてさらに十年後に製造された次世代ロットにおいては倫理的観点からIQの増加が施されなくなることが決まった。これらは大戦争の勃発に伴い、耐えきれなくなる精神の崩壊を抑制するために、音楽療法、精神汚染の解消へとつながった。そして私はのちに五級提琴奏者になった。


                                  了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

弦楽プロノイア 武良嶺峰 @mura_minemine

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画