感情レンタルアプリ ――あなたの『安心』はいくらですか?
秋乃 よなが
感情レンタルアプリ ――あなたの『安心』はいくらですか?
◇◇◇
【第一話 借りたい感情】
朝、通勤の地下鉄。スマホが鳴ったので確認すると、恋人から通知が届いていた。
『ちょっとだけ、借りたい感情があるの』
いつもの文字列なのに、胸が少しざわつく。けれど『いいよ』と返信する。
ホーム画面から、公式アプリを開く。どの感情を誰に送るかを選ぶ。
彼女は僕の『安心』を借りたいのだという。送信を終えると、胸の奥が少し軽くなる気がした。
最近の彼女は、話すたびに声の奥に小さな棘がある。仕事がうまくいっていないのだろう。
今日は僕に『安心』を借りることで、少しでも落ち着きたいのだ。別にこれが初めてのことではなかった。
(そろそろ届いた頃だろうか)
ふとスマホから目を離して、周りを見る。
満員電車に揺られているはずなのに、誰一人として負の感情を見せていない。
この世界では、通勤前に感情を『調整』するのが当たり前になっている。
みんな、誰かの感情を借りて、一時の苦しさから逃れているのだ。
再びスマホを見る。送った『安心』は、ちゃんと届いているだろうか。
ほんの数分後、返信が届いた。
『……ありがとう。少し落ち着いた』
文字だけなのに、伝わってくる。
画面越しでも、彼女の呼吸が少しゆるんだ気配が分かる。
彼女の肩の力が抜け、眉間のしわも消えた。
忙しさに追われていた顔が、ふっと緩む。
その瞬間、まるで空気の色が変わったように感じる。
電車の中のざわつきも、いつの間にか背景に溶けてしまったかのようだ。
僕は無意識に息をつき、スマホをポケットに入れ、彼女を思い浮かべる。
そのときだった。
電車の揺れに合わせて、ふわりと、淡い香りが漂ったような気がした。
甘くも柔らかく、穏やかな香り――僕の感情が、確かに彼女のそばで息づいているのを感じた。
(これが、誰かのために僕の感情が使われるってことか……)
首筋にかすかに触れた空気の温度と匂いに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
スマホを握り直しながら、小さく笑った。
今日も、誰かのために自分の感情が使われる。
それが、今のこの世界でいちばん穏やかな奇跡だった。
◇◇◇
【第二話 貸したい感情】
朝、寝室のスマホが震えた。通知を確認すると、母からだった。
『あなたに貸したい感情があるの』
普段の母らしくない文面に、胸が小さく跳ねる。けれど迷わず、『わかった』と返信した。
アプリを開き、どの感情を受け取るか選ぶ。
母は『罪悪感』を貸したいという。
言葉だけでは分からないその意味を、何となく感じ取った。誰かに背を向ける母の姿、夜の窓辺に沈む横顔――そんな映像が一瞬、頭に浮かんだ。
送信ボタンを押す。
指先に、何かを受け取ったような微かな抵抗が生まれる。
ひんやりとした感覚が胸に伝わり、冷たさがゆっくり染み込むように――母の過ちや後悔が意識の隅に浮かぶ。
思わず目を伏せる。
母が抱えていた過去の記憶の断片が、まるで映画のように浮かんでは消える。
あのとき、誰かを傷つけたかもしれないという思い。取り返しのつかない選択を悔いた夜。
母はずっと、それを誰にも話せずに生きてきたのだ。
胸の奥がざわつく。
後悔だけでなく、伝えたい思いも流れ込む。
僕に理解してほしい、認めてほしい――そんな気持ちが、静かに滲んでいるようだった。
窓の外の朝の光が部屋に差し込む。
軽やかな空気とは裏腹に、僕の中にはずっしりとした感情が残る。
手のひらに伝わる重みから、母の思いが静かに伝わってくるようだった。
青い霧のような匂いが、胸の奥に薄く残る。それは母の『まだ言葉にならない思い』の香りだった。
母の後悔を受け止めながらも、ただ圧倒されるだけではない。その向こうで、静かに過去と向き合う自分がいた。
感情を受け取ることは苦しい。
けれど、その痛みの奥に、母の息づかいがあった。
椅子に腰を下ろし、手元のスマホを置く。
目を閉じると、母の過去の夜の静けさや孤独が、心の奥で生きているのが分かる。
痛みは残るけれど、拒絶する気にはならない。ただ、心の奥で何かが静かに変わり始めていた。
ゆっくりと息を整え、目を開ける。
今日も誰かの感情を受け取る経験が、僕の中で静かに動き始めていた。
痛みも理解も、そしてわずかな親しみも、朝の光と一緒に溶けていく。
それでも、淡い青の残像だけが心の奥に残っていた。
◇◇◇
【第三話 返ってこない愛情】
朝、駅前のカフェで友人がスマホを覗き込んで、小さく溜め息をついた。
「やっぱり……返ってこないみたいだ」
友人の視線の先で、画面に小さく『返却期限切れ』の文字が点滅していた。
『愛情』――柔らかく温かいはずの感情が、今は友人の胸に重くのしかかっている。
指先から伝わる震えを、僕はそっと見守るだけだった。
元恋人は、返すつもりはないと文面で明言していた。冷たさと無頓着さが、文字の端々に滲んでいる。
画面越しに伝わるその態度は、柔らかなはずの愛情を鋭く刺す刃のようだった。
「仕方ないのかな……」
友人がつぶやく声は小さく、肩はわずかに落ちていた。
返してもらえないことを知りながら、まだどこかで期待してしまう――そんな心の奥に残る痛みを想像して、僕の心も痛くなる。
ふと、光ったスマホを見る。
『あなたの安心は現在使用中です』
普段なら気にも留めないはずの一行が、今日は妙に現実味を帯びて見えた。
誰かのために送った感情が、目に見えない場所で消費されていることを告げる文字。
胸の奥に、冷たい風がひとすじ通り抜けた気がした。
友人が貸した『愛情』も、今頃どこかで消費されているのだろう。
返ってこなくても、誰かの心の奥でまだ温もりを放っている。
視線を上げると、街が静かに息づいていた。
忙しそうに歩く人々、カフェから漂うコーヒーの香り、朝の光に照らされる笑顔。
そこに、わずかに他人の幸福の匂いが漂うような気がした。
光の粒が混ざり合うように、誰かの心の中で愛情が広がっていく。
友人を見守りながら、僕はその呼吸にそっと合わせた。
返却されない感情の重みは、怒りでも悲しみでもなく、ただ静かに胸を押さえつける。
僕にできることはない――それでも、世界のどこかで、その感情は役に立っている。
コーヒーを口に運ぶ。
温かさが喉を通り、ほんの少し落ち着きをもたらす。
淡い香り、遠くで笑う声、カフェのざわめき。目に見えない感情が、日常の中に静かに溶け込んでいく。
友人はスマホをそっと置き、外の光に目をやった。
僕もスマホをポケットにしまい、視線を遠くに投げる。
雑踏を見ながら、淡い幸福の匂いが胸の奥に染み込んでいくのを感じた。
返却されない感情は痛みも伴うけれど、きっとどこかで、誰かの心の奥に静かに息づいている。
そう思うだけで、少しだけ和らいだ。
◇◇◇
【第四話 広がる嫉妬】
昼下がりのオフィス。曇り空が、窓ガラスの向こうで低く唸っていた。
空気は静かに重く、いつもより息を潜めたような緊張が漂っている。
隣の席の同僚のスマホが小さく震えた。画面を覗き込む指先が、かすかに震えている。
「……やっぱり、来たみたい」
小さくつぶやいた声に、軽い焦りが混ざっている。通知は恋人からだった。
『ちょっと貸したい感情がある』
貸すのは『嫉妬』だという。柔らかさも温かみもない、尖った感情。
彼女が受け取れば、空気が微妙に張り詰めることを、僕は知っていた。
送信ボタンを押すと、同僚の肩がぴくりと跳ね、目がわずかに泳ぐ。
息を整えようとするけれど、胸の奥がざわつき、思わず小さく指を握った。
その些細な動きが、空気に嫉妬のざらつきを広げるのを、僕は目で追った。
コピー機の前に立つ人が眉をひそめ、書類を持つ手が硬直する。
会議室から漏れる声も、いつもより鋭く、無意識の苛立ちを帯びている。
感情は人を通して、意識しないうちに周囲に影響を及ぼす。
僕は机の上に視線を落とした。
淡く緑がかった気配が漂う。目では見えないが、たしかに嫉妬の匂いがあった。
心の内側が軽くざわめき、思わず肩に力が入った。
同僚の表情を見ると、内側から漏れる緊張がかすかに空気に混ざっているのが分かる。
画面越しではなく、身体の芯から伝わる存在感として、周囲に拡散している。
電話の着信音がオフィスに響く。
コピー機が作動し、紙が擦れる音が混ざる。
日常の機械音に、刺すような緊張が重なっている。
雑談も笑い声も、どこか硬く、誰もが少しだけ距離を測っていた。
嫉妬は、空気を尖らせ、形を持たない波として建物の中を漂った。
僕は目を閉じ、机の上の淡い緑に意識を集中した。
人の心で燃えた感情の残り香が、かすかに身体に伝わる。見えないはずの波が、確かに存在していることを感じ取る。
外の通りを見下ろすと、人々が足早に歩き、車のエンジン音が遠くに響く。
あちらでは、まだ世界が平常を保っているように見えた。
しかし、机や人の肩越しにかすかに揺れる空気は、制御できない感情の余韻として胸に圧力をかける。
ゆっくりと息を吐き、肩の力を抜く。
雑踏や紙の擦れる音と、心の奥のかすかなざわめきが重なり、微妙な緊張感を保ったまま、感覚が沈んでいく。
オフィスの中に漂う嫉妬は、もはや個人のものではない。
広がる感情の波は制御不能で、淡い緑の匂いが、胸の奥に忍び寄るように残っていた。
◇◇◇
【第五話 染み込む後悔】
夕暮れ前のリビング。オレンジ色の光がカーテンの隙間から差し込み、テーブルの上を淡く染めていた。
スマホが小さく震える。通知の差出人は妹だった。
『ごめんだけど、後悔を借りてほしい』
普段は無邪気で軽やかな妹が、こうして感情を送ってくるのは珍しい。
思わず身体がこわばった。
アプリを開き、受け取る感情の種類を選ぶ。
『後悔』――その文字を見た瞬間、胸の奥に薄い氷が張るような感覚が走った。
僕は深呼吸し、送信ボタンを押す。
指先から胸へ、小さな衝撃がゆっくりと流れ込んだ。
妹の小さな選択の連なり、言葉にできなかった思いが意識の隅に広がる。
手に触れるような現実感はないのに、確かに心に何かが入り込んできた。
椅子に座り直す。
胸の奥で妹の記憶の断片が入り混じり、微細な痛みとともに思考の輪郭に新たな影を落とす。
朝の登校前に迷った道、友だちに言いそびれた言葉、無理に笑った放課後――日常の小さな選択ひとつひとつが、僕の中に入り込む。
知らず知らず、妹の癖や思考も混ざり始める。
手の握り方、眉の動き、声のトーン。
自分のものではない感覚が身体を震わせ、思考の輪郭がわずかに歪む。手先がかすかに痺れた。
スマホに視線を落とす。画面には妹の名前が表示されているだけなのに、胸の奥に小さな圧迫感が生まれる。
色や声の残像が、まるで自分の中でかすかに震えているかのようだった。
外の夕暮れは、まるで僕の胸の内を映すように、静かに濃度を増していた。
橙色と紫色が混ざり、部屋の影を長く伸ばす。
その光に照らされると、意識の境界の曖昧さが、より鮮明に浮かぶ。
目を閉じると、胸の奥で妹の後悔が静かな振動として届き、僕の思考の中に染み込んでくる感覚があった。
拒絶ではなく、ただ受け止めるだけで、心の中に奇妙な共鳴が生まれる。
そして、目を開けた瞬間だった。
瞳の奥に、妹の淡い茶色がひそやかに広がった。
夕暮れの光に染まる部屋の影と重なり、まるで自分の内側に妹の影が忍び込んだかのようだ。
感情の浸食を直感で知らせる変化。僕は息を整え、手元のスマホをそっと置く。
部屋の光や影が少しずつ落ち着きを取り戻す中、胸の奥には妹の色がゆっくり沈み、まるで気配のように意識に残っていた。
後悔は消えない。
でも、その重みを知ることで、妹の存在をより身近に感じることができた。
僕はゆっくりと息を吐き、腕の力を抜く。
他人の感情を受け取り、その静かな痛みを胸の奥に刻んだ。
◇◇◇
【第六話 値札のついた安心】
午後の光がビルの隙間から差し込み、歩道に細長い影を落としていた。
スマホを手にしたまま歩く僕の視界には、アプリの新機能の通知が表示されていた。
『感情ランキング機能』――これまで個人的にやり取りされていた感情が、数値化され、公開されるようになったらしい。
画面を開くと、貸し出された感情が価値として表示され、上下するグラフが目に入る。
安堵や安心、怒り、嫉妬、人々の心がすべて取引対象となる現実。息を呑む。
感情が市場に流れ始めた瞬間、日常の景色は静かに別の層へずれた。
ふと目に止まったのは、僕が恋人に貸した『安心』の項目だった。
スクロールすると、数値が急上昇し、今日のトップに位置していることが分かる。
指先が止まり、心臓が跳ねた。
自分が貸したほんの小さな感情が、他人の手で価値として測られ、他者の間で評価され、消費されている――その実感が胸に迫る。
目の前を通り過ぎる人々や、交差点を曲がる車の影は変わらない。
だが、僕の内部ではかすかな振動が広がる。
感情が価値を持つ世界に足を踏み入れた瞬間、日常の景色が微妙にずれたように感じられた。
足元の感覚が一瞬だけふわりと浮き、現実がわずかに遠のく。
通知音が鳴り、画面には光とともに文字が浮かぶ。
『あなたの安心が本日のトップ商品です』。
指先が震える。
ただの数字と文字なのに、その光が胸の奥にゆっくり沈んでいった。
感情が評価され、消費され、ランキングされる現実。
自分の中で当たり前だった感覚が、数値という形で他者の世界に届く瞬間。
その衝撃に、息が止まった。
足元のアスファルトは変わらず固く、遠くの信号機も同じ色を灯していた。
ただ胸の奥に、わずかな歪みが生まれる。
感情の価値を意識することで、世界の厚みが突然増したかのようだった。
僕はゆっくり息を吐く。
隣を歩く誰かの息づかいさえ、数字の底に薄く沈んでいるような気がした。
安心という感覚が、個人のものではなくなったことに、不安と静かな驚きが入り混じる。
それでも、胸の奥に残る感情の残像を抱えながら、僕は歩みを進める。
街は変わらずあり、光と影が混ざる世界は続く。
けれど今日からは感情もまた取引され、評価される世界に溶け込み、僕の中に静かに刻まれていた。
◇◇◇
【第七話 凍る安心】
僕は立ち止まった。恋人の部屋の前、淡い光のまだらの中で。
スマホに目を落とすと、まだ返却されていない『安心』の通知が残っていた。
ドアノブに手をかける前、心臓のあたりが微かにざわつく。
何度も確認してきたはずなのに、まだ僕の『安心』が戻ってきていない事実が重くのしかかる。
軽く息を吐き、ノックをして中へ入る。
恋人はソファの端に座っていて、手元のスマホをいじっていた。
画面の明かりが指先を淡く照らす。かすかに震える指先。
スクロールするたび、本来僕の心にあったはずの『安心』が遠ざかる感覚が広がった。
静かな部屋の中で、彼女の手元から漂う他人の『安心』の匂い。
それは形のないものなのに、意識を覆い、心の中にぽっかりと穴を空ける。
言葉を探す前に、彼女は無意識に安心を吸い込み、目を閉じ、画面を指先でなぞった。
その瞬間、胸の内の空洞が広がった。
僕の心の中にあった感覚は、まるで水のように流れ出し、手の届かない遠くへ押しやられる。
息を整える間もなく、ただ光景を見つめ続けた。
部屋の中の空気は日常の温度のままなのに、僕の内部だけが凍りつき、鈍い痛みが身体全体に伝わる。
胸の揺れに呼応するかのように、街路に散らばる光の粒が揺れている。
もう、手に取ることはできない。
『安心』は他者の手に握られ、僕はただ目撃するだけ。
スマホには貸した『安心』の履歴が数値化され、すでに別の世界で流通している。
心の中心の空洞は、言葉で説明できないほど深く広がり、押し潰されそうな重さを帯びた。
呼吸のリズムだけが現実を繋ぎ止め、時間の感覚は薄れ、ただ光と影の揺らぎが部屋に残る。
理解した。
貸した感情は、返却されることを前提にしていても、借り手の意思によって形を変え、支配されるものなのだと。
与えた安心が別の手に渡ることで、心は空洞化し、制御不能な恐怖が静かに広がる。
窓の外を見下ろすと、通りを歩く人々の足取りや街灯の光は、変わらない日常を映している。
だが、僕の内部の世界だけが、時間の流れが歪んでいた。
貸した感情が他者の中で価値として流通する衝撃が、心臓のあたりの冷たさをさらに深く押し広げた。
小さな光の粒の波紋に呼応するように、僕の胸も静かに震える。
手に取れず、制御も返却もできない。
部屋の光と影が落ち着きを取り戻す頃、身体の中心に残った冷たさは静かに、しかし確実に脈打ち、心の一部として居座った。
喪失は連鎖する。
感情を貸すことは、時に自分を失うことでもある。
僕は静かに悟った。
◇◇◇
【第八話 浸食される感情】
夜の街角は、街灯の光が濁った水面のように揺れ、歩道には人影がちらほら映るだけだった。
帰り道のつもりが、いつの間にか裏通りに迷い込む。
静寂の中に、かすかに不自然なざわめきが混じっていた。
角を曲がると、小さなビルの地下から漏れる明かり。
階段を下りると、そこは人目を避けた市場のような空間だった。
人々が密集し、青白い光を顔に反射させながら、熱気を帯びた声でやり取りしている。
しかし商品は日用品でも食べものでもなく――感情だった。
スクリーンには数字が踊り、赤や黒のグラフが不規則に上下する。
怒り、恐怖、嫉妬といったネガティブな感情が高値で競り落とされ、人々はそれを吸収するように画面を指先でなぞり、時折笑みを浮かべる。
息を呑んだ。
見知らぬ者同士が感情を所有し、売買する光景は、日常世界とはまったく異なる現実だった。
視線を移すと、自分の貸した『安心』がスクリーンに現れかけている。
その瞬間、心臓が震え、手のひらに冷たい汗が滲む。
凍りつくように遠ざかる安心――他人の意思に委ねられ、水のように指先をすり抜けていく。
咄嗟に手を伸ばす。
しかし、届かない。
隣のスクリーンでは恐怖が高値を示し、人々が歓声を上げる。
その場にいるだけで、空気に張り付いた熱気が体温を奪い、呼吸が重くなる。
手元のスマホが振動し、通知が表示された。
『あなたの安心が流通圏に侵入しました。追跡を継続しますか?』
画面を見た瞬間、目の前の数字と光景が波打ち、全身の力が抜ける。
感情が商品として扱われる世界は、想像以上に危険だった。
非公式の市場では、暴力的で不安定な感情が混ざり込み、吸い込まれるような恐怖が現実にまで押し寄せる。
後ずさり、壁に背を預ける。
視界の端では、人々の感情を取り合う動きが波紋のように広がり、胸に震えが伝わる。
鼓動は早まり、肌が冷たくなっていく。
この市場は公式のランキングよりも狂気に満ち、価格は感情の強度に比例する。
恐怖や怒りが飛び交う様子は、まるで戦慄を消費する儀式のようだった。
僕の中の安心も、もはや安全な場所にはない。
貸した感情が他者の手に渡るだけでなく、制御不能な市場の波に巻き込まれようとしている。
恐怖が現実に滲み出し、足元まで影を落としているように感じられた。
立ち尽くす。
ざわめき、画面の数字、揺れる光――すべてが現実で、逃げ場はない。
奪われかけた安心の余波が追いかけてくる。
夜の街灯が濁った空気を淡く照らす。
しかし視界の中心には、スクリーン越しに蠢く凶暴で予測不能な感情の波が、静かに、しかし確実に迫り、僕に浸食してきていた。
◇◇◇
【第九話 暴走する感情】
午後の光が街路に柔らかく降り注ぎ、人々はそれぞれの用事に穏やかに動いていた。
カフェのテラスでは笑い声が響き、子どもたちの遊ぶ声が路地に溶け込む。
僕は歩きながらスマホを覗き、貸した安心の履歴をぼんやりと眺めていた。
そのとき、手元が振動し、画面に赤い文字が点滅した。
『警告:異常流入検知』
瞬間、午後の穏やかさが引き裂かれ、空気が重く濁った。
胸の内側で、貸した安心が逆流する感覚が波のように押し寄せ、身体を締め付ける。
通りを見渡すと、笑っていた人々の表情がわずかに歪み始めた。
怒り、焦燥、恐怖――本来なら心の奥底に留まるはずの感情が周囲に漏れ出し、互いに絡み合う。
子どもが転びそうになると、その恐怖が隣の大人に伝わり、瞬間的な苛立ちとして現れる。
街全体が、霧のような感情の粒子に包まれたかのようだった。
僕は立ち尽くす。
貸した安心が戻ってきたわけではない。
逆流した感情は制御を失い、周囲の人々に波及している。
カフェのテラスにいた恋人も、何気ない動作がわずかに焦燥を帯び、手元のスマホに意識を剥けている。
彼女の気配が、僕の心の焦りを増幅させる。
角を曲がる人もまた、スマホを操作している。
その表情に混ざる小さな焦燥も、他者の感情と入り混じり、通りを流れる空気に影響を与えていた。
僕は呼吸を整えようとするが、うまくできない。
熱と冷気が交錯し、体の輪郭がぼやけるようだった。
霧のように街に広がる感情は、目に見えるわけではないのに確かな存在感を持ち、光景の端々で暴れている。
子どもが泣き、犬が吠え、怒りに満ちた視線が交差する。
通りの向こうでは、知らない人同士が無意識に苛立ちをぶつけ合い、些細な争いが次々と生まれていく。
電光掲示板の文字がかすかに滲み、行き交う人々の視線が同じ方向を向いた。
足元の石畳に漂う不穏な空気は、まるで感情の波紋のように広がり、僕の視界を埋め尽くす。
僕は息を止める。
その一瞬の静寂でさえ、他人の焦燥に満たされていた。
ざわめき、互いに入り混じる感情、空気がねじれるような感覚――全てが現実で、逃げ場はない。
午後の穏やかさは完全に消え去り、制御不能な暴走が街を包み、僕の内側までも支配していく気配を、肌で感じていた。
◇◇◇
【第十話 空洞の感情】
朝の街は、静かに、しかし確実にアプリに支配された日常を繰り返していた。
待ち合わせの笑顔や、通勤途中の軽やかな足取りは、スマホの通知が作り出す『借りた感情』の反射に過ぎない。
歩きながらスマホを開くと、画面には途切れなく通知が流れていた。
貸した安心や交換された怒り、誰かの借りた悲しみが、画面上で数字として跳ねる。
人々は無意識にその感情を受け取り、また無意識に誰かに与え、気づかぬうちに自分の内面は空っぽになっていた。
通りを進むと、街のいたるところに『感情の定点』が存在していることに気づく。
カフェの窓にはその日の人気感情ランキングが貼られ、待ち合わせの合図として『今日の喜びトップ3』が表示される。
コンビニの棚には、感情の流通に最適化されたスナックやドリンクのパッケージが並び、『今、何を摂取すれば幸福度が上がるか』が一目で分かる。
学校やオフィスでは、借りた感情のデータが黒板や掲示板に並び、成績か勤務評価にひっそり影響を与えていた。
恋人も例外ではなかった。
カフェの窓際で、スマホを手放さず画面を指でなぞり続ける。
僕の貸した安心も、知らぬ間に彼女の中に流れ込み、さらに別の誰かに渡っていく。
目を合わせても、そこに本来の彼女はいない。
借りた感情で彩られた影だけが、微笑みの形に留まっていた。
友人たちも同じだ。
通知やメッセージを交わしていても、言葉の奥にあるはずの本物の感情はすでに誰のものでもなく、淡い色の影だけが行き交う。
笑顔の下に透ける空洞は、もはや不自然ではなく、日常の一部として認知されていた。
僕の母も、リビングでスマホを見つめながら静かに溜め息をつく。
かつて僕に向けられた安心や優しさは、他人の手を経てすでに変質し、返ってくることはない。
母の表情もまた、アプリから流れ込む感情に依存しているかのようで、そこにあった温もりは跡形もなく消えていた。
街を歩けば、無意識に感情のやり取りが繰り返される。
怒りも喜びも、安心も焦燥も、誰のものでもなく、淡く薄い色の粒子となって、空気の中を漂う。
しかしその空気の中に、もう本物の感情は混ざっていない。
日常は、色付きの影の上に成立しているだけだった。
僕はポケットからスマホを取り出す。
画面の数字や履歴が次々に変化し、貸した安心は別の誰かに渡り、借りた喜びは新たな心に流れ込む。
操作は簡単で効率的だが、その簡単さの裏で、誰も自分の感情を持たず、社会全体がその流通に慣れきっている。
胸の奥がぽっかりと空く。
そこにあるのは、誰にも奪われず、誰にも浸食されない自分自身の感覚。
しかしそれすらも日常の喧騒とスマホの光に掻き消されそうで、手を伸ばしても掴めない。
僕は歩道のベンチに腰を下ろす。
周囲の人々は自然に感情を借り、与え、やり取りを続けている。
日差しの中で漂う笑顔と声は穏やかだが、その穏やかさの奥には確かな空虚が潜んでいる。
それを感じられるのは、今のところ僕だけだった。
深く息を吐き、スマホをポケットにしまう。
画面の光も通知の振動も、もう必要ない。目を閉じ、心音に耳を澄ませる。
そこにあるのは、貸した安心も借りた喜びも届かない、自分自身の空洞。
街は日常を装い、波打つ感情の渦の中で、唯一、残された静寂を僕だけが抱いていた。
感情レンタルアプリ ――あなたの『安心』はいくらですか? 秋乃 よなが @yonaga-akino
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