兄嫁ってのは、どういうカテゴリに配分しうるのか[2016年]
僕の悪い所は、たとえば嫁が涙ぐましい努力をしている最中、ボス猿のことを考えてしまうことだ。更に、これが悪いかどうか判断できないところだろう。
兄なら悪いと即答する。兄は常に正邪の区別が明確だ。
同じ兄妹でも、姉は違う。
姉は高邁な思想を気取って医学部に入ったが、実に地味で凡庸で情に脆い平凡な人間だ。
しかし、兄は真に高邁だ。
嫁は兄を慕っており、妊娠できないことに悩んでいた。他人と同じにように生きることが、嫁にとっては最大級の生きる糧だ。それこそ、信念と言ってもいい。
嫁にとって、勝ち組であるにはエリート夫に子どもの存在が欠かせない。
そんな訳で、不妊に悩む姉が短絡的に考えたことは僕と寝ることだった。つまり、兄弟なら妊娠しても遺伝子的にバレないと思ったのだろう。
幸福な家庭の、そのための手段として、嫁の目標が、ここでどう繋がったのか僕には計り難い。
「何を考えているの」
「何も」
「そんなわけないでしょ」
「嫁さんのこと」
僕は彼女を『嫁さん』と呼ぶ。嫁は嫌うが、しかし、僕はその呼び方を変えない。
「私の何?」
これが彼女の面倒なところだ。自分の身体だけが目当てと考えたくない。自分を愛してくれる、つまり、人びとに注目されるはずの魅力的な女という幻想に酔いたいんだ。
だから、常に質問する。
『私、キレイ?』
『私のこと好き?』
僕の答えはいつも同じだ。
『ああ』
ああ、そんなこと全く興味がない。
「嘘ね」
「嘘じゃない」
「ホントのことを言ってもいいのよ。そのかわいい顔と頭で、何を企んでいるの?」
人は、なぜ本当のことを知りたがるのだろう。
実際は自分の望む本当のことしか興味はないくせに。その上、妊娠するために利用している僕に、愛情やら、ホントやら欲しいって、それ、欲張りすぎじゃないか。
かすかな物音がした。
本来、聞こえるはずのない音がした……、ような気がした。
僕には動物的な嗅覚がある。嫁が裸で僕の上に覆いかぶさっている瞬間に、妙な気配など感じたくはなかったが。
ソファの背後、つまりリビングルームのドア方向に顔を向けた。
男と目が合った。
どこかで見た顔だ。潰れたニキビが目立つ凹凸の激しい顔。荒んだ目をしている。なんだ、ボス猿だと思うと妙に納得した。
しかし、どういう経験をすると、僅か三年で、これほど荒んだ顔に変化できるのだろうか。
私立校に通うようなボンボンには、少年院はハードモードだったようだ。
そう思うと気が滅入った。
この後の結果が見えると、気が滅入ると同時に怖かった。おそらく、これが怖いという感覚なのだ。全身に鳥肌が立ち、下半身が縮こまって、ゾクゾクする。なんという刺激的な感覚。
「嫁さん。家の鍵をかけ忘れた?」
「え」と、言って嫁は顔を上げた。
一瞬黙って、次に悲鳴を上げた。
ボス猿は刃先の長いナイフを持ち、押し殺した声で無意味な恫喝をした。嫁は声も出せず震えている。
僕は奴がスマホを持っていることに気付いた。それで、何をしに来たかが明白になった。
ナイフに怯え、カメラを見て笑えた。
ボス猿の考えそうなことだ。自分が嫌なことは他人も嫌だろうという短絡的な思考。ナイフは脅しで、僕の不様な写真を取って侮辱したい。それが彼の考える復讐なんだろう。
断わっておくけど、僕は普通に感情が薄い。
多くの人が涙するような感動的な場面や、あるいは残酷な場面に、なんの感情もわかない。例え、眼前で人が殺されようと、それほどの思いはない。
だからだろうか。
最初に僕の頭に浮かんだのは、奴の本名は何だったかということだ。ボス猿なんて声をかけたら、まずいってこと位はわかる。
フラッシュに目がくらんだ。
裸の嫁をパシャパシャ撮影している。
昨年、リベンジポルノ防止法が制定されたってことも知らないだろう。
裸の写真をばらまく。こんな復讐は頭の悪い奴が使う手段にすぎない。全く少年院で何を教わってきたんだかな。
写真に満足すると、ボス猿は僕の腹に蹴りを入れた。気が済まないのか、その上に数発殴ってから、次に嫁に向かった。
「おい」と言いながら、僕は起きあがって胡座を組んだ。
口内が切れ、血が溢れて咳き込むから話しずらい。
「その女、兄の妻だぜ」
「うっせぇ」
「ヤルのはいいが、住居侵入や暴力に比べると、レイプは罪が重い。今度は重犯になるしな。今度こそ刑務所で過ごすことになる。それから、写真を撮ったくらいじゃ、口止めにはならないよ。警官の妻を甘くみない方がいい」
「お前! まだ殴られてぇか」
「いや、事実を言っただけなんだが」
「じゃかあしい。黙ってろ!」
その声の調子が不快だった。
相手を見下す、その声の調子が、とても不快だった。
僕のなかで起きた変化に自分でも自覚がない。
気づいたとき、僕の手は嫁ではなくボス猿をつかんでいた。
何かが覚醒する音が鮮明に聞こえる。僕は縮こまり、風景は靄になる。自分の声が冷たくぼうっとして耳朶にひびく。何を言ったのかは自覚なかった。
「てめぇ!」と、叫ぶ声が中途で切れた。
次に、僕の口内に鉄分を含んだ嫌な味がして、じゃりじゃりした。奇怪な味で僕はすぐに吐き出した。
視線を戻すと、驚愕したボス猿の滑稽な表情が、徐々に恐怖に歪むのが見えた。耳から血が溢れている。そうか……、誰かが耳朶を噛みちぎったんだ。
奴は叫ばない。
叫ぶことができない。僕の手が奴の首を絞って喉を圧迫しているからだ。なんて赤い顔をしているんだろう。
「ヒッ……」という声が背後から聞こえた。
それ、反応が遅過ぎるだろう。
「嫁さん」と、冷たい声がした。
「騒がないでくれるか」
僕はその時に気付いた。
僕に感情がないのではない。それは奥深くに隠れて見えなかったんだ。僕の感情はひとつしかなく、それは押さえ込まれた鬱憤や怒りというものだった。
生き延びるために身につけた最悪のこと 雨 杜和(あめ とわ) @amelish
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