クリスマス翌日の『ある食卓の風景』〜圭太と沙也可〜

天鳥カナン

第1話


 クリスマスから一日過ぎたら、風が通り過ぎたように華やいだ街の雰囲気はどこかへ消えてしまった。

 商店街にあれほど流されていたクリスマスソングは聞こえず、金銀のモールやツリーの星々は外されてどの店も素っ気なく見える。

 十二月に入るずっと前からクリスマスのデコレーションは始まっていたのに。人って楽しいことの準備をするのは好きだけど、それが終わればさっさと片付けて忘れてしまいたくなるのかな。楽しくない毎日をつつがなく過ごすために。


 同棲してる圭太(けいた)は、せっかくのクリスマスなのに仕事が入ったといって帰ってこなかった。

 仕方なく沙也可(さやか)は、イブとクリスマスの夜には部屋の片付けに明け暮れた。それでも食事の下ごしらえくらいはしたけれど。今夜はようやく二人で食事ができそうだから。

 沙也可にだって毎日仕事はある。特に年末の休暇前のこの時期は忙しい。今日も課長に資料作成の残業を振られないかヒヤヒヤしながら早めに退社した。そうして近くの商店街で大急ぎで買物を済ませ、くすんだ青い扉を開けて二人で暮らす部屋へと戻って来たのだ。


「さて…と」

 沙也可はエプロンの紐をギュッと締めて、冷蔵庫からタマネギとニンジン、ジャガイモを取り出した。タマネギの薄皮を剥いて八つ割りに、よく洗い皮を残したニンジンは乱切りにしてボウルに入れる。最後にジャガイモの皮を剥き、こちらは四つ切りにしたものをタッパーで水にさらしてから別茹でに。

 フライパンに多めのバターを溶かし、赤ワインでマリネしておいた牛肉を入れ、強火にかける。当然ハネが上がる。普段は着けないエプロンを着けたのは肉を焼くためだ。よそいきの赤いワンピースに油染みを付けるのはごめんだから。しっかり焼き色が付いた肉を圧力鍋に移し、肉汁の残るフライパンに野菜を入れて炒めたらそれを水とケチャップとローリエと一緒に圧力鍋に入れて火にかける。肉を柔らかくするために二時間も煮込んでたときがあったなんて信じられない。圧力鍋を使ういまはたったの十五分なのに。肉の柔らかさを確かめてから、沙也可が一番信頼しているメーカーのデミグラスソースと茹でたジャガイモを入れてもう少し煮込む。


 サラダはオレンジサラダ。薄く敷いた葉物野菜の上にスライスしたオレンジを載せ、オリーブオイルに塩と砂糖、それにレモンを加えたドレッシングをかけてから砕いたナッツを少々載せる。さっき買ってきたフランスパンとブリーチーズは食べる直前に切ろう。


 圭太は今日はちゃんと帰ってくるはず。SNSで何度も確認したから。

 それでも、青いドアはなかなか開かない。何かあったのだろうかと沙也可は心配し携帯をチェックするが何もきてない。二十パーセントくらい電池が減った頃ようやくドアが開いた。いつものコートと見慣れない色のマフラー。それを怠そうにドア横のコート掛けに掛ける姿は、同い年の二十九歳にしてはちょっと疲れて見える。顔色も冴えない。

「おかえり、食事の支度できてるよ。手を洗ってきて」

 声をかけても、ああ、と頷くだけなのにイラッとしたけど、あえて気にしないふりをして沙也可は食卓の準備を始めた。いつものテーブルに白いクロスをかけてカトラリーを置き、切ったばかりのパンとチーズ、サラダを並べる。ボルドーワインの栓を抜いてワインクーラーに置く。室温より少し冷たい方が沙也可は好きだ。そうして最後に温め直したビーフシチューを皿に入れて出す。


 圭太は食卓の椅子に座った途端、顔をしかめた。 

「悪いけど、こういうしつこいもの、食べたくないんだ」

「そう。赤ワインに合うものを、と思ったんだけど。……魚料理のほうがよかった?」

「ねえ。僕がそういう気分じゃないとは思わないの」

「そういうって?」

「贅沢する気になれないんだって」

「贅沢はしてないよ。牛肉は安いスネ肉を使ったし、オレンジやチーズはスーパーの特売品だし。ワインはあたしからのプレゼント。もうクリスマス終わりで安いんだ」

「失業手当がそろそろ切れる時期だって、知ってるだろ」

「転職活動は順調だって言ってたじゃない」

「僕もそう思ってたよ。でも何社か確実だと思ってた会社で、面接にこぎ着けなかったんだ。頼んだエージェントがよくないのかもしれないけど」

「そう。でも今日はこれしかないの。嫌だったらシチュー食べなくてもいいよ」


 沙也可は赤ワインを二つのグラスに注いで一つを圭太の前に置き、乾杯とも言わずに飲み始めた。最初の一口は硬い感じのする赤ワインが、チーズを一かけ飲み込んでから再び口に含むとふっくらした香りが広がるようになる。その残り香をパンでリセットしてもう一口。うん、やっぱり赤ワインのお供にはチーズとパンが最強だ。

 とはいえ、せっかく作ったビーフシチューの味もみなくては。こちらは圧力鍋のおかげで短時間の煮込みでもしっかりコクが出ている。オレンジサラダの酸味と交互にすると止まらなくなりそうだ。

 美味しそうに食べる沙也可の様子を見てごねる気が失せたのか、圭太も渋々とシチューを食べ始めた。オレンジサラダには興味なさそうだがお腹が空いていたのだろう、パンをシチューに付けては何切れも食べている。


「圭太はさ、あたしには会社のリストラに遭ったって言ってたけどそうじゃない。本当は辞めさせられたんだよね、同僚の女性と不倫して。その人の旦那さん、同じ社内にいる人なんだってね」

 二人ともあらかたシチューを食べ終え、ワインも残り少なくなった頃。デザートを出す前に沙也可は言った。デザートは圭太の好きなカラメルプディング。簡単にプリンと呼んでほしくない。砂糖を焦がして苦くて甘いカラメルを作る作業はけっこう大変なのだ。これは昨日のうちに作って冷蔵庫にスタンバイしてある。

 圭太はすぐには答えなかった。眉をしかめて黙るのは迷っているときの癖だ。


「調べたのか、僕のこと」

「違う。あなたが深夜バイトって言っていなかったクリスマスイブね、その旦那さんがここへ来たの。『俺は妻を手放す気はないからな。手ぇ切らないなら覚悟しろって言っとけ』だって。あなたが会社辞めてもまだその女性と別れなかったから」

「あ、あいつは酷いモラハラ野郎なんだ。だから僕は彼女の相談にのっててそれで…」

「イブは、その人に会ってたんだよね?」

「誘ってきたのは彼女のほうなんだ、そうしてくれなきゃ死ぬって脅すから」

「そんなことはどうでもいい!」

 怒鳴った沙也可に圭太は目を見張り口を開けた。間の抜けた顔だった。


 同棲して三年、いままで声を荒げたことなんてないから、おとなしい女だと勝手に思い込んでいたのだろう。

 本当は年内に結婚する予定だった。三十歳になる前に結婚したいと沙也可はずっと願っていたから。結婚情報サイトで見つけた素敵な式場を二人で下見に行って予約までしたのだ。それが圭太の転職活動で延期になってキャンセルしたときは泣きたかった。

 二日前、この部屋にサレ夫が来たときだって「なんだあいつ。ブスだけど恋人いるのかよ。あんたが色気ないからうちの妻に手ぇ出したってわけか」とチェーン越しにせせら笑われて、「うっさいわ。あんたこそなんで奥さんちゃんと捕まえとかないのよ!」と逆に食ってかかるほど頑張った。そりゃ悔しさで目に涙がにじんだし、そいつが帰ってもしばらくは手の震えが止まらなかったけれど。

 それからずっと沙也可は、心の中で『裏切り者! 裏切り者!』と圭太をなじる一方で、『圭太を絶対誰にも渡さない!』と叫んでいた。そのためなら、一緒に死んでもいいとさえ思った。

 

「あたし、最後の晩餐には赤ワインって決めてたんだ」

 沙也可は中学と高校をキリスト教系の学校へ通った。進級式とか他学年の卒業式みたいなつまらない行事に参加しているとき、校長先生やシスターの声を耳に素通りさせながら、校内ホールの正面にあった複製の『最後の晩餐』の絵をずうっと眺めていた。その横に長い絵の食卓には、魚料理の皿とオレンジと、赤ワインとパンが並んでいた。

 イエス様がみんなに配るそのお料理を作ったのは誰だったのだろう?

 信者の女の誰かだろうか。きっと、男ではなかっただろうという気がする。

 その女は、ユダに頼まれて、毒を入れようとしたりはしなかったのか?

 食べるだけの男たちは、食卓が安全なのは見えない愛のおかげだと、なぜ気づかないのだろう。


 紗也可は残ったワインをグラスに注ぐと一息に飲み干した。そうして食卓から静かに立つと、赤いワンピースのポケットから部屋の鍵を取り出し、テーブルの上に置いた。この部屋からはもう、自分の大切なものは昨日のうちに運び出してトランクルームに預けてある。

 冷蔵庫から睡眠導入剤の入ったカラメルプディングを取り出してビニール袋にくるみ、買ったばかりの出刃包丁が潜むバッグにしまうと、沙也可はバッグを肩にかけ、コートを手に「さよなら」と言ってその部屋を出た。

 圭太を眠らせて包丁で刺し、自分も死ぬなんて馬鹿らしい。

 ドアを開けると冬の冷気が全身を包む。

 コートを羽織りたいけどここで足を止めるのは嫌だった。身震いしたってかまうものか。クリスマスの名残りのイルミネーションが人々の背中を照らすなか、紗也可はひとり、早足で舗道を歩き出した。



  了

















 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クリスマス翌日の『ある食卓の風景』〜圭太と沙也可〜 天鳥カナン @kanannamatori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画