審判の炎
煮え滾る『灼熱沼』。その溶岩流の上で炎の粒が舞い、肌を刺す熱気が吹き上がる。
血筋も才能も財力も、ここでは等しく無価値だ。踏み入れば肉も骨も残さず高熱が溶かし尽くす。最も確実な方法。これ以上を望むべくもない最高の終幕。
あと一歩。たった一歩踏み出すだけで、この苦しみから解放される。引き留める資格など誰にあるだろうか。
「何の真似なのかな?」
燻るような苛立ちに毒づく。僕が淵に立った直後、重量のある足音が、それを追うように近づいてきた。
振り向けば、あの男が自身の足元に広がる溶岩溜まりを見下ろしている。
この岩場を素足で歩いて平気なのか?
「熱くも痛くもないぞ」
ご丁寧に視線まで返してきた男へ、ありったけの不満を溜め息に込めて僕は応えた。
きっと足裏の皮膚が分厚くて鈍いのだろう。
「復讐したいとは思わないの?」
問いかける声は小さかったが、そんなことは何の問題にもならない。
「他人を道具扱いする奴らに、異端者を許さない社会に。だって、君には……」
力があるのに。そう言いかけて唇を噛んだ。
まるで、力があるなら復讐すべきと言わんばかりではないか。苛立ちの正体は、強者が自らの力を行使しない矛盾へ向けられていたのだ。
それよりも問題なのは、無力を言い訳にして自身の信念を他人へ押し付け、復讐を促そうとしたことだ。あまりにも卑怯ではないか?
「今度は何の遊び?」
目前の光景に対し、溜め息混じりに呟いた。男は低地の際まで移動し、間近から『灼熱沼』を覗き込んでいる。僕の問いかけを無視して、ゆっくりと溶岩流へ手を突き出した。
無謀だ。そう叫ぼうとして、踏み留まった。
どうせ聞き入れない。この距離からでは、距離なんてなくても、僕には止められない。
男は水温を確かめるかのように、右手を溶岩流に沈めた。皮膚から焼け爛れていくはずの手が、灼熱の奔流を悠然と掻き乱す。
僕は下唇を噛み締め、黙って見つめていた。
「力が欲しいか?」
その声は低く響いた。復讐したいかと問われているようだった。
「お前が望むならば、叶えてやろう」
心の拠り所を失った者には願ってもない提案だろう。しかし、夢も願望も弱みになる。他人に明かすのは服従を誓うのと同じだ。
「それで、君に何の利がある?」
冷たく吐き捨てる。
「君は知っているの? 僕の本当の願いを」
捨てた過去の中身まで知れるはずがない。ただ聞こえているだけの君では。
「お前が知りたいと望み、探し続けるならば、不可能ではなくなる」
知っていると答えた時点で、それを僕は嘘と断定した。それをさせない絶妙な駆け引きが、警戒心を煽りながらも関心を繋ぎ留めている。
「必要ないよ。情けも、施しも」
乾いた声が漏れた。もう手遅れだ。僕には信じる心が残っていない。手を差し伸べられて、やっと気づいた。
「お前が必要だ」
心をくすぐる甘美な囁き。それは確かに、かつての僕が求め続けた言葉だ。そのために努力して何度も裏切られた。
「そうだったね。君の目的は何だっけ? それを聞くまでは話を進められない」
男は黙り込んで視線を返すだけだった。
僕に力があれば、どんな復讐をしただろうか。そんなことを考えても虚しいだけだ。
僕を否定した連中に同じ理不尽を返せば、心は満たされるのか? そうすれば、穏やかな日々に手が届くだろうか?
恨みを買って報復される危険の方が、ずっと高い。それなら何もしない方が……。
「神降ろしを知って居るか?」
問いを発端に『灼熱沼』が波立ち、吹き荒れる。音も景色も、熱気さえも遠退き、首筋を寒気が走った。
「何を……」
無音の世界へ飲み込まれるのではないか。そんな恐怖から逃れようと、声を上げた。
「全てをくれてやっても良いと、お前は言った」
遠くで何かが爆ぜる。
「言ってないよ。声に出した覚えはない」
顔をしかめて僕は即座に否定した。
だけど、そうか。終わらせてくれるなら、と投げやりなことを考えた。あれを聞かれていたのだ。
「……不快、か?」
「ああ、実に愉快だとも。お陰様でね」
最悪な気分だ。
照らし上げる溶岩の光りが、赤髪と褐色肌を鮮烈に彩る。熱風に煽られ揺れる髪は、金の糸のように輝いた。全てを溶かす破壊の熱を背にしても陰らない存在感。王冠を戴くかのような高潔さと、危機感を煽る妖しさを併せ持ち、そこに立つ。
表現力の低さが、もどかしい。
狂おしいほどに輝く光景も、身を焦がす羨望と絶望さえ、今この瞬間だけは僕だけのものだ。
「君は嘘吐きだ」
終わらせてくれるならの条件付きで差し出すモノは、人肉を想定していたが、その誘いには乗らなかった。
自分で片を付ける方が確実だ。例え激痛を伴おうとも、それは僕が受けるべき罰なのだから。
「君の言葉に嘘がないなら、力尽くで奪ってみせろ!」
もっと知恵が回れば対等な交渉ができただろうか。せめて、僕が素直だった頃に出会えていたなら。
どうしようもない事ばかりが浮かび、自己嫌悪に苛まれる。誰も助けてくれないのではない。僕が信じることを止めただけだ。
視界の端で『灼熱沼』は静かに波打ち、黄金色に縁取られた瞳が僕を見つめる。
「お前を赦そう。加えて、記憶に刻もう」
穏やかな声が届いた。
「其の前に、一つ頼みがある」
悠然とした態度とは少し不釣り合いな言葉を受け、僕は耳を澄ませる。
「豆菓子を投げて寄越してくれ」
予想外の頼みだった。耳を疑いかけたが、食べ物を粗末にしたくはない。
肩掛け鞄から包みを取り出し、細紐を指で弄びながら、重さと距離を測る。
狙いを定めて投げた。包みが放物線を描く。受け手が視線で追い、腰を浮かして両手を構えた。
寂しさを噛み締め、ほのかに安堵して微笑む。
僕は不安定な岩場を強く蹴り出した。吹き荒れる熱風を背中に感じながら。
僕は君を助けない。君に僕は救えない。
だから、サヨナラだ。
全てを葬る化生と成り果てようが、突き進んで行け。それを僕は肯定する。
エシュ〜鏡の怪物〜 荒屋朔市 @Mochi-Saku
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