黒猫クロエの相談喫茶

StoryHug

黒猫クロエの相談喫茶・「休んだら、負けだと思った」

 ──この店は、ふとした風に導かれたときにしか辿りつけない。

 路地裏に佇む、看板もない喫茶店。

 その扉を押した者だけが、「黒猫クロエ」の声を聞くことになる。


 ***


 夜、都会のビル街。

 小雨がぱらつく路地を、一人の女性が急ぎ足で駆け抜けていた。


 冬の雨は、肌を切るように冷たかった。

 だけど──今日に限って、折り畳み傘を自宅に忘れてきていた。


「……まあ、いいか。多少濡れたって、あとは帰るだけだし。」


 小雨をそのまま身に受けながら、彼女は思い詰めた表情で、小さなため息をひとつこぼす。

「風邪……引かないようにしないと。」


 ふと、先ほどまでいた飲みの席での光景が、頭をよぎった。


「すみれさんがいれば安心です!」

「さすが時任(ときとう)さん、あの杉谷里商事との契約取っちゃうなんて!」

「ねぇねぇ、二次会はカラオケいきましょ〜!」


 笑顔と称賛が飛び交う中、後輩たちの声がまだ耳に残っている。


 営業成績は今月もトップ。上司からの期待は高まり続け、クライアントからの指名もあとを絶たなかった。

 彼女が元気に働く姿は、誰にとっても“理想のビジネスパーソン”だった。


 会食に接待、間違えられない商談──予定は今日も、びっしり詰まっていたから、気づけば、終電ギリギリの時間になっていた。

 電車に間に合わなければタクシーで帰る。

 そんな日々が、もう何度も繰り返されていた。


 彼女にとって、それは“いつものこと”であり、

 そして「休めば、負ける」──それが、彼女の口癖。


 学生時代からずっとそうだった。バイトもサークルも、誰よりも遅くまで残り、誰にも見えない場所で努力を重ねてきた。


 眠る時間を削ってでも走り続けることが、生き残る唯一の道。

 立ち止まったら、信頼を失う。彼女はいつからか、そう信じていた。


 ふいに、肩がずしりと重くなり──視界が、霞んだ。

 足元がふわりと浮かぶような、奇妙な感覚。


「……ちょっと、目眩?」


 そのときだった。

 風に乗って、甘くて優しい香りが、ふと鼻先をかすめる。

 ハーブのような、どこか懐かしさを含んだ香り──思わず立ち止まっていた。


 不思議と、胸にかかっていた圧が、すこしだけ和らいだ気がした。


 目を上げると、そこは薄暗い路地の奥。

 小さな木の扉が、ぽつんとひとつ。


「……え、なに、ここ? 私、いつの間にこんなところに……?」


 灯りの灯る建物の中を、曇ったガラス越しに覗き込む。

 けれど、内部の様子はぼんやりと霞んでいて──


「陰気な場所……でも、この香り……ハーブ系かな……」


 言葉にするより早く、気づけば、すみれの手はドアノブにかかっていた。

 まるで、その香りに手を引かれるように──。


 ***


 カラン……。

 小さな鈴の音が、夜の静寂にやさしく溶けていく。


 木の香りがふんわりと鼻をかすめる店内。丁寧に磨かれた床に、琥珀色の照明がやわらかく反射していた。

 目に映るすべてが穏やかで、どこか懐かしい──けれど、現実とはほんの少しだけ“周波数”がずれているような、そんな空間。


 流れているのは、蓄音機からこぼれるピアノジャズ。

 時間の針が、ほんの一瞬止まったようにさえ感じられる。


「……喫茶店、よね? この辺に、深夜までやってる喫茶店なんてあったんだ。」


 思わず呟いていた。

 この界隈は営業で何度も回っている。店の配置も、店主の顔も、大体覚えているつもりだった。

 なのに──こんなお店、知らない。


 入り口に佇んだまま、店内を見渡す。

 さほど広くはないが、奥へとゆるやかに広がるその空間には、あのときと同じ──ハーブのような、やさしい香りが漂っていた。


「……挨拶もないの? 昼間もやってるお店だったら、打ち合わせで使わせてもらうのに──とか思ったけど……ん?」


 ふと、カウンターの奥へ視線が吸い寄せられる。

 そこには、赤い瞳の黒猫が、じっとこちらを見つめていた。


「……猫?」


 ついこぼれた声に、返事があった。


「ようこそ。“クロエの相談喫茶”へ。」


 ……猫が、喋った。


 その瞬間、時任すみれの思考は、見事にフリーズした。


 ぽかん。


 音もなく、彼女は踵を返す。


 ぱたり。彼女は店を出た。


 黒猫は特に動じることもなく、静かに言った。


「ご来店、ありがとうございました。」


 ……10秒後。


 カラン……。


 再び鈴が鳴る。


 もう一度、店の入り口に立ったすみれは、腕を組み、“ふふん”と何かを見抜いたような視線で言う。


「なるほど……新手の猫カフェね?」


 営業職の嗅覚がざわつく。

 遠目にはどう見ても本物の猫。でもこれは、おそらく“猫型AI”を駆使した、ハイセンスな店舗演出に違いない。


「いいわ、面白いじゃない。」


 ツカツカと奥へ進み、すみれは黒猫が座っている、カウンター席の真正面に腰を下ろした。

 じっと猫を見つめる。その視線には、探るような色が混じっている。


(ロボット? 精巧なアンドロイド?)


 少し不審そうに、そっと手を伸ばす。

 黒猫は、特に警戒する様子もなく──

 さきほどと変わらぬ凛とした佇まいのまま、彼女の指先が毛並みにふれるのを許した。


 ──もふ。──ふわり。


 そのまま耳をつまんでみる。ぴくりと軽く動いた。三角のかたちが、なんとも言えず愛らしい。


 手の甲をそっと撫でてみる。小さな肉球がぷにっと押し返してきて、変な笑いが漏れそうになる。


「……ぷにってしてる!」


 おそるおそる尻尾にも触れてみる。ふわりとした見た目に反して、芯が一本通ったような張りがある。まるで学術的調査のように猫を撫で回すすみれ。


 最後に、喉元をくすぐるように指で撫でると──


「……ゴロゴロ……」


「……鳴いた!?」


 艶のある黒毛に包まれた喉から、小さく心地よい音が響いた。

 黒猫は目を細め、気持ち良さそうに喉を鳴らしている。


 想像以上に、やわらかい。


 想像以上に、ぬくもりがある。


 ……もはや完全に、“ただの猫”。


「な、なによこれ!?ほ、ほ、本物なの!?」


 椅子からずり落ちそうになるすみれに、黒猫は言葉を返した。


「驚かれるのも、無理はありません。時任 すみれさん。

 あなたは、ずっと“現実的な社会”で頑張ってきた方ですから。」


「え?  な、なんで、私のことを……」

 彼女は不気味さと同時に、何か温かみのようなものが、

 胸に染み込んでくるのを感じていた。

 戸惑うすみれを他所に、黒猫は淡々と言葉を続ける。


「私の名前は、クロエ。この喫茶店の店主です。

 ここでは──ほんの少しの“不思議”が許されています。

 どうぞ、まずは……落ち着いてください。」


 その言葉に、すみれは一瞬、息を止めた。


“落ち着いて”。


 まるで誰かに、やさしく背中を撫でられたような──。

 今の自分に必要だった、その言葉。


「……!?」


 突然、テーブルに、ふわりと湯気を立てるカップが置かれた。

 すみれは、びくりと肩を震わせて、視線を持ち上げる。


 ──そこには、背の高い黒いフードの人物が、静かに立っていた。


 無言のまま、カップとソーサーを置き、微動だにしないその姿に、

 彼女はゾワリと背筋を這うような感覚を覚える。


「ちょ、ちょっと待って……なに……これ、店員!?」


 恐怖と混乱で、すみれは椅子をガタリと引いて立ち上がった。

 脚が床を引きずる音が、静かな店内に無遠慮に響く。


 カウンターの上、クロエは尾をひとふりだけ揺らし──静かに告げた。


「彼は、私の友人です。どうぞ、怖がらないで。」


「……怖いわよ!!」


 すみれは思わず叫んだ。止まらない。

 感情が、口から噴き出すようだった。


「なんなのよここ!?確かに私は自分で入ってきたど、

 雰囲気は暗いし、喫茶とか言いながら看板も出てないし!

 猫は喋るし、無言でフードの人が出てくるし──って、どんな店よ!?」


「だ、だいたい! なんで私のこと知ってんの!? 怖すぎるでしょ!

 下手したら通報レベルよ、これ?!ホラーかドッキリかって話よ!!」


「こんな変な演出で、お客が喜ぶとでも思ってるの!?

 接客業っていうのはね、“安心感”が命なのよ、あ・ん・し・ん・か・ん!!」


「それにこんな導線、営業的には完全にアウト! 完全!に!アウトーっ!!」


 ──浅い呼吸、肩で息をしながら、すみれはバッグの中に右手を突っ込んだ。

 カチャッ。焦るように取り出したのは、銀色の──携帯用の催涙スプレー。構えているその手は、微かに震えていた。


「い、いちおう護身用に持ってるやつなんだからね!?

 何かあったとき用! 超強力って評判のやつ! お得意先の販促品よ!

 どこで私のこと知ったか知らないけど……

 仮に他社の回し者だとしたら、嫌がらせにしても度が過ぎてるわよ!?

 わ、わたしに何かあったら──会社の損失なんだからねっ!!」


 けれど──クロエも、フードの人物も、何も言わず、ただ静かに彼女を見ていた。

 猫は、まるで状況を楽しんでいるかのように、しっぽをゆらゆら揺らしていた。


 すみれはバッグを肩にかけ、もう片方の手にスマホを持つ。

「動画も写メも、全部証拠になるんだから──って? あれ?で、電源入ってない?!

 なんで?!充電もあったし、会社出る前もちゃんと動いてたのに……っ!」


 液晶は真っ暗なまま、うんともすんとも言わない。

 再起動を試しても、電源ボタンを押しても、無反応。


「失礼、記録はご遠慮いただいているんです。」


 黒猫が淡々と言うものだから、すみれは思わず「はぁ?!」と声を荒げる。


 ──と、そのときだった。


 黒いフードの人物が、無言のまま、湯気立つカップの取っ手を“すみれの右側”に、そっと回した。

 ほんのわずかな、気遣いの仕草。


 その所作に、どこまでも静かな優しさが宿っていた。


「……え?」


 思わず、声が漏れる。


 彼女が右利きであることを、察したのだろう。

 するとフードの店員は、深く、丁寧に一礼した。


 その一連の動きに、すみれの中でなにかが──すこしだけ、やわらいだ。


 クロエの声が、再び届く。


「あなたは、“休んだら、負ける”……

 そんなふうに、思っているのではありませんか?」


「な……なに……?」


 すみれはハッと眉を寄せた。

 心を射抜かれたような感覚に、警戒心がふたたび顔を覗かせる。


 クロエは、ゆっくりと目を伏せ、柔らかく言った。


「……もし、怖がらせてしまったのなら、申し訳ありません。

 けれど──あなたが、この場所へ足を運んだことには、必ず理由がある。

 私は、ただ……それを、お伝えしたいだけなのです。」


 クロエの声は、すみれの胸の奥に、まるで波紋のように静かに広がっていった。

 それは決して、命令でも説得でもない。ただ──問いかけだった。


「このまま店を出て、右に曲がって路地を進めば、あなたのよく知る景色に戻れます。私たちは、それを止めることはしません。」


「……」


「ですが──目の前の席に座ることもできます。

 このハーブティーも、お気に召さなければ、飲まなくて構いません。

 これまであなたが、そうしてきたように。すべては、あなた自身が決めて良いのです。」


 しん、と静まり返った空間に、ピアノジャズの旋律だけが漂っていた。

 どこか、深い水底のような静けさ──その中に、自分だけが取り残されたような感覚。


 息をのんだ彼女は──スマホをポケットの中にしまい、催涙スプレーを右手に持ったまま、ゆっくりとバッグを肩にかけ直す。

 カウンターへと、恐る恐る歩みを進める。


 フードの店員の前で足を止め、ふと手を伸ばした。

 見てやろう。何が“この空気”を生んでいるのか、知ってやろう。

 そう思った。


 だが──その指先が、フードに触れかけた刹那。


 目に見えないはずの“気配”が、彼女の鼓動をふと凍らせた。

 鼻先すら見えない、真っ暗なその奥。暗闇に吸い込まれるような感覚。

「見たら戻れない」気がした。

 知る前の自分に、もう戻れない。

 そんな感覚が、鋭い予感として胸を刺した。


 彼女は、そっと手を引いた。


 そして、ゆっくりと椅子へ腰を下ろす。


 ***


 カップから立ちのぼる、ほんのり甘くて、心をなだめるような香り。

 すみれは、それを胸いっぱいに吸い込み、そっと目を伏せた。


 次の瞬間──

 右の腹部に、鈍く刺すような痛みが走り、「うっ……」と短く呻く。


 少しだけ、気が緩んでしまったのかもしれない。


 クロエが、静かな声で、淡々と口を開く。


「指先の震え。浅い呼吸。胃の焼けるような違和感……

 あなたの体は、小さな合図を、確かに送っていますね」


「……っ」


 すみれは、言葉を返せなかった。

 手にしたカップの縁が、ほんのわずかに震える。


(そんなはず、ない──)


 すべてを見透かされたような感覚に、心の奥がざわつく。

 この猫の言葉を、そう簡単に認めたくはなかった。


 だからこそ、彼女はあえて、ハーブティーをひと口、口に運んだ。

 それは癒しを求めた動作ではない。

 否定の意思と、強がりを込めた、小さな抵抗だった。


 ──その瞬間。胃の奥に、キリキリと鋭い痛みが突き刺さる。


(また……)


 顔には出さずとも、心の中で小さく呻いた。

 香りも、温度も、安らぎを与えるはずのその一杯が、

 逆に──今の自分を、残酷なほど照らし出していた。


 ストレス性の胃痛。

 いつものこと。……けれど、それが「いつものこと」になってしまったのは、いつからだったのか──もう思い出せない。


 部屋に、静けさが満ちる。


 すみれは、ただ黙って座っていた。

 痛みも、怒りも、戸惑いも。すべてが薄れていき、

 そこに残ったのは、空っぽのような感覚だった。


 クロエが、柔らかな声で、そっと問いかける。


「……どうでしょう?

 ここでひとつ、あなたの物語を聞かせてくださいませんか?」


 すみれは、顔を上げることもなく、静かに息を吐いた。


「物語……?」


「はい。あなたが、今日まで歩いてきた道のこと。

 ……そして、“立ち止まること”がなぜ、こんなにも怖いのかについて。」


 ──“休んだら、負ける”。

 そう信じて走り続けてきたことを、

 すみれはまだ、“間違っていた”とは言えなかった。


「急ぎ続けると、足を踏み外してしまうかもしれません。

 けれど──抜かされることと、落ちてしまうことは、同じではありませんよ。」


 クロエの声が、深い森に響く鐘のように、すみれの心にしみ込んでいく。


 彼女は今……ほんのわずかに、

 その言葉を“怖がらずに聞ける自分”になっていた。


「……“休んだら負ける”って、いつから思うようになったのか……?」


 過去の自分を、そっと手繰り寄せる


「たぶん……学生の頃、かな。

 バイトもしてたし、就職活動も。どっちも、手を抜きたくなかった。」


 ──右の腹を無意識に押さえながら、触れれば崩れてしまいそうな、儚い笑顔を浮かべる。


「私──冬が嫌いなの。」


 そして、彼女は語りはじめた。


 ***


 学生時代のすみれは、「優秀な子」と呼ばれていた。

 勉強も運動も、誰よりも一生懸命だった。

 リレーのアンカー、バイトでの表彰──「さすが、すみれだね」と言われることが何よりのご褒美だった。


 でも、“休む”と、不思議なほど心がざわついた。

 ──せっかく築いた何かが、壊れてしまう気がしていた。


 高校時代の、ある冬の朝。

 目が覚めると、体がだるく、熱は38度。喉はひりつくように痛んだ。

 バイト先に電話をかける手は、震えていた。

 声もかすれて、思うように言葉が出てこない。


(こんなふうに“休みます”なんて、言いたくないのに──)


「もしもし、あの……今日、ちょっと熱があって……」


 電話の向こうで、店長が少しだけ間を置いて、

 明るく、どこか冗談めかして笑った。


「そうか、時任くん風邪かぁ。まあ困るけど──早く治して戻ってきてよ。

 ……バカは風邪ひかないって言うけど、君は優秀だから、仕方ないね!

 いやー、でも君がいないと、みんなちょっと困っちゃうかな?

 ま、大丈夫。なんとかなるさ。

 気にしないで休んでおいで。ハハハ、じゃあ、お大事にね。」


 受話器越しの声は、きっと優しさだった。

 けれど──「バカは風邪ひかない」という言葉が、なぜだか心の奥に刺さって抜けなかった。

「期待される自分」が一瞬でも崩れることに、耐えられなかったのかもしれない。

 そのとき、胸の奥に、誰にも見えない“ヒビ”が入った気がした。


 ………


 大学も、就職活動も、ずっと“前のめり”で突き進んできた。


 冬の朝──。


 目を覚ますと、天井がぼんやりと霞んで見えた。

 喉は焼けるように焼けつき、体温計の数字は「38」へと静かに跳ね上がる。


「……なんでよ、また……」


 かすれた声が、静かな部屋にぽつりと溶ける。

 その響きに、高校時代のあの記憶が、じんわりと滲み出す。


「今日は、無理……だな」


 重たい体を無理やり起こし、スマホを手に取る。

 翌日には、ゼミでの発表が控えていた。

 彼女が中心になって、進めるはずだった発表──。


 その日は、大学を休むことにした。

 友人には短く「風邪っぽいから休むね」とだけメッセージを打ち、

 ふらつく足取りで病院に向かった。


 医者に診てもらうと、淡々とこう告げられる。


「うーん、これはウイルス性の上気道炎、つまり風邪ですね。高熱もありますし、今はインフルエンザ以外にも流行しているウイルスがいくつかあるので、念のためしばらく安静にしてください。」


 彼女は、呆然とした。

 体が熱いのか、心が冷えているのかも、もうよくわからない。


「原因は、冬の寒さと、体力の消耗でしょう。睡眠、取れてますか?ご飯は食べてる?」


 問いかけに、ただ「はい」とだけ答える。

 その一言すら、息を吐くように、やっとのことで口から出た。


 頭の中には、ゼミの発表のことしかなかった。

 自分が抜けた穴を、誰かが埋めてくれるのか──

 それとも、崩れてしまうのか。

 胸の奥がざわざわと揺れる。

 そして現実は、無情に迫る。


「外出はできるだけ控えてくださいね。最低でも3日、高熱が続くようなら5日以上は様子を見てください」


「……あの」

「はい?」

「熱が引いたら、大学に行ってもいいですよね……?」


 医者は少しだけ間を置き、静かに答えた。


「うーん……理屈としては、熱が完全に下がって、体調が戻っていれば、登校自体は“可能”ではありますが……」


 椅子に座ったまま、すみれの方へ体を向け、諭すように続ける。


「たとえ熱が下がっても、ウイルスは体内に残っている可能性があります。

 咳やくしゃみがあるうちは、他の方にうつす可能性も高いので──登校は避けた方がいいでしょうね。」


 すみれの肩が、ふっと小さく萎む。


「特に大学だと、人との距離も近いでしょう?

 無理をすると、周りにも迷惑をかけるかもしれません。

 あなた自身のためでもあるけれど──まわりを守るためにも、もう少し休んでください」


 ……それは、正しい言葉だった。

 彼はきっと、誰にでもそう言うのだろう。

 でもそのとき、すみれには──

「あなたが頑張ることは、もう許されません」と、

 言われたような気がした。


 ただ「はい」とだけ答える。

 何も否定できないことが、こんなにも苦しいなんて。


「処方するのは、解熱剤と喉の薬ですね。あとは水分と睡眠をしっかりとってください」


 言葉は穏やかなのに、診察室の空気だけが、ぴたりと凍りついた。

 すみれは、小さく喉を鳴らす。けれど、声は出なかった。


 ──頑張りたい。

 頑張りたかったのに。


 ………


 病院から帰宅し、玄関で靴を脱ぐと、すぐに母の足音が駆け寄ってきた。


「どうだったの?」


「……ウイルス性の上気道炎、だって。風邪ってことらしんだけど、うつる可能性もあるからって。」


 母は眉をひそめ、少し強めの声で言った。


「ほら、やっぱり無理してたんじゃないの。」


 その言い方に、すみれはつい反発する。


「……だって、頑張らなきゃって思ってたし……期待に応えなきゃ、って……。」


「期待に応えてたって、体調おかしくしたら本末転倒よ。」


「……だから、気をつけてたんだってば……。」


 母はふぅっと息を吐き、少し間を置いてから静かに言う。


「就職したら一人暮らしするって言ってたけど、ある日突然連絡がつかなくなって……様子見に行ったら倒れてた、なんてことにならないかって、ほんと心配なのよ。」


「……なにそれ。想像力、豊かすぎ……。」


「ほら、すみれ。お布団、あったかくして、もうお部屋で寝てなさい。」


 言われるがまま、自室に戻って布団に潜り込む。

 頭がぼーっとしていて、体の芯が熱い。

 天井を見つめながら、ぽつぽつと考えが散っていく。


 スマホを手に取り、友人にチャットを送る。


 ──「ごめん、ウイルス性の上気道炎だった……」


 返ってきたのは、すぐの反応。


「えぇぇーー(((((;゚Д゚)))))))

 よくわかんないけど、それってヤバいやつ?!だいじょーぶなん?!」


 すみれは、力なく返す。


 ──「風邪だって。いちおう」


「なんだ〜びっくりした〜!

 ゆっくり休まんとあかんやつな ( T_T)\(^-^ )」


 ──「うん……明日のゼミの発表、無理かも。本当にごめん」


「任せて!!! すみれちゃんの分まで頑張るから!!!! ٩(๑`^´๑)۶

 グループのみんなにも伝えておくねー!!

 お大事にだよ〜〜!!・:*+.ᕦ(ò_óˇ)ᕤ.:+」


 その軽やかで、ちょっとおどけた言葉に、すみれの心の奥が、じんわりとあたたまる。


 でも、そんな温度を受け止めるには、今日は少しだけ、気力が足りなかった。


 ふと視線を外にやると、薄曇りの空から、雪が静かに降っていた。


 すみれは、ふらつく足で立ち上がると、カーテンを乱暴に引いた。


「……冬なんて、大嫌い。」


 ──その直後、ノックの音。母が、そっと部屋を覗き込んだ。


「ちょっと、なに起きてんのよ。ちゃんと寝てなさい。」


 すみれはもう一度、ベッドに沈み込み、スマホを掲げる。

 母が水と薬を用意する気配を感じながら、

「風邪 一日で治す方法」と検索した。


 画面の一番上には、淡々としたAIの答えが表示される。


“残念ながら、風邪を一晩で完全に治す方法はありません。

 十分な睡眠と休養、水分補給、消化の良い食事──”


 深く、ため息が漏れた。


(……人間の身体って、不便すぎ)


「お母さん。」

「ん?なに?」

「風邪って……どうやったら一日で治るの?」


 母は呆れたように、それでいてどこか優しく微笑んで答える。


「なに言ってんの。一日で治るわけないでしょ。

 あんたみたいに頑張りすぎる子はね、風邪ひいたときくらい、ちゃんと反省しなさい。まだ“治る病気”でよかったのよ。体調不良は、体の“悲鳴”なの。

 ちゃんと睡眠をとって、水分もこまめに摂って。

 ──ほら、水、ここに置いておくから。」


 そっとベッド脇に、ポットを置く音が静かに響いた。

 母は一度、彼女の顔をじっと見て、柔らかな声を重ねる。


「それから、ご飯をちゃんと食べて、布団でしっかり身体を温めること。そうすれば、風邪なんてすぐに治るから」


「……AIと同じこと言わないでよ」


「AIがお母さんの真似してるのよ。──ほら、もう携帯はおしまい。

 この機会に、生活リズムもちょっと見直してごらん。

 頑張りすぎる癖、少しは直しなさい。」


 すみれは、小さくため息をついた。


 そして、自分にしか聞こえない声で、ぽつりとつぶやく。


「……何も、知らないくせに」


 ………


 やっと熱が下がり、大学に復帰した日。

 ゼミの発表を逃してから、一週間以上が経っていた。

 気まずさもあって、すみれはグループのメンバーに、ちゃんと顔を見て謝らなきゃと思った。


 講義で一緒になったメンバーの子に、勇気を出して声をかける。

「おはよう。」

「あ、おはよう、すみれちゃん!もう風邪平気?」

「うん。治ったから来たよ。」

「あはは、だよね〜!」


 すみれは、息を吸い直して、ぽつりと切り出す。

「……あの、ごめんね。」

「ん? なになに??」

「この間の、ゼミの発表のとき、休んじゃって。」

「あぁ〜!あれね。うん、大丈夫だったよ!すみれちゃんいなくても、平気だったから!」

「……え?」


 その後も、友人は明るく話しかけてくれた。

 でも──その言葉は、小さな波紋のように胸の奥に残って、どこか遠くへ、ゆっくりと沈んでいった。


 席に目をやると、グループの他の子たちも、すみれを見かけては笑顔で挨拶してくれる。

 けれど、その輪の中に、彼女が混ざることはなかった。


「ねえ、あの日、問題なかったよね?」

「うん、完璧だったよ。すみれの分まで頑張ったし!」


 ──みんなの顔は、どこか誇らしげに輝いていた。


 講義が終わったあと、ふと廊下を歩いていると、掲示板にゼミ発表の写真が貼り出されていた。

 グループのメンバーたちが、堂々と発表している一枚。

 その下には、「今年度・優秀発表」と、手書きの文字。


(……さっき、こんなこと言ってたっけ)

 たぶん、ちゃんと耳に入っていなかっただけかもしれない。

 でも──ひとつだけ、確かなことがあった。


 写真の中に、自分の姿はなかった。


 その光景を見た瞬間、胸の奥に、ひんやりとした風が吹き抜けた。


“いなくても、世界は回る”。


 夕暮れの廊下に、遠ざかる笑い声だけが、静かに残っていた。


 ──その日からだった。

「頑張らないと、また外される」

 その感覚が、すみれの中に、静かに根を下ろしはじめたのは。


 ………


 季節が変わり、環境が変わっても、

 その“感覚”は、少しも変わらなかった。


 今は法人営業。

 新規開拓も、既存のフォローも、後輩の指導も──

「全部ひとりでやっちゃうから助かる」

 そう言われるたびに、

 休む暇もなく、ただ走り続けてきた。


 誰よりも早くメールを返し、

 ノルマを追い、会食も断らなかった。


「頼りにしてる。」

「すみれさんがいて助かる。」


 その言葉は彼女にとって、自分の“存在”を確かめてくれる気がした。


 ──立ち止まったら、また、あの日みたいに取り残される。


 そう思うと、休むことが、怖くて仕方なかった。


 だからこそ彼女は、母にかつて言われた──

「期待に応えてたって、体調おかしくしたら本末転倒よ。」

 ──その言葉を、心のどこかで反芻しながら、季節の変わり目、特に冬だけは、体調管理に気を配っていた“つもり”だった。


 けれど、それでも気がつけば、

 バッグの底には、小さな栄養ドリンクが、いつの間にか転がっていた。


「これで大丈夫。」

 そう自分に言い聞かせて、また、ひとり走り続ける。


「休めば、自分の価値を失う」

 ──その呪いが、静かに、でも確かに、彼女を縛り続けた。


 数字、信頼、期待。

 落としたくないものを、落とさないように。

 まるで腕いっぱいに抱えた水風船を、ひとつも落とせないかのように──

 自分自身を、ぎりぎりまで追い詰める。


 ……でも、本当は。


(立ち止まりたいときが、なかったわけじゃない。)


 誰かの期待、誰かの言葉、誰かの視線。

 それらを思い浮かべるたびに──

「休むと、負ける」

 その声が、心の奥で、何度も、何度も、響いていた。


 ***


 クロエは、黙ってすみれを見つめていた。

 猫の隣で、ローブの店員が、冷めたハーブティーを静かに下げていく。

 すみれは、それにも気づかず、ただ俯き気味に言葉を紡いでいた。


 たまに肩を揺らし、

 たまに拳に力を入れながら、

 どこか、無理やりの笑顔で過去を語る──


 ふと、曇ったような表情が戻る。


「社会人になっても、そのまま。営業で数字も追いかけてるし、頼られるのも好きだけど……本当はいつも、“走らないといけない”って、焦ってばかりで……。」


 クロエは、その言葉の奥にある痛みに、そっと耳を澄ませるように口を開いた。


「すみれさん。あなたは、誰よりも遠くへ走ろうとしてきました。その勇気も、努力も──ちゃんと誰かに、届いていますよ。」


 ふたりのあいだに、小さな沈黙が流れる。


「もし──立ち止まることが、“負け”でも、“怖さ”でもなくて。“新しい景色に出会うための、ひとつの勇気”だとしたら……?」


 すみれは、カウンターに突っ伏して、ぼそりと問い返す。


「……どういう意味?」


「電車に乗っていると、速ければ速いほど、外の景色はただの色にしか見えません。でも停車すれば──駅の名前が読めて、人の顔が見えて。自分で、どこで降りるかを選ぶことができます。」


 すみれは突っ伏したまま、くすっと笑う。


「猫が電車の話をするなんて……不思議。

 ──でも、たしかに……あなたの言う通りかも。」


 クロエは、ほんの少し微笑んで、静かに続ける。


「速いほど、景色は名を失います。止まると、看板は言葉に、葉は葉脈に戻るのです。“休み”は、あなたの“靴ひもを結ぶ時間”。走り続けるためにこそ、ときには“降りて”“立ち止まる”勇気を持っていいんです。」


「はは……あなたの言ってることって、自己啓発セミナーみたいだなぁ……。“元気を出してほしい”って、そうやって誰かを励ますための言葉だって……営業の私には、すぐ分かるよ。」


 ──でも、その声は、どこか寂しげだった。


 すみれは、カウンターに腕を伸ばし、クロエの毛並みに、そっと指先を滑らせる。


「……でもね。そうやって“分かったふり”しないと、怖くて仕方ないの。本当は、あなたみたいな誰かに、優しい言葉をもらいたいって……ずっと思ってたのかもしれない。私──どっか病気なのかな……?」


「……“病気”、というよりも」


 クロエは、小さくしっぽを揺らしながら、すみれの手の上に、そっと額を寄せる。


「人は、とても繊細にできています。少しの無理が、心にも体にも、小さなさざ波を立てるんです。──走り続けた分だけ、疲れるのは当然のことなんですよ。」


 静かな間が、ふたりのあいだに灯る。


「あなたの心も、体も。今は、ちょっとだけ立ち止まって、深く呼吸をしてみてください──そう、そっと合図を送っているのかもしれません。」


 クロエは、すみれを見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。


「“異常”じゃなくて、“自然”なんです。

 冬に草木が眠るように、人もときには、止まっていい。

 あなたの夜は、ただ明日へ急ぐためだけのものじゃない。

 たとえば──窓の外に浮かぶ月のように。

 その淡い光と、ひとときの静けさを、ただ…心で感じてみてほしいんです。」


 すみれは、まるで子猫のように背中を丸めながら、クロエの瞳をじっと見つめ返す。


「ふふ、クロエ、だっけ? 猫のくせに、ロマンチックね。

 もしかして、あの黒いローブの店員も……?」


 微笑みながら、そっと目を閉じる。

 店内に漂うハーブの香り。やわらかなピアノジャズ。

 そして、自分の呼吸の音──初めて耳を澄ませたそれは、雲の上のハンモックに身を預けているような、そんな心地よさを運んできた。


「……なんか、こんなふうに、ゆっくりするのって、すごく久しぶりな気がする。」


 静かな沈黙が、やさしくふたりの間を流れる。


 過去のこと。今のこと。未来のこと。

 人の期待、焦る気持ち、小さな胃の痛み、

 誰かに喜ばれること、母の言葉──。


 意識しなくても、自然と浮かんできてしまう。


 期待に応える日々。

 走り続けながら、感謝されるたびに、なぜか増えていった“目に見えない傷”。


(……もし、私が倒れたら。やっぱり──お母さん、心配するのかな)


 お金はある。でも、使う暇がない。

 最後にショッピングを楽しんだのは、いつだったっけ?


「──私、何のために頑張ってたんだっけ……」


「コトン」と、カウンターから小さな音が響いた。

 顔を上げると、無言の店員が、ガラスの小瓶をそっと置いていた。


「……これは、なに?」


 すみれが小さく首を傾げると、店員は相変わらず何も言わない。

 するとクロエが、てしてしとカウンターを歩きながら、ふわりと口を開いた。


「すみれさん。この店の“香り”、どう感じていますか?」


 すみれは、そっと目を閉じて、改めて鼻先で空気を吸い込む。

 優しく包まれるような、胸の奥がふっとほどけていくような──そんな香り。


「……うん。なんだか、ほっとする。

 甘くて、心を撫でられるような……

 そう、なんか……“お母さんみたいな香り”。私、けっこう好きな香りだよ。」


 クロエは、にっこりとやさしく目を細めた。


「この小瓶の中には、“冬のハーブ”が入っています。」


「え、冬の……?」


「はい。カモミールです。

 今、この店の中で感じられる香りと、同じものです。」


「そうなんだ……でも、カモミールって、春の花じゃなかった?」


 クロエはにこりと微笑む。


「ええ、咲くのは春。

 けれど──人がこの花を必要とするのは、冬。

 乾燥させた花を、寒い夜のために使って、

“心が凍えそうな夜”に、静かに寄り添ってくれるんです。」


 すみれは驚いたように、小瓶を両手で包んだ。


「……私、冬は大嫌いで。ハーブのことも、全然詳しくないけど……でも、これは“好き”って、思った。」


「ええ、それで十分です。」

 クロエの声は、心にふわりと染み込むようなやさしさだった。


「どんなに忙しくても、どんなに前を向いていても……

 ふっと香りに癒されたり、“好きかもしれない”と思える瞬間が、

 ちゃんと“心”の中にある。──それが、“生きている”ということなんです。」


 クロエはそっと近づいて、小瓶のそばに立ち、すみれの顔を見上げる。


「通知をオフにして、深呼吸を三回。

 眠る前に、あたたかい飲み物を一杯。

 週に一度、立ち止まって空を見上げる朝──」


 クロエは自然とその手をすみれの指にそっと置いた。


「ほんの少しでも、そんな休憩を取るだけで、身体はちゃんと、安らぎを得られます。

 どうか、慌てないで。あなたが大事にしている“なにか”と同じように──

 あなた自身を大事に思っている人も、この世界には、ちゃんといるんです」


 そのぬくもりが胸に滲んでいく。

 ──これは、ハーブの効果なんかじゃない。

 すみれにも、ちゃんとわかっていた。


「……うん。まだ、全部を現実として受け止めきれてるわけじゃないけど……」

 小さく笑って、すみれはクロエに向き直る。


「でも、あなたたちの営業センス。ほんの少しだけ、認めてあげてもいいかも。」


 それは──喫茶店に来てから、

 はじめて彼女が見せた、心からの笑顔だった。


「“休むのも仕事のうち”。──その言葉の意味、ようやく分かった気がする。」


「コトン」と、再びカウンターから小さな音が響いた。

 視線を向けると、いつの間にか店員が、そっとカフェオレを差し出している。


 カップはソーサーに乗せられ、取っ手はすみれの右手のほうに、きちんと向いていた。


「これは……歩き出したあなたへ、ささやかな“贈り物”。

 心の扉をひとつ、開けた人にだけ出される、特別な味ですよ。」


 すみれは「美味しそう」と一言。口元を綻ばせる。


「ハーブと小瓶も、どうぞお持ち帰りください。

 その香りが、あなたを“安らぎのベンチ”へ導くきっかけになれるのなら、私はとても嬉しいです。」


 すみれは、クロエと店員を見比べてから、すこし揶揄うような口調で笑った。


「な〜んか、気づけば色々もらいすぎちゃってるけど……まさか後から高額請求とか、ないわよね? そんなの、合法な取引じゃ通らないんだから。」


「ふふふ。ご安心ください。もちろんすべて、サービスです。」


「サービス? もしかして、タダなの?」


「はい。」


「……いいの?」


「ええ。」


 すみれは、ほんの少しだけ目を見開いてから──肩の力を抜くように、微笑んだ。


「そう? じゃあ──頂きます。」


 丁寧な口調でそう告げたすみれは、そっとカップに手を添えた。

 香ばしくやわらかな香りが、ふわりと鼻先をくすぐる。

 そして一口、口に含む。


 ──やわらかな甘さが、ふわっと広がった。


 それは喉をなぞり、胸を撫で、

 じんわりと、身体の奥の奥にまで染み込んでいく。


 まるで、優しさでできた毛布にくるまれたみたいだった。

 気づけば、あれほど重かった胃の痛みが、

 すっと溶けるように消えていた。


 すみれは、ぽつりと呟くように笑った。


「ねぇ……また、来てもいい?」


 クロエは、くるりと無言の店員の前にぴょんと移動し、

 その凛とした瞳で、すみれの目をまっすぐ見つめ返した。


「ええ。あなたが必要とするなら──いつでも、風は吹きますから。」


 ***


「さて──夜も更けてきましたね。今日は、もうそろそろ閉店です。」


 クロエの穏やかな声に、すみれは小さくうなずいた。

「うん、わかった」──その声は、少しだけ名残惜しそうだった。


 椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。

 カウンターのふたりは、その背中を黙って見送る。


 すみれは入り口の前でふと足を止めると、

 手にしていた小瓶の蓋を「かぱっ」と開けた。


 ──ふわりと、やさしいハーブの香りが立ちのぼる。


 それを、ゆっくり、深く吸い込む。

 まるで、思い出を胸にしまうように。


 そして振り返り、ぽつりと呟いた。


「……いい香りね。ありがとう。」


 その言葉を受け取ったクロエ、

 そしてカウンターの向こうでこちらを見つめている店員も──

 はっきりとはしないが、どこか微笑んで返してくれたように、すみれには感じられた。


 彼女はドアノブに手をかけ、一度、足を止める。

 そして、ふと肩越しに振り返って、もう一度クロエを見た。


「はい。」


 相変わらず、優しく、淡々とした返事。

 疑問の色ひとつ浮かべることなく、クロエは静かにすみれを見つめている。


 すみれは一瞬だけ考えてから、微笑みを浮かべた。

「……ううん、なんでもない。」


 そしてもう一度、「じゃあね。ありがとう」と小さく言い添えて、

 ドアノブを握り、店をあとにした。


 ──カラン。


 鈴の音が鳴る。

 静かな夜に、閉店を告げる音が響いた。


「ご来店、ありがとうございました。お客さま──」


 扉が閉じる音。

 すみれの姿は、見慣れた街の景色の中へと、そっと溶けていった。


 残された空気が、そっと揺れる。

 夜風が店先をかすめていく音が、微かに聞こえた。


 クロエはカウンターの上で、また次の誰かを待つように、目を閉じた。


 ***


 ──静かな夜の路地裏を、ひとり歩きながら。

 私は、自分の“これから”を探しはじめた。


 外に出ると、雨はすっかり上がっていて、

 都会の灯りが、濡れたアスファルトに滲んでいた。


 光の粒がゆらゆらと揺れて、

 まるで別の世界の入り口みたいに見えた。


“休む”って、きっと──“止まる”勇気なんだ。

 少しだけ、速度を落としたときにだけ見えてくる景色がある。


 そんな当たり前のことを、

 私はあの不思議な喫茶店で、もう一度教えてもらった。


 ふと思い出すのは、お母さんの言葉。

「期待に応えてたって、体調おかしくしたら本末転倒よ」──


 昔は、なんとなく聞き流していた。

 でも今なら、その言葉の重みが、少しだけわかる気がする。


 ──それからの私は、会社のデスクと、自宅の棚に、

 あの喫茶店でもらったカモミールの小瓶を置くようになった。


 ……といっても、小瓶はひとつしかない。

 自宅に置いたその瓶の中身を、小さな雑貨屋で買ったガラス瓶に少しずつ分けて、会社にも持っていったのだ。


 ふたつの場所で、同じ香りに包まれる。それだけで、どこか気持ちがやわらぐ気がした。


 ハーブに興味がなかったわけじゃない。

 でも、調べる余裕もなかったし、

「いいものなんだろうな」って、どこか他人事だった。


 ──けれど今は、心からその“やさしさ”が沁みる。


 なんとなく疲れたなって感じたとき、

 ふと視界に映る、小さな瓶の存在。


 蓋を開けて、香りをそっと吸い込むと、

 あの夜の記憶が、胸いっぱいによみがえる。


 甘くて、静かで、やさしくて。

 クロエの声や、心を撫でてくれたあの空気。

 ちょっと怖いけど、美味しい飲み物を用意してくれた店員さん。

 そして──お母さんのことも、そっと思い出す。


 最近では、カモミールの香りがするアイマスクも試してみた。

 外ではメイクのことがあって使えていないけれど、

 家に帰るのが、少しだけ楽しみになった。


 思いのほか、周りの人も小瓶に気づいて声をかけてくる。

「なにそれ?」って聞かれるたびに、

 私は微笑んで、こう答える。


「私の、好きな香りだよ。」


 ──冬が大嫌いだった私が、冬に見つけた“冬のハーブ”。


 カモミールは春の花だけど、

 寒い夜には身体を温めてくれて、

 安眠やストレスにもいいらしい。


 今では、私にとって“冬のパートナー”のような存在だ。


 ……あれから、もう一度あの喫茶店を探してみた。

 けれど、店の姿どころか、あの路地すら見つからなかった。


 どうやって行ったのかも、どうやって帰ってきたのかも──

 あまりよく思い出せない。


 あの店を出るとき、ふと

「本当は、もう来られないのかもしれない」──そんな考えが、一瞬だけよぎった。


 それを彼……クロエに聞いてみようと思ったけれど、

「その通りです」と言われるのが、少しだけ怖くて、

 名残惜しくて、結局……聞けなかった。


(あなたが必要とするなら──いつでも、風は吹きますから)


 あのとき聞いた、やさしい声。

 その言葉を思い出すたびに思う。


 私は今、きっと、あの喫茶店を“必要としていない”のだ、と。

 それだけが──ほんの少しだけ、寂しい。


 まるで、お伽噺の中に、ふと迷い込んでいたみたいだった。


 ……もし、あの夜。

 クロエや店員さんを信じずに、あの店を出ていたら──


 私は、いったいどうなっていたんだろう。


 そう考えることが、今もたまにある。


“自分の行動は、自分で決められる”。

 休むのも、休まないのも──すべては、私自身の選択だ。


 仕事も、期待に応えることも、もちろん大切。

 でもその前に、小さな変化やサインに気づいて、

“誰よりも先に、自分に気を遣ってあげること”。


 それが、本当の意味で「誰かの期待に応える」ってことなんだ。

 ──あの日以来、そんなふうに思えるようになってきた。


 そして今日、私は部長に相談して、

 溜まっていた有給を思い切って消化させてもらうことにした。


「えぇ?! 君が?!」

 あたふたする部長の声に、思わずクスッと笑ってしまう。

 前ならきっと、そんな自分に罪悪感すら抱いていたのに。


「休んだら、負け」──そう思っていた頃の私とは、もう違う。

 そんな自分の変化が、今はちょっぴり誇らしい。


 もちろん、すべての気持ちに整理がついたわけじゃない。

 けれど、焦らなくてもいい。

 そう思えるだけで、心はずいぶん軽くなった。


 その日の夕方。

 会社を出てすぐ、私はスマホの電話帳を開いた。


 少し迷って、でも勇気を出して、タップした先。

 耳に当てると──懐かしい声が、すぐに聞こえてきた。


「もしもし、すみれ?」

「……あ、もしもし、お母さん? 来週──そっちに、顔出すね。」


「なに? 帰ってこれるの? 仕事は? 大丈夫なの?」

「うん、思い切って、お休みをもらったの。」


「あらそう! おとーさーん? すみれ、今度こっちに帰ってくるって〜!」

 電話の向こうで、弾んだ母の声が、

 どこかバタバタとした日常の空気を運んでくる。


 微かに、父の「なんか言ったかい?」という声も聞こえてきた。


「いいわ、お父さんには後で伝えるから。

 もうあんたも、突然なんだからねぇ〜!

 ついこないだ連絡した時は、仕事仕事で返事もそっけなかったのに〜。」


 母の声は、ちょっと皮肉っぽくて、だけど……

 その奥にある喜びが、胸に沁みた。


「うふふ、ごめんって。……でもね、久しぶりに、お母さんとお父さんの顔、見たくなったの。」


「まぁ、どういう風の吹き回し?」


「う〜ん……お母さんの“香り”に出会ったから、かな。」


「なぁにそれ? あんた、変な製品をお母さんに押しつけるつもりじゃないでしょうねぇ〜?」


「あはは! 違うよ〜。詳しいことは、会ってから話すね。……不思議な出会いが、あったんだよ。」


 電話越しの笑い声は、昔よりもずっと近くて、柔らかく感じた。


 この冬の終わり。

 私は──少しずつ、もう一度 “わたし” を始めていく。


 ***


 ──黒猫が、夜空の明かりに照らされ、白や黄色が美しい“花畑”に佇んでいる。

 そして、ふと空を見上げると、この世界を覗いている月に向かって言葉を紡いだ。


 ──あなたは、自分に“休んでもいい”と、ちゃんと伝えてあげられていますか?

 がんばり続ける人ほど、“立ち止まること”に、どこか罪悪感を覚えてしまうもの。

 しかし、それは悪いことなんかじゃない。

 ただ、あなたの心が、そうしたかっただけなのです。


 少しだけ立ち止まることは、“遅れる”ことではありません。

 むしろ──あなた自身に“追いつく”ための、大切な時間なのです。


 今日という一日が、ちゃんと“息ができる日”になりますように。

 誰よりもあなたを労わってあげられるのは、いつだって──あなた自身なのですから。


 ……黒猫クロエの相談喫茶、本日はこれにて閉店です。

 不思議な世界を、少しだけ覗いたあなたへ──


 黒猫の鳴き声が、静かな夜の奥へと消えていった。

 路地裏に残された灯りは、やがて夜の闇に溶けていく。

 そして、物語の幕が、そっと降りた。


「ご来店、ありがとうございました。お客さま──」


【──閉店──】

『黒猫クロエの相談喫茶』「休んだら、負けだと思った」

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