第5話【赦されざる幸福の歯車】
時任湊の工房に差し込む陽光は、罪が赦された世界の祝福のように穏やかだった。失われたはずの息子が、『時任航(わたる)』という名で彼の前にいる。過去の激闘の記憶は靄の向こうに消え、代わりに、この心優しい青年を育て上げたという、温かな偽りの記憶が湊の心を埋めていた。それは、歪んだ願いが叶えられた、奇跡という名の監獄だった。航は誰からも愛された。彼のいる場所では、諍いの声は消え、人々の顔には常に笑みが浮かんでいた。だが、湊だけがその完璧すぎる日常に、新たな『歪み』の音を聞いていた。
航が、些細なことで友人と喧嘩し、一人部屋で涙を流した翌日。その友人は記憶を失くしたかのように航のもとを訪れ、心からの謝罪を口にした。航が、大事な試験に失敗し肩を落とせば、数日後に採点ミスが発覚し、満点の答案が返却された。航の悲しみが生まれるたび、その原因となった事象が、まるで奇跡のように修正されていく。不幸や後悔という名の雑音が、航の世界からだけ綺麗に調律されて消えていくのだ。湊は知っていた。航の瞳の奥、その虹彩の深層で静かに回転する人知を超えた幾何学模様の歯車――『観測者の歯車』が、息子の無垢な願いを汲み取り、世界を密かに『再剪定』しているのだと。悲しみをエラーと断じる観測者の思想が、航の優しさを媒介にして、再び世界を侵食し始めていた。航自身も、その不自然な幸運に囲まれ、まるで自分だけが世界の理から外れた聖人であるかのような感覚に、言い知れぬ孤独を深めていた。
その歪みが飽和点に達したかのような夜、工房のドアをノックもせずに開け、二人の人影が滑り込んできた。白磁の能面のような仮面をつけた、性別の見分けがつかない双子。その身に纏う純白の衣服は、塵一つない完璧な調和を体現していた。
「時任湊。あなたを修正します」
声は左右から寸分の狂いもなく重なり、感情のない一つの音として響いた。彼らは自らを『修正官』と名乗った。
「あなたの存在そのものが、この修復された世界の調和を乱すノイズ。悲しみの記憶を内包する異物は、秩序ある庭園から摘み取られるべき雑草です」
問答の余地はなかった。双子が同時に腕を振り下ろすと、空間そのものが凍てついたかのように湊の動きを封じる。だが、湊は工具を構え、自らの魂に刻まれた『綻び』を視る能力を解放した。修正官の放つ秩序の檻は、湊の目には完璧すぎるがゆえに脆い、ガラスの幾何学模様として映る。その接合点、最も脆弱な一点を工具で突くと、甲高い音を立てて檻は砕け散った。
しかし、修正官の連携は完璧だった。一方が攻撃すれば、もう一方が死角を埋める。湊が防戦一方に追い込まれ、純白の刃が彼の喉元に迫った、その刹那。
階上で眠っていたはずの航が、父の危機を夢で感じ取っていた。彼の瞳の奥で、観測者の歯車が黄金の光を放ち、凄まじい速度で回転を始める。
世界が、軋んだ。修正官の突き出した刃は、目標の数ミリ手前で不可視の壁に阻まれ、その切っ先から因果が捻じ曲げられていく。刃は分子レベルで砂と化し、彼らの攻撃という『事象』そのものが、初めから存在しなかったかのように消え去った。
「な…因果律干渉…!?」
驚愕する修正官を前に、湊は立ち尽くす。息子に、守られてしまった。その力が世界を歪める元凶だと知りながら、その力なくしては生き残れなかった。無力感が、焦燥が、湊の心を容赦なく引き裂いた。
翌日、湊の前に、かつての共闘者が立ちはだかった。修復された世界で秩序を守るエリート機関の一員となった調停官。記憶の一部を改変された彼は、非の打ち所のない制服に身を包み、冷徹な光を宿した義眼で湊を見据えていた。
「世界の安定を乱す危険人物、時任湊。任務に基づき、あなたを拘束する」
その言葉とは裏腹に、彼が構える銃口は微かに震えていた。湊の言葉、航の周囲で起こる異常な調和、そして修正官の出現。彼の魂は、与えられた任務と、心の奥底で疼く過去の記憶の断片との間で激しく引き裂かれていた。
「なぜだ…お前と対峙していると、俺の中の歯車が狂いだす…」
その苦悩の表情から、湊は全てを悟った。調停官の口から語られたのは、観測者が航を選んだ絶望的な理由だった。観測者は、自らの後継者を探していた。宇宙に蔓延する『悲しみ』というエラーを、最も効率的に剪定できる、純粋で優しい魂を。航はその最終候補、『プライム・キャンディデイト』。瞳の歯車は、後継者としての適性を見極めるための観測端末なのだと。このまま航が世界の矛盾を嘆き、人を想い続ければ、その優しさはやがて歪み、自らの意志で『新しき観測者』として覚醒する。そして、全宇宙から感情を消し去る『大剪定』の引き金を引いてしまうだろう。
息子を救う道は一つしかない。彼の魂に焼き付けられた『観測者の歯車』を、概念レベルで『調律』し、切り離す。だが、そのためには観測者の力の根源に触れなければならない。その鍵は、湊自身がこの幸せな日常と引き換えに捧げた、失われた記憶――剪定前の世界で、息子カインの悲しみと憎しみを受け止め、その命を救った、あの壮絶な戦いの記憶の中にだけ眠っていた。
航を救うことは、この手に入れた奇跡を自らの手で破壊し、息子を失うあの絶望を、もう一度その身に刻み込むことを意味していた。
工房に戻った湊は、眠る航の寝顔を見つめた。この穏やかな顔を、守りたい。だが、このままでは、彼は彼でなくなってしまう。
「すまない…航」
湊は覚悟を決めた。航と、世界の未来を懸け、自らの魂の奥底に封印された、最も辛く、そして最も愛おしい記憶の領域へと、意識をダイブさせた。
精神の深淵は、忘却の霧が渦巻く静かな海だった。湊はそこで、過去の自分――息子カインを喪い、絶望の縁でリバース・ギアの力に手を伸ばした時計職人と対峙する。過去の自分は、今の湊を「裏切り者」と罵った。カインの苦しみを忘れ、偽りの息子と偽りの幸福に浸るお前には、父親を名乗る資格はない、と。激しい葛藤の末、湊は過去の自分を、その悲しみの全てを抱きしめた。記憶が奔流となって蘇る。カインの苦悩、憎しみ、そして最後に浮かべた安らかな笑顔。その激痛と愛情の記憶の果てで、湊は観測者の力の源を突き止める。この宇宙の全ての『始まりの時』と『終わりの時』を同時に観測する高次元領域、『クロノス・ネクサス』。そこが、力の源泉だった。
現実世界に意識が戻る。湊は、目覚めた航の、黄金に輝く瞳の奥の歯車に向かい合った。再獲得した全ての記憶と、父としての全ての愛を懸けて、最後の『大調律』を敢行する。
「お前は、観測者になんかなるな。ただの、俺の息子でいてくれ…!」
湊の工具が、概念の歯車に触れた瞬間。
甲高い金属音と共に、航の身体から弾き出された歯車が、工房の空間をガラスのように砕き、異次元への亀裂を生み出した。亀裂の向こうに、無数の時計と歯車が銀河のように渦巻く、人知を超えた風景が広がる。『クロノス・ネクサス』そのものだった。
亀裂は、暴走した歯車を吸い込み、閉じようとする。だが、その強大な引力は、大調律を終え、魂を燃やし尽くした湊をも捕らえて離さなかった。
「父さん!」
瞳から黄金の光が消え、ただの優しい青年に戻った航の悲痛な叫びが木霊する。湊は息子に、最後の笑みを向けた。その姿は、時空の裂け目の彼方へと、無情に吸い込まれていった。
静寂だけが、工房を支配していた。航の足元に、かつて父が持っていた、ただの鉄屑のはずの『リバース・ギアの破片』が転がっていた。
航が、震える指でそれを拾い上げた、その瞬間。ギアの破片は、まるで主を得たかのように、心臓の鼓動にも似た淡い光を放ち始めた。そして彼の脳裏に、時空の彼方から届く、温かく、力強い父の声が響いた。
『聞こえるか、航。今度は、お前が時間を刻む番だ』
父の能力と意志は、確かに息子へと受け継がれた。時任航は、涙を拭い、ギアを強く握りしめる。父を救うため、そして自らが引き起こしてしまった世界の歪みを正すため、新たな『時計職人』として立ち上がることを決意した。彼の、時空を超えた旅が、今、始まろうとしていた。
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虚ろな心臓と忘却の時計師 nii2 @nii2
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