最も辛い人
増田朋美
最も辛い人
もう扇風機もしまってひざ掛けを出したいなと思われる気候になってきた。その日蘭は用事があって、富士市役所へ出かけた。蘭が用を済ませエレベーターへ乗ろうと車椅子を動かしていたところ、エレベーターのボタンに手が届かなかったため、誰かが押してくれるのを待つしかなかった。全く、市役所は、車椅子用のエレベーターのボタンがないのが困ったものである。しばらく待っていると、奥から一人の女性がやってきて、
「よろしければエレベーターのボタンを押しますよ。」
と言ってくれた。
「あ、ああ、ありがとうございます。あれ?何処かで見たことがあったような。」
その女性を見て蘭は思わずそう言ってしまった。
「わかりますよ。彫たつ先生ですよね。あたしですよ。あの、星野淳子です。これを見ればわかるんじゃないですか。これ先生が彫ってくれました。」
そう言って女性は腕をちらりと見せた。確かに蘭が彫った記憶のある、ユリの花がそこには見えた。
「ああやっぱり星野さんだったんですね。うちへ来てくれていたときと、髪型が違っていたので驚きました。確か、あのときは髪が短かったようだから。なにか理由があって、髪を長くされたんですか?」
蘭はそう彼女に言った。
「まあ正確には、忙しすぎて、髪を切りに行く暇がなかったということです。」
淳子さんはにこやかに笑った。
「息子?ということは、彫ったあと、結婚されたんですか?」
蘭が思わずいうと、
「はい。いたしました。でも二人息子ができましたけど、長くは続きませんでした。2年前に主人をなくしました。それに下の子は、先生と同じ様に歩行不能です。もうなんでこんなに不自由なのだろうと、思うこともあります。」
と、彼女は言うのであった。
「そうですか。それは大変ですね。それにしても、息子さんがいたとは、驚きでした。今は何歳なんですか?」
蘭は驚いていった。
「ええ、上が15歳で、下は6歳です。」
「はあ、じゃあ、ふたりとも高校とか、小学校に?」
「いや、それが行ってないんですよ。上の子は下の子の世話で忙しく、下の子は、受け入れてくれる学校がないんですよ。」
「はあ、そ、そうですか。そういうことなら、余程障害が重いのでしょうね。例えばですけど、下の息子さんが歩けないのは、筋ジストロフィー症とか、そういうのですか?」
蘭は、思わず淳子さんに聞いてしまう。
「そういうことだったらまだ、良いかもしれませんね。でも、残念ながらそうじゃないんですよ。毎日足が痛い痛いって騒ぐけど、何をやっても異常を発見できないんですよ。」
淳子さんは笑ってそういう事を言った。そのうち、他の人がエレベーターに乗りにやってきたので、蘭と淳子さんは、エレベーターに乗って、市役所の建物の外へ出た。蘭がタクシーを呼ぼうとすると、
「先生、送っていきますよ。息子が車椅子だから、どっちにしても乗れますよ。」
淳子さんは、蘭の車椅子を無理やり動かして、駐車場へ行った。
「どうもすみません。じゃあお言葉に甘えます。」
蘭は、淳子さんに言われた通り、黒色の軽自動車に乗せてもらった。
「先生の住んでいるところって、えーと、」
「ああ、新富士駅でおろしていただければ大丈夫です。」
「そうなんですか。うちも新富士駅の近くですから、お近くまでお送りします。」
淳子さんは、車のエンジンを掛けた。車があると本当に便利だなと思うけど、運転ができることはなんだか特別なことみたいに見える。
「息子さんは、学校へ行ってらっしゃらないと聞きましたけど。」
蘭は、車内で言った。
「まあ本人が幾ら言っても、行こうとはしないので、それでは仕方ないと思っております。どうせね、いじめられるのですから、いかないほうが良いんだって、本人は言ってました。」
淳子さんは残念そうに言った。
「でもですね。どこかで教育を受けたほうが良いと思うのですよね。ずっと家にいたら、まず初めに悲しいでしょうし、気が滅入るでしょう。それでは、まずいというか、本人も辛いのではありませんか?」
蘭はそう淳子さんに言うのであるが、
「そう言われるんですけどね。ですが、私は、あの子が弟のことでいじめられてしまうのも可愛そうだと思うんですよね。弟の方も、痛いばかりで何も変わらないし、それでは学校に行っても意味がないといいますかなんといいますか、、、。」
淳子さんはそう答えるのであった。
「そうですかなんて言えませんよ。何も教育を受けられないなんて、ちょっと可哀想すぎるのではありませんか?やはり、知識として勉強させて上げることは必要なのでは?」
蘭はそういったのであるが、
「そういうことなら先生、うちの子二人に会ってやってくださいませ。そうすれば、どんな生活しているのか、わかりますから。」
淳子さんは、ちょっとムキになるようになっていった。
「そうですか。じゃあお願いします。」
蘭がそう言うと、淳子さんは車を方向転換させ、ある小さなマンションの前に車を止めた。
「ただいま。」
淳子さんが一階にある部屋のドアを開けると、
「おかえりなさい。」
と言って、一人の少年が出迎えた。
「お母ちゃんこの人は?」
「うん、お母ちゃんの彫師の先生。まあ、言ってみれば人生の大先輩。」
淳子さんは、そう蘭を紹介した。部屋の中はテレビの音が大音量で流れていて、小さな少年が、ぼんやりした顔でテレビを眺めていた。小さな少年は、確かに歩けないのだろう。車椅子に乗っていた。
「君たちはいくつなの?」
蘭は思わず言ってしまった。確かに、小さな男の子も歩ける少年も、淳子さんが言った年齢よりも、かなり幼く見えたからである。小さな男の子たちは、またお咎めが来たのかという顔をして答えなかった。
「学校にはどれだけ行ってないの?」
蘭は質問を変えた。
「高校は、受験しなかった。」
歩ける男の子は、そういった。歩けない男の子は小さな声で、
「全くいけてない。」
というのであった。
「そうなんだね。じゃあ、君たちの名前は?」
蘭が優しく聞くと、
「星野健太郎。」
歩ける少年がそう言うと、
「星野敬太。」
歩けない少年もそういった。
「そうなんだね。そういうことだったら、どうして学校に行きたくないのか、理由を話してみてもらえないかな?おじさんは、怒らないから。」
蘭はできるだけ優しく二人に問いかけた。怖いおじさんと思われないように、一生懸命優しく話そうと試みた。
「だって、学校へ行ったって、どうせ歩けないでバカにされるか、授業についていけないことで、先生に叱られるしかないもん。」
小さな敬太くんはそう答えるのであった。
「僕は敬太の世話で忙しいんだ。敬太がずっと足がいたい痛いって、いうから。それのせいで、自分では何もできないし。」
健太郎くんはそういうのであった。
「でも、きちんと学校へ行って、読むことや書くこと、他のことを学んで大人にならないとさ。学校に行くってのは、他の人から刺激を受けて人生を学ばせてもらうという体験をするところでもあるから。」
「そんなことはないよ。」
健太郎くんは、蘭の言う事をあからさまに否定した。
「学校なんて、差別したりバカにしたり、他の人を信じられなくさせたりするだけじゃない。それじゃあ本当に辛いだけだもの。そんなところ行ったって辛いだけだよ。」
「でもねえ。教育は、本来恵まれない人を何とかするべきものだと思うんだけどな。もし、変な教育機関に行かされたのなら、もっといいところへ行きたいと主張するのは、当然の権利だよ。学校だけで、人間を信じなくなってしまうのは困るな。」
「でも、敬太をなんとかしてあげられる人もいないじゃないか!」
蘭がそう言うと、健太郎くんはそう強く言った。
「敬太が足が痛いって言うから、いろんな病院に連れて行ったけど、どの医者も何も異常を見つけてくれなかった。だから、もう大人なんて信用するもんか。」
「なるほどなるほど。わかったわかった。そういうことなら、敬太くんのことをちゃんと見てくれるお医者さんに来てもらって、しっかりお医者さんに診断名を出してもらおうね。そうすれば、健太郎くんも楽になれるかもしれないよね。」
「本当にいいんですか?」
そういう蘭に、お母さんの淳子さんがそういった。
「ええ。誰かがなんとかしなければどうにもなりません。敬太くんのことだってしっかり診断名をつけなければ、本人が可哀想ですよ。そういうときは、家族以外の人間が間に入ってもいいと思いますよ。」
蘭は、きっぱりと言って、すぐにスマートフォンをダイヤルした。二人の少年たちは、どうせ無理だろうという顔をしている。
「すぐに来てくれるから安心してくださいね。悪いようにはしないから。」
蘭は、スマートフォンで電話をかけると、そう二人に言った。数分後、星野家のインターフォンがなった。
「こんにちは。精神科医の影浦千代吉です。診察に参りました。」
そう言ってやってきたのは、影浦千代吉先生であった。蘭が敬太くんを見てやってほしいというと、影浦先生は了解ですと言って、敬太くんに近づき、
「あらましは蘭さんに聞きましたが、足が痛いそうですね。それはいつ頃からですか?」
と聞いた。敬太くんはわからないと答える。
「学校に入学したばかりの頃、体育の授業で足を骨折しました。しかし、それはもうとっくに良くなっているはずなのに、いつまでも痛い痛いと言って、そこから先がないんです。」
お母さんの淳子さんがそう説明すると、
「最近では、あまりにも痛くて歩くこともできなくなりました。いろんなお医者さんに見てもらったんですけど、どんな検査をしても異常がないんです。血液検査とか、骨密度とか、色々やったんですけどね。だから、逆になんで異常を見つけられないのか、僕は、困っています。」
健太郎くんもそう説明した。影浦先生は少し考えて、
「そうですか。それはお辛いですね。それはね、おそらくですけれども、線維筋痛症というものだと考えますよ。どこを見ても異常がない、痛み止めをいくら飲んでも痛みが取れない、そういう症状は、心の以上が原因で痛みを発症しているんだと思います。そういうときは痛みをなんとかしようと考える必要はありません。本来の敬太くんを取り戻せば、痛みは消えます。」
と、優しく言ってくれた。
「そうなりますと、薬ではなんにもならないことが多いので、そうですね、カウンセリングなどで、本人の気持ちを聞いてあげて、そして心のわだかまりなどを整理してあげて、本人が悪いわけではないと伝えていくことが大事だと思います。僕も、蘭さんも一緒ですから大丈夫。一緒に治しましょう。」
「そうですか。ありがとうございます。なんとか決まってくれたようでちょっとほっといたしました。しかし、何も異常がなくても痛みが出るというのは、本当にあるんでしょうか?」
淳子さんがそうきくと、
「人間の心というのは複雑ですし、これほど弱いものはないと思います。そういう例はたくさんありますよ。ひどいときには末期がんと同じくらいの疼痛を訴えてきた方もおられました。」
影浦先生はそう答えた。
「じゃあ、処方箋を書いておきますから、お大事にしてくださいね。」
影浦先生はそう言って、淳子さんに処方箋を渡し、にこやかに帰っていった。
その日から、蘭は二人の少年が心配だったので、二人を一日一度尋ねることにした。特に次男の敬太くんは、蘭によく懐いてくれて、様々な話を彼にしてくれた。健太郎くんの方は、始めの頃こそ蘭を警戒していたようであったが、敬太くんにつられて蘭と一緒に御飯を食べてくれるなとしてくれた。
しかし、それから数日後、蘭が敬太くんと健太郎くんといっしょにラーメンを食べに行っている間、星野家に来客があった。淳子さんとよくにた顔つきをした年配の女性であった。
「お見合い?」
淳子さんは思わず言ってしまう。
「そうよ。いつまでもこのままでいて大丈夫なわけないじゃないの。健太郎をいつまでも学校に行かせないわけには行かないし、敬太もこのままでは、いつまでも自立できないでしょう。それを促すためにも男親が必要だと思うの。相手の人だってちゃんと二人子供が居ることをわかってくれたのよ。」
淳子さんのお母さんは、中年男性の写真を見せながら言った。
「よく考えてご覧なさいよ。あんただけで敬太のことも健太郎のことも見きれないでしょ。その証拠に、健太郎は学校にいかないし、敬太も歩けないで、甘えっぱなしなのよ。」
「勝手に決めないでよ!」
そういうお母さんに淳子さんは言った。
「お母さんっていつもそう。あたしのことは考えないでこうしろああしろって指示を出すけど、本当はそんなことされたって何も嬉しくないわよ。ましてや敬太や健太郎たちにもそれを押し付けるなんて、もってのほかよ!」
「そうだけど、現実問題、あんた一人ではどうにもならないってことを、ちゃんと自分で理解して、そうなったらどうすればいいか考えなさい!」
淳子さんは、お母さんにそう言われて、反論も何もできずにがっくりと肩を落とした。
「よく考えてみなさいね。あんた一人の問題じゃないのよ。もっと言ってしまえば、健太郎も敬太も、あんたのワガママの被害者無のよ。」
お母さんは、淳子さんの前にお見合い写真を乱暴に置き、そのまま出ていってしまった。
「只今戻りました。だいぶ、敬太くんも意欲的になりましたね。足が痛いとはいいますが、美味しそうにラーメンを食べていましたよ。」
蘭が戻ってくると、淳子さんは、テーブルにふさって泣いていた。
「どうしたんです?なにかあったのですか?」
と、蘭が聞くと、
「ああ、またばあちゃんが、またお母ちゃんをそそのかしに来たな。」
と健太郎くんが言った。
「ばあちゃん?まだお母様がご存命だったんですか?」
蘭がそうきくと、
「存命というか、もううるさくてしょうがない感じなんですよ。お母ちゃんにまとわりついて、お見合いしろとかそういう事をうるさく行ってくるんですよ。」
健太郎くんはそういった。
「お見合い、ですか。」
蘭は思わず言ってしまう。
「先生はどう思われますか?」
いきなり、淳子さんがそう聞いてきた。
「あたし、やっぱりお母さんの言う通りお見合いしたほうがいいってことでしょうか?先生はどう思われます?先生も敬太と同じ様に足が不自由であることは共通してるけど。」
「そうですね。」
蘭は、考えていった。
「確かに、僕も足が不自由であることは変わりありません。僕も、外国人ではあるけれど妻がいて、そのひとになにかしてもらわなければ、何もならないことも確かにあります。そうですね。ひとは一人では生きていくことはできません。それを心配してお母様はお見合いを勧めているのではないかな?」
「そんなことありません!」
不意に、健太郎くんが言った。
「おばあちゃんがしていることは、お母さんの意思をだめにしていることです。お母さんはおばあちゃんに反抗したくて、僕達と一緒に住んでいるんだし、またおばあちゃんの言う通りにしていくことは、正直つらすぎると思います。お母さんは、一人では生きていけないというのなら、僕がお母さんを助けます。」
「そういう意味でいってるんじゃないんですよ。健太郎くんの気持ちはわかるけど、でも、健太郎くんだって、お母さんをずっと助けられるわけじゃない。だから、お祖母様は、お見合いを勧めているんですよ。」
蘭はそう優しく健太郎くんに説明した。
「本当はね。健太郎くんも、敬太くんも、お母さんのことなんて全く気にかけないで、勉強だったり部活だったり、お友達関係だったり、そういうことに夢中になってくれる方が、正常というものです。それなのにいつまでもお母さんを助けようとしているのは、かえって問題があるのかもしれません。」
「そうですよ。問題はありますよ。」
蘭の説明に、健太郎くんはきつく言った。
「だって、おばあちゃんがお母さんの進路のこととか、そういうことにえらく口を出してくるから。僕らは、学校のことでバカにされてきてるけど、お母さんはおばあちゃんにバカにされているんです。学校のことは、色々相談する事はできるのに、お母さんのことは、相談できる機関もなければ、どこへ行っても聞いてくれるところなんてないじゃありませんか。だから僕らは学校にいかないんです。それでお母さんを守らないと行けないから!」
蘭は、そういう健太郎くんにカウンセリングの事業所等を探してみることはしなかったのかと聞きたかったが、健太郎くんはそれを言わせようとはしなかった。多分、そういうところに言っても断られてしまったのは、明確だった。
「じゃあ、この家で一番の被害者は、」
「お母さんです。お母さんこそ、おばあちゃんにひどいことを言われて、なんとかしなければならないのに、なんとかしてくれる場所なんて何もないです。」
健太郎くんは蘭の問いかけにそう答えた。
「わかったわかった。そういうことなら、ご家族の力では何もできないと思うので、こういうときは潔く他人の力を借りてくれて大丈夫です。今の話、影浦先生に伝えて大丈夫ですか?そうすれば、淳子さんも、今までの辛かったことを話すことができるようになりますよ。」
「待って!」
小さな敬太くんが、そういった。
「お母さんは、僕らには辛いことを一切言わないけど、本当はとてもつらくて、以前、騙されて高額なお金を盗られて。」
「ああなるほどね。そういう悪質なところもあるわけですね。でも、僕はそういうことはしませんよ。ちゃんと、やってくれる方に引き渡せば、お母さんはもう少し楽になって、生きていけるはずですよ。そうなれば、君たち二人も、もう少し楽になれると思うよ。だから、影浦先生に、言ってみようね。」
蘭は小さな敬太くんと健太郎くんを見つめてそういった。不思議なもので男性というのは、ある程度理屈を言われると、それで納得してくれるようなところがあり、敬太くんも健太郎くんもいつの間にか蘭にお願いしますという感じの顔になっていた。
「じゃあ、淳子さん、影浦先生にお伝えしていいですか?」
蘭が、そう言うと、淳子さんは、散々悩んでいる顔をしたが二人の子どもたちの顔を見て
「お願いします。」
と言った。
最も辛い人 増田朋美 @masubuchi4996
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