お守りの穴
ミナミは、駅前のパン屋で働く、ごく普通の女性だ。ただ一つ、彼女が他の人たちと違うのは、大切なものに穴を開けてしまう癖があることだった。
子どもの頃、大好きだったクマのぬいぐるみは、ミナミが抱きしめるたびに、心臓のあたりが擦り切れて、小さな穴が開いた。大事な手帳の表紙は、持ち歩きすぎたせいで角がすり減り、そこが破れて穴になった。
ミナミは、その穴を補修しようとはしない。彼女にとって、それは愛着の証だった。
ある日、ミナミの働くパン屋に、無口でいつも憂鬱そうな顔をした常連の老紳士がやってきた。彼はいつも、同じバゲットを一本だけ買って、無言で帰っていく。
その日も老紳士が会計を済ませようとしたとき、彼のポケットから、古びた革のお守りが落ちた。
ミナミは慌てて拾い上げ、老紳士に渡した。
「ありがとうございます」
老紳士が受け取ったそのお守りの真ん中には、ちょうど親指の爪ほどの、きれいな丸い穴が開いていた。
ミナミは、思わず尋ねた。
「あの……そのお守り、どうして穴が開いているんですか?」
老紳士は、初めて顔に穏やかな笑みを浮かべ、答えた。
「これはね、亡くなった妻が、病気で入院する前に作ってくれたものなんだ。妻はいつも、『あなたを見守っている』と言ってくれたが、この穴がその証拠でね」
老紳士は、お守りの穴を指でなぞった。
「妻は、この穴を、私が寂しくなったとき、妻の目線で世界を見られるようにと開けてくれたんだ。穴から覗けば、私が今何をして、どんな景色を見ているか、妻にも伝わるから、って」
ミナミは、自分の癖と同じだ、と感動した。大切なものに開いた穴は、失われた誰かと、今この瞬間を共有するための窓なのだ。
老紳士は、ふと、ミナミが着ているエプロンのポケットの縁を見て、微笑んだ。そこは、ミナミがいつも手を突っ込むせいで、少しだけ擦り切れて、小さな穴が開いていた。
「お嬢さんのエプロンにも、小さな窓が開いている。それは、誰かを見守っている窓ですか?」
ミナミは少し照れながら、「このパン屋に、今日も来てくれるかな、って心配している人のための窓、かな」と答えた。
翌日。老紳士は、いつものバゲットに加えて、一つだけ穴の開いたドーナツを手に取り、嬉しそうに会計を済ませた。
レジを離れる際、彼は静かに、お守りの穴をドーナツの穴に重ねて、二つの穴を通して、ミナミとパン屋の景色を、ゆっくりと覗いていった。
井上無印ショートショート集 @inoue-nomark
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