終電のあと、美嶽駅に列車が来る

ソコニ

第1話『終電のあと』

 美嶽駅の終電は、二十三時を少し回ったところで出ていった。ホームに残る灯りは弱く、駅舎の窓ガラスには夜の冷えが薄い曇りの輪を作っている。

 線路は眠り、わずかな風が草を撫でる音だけが動いた。冷たい空気が肌を刺し、胸の奥で小さな震えが生まれる。深夜の駅にいる理由は、主人公自身も正確にはわからなかった。ただ、ここに立っていた。

 そのはずだった。

 ――カン、カン、カン。

 途切れたはずの踏切の音が、闇の奥から戻った。

 一瞬、世界が止まったように感じる。遠くの光がわずかに揺れる。白いヘッドライトだ。

 主人公は立ち止まる。心臓が跳ね、手のひらに湿り気を感じる。光は少しずつ形を取り、線路の向こうに姿を見せる。

 古い車体。銀色だがところどころ塗装が剥がれ、冷たい光を吸い込むように鈍く濁っている。灯りは弱く、車内は見えない。ブレーキ音が静寂を切り裂き、線路の上で止まった。

 ドアは開かない。誰も乗っていない。でも確かに、そこに存在する。

 風が吹き抜け、背中に鳥肌が立つ。主人公は息を飲み、列車を見つめたまま動けない。闇の中で、光は微かに揺れる。

 窓の中に、ぼんやりと人影のようなものが見えた気がした。座席の隅には小さな影が落ちている。それが何かはわからない。確かにある。けれど、確証は持てない。

 時間がゆっくり流れた。一秒が一分に変わる。

 踏切の音がまた鳴る。列車は少しずつ、音もなく動き出す。

 ホームに立つ主人公の影が長く伸びる。車体の銀色は夜に溶け込み、闇に吸い込まれていく。やがて完全に姿を消し、静寂だけが戻る。

 しかし、空気は以前とは違っていた。呼吸が深くなる。肌に触れる夜風が冷たく、確かな存在感を持っている。

 主人公は知っていた。この列車は、また来る。必ず。

 翌晩も、翌々晩も、同じ時間になると、踏切は鳴るだろう。白い光が闇の先に揺れるだろう。来るはずのない列車が、静かに、しかし確実に、訪れるだろう。

 手元には何もない。ドアは開かず、車内の姿も見えない。それでも確かに、何かが動いている。

 目の奥に、見覚えのある風景が浮かぶ。消えたはずの誰かの顔、声、匂い。でも具体的には思い出せない。触れた感触だけが、胸に残る。

 時間が引き延ばされる。列車は動かず、止まらず、ただそこにある。銀色の車体は存在し、そして存在しない。

 闇が深まる。夜気の冷たさが強まる。駅舎の光が小さく揺れる。

 やがて、列車は完全に消える。音も光も、跡形もなく。

 しかし主人公の胸には、残り続けるものがあった。次に、また来るという確信。そして、その次に、何かが変わる予感。

 列車のことを考えずには、帰れない。ホームを離れようとしても、足は動かない。思い出せないけれど、知ってしまった。

 美嶽駅の深夜は、もう以前の静寂ではない。何も変わらないようで、すべてが変わった。

 闇の向こうから、列車がまた、揺らめきながら現れる。

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