壁の向こうのあなたへ…
篠崎リム
壁の向こうのあなたへ…
私が大学生の頃、101号室のアパートで一人暮らしをしていました。
異変が起き始めたのは、大学三年の春のことです。
その頃の私は、いくつもの困難に押しつぶされそうになり、大学を休みがちで、心は折れそうでした。
特に、大好きだった母を亡くしたばかりで、精神的に深く追い詰められていたのです。
そんなある晩、部屋の片隅に置いた母の写真を見つめながら、涙をこぼしていた時のことでした。
隣の壁の方から、突然――
「ガシャーンッ!」
と、ガラスが割れるような鋭い破砕音が響きました。
壁の薄い安アパートだったので隣の生活音はよく聞こえます。
テレビの音、掃除機の唸り、家具を動かす音……そんなものは日常茶飯事でした。
――けれど、あの夜に聞こえた音の“方向”が、明らかにおかしかったのです。
私の部屋は101号室。
隣は102号室ですが、音が聞こえてきたのは反対側。
そこには壁しかなく、部屋なんて存在しないはずです。
恐る恐る、その壁を指でコンコンと叩いてみました。
しばらく沈黙が続いたあと――
向こう側から、まるで応えるように“コンコン”と音が返ってきたのです。
その瞬間、背筋を冷たいものが駆け上がり、私は恐怖に突き動かされるように部屋を飛び出しました。
そしてその夜は、震える心を抱えたまま友達の家に泊めてもらいました。
けれど翌日から、“あの壁”の向こうから音が聞こえるようになりました。
食器の触れ合う細い音、誰かが歩くような気配……まるで、そこにも誰かが住んでいるかのように。
怖くなった私は、思い切って管理人さんに相談しました。
「事故物件とか、そういう話はありませんか?」と。
しかし、管理人さんは首を横に振るばかりでした。
「その部屋は普通ですよ。気になるなら、出て行ってもらっても構いませんけど」
淡々とそう告げられただけでした。
アパートは大学への立地が良かったので、私はそのまま住み続けることにしました。
不気味ではありましたが、実害は何もなかったからです。
そんなある晩のことです。
突然、あの壁の向こうから音楽が流れ始めたのです。
それは懐かしく、聞き覚えのある曲――母が大好きだったドビュッシーの『月の光』でした。
最近の私は、壁の異変ばかりが気になって、母を思い返す余裕すらありませんでした。
けれど、壁の向こうから聞こえてくる少し拙いメロディーが、どうしようもなく胸に刺さったのです。
この曲は、昔の私が必死に練習した思い出の曲でした。
うまく弾けず嫌いになりかけたこともあったけれど、それでも何度も練習してようやく形になった時――
母が「すごいね」と心から喜んでくれた。
その笑顔が、昨日のことのようによみがえり、涙が勝手にあふれてきて、自分でも驚くほど泣いてしまいました。
それからというもの、私は壁の向こうの“誰か”を、少しずつ意識するようになりました。
大学生活はつらいことも多く、嫌なことがあると私はお酒を飲みながら愚痴をこぼしていました。
不思議なことに、そんな夜に限って――
壁の向こうから、まるで励ますように音が返ってくるのです。
短い音楽が流れたり、愚痴に合わせるように“トンッ”と壁が鳴る。
まるで「聞いているよ」とでも言うように。
彼氏に振られて泣いた夜には、偶然かもしれませんが、当時好きだった曲が流れたこともありました。
そのとき、どこか救われたような気がしたのを覚えています。
気味が悪いはずなのに、いつの間にか“向こうの住人”に支えられているような気持ちになっていました。
そんな奇妙な生活も、悪くないと思えるようになっていたのです。
気づけば、大学を卒業するまでずっと、あの音とともに暮らしていました。
就職が決まり、引っ越しの日。
荷物を運び出したあと、静かになった部屋で私は壁にそっと手を当てました。
「今までありがとう」
そうつぶやき、そっとその場を離れた。
胸にわずかな空白を抱え、私は部屋を後にした。
季節がいくつも過ぎた頃。
私は別の街の小さなワンルームにも慣れていました。
しかし、会社では苦労することが多く、ある夜、同僚と飲みすぎてしまいました。
部屋に戻って上着を脱ぐ間もなくベッドに倒れ込み……そのまま床に転げ落ちました。
「ガシャーン!」
鋭い破砕音が部屋に響きました。
机の上に置いてあった母の写真立てが、床に落ちて割れてしまったのです。
「あっ……ヤバ…お母さん、ごめん……」
割れたガラスを拾いながら、胸に痛みが広がりました。
その時です。
壁を“コンコン”と叩く、小さな音が響きました。
「……えっ?」
私は血の気が引き、壁を凝視しました。
音は再び――“存在するはずのない向こう側”から聞こえていたのです。
酔いは一瞬で醒めました。
恐る恐る指先で壁を叩き返すと、
『ヒッ!』
と、小さく怯えた声が上がり、
続けて、誰かが慌てて逃げるような足音、扉の閉まる音が響きました。
その夜は、それきり音が止みました。
翌日も、その気配はありました。
最初は信じたくありませんでした。
けれど、壁の向こうから確かに聞こえてくるのです。
食器の触れ合う音、何者かの気配。そして――今回は、はっきりと“声”までも。
その声には、聞き覚えがありました。
それは……私自身の声。
私は壁に向かって小さく問いかけました。
「……聞こえる?」
「そこにいるの?」
返事はありません。
けれど、物をそっと動かすような控えめな音が続くだけでした。
その時、ようやく気づいたのです。
大学の頃、壁越しに私を励ましてくれた“あの音”は――
未来の私が返していたものだったのだ、と。
過去と未来が、壁を挟んでつながっていた。
そんなあり得ないことが、本当に起きていたのです。
それに気づいた瞬間から、私は音に対して慎重になりました。
“あの頃の私”に怖い思いをさせたくなくて、
ドアも足音も、ゆっくりと。
静かに生活するようになっていったのです。
けれど、いつまでもこのままというわけにもいかず、
どうしたらいいのかと考える日が続きました。
私は押し入れから古いキーボードを引っ張り出しました。
指は思うように動かず、つっかえつっかえの音しか出ません。
それでも――
あの頃の私に届くように、『月の光』を最後まで弾きました。
悲しい夜を過ごしたあの頃の“私”。
壁の向こうの彼女もまた、きっと同じように泣いている。
だから私は、当時の自分がしてくれたように、
壁の向こうへそっと返事を返すようになりました。
――寂しくないよ。大丈夫だよ。
ある日の晩、お酒に酔った声で、かすれた愚痴が壁越しに聞こえてくる。
「……また失敗した……どうして私は、いつもこうなんだろ……」
その弱い声に、胸の奥がじんと熱くなる。
懐かしさに似た痛みを覚えながら、指先で壁を“トン”と優しく叩いた。
大丈夫。その失敗も、ちゃんとあなたの力になっているよ…
また別の日には、涙を含んだ声が聞こえてきた。
「……浮気されてたなんて……私、バカみたい……」
その言葉に、当時の気持ちがよみがえり、胸の奥がわずかに熱くなる。
壁に寄りかかりながら、指先で壁を“トン”と叩いたその音は、いつもより少しだけ強かった。
本当に最低な気持ちだよね。
あの後もあいつは浮気を繰り返して、最後は三股してたことが全部バレて大変なことになってたよ。
だから、あそこで縁が切れて正解。
ぽつりとそう呟いてから、私はスマホを手に取り、当時お気に入りだった、あの曲をそっと流した。
――この曲で少し元気が出るよ。未来のあなたのお墨付きです。
あれから、いつしか時が過ぎた日のこと。
いつもより騒がしかった壁に耳を当てると、かすかに――懐かしいあの部屋の気配がしました。
そして、聞こえてきたのです。
『今までありがとう』
時間を越えて届いた、あの優しい声。
私は涙がこぼれそうになりながら、壁に手を当てて囁きました。
「こちらこそ……ありがとう」
その声には、どこかほっとした響きがあった。
きっと私も、役目を果たせたのだ――そう思えたから……。
ふと見ると、柔らかな日差しが差し込み、
小さな写真立ての中の母が、いつもより少しだけ笑っているように見えました。
その笑顔に呼応するように、私の口元も静かにほころんだ。
壁の向こうのあなたへ… 篠崎リム @visions
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます