片想い

@y-kimu

第1話

これは、16歳の私が生きている、

初めての、そして、どうしようもなく痛い――

片想いの物語だ。


チャイムが鳴ったあとも、教室の中にはざわざわとした声が残っていた。

テスト返却の日の放課後なんて、すぐ帰る人の方が少ない。机を寄せ合って答案を見せ合うグループ、先生につめ寄る男子、部活の話をして笑っている女子たち。

そのざわめきの中で、私は自分の席に鞄を置いたまま、そっと前髪を指でなぞる。

今朝、鏡の前で五分くらい悩んだ末に、ぱつん、と少しだけ切った前髪。

美容院じゃなくて、自分で。ほんの数ミリ。言われなきゃわからないくらいの変化。

 ――気づくかな。

そんなことを考えてしまう自分が、少し恥ずかしい。

だけど、気づいてほしい相手は、この教室のどこにいるか、目を閉じてても分かる。

「なつき、どうだった? 数学」

後ろから答案用紙の重なる紙の音と一緒に、聞き慣れた声が降ってきた。振り返る前から、誰か分かっている。

「……まあ、ふつう?」

振り向くと、そこに立っていたのは桐生悠真。

小学校からずっと一緒で、家も近くて、気づいたら「幼馴染」というラベルが当たり前みたいについていた男の子。

悠真は、私の机の上の答案を覗き込んで、少し目を丸くした。

「お、いいじゃん。俺より上だわ。ほら」

そう言って、自分の答案を私の目の前に差し出す。

点数はほんの少しだけ、私の方が高かった。

「なにそのドヤ顔」

「いや、なつきでもちゃんと勉強したらやれるんだなって」

「“でも”ってなに」

軽口を叩きながら、心のどこかでホッとする。

いつもの距離感。いつもの会話。

たぶんこれが、私と悠真の“普通”なんだと思う。

だけど、そこに一本だけ違う色の糸が、静かに混ざり込んでいることを知っているのは、私だけだ。

それはいつからだったんだろう。

気づいたら、隣で笑う彼を見ている時間が増えていた。

何か面白いことが起きたとき、真っ先に顔を向けるのは彼で。

テストの点数が悪かったときに、真っ先に見られたくないのも、彼だった。

それが“好き”だって気づくのに、あまり時間はかからなかった。

ただ、その気持ちを口に出せる気は、今もまったくしない。

「なつき」

「ん?」

「前髪、切った?」

ふいに言われて、思わず瞬きをした。

心臓が、ぴょん、と跳ね上がる。

「え、わかる?」

「いや、なんか今日ちょっと違うなって。……似合うよ」

軽く、いつもみたいに、悪気のない笑顔で。

それなのに、その一言だけで胸の奥がぎゅっと熱くなる。

バカみたいだ、私。

たったそれだけで嬉しくなって、勝手に期待して。

――もしかしたら、って。

ほんの少しでも、そんなことを思ってしまうから。

そのとき、教室の前の方で女子の笑い声がはじけた。

なんとなくそちらを見ると、クラスの中心にいる三人組のうちのひとり、佐伯凛が、友達に肩を小突かれているのが見えた。頬を赤くして、照れたように笑っている。

その視線を追うように、悠真もそちらを見る。

ほんの一瞬。

だけど、そのときの横顔が、私にはいつもより少し柔らかく見えた。

「あ、やべ。部活行くわ。なつき、帰り一緒?」

「うん、待ってる」

「すぐロッカー寄ってくるから」

そう言って悠真は、鞄を片手で持ちながら走り去っていく。

その背中を見送りながら、さっきの視線を思い出していた。

 ――知ってるよ。

私には分かる。

あの目は、何かを追いかけている目だ。

誰かを、好きになった目だ。


夕焼けでオレンジ色に染まった通学路を、二人で歩く。

部活帰りなのか、自転車の列が何度か横を通り過ぎていく。

「今日の先生、マジ説教長くてさ」

「また居残り?」

「いや、ギリセーフ。でもさ、ちゃんとやれよなーって思うなら、もっと教え方考えてほしいよな」

「それを本人に言ってごらん?」

「死ぬ」

くだらないやり取りをする声が、夕暮れの風に混ざっていく。

そんな時間が、私は好きだった。

小学生のころから、ずっとこの道を並んで帰ってきた。ランドセルがリュックになって、リュックが学生鞄になっても、歩幅と歩く位置は不思議と変わらない。

今日は、聞かなきゃいけないことがある。

聞きたくないけど、きっと聞くべきこと。

でも、言葉にするタイミングがつかめない。

心の中で何度も何度も前に押し出しては、引っ込めてを繰り返す。

「……あのさ」

先に口を開いたのは、悠真の方だった。

胸が、いやな予感で勝手にざわつく。

だけど、耳は勝手にその言葉を追ってしまう。

「俺、好きな人できたかも」

予感は当たるときに限って、容赦がない。

足元のアスファルトが遠くなる。

心臓の位置だけ、身体から少し浮いたみたいだ。

「へ、え……そうなんだ」

自分の声が、少し上ずっているのが分かった。

気づかれてないといいな、なんて、まだ変なところを気にしている自分がおかしい。

「なつき、たぶん分かると思うけどさ」

悠真は、少し照れたように笑った。

さっき教室で見た顔と同じだ。

「さ、佐伯。……凛」

名前が、夕焼けの空に溶けていく。

遠くでカラスの鳴き声がした。

知っていた。

とっくに気づいていた。

彼が佐伯さんを目で追っているのも、わざとらしくない程度に話しかけに行くのも、黒板を消すときにさりげなく手伝っているのも。

でも、「好きな人」という言葉と一緒に、名前で突きつけられると、こんなにも痛いんだ。

「へえ……いいじゃん。可愛いし、人気だし」

自分でも驚くくらい、声は普通に出た。

笑っているつもりなのに、頬が変に熱い。

ここで言うべき言葉はひとつしかない。

分かってる。私だって、そんなに子どもじゃない。

“がんばれ”

そう言って、背中を押してあげるのが、幼馴染としての正解のはずだ。

だけど、その一言が口の中で固まって動かない。

喉の奥に重く引っかかる。

「……」

「まあ、まだ全然話したことないけどな。ていうか、なつきともそんな話しないし」

「そうだね」

「なんか、変じゃね? 俺ら、さ」

悠真は笑いながら、少しだけ足を止めた。

夕日の逆光で表情はよく見えない。

「幼馴染ってさ、便利な言葉だよな。なつきはなつきで、俺は俺で、でもなんか、家族とも友達とも違うっていうか」

その言葉に、胸のどこかがひりついた。

「……そうだね」


幼馴染…。

便利で、残酷な言葉。

恋をしちゃいけないわけじゃない。

でも、恋愛相手になれる保証もない立場。

私がどれだけ彼を好きでも、

彼にとって私は「なつき」という、ただの幼馴染に過ぎない。

「なつき?」

「え?」

「なんか、元気ない?」

ふと気づくと、私の歩く速度が少し落ちていたらしい。

悠真が振り返って、心配そうに覗き込んでくる。

近い距離。

その距離に、心臓がまた騒ぎ出す。

「大丈夫だよ」

とっさに笑ってみせる。

いつもの“平気な顔”を、急いで貼り直すみたいに。

「テストの点数、そこまで悪くなかったし」

「いや、そこは俺の方が悪いからな」

「でしょ」

からかうように言って、彼の肩を軽く小突く。

それ以上、余計なことを言わせないように。

本当は。

今すぐにでも、彼の腕を掴んで言いたい。

――私のことを見てよ。

でも、その言葉を飲み込んでしまうのも、もう慣れてしまった。

だって私は、ただの幼馴染だから。


夜、自分の部屋のベッドの上で、スマホの画面を見つめる。

クラスのグループLINEには、今日のテストの話や、明日の体育の持ち物の話でまだ通知が止まらない。

その中に紛れ込んだひとつのメッセージに、指が自然と止まった。

 《凛ちゃん、明日委員会で教室戻るの遅れるかもだから、ノート写させてくれる人いないかな〜》

佐伯凛。

いつもスタンプを多用して、周りを明るくするタイプ。

彼女のアイコンには、友達と並んで笑っている写真が使われている。

そのメッセージに、すぐに数人の女子が返事をしている。

それを眺めながら、胸の奥に小さな棘が刺さったまま抜けない感覚があった。

――きっと悠真、明日あのLINE見て話しかけに行くんだろうな。

そんな想像をしてしまう自分がいやになる。

別に悪いことじゃない。

好きな人に近づきたいって思うのは、自然なことだ。

私だって、その相手が私だったら、同じことをする。

だけど現実はそうじゃない。

彼の目線の先にいるのは、私じゃない。

「はぁ……」

大きくため息をついて、スマホを顔の横に放る。

天井の白い模様をぼんやりと見つめる。

もし、好きでいることをやめられたら。

こんなに苦しくなくなるのかな。

彼の恋を、心から「がんばれ」って言えるのかな。

背中を押して、笑顔で送り出してあげられるのかな。

でも、想像してみる。

彼が誰かと付き合って、嬉しそうに笑っている姿を。

その隣に立っている相手が、私じゃない光景を。

胸が、ぎゅっと縮む。

息が少しだけ浅くなる。

「……無理だよ」

暗い天井に向かって、小さく呟く。

好きでいることをやめるなんて、簡単に言わないでほしい。

それは私にとって、自分の一部を引きちぎるようなものだから。

だって――

これは、私の人生で初めての片想いなんだ。


それから数日、悠真は少しだけそわそわしていた。

佐伯さんの委員会の話をさりげなく聞いたり、帰りのホームルームが終わると教室の前の方をちらちら見たり。

本人は隠しているつもりかもしれないけれど、

小さいころから彼を見てきた私には、全部丸見えだった。

「なつき、プリント取って」

「自分で行きなさいよ」

「いや、俺今これ写してるからさ」

そんなふうに、いつもどおりのやり取りをしながらも、

ふとした瞬間に視線が遠くを見ているのを、私は見逃さない。

そのたびに、胸の奥で何かがカリカリと音を立てて削れていく気がした。


放課後。

帰り支度をしているとき、彼がふいに真面目な顔で言った。

「なつき」

「なに?」

「もしさ」

いつもより少しだけ慎重な声。

思わず、鞄に入れかけた筆箱を握ったまま手を止める。

「もし、俺が誰かに告白するってなったら……応援してくれる?」

心臓が、一拍遅れて大きく鳴った。

「……どうだろ」

正直に言えば、「嫌だ」と即答したい。

でもそれは、彼にとっても、私にとっても、きっと一番面倒な未来を連れてくる。

言葉を探していると、悠真が続ける。

「なつきならさ、なんか正直に言ってくれそうだし」

「正直に言っていいなら、告白なんてやめなよって言うかも」

「それはそれでひでえな」

冗談っぽく返すと、彼も少し笑った。

でも、笑いの中にほんの少しだけ不安が混じっているのがわかる。

その顔を見た瞬間、胸のどこかがまたぐらついた。

――ずるいよ。

そんな顔で、そんな言い方で頼られたら。

「……応援するよ」

喉が焼けるくらい乾いていた。

それでも、なんとか絞り出した。

「っていうか、なに。もう告白する予定とかあるわけ?」

「まだないよ。けど、いつかちゃんと言いたいなって」

いつか。

その“いつか”が、私にとってはタイムリミットみたいに聞こえる。

その日が来たら、私はどうなってしまうんだろう。

横で笑っていられるのかな。

それとも、笑えなくなってしまうのかな。


数日後の帰り道。

空は少しだけ曇っていて、西の方に薄いオレンジ色がにじんでいた。

いつもより、私たちの影はぼんやりしている。

「なつき」

「ん?」

「今日さ、佐伯とちょっと話した」

胸の奥で、なにか小さなものが落ちていく感覚があった。

「そうなんだ。なに話したの?」

「委員会のプリントのこととか、テストのこととか。普通の話」

「普通の話ならいいじゃん」

「だよな」

嬉しそうに笑う横顔が、いつもより少し眩しく見えた。

その光が、私から少しずつ何かを奪っていくみたいで、目を細める。

「なつきはさ」

「ん?」

「もしずっと誰かのこと想い続けたら、いつかその人に好きになってもらえるって、思う?」

それは、まるで私の胸の内を、そのまま口に出されたみたいな質問だった。

思うよ。

思いたいよ。

そうであってほしい。じゃないと、私は何を頼りにこの気持ちを抱えていけばいいのか分からなくなる。

でも、彼が今思い描いている未来の中に、私はいない。

「さあ……どうだろ」

曖昧に笑ってごまかす。

「でも、想い続けるって、けっこうしんどいよ」

「そうか?」

「そうだよ。……相手がこっち見てないと、特にね」

言ってから、しまった、と思った。

悠真が一瞬だけこちらを見る。

その視線に、内側を見透かされてしまいそうで、慌てて視線をそらした。

「なつきって、そういう話あんましないよな」

「しないね」

「好きな人、いんの?」

心臓が飛び跳ねる。

いるよ。

隣で歩いてる、このどうしようもなく鈍くて優しい人だよ。

そう喉までせり上がった言葉を、また飲み込む。

「……ひみつ」

「なんだよそれ」

「教えない」

冗談っぽく笑って、少しだけ歩幅を早める。

一歩前に出ると、彼の足音がすぐに後を追ってくる。

たぶん、今の私の背中には、言えなかった気持ちがたくさん貼り付いている。

そのどれも、彼には読めない文字で書かれているんだろう。


夜、再びベッドの上で天井を見つめながら、今日の会話を何度も巻き戻す。

もし、ずっと想い続けたら。

いつか彼は私を好きになってくれるのかな。

そんな都合のいい未来があるなら、どれだけでも待てる気がする。

でも現実はきっと、ドラマみたいにうまくいかない。

私がどれだけ彼を想っても、

彼が別の誰かを見ている限り、この気持ちはずっと片想いのままだ。

それでも、今の私はその道しか選べない。

好きでいることをやめるなんて、できないから。

「……バカだな、ほんと」

自分に向かって言うと、少しだけ涙が滲んだ。

こんなに苦しいのに、それでも彼の笑顔が見たいと思ってしまう自分が、いちばんバカだと思う。

スマホの画面を開くと、今日撮ったらしいクラスの写真がグループに上がっていた。

みんなでふざけてポーズをしている中、端の方に小さく写る悠真の顔を、無意識に 拡大する。

笑っている。その隣には、凛がいる。

距離は、ほんの少し。

私との距離よりも、近いような、遠いような。

そんな微妙な差が、心にじわじわと広がっていく。

画面をそっと閉じて、胸の上に置く。

「ねえ、悠真」

誰にも届かない声で名前を呼ぶ。

「いつかさ、私のこと、好きになってくれたりしない?」

答えが返ってこないことくらい、分かってる。

でも、せめて心の中だけでは、正直でいたかった。

明日もきっと、私は彼の隣で笑っている。

幼馴染として。

いつもどおりの顔で。

その裏側で、誰にも気づかれないように、

ただひとりの人に向けた片想いを、大事に抱えて。

 

叶わないことと分かっているのに、

私は今日も、彼に恋をしている。

 

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