誰もいない台所から

丁山 因

誰もいない台所から

 話を聞かせてくれたXさんは、三十代後半で建設業を営んでいる。昔は少し荒れた時期があり、地元でも名が知られた半グレ集団と関わりがあったという。


「若いときは結構無茶してましたね。ヤカラって言うんですかね。今はもう完全に手を切って、普通に働いてますけど」


 実際に会ってみると、その経歴が信じられないほど穏やかな印象の人だ。家族は妻と四人の子ども。週末は家族でショッピングモールに出かけるのが楽しみらしく、話す姿はどこにでもいる優しい父親そのものだった。


「二十一の頃だったかな……仲間と毎晩集まって、朝まで遊び回ってましたよ」


 当時のXさんは不良仲間とつるんで、気ままな毎日を送っていたという。


「……で、仲間内のリーダー格にZさんって人がいたんですけど」


 そのZがかなり危うい人物だった。ヤクザではないが、所々に入れ墨を彫り、恐喝や窃盗で生計を立てていたという。警察の厄介には何度もなったが、大抵は不起訴。一度懲役に行ったことがあるというが、九ヶ月ほどで、本人は反省より「箔がついた」とすら思っていたらしい。


「薬物はやってなかったんですが、当時はまだ規制が緩かった脱法ハーブにハマってましてね」


 Zはどこからか様々な種類のハーブを手に入れてきては仲間にも勧めていた。Xさんも一度だけ試したことがあり、体質に合わず泡を吹いて倒れ、病院に運ばれたという。それ以来二度と手を出してないとか。


「夏の暑い夜でした。友達のアパートに集まってゲームしてたら、急にZさんが来て……」


 Xさんは、あの日の空気を思い出して眉を寄せた。エアコンの効きが悪い六畳の部屋、カーテンの向こうのガラスには自分達が映っている。仲間たちは汗をかきながらも笑い合い、ゲームに夢中になっていた。

 そこへ、ドアの軋む音とともにZがふらりと姿を見せた。瞳の焦点は合わず、呂律も怪しい。脱法ハーブが強く効いていたのだろう。


「仲間も『またか』くらいの感じで、誰も気にしなかったんですよ。Zさんはそのまま酒を飲み始めて」


 Zはソファに倒れ込むように座り、室内には汗と酒の匂いがじんわりと広がった。それでも誰も深く気に留めず、ゲームを続けていた。テレビの光がZの横顔を照らし、不自然な影を落としていたが、当時の仲間はそれすら日常だった。


「そしたら突然、Zさんが怒鳴ったんです。『リコ! てめぇ、なんで来てんだよ!』って」


 一瞬で空気が変わった。

 リコという名前に、Xさんは思わず胸騒ぎを覚えた。Zが金銭的に依存していた女性の名前だ。そこにいるはずはない。

 だがZは、まるで本当に目の前にいるかのように、誰もいない空間に向けて怒鳴り、うなずき、すねたように謝り続けた。普段は会話すらまともにできない男が、まるで見えている相手とやり取りしているようだった。

 仲間たちは冗談半分に茶化しながらゲームを続けていたが、Xさんはどこかに小さな嫌な感覚を覚えていたという。Zの言葉が妙に具体的で、生々しかったのだ。


「そしたら急にテレビが消えて、次の瞬間、台所から皿が飛んできたんです」


 バツンと画面が暗くなり、直後に皿がZの頬をかすめて壁に砕け散った。


「みんな固まりましたよ。だって台所、誰もいませんでしたから」


 そこからは立て続けだった。コップ、瓶、調理器具まで、まるで怒っている「誰か」がZだけを狙っているかのように飛んできた。

 Zは顔を青くし、「ごめん……リコ、ごめん……」と泣きながら謝り続けた。

 五分ほど続いた後、突然すべてが止まり、テレビの電源が勝手に入った。

 恐る恐る台所をのぞくと、割れた食器が散乱しているだけで、人の気配はなかった。


「終わったと思って、今あったことを話してたんですが……気づいたらZさんがいなくなってたんです」


 蒸し暑い部屋には、割れた皿と沈黙だけが残った。


「次の日ですよ。Zさんが警察に捕まったって聞いたの」


 真夜中にふらふら歩いているところを職質され、突然逃げ出して逮捕。理由は分からないが、その直前に仲間の前から姿を消したことを思えば、何かから逃げていたのかもしれない――とXさんは言った。


「で、法に触れる薬物を持ってたらしく、自宅にガサが入って……」


 Xさんは短く息をついて続けた。


「……女性の遺体が見つかったんです」


 遺体には殴られた跡が多数あり、撲殺だったという。

 死亡推定時刻は前日の深夜。つまり、ZがXさんたちの前にふらりと現れる直前だった。

 誰もいない空間に向けたZの会話。

 飛び交った皿と瓶。

 あの日の異様な空気。


「取り調べで皿の話をしても、もちろん信じてもらえなくて。脱法ハーブの幻覚だって片づけられました」


 Xさんは苦笑したが、その目には当時の光景を思い返すような影があった。あの場にいた全員が、あれが幻覚ではなかったと今でも確信しているのだという。


「今ではみんな真面目に働いてるんですけど、時々あの時の話になります。……やっぱ、リコちゃん来てたんじゃないかって。だから家族は大事にしようって話になるんですよ」


 Xさんはそう言って、どこか落ち着いた笑みを浮かべた。

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