沈む世界


 目尻に溜まる水滴をザラついた感触が拭い取った。


 覚えのある感触に反応して動き出した脳は、記憶の中から可能性が最も高いものを瞬時に暴き出す。理解が追いついた途端、振り払おうとした腕の肘で何かを強打した。


 意識が現実へ引き戻されると同時に、ここまでの経緯と自身の現状を思い出す。


 どうやら抱え上げられたままのようだ。大きな腕がもたもたと動き、小さく縮こまった僕を抱え直した。

 子供をあやした経験がないのだろう。さっきから随分と手こずっている。


 このままでは、収まりの良い所へ落ち着く前に、石床の上へ落とされかねない。そんな危機感から、意を決して腕に掴まり、薄青い視界の中で態勢の立て直しを図った。


 痛みなんて、どうでも良かったはずなのに。慰めは要らないから、髪を掻き乱すのは止めていただきたい。

 こんな屈辱を受けては、いつまでも視界が悪いままだ。


 ◆


 言葉は刃物のように心を傷つける。防ぐことも躱すこともできず、耐えかねて叫べば、さらなる苦痛が襲った。

 耳が聞こえなければ、期待の賛辞も、幻滅の罵倒も、依存を誘う呪縛さえ知らずに済んだ。

 傷つけ合うことも、なかっただろう。

 

 

 立体迷路のような道を抜け、僕は『灼熱沼』と名付けた溶岩溜まりを前に座っていた。

 誰の声も視線も届かない僕だけの場所だ。後をつけてくる気配はなかった。


 ゴツゴツした岩肌は寝心地が悪く、苔と小石を集めて外套を被せ、寝床を作った。息苦しい閉塞感から逃れ、独り静かに過ごせる。

 今、この時だけは幸せだと思えた。


 けれど、生きている限り試練はつきまとう。


 僕が妥協した距離は、大人の身長の約二倍。『灼熱沼』を背にする僕を見て意図を察したのか、試練の権化は、ゆっくりと腰を下ろした。

 向かい合う形で胡座をかいた男の腰には、僕が苔の上に広げているモノと同じ黒色の外套が巻き付けられている。


 あの時、『煉獄の炎』に怯まず僕を抱え続けた男は、効力が消えると同時に、どこかへ連れ去ろうとしていた。

 抗議を決意した途端、男は僕を降ろした。どんな意図かと仰ぎ見たが、黙っている。早急に諦めた僕は瓦礫の下から布を引っ張り出し、男の腰に巻きつけた。

 遠くから全体像を確かめる振りをして、必要な荷物を手に取り、その場を後にしたのだ。

 

 

 ​黙り込んで相手の出方を待っていたが、第一声は予想外のものだった。


「お前の名を聞いておらぬ」


 怒気はない。僕は膝の上の本に視線を落としたまま、突っ慳貪に言い放つ。


「必要ない。簡潔に用件だけ言いなよ。済み次第、僕の前から消えてくれ」


 一言、「独りになりたい」と答えれば良いのに、また余計なことを言った。

 こうしている間にも、思考を盗み聞かれているのだろうか。それを想像しただけで走り出して『灼熱沼』へ身を投げたくなる。

 敵に弱みを見せてはならない。呪いのように刻まれた戒めが、辛うじて僕をその場に繋ぎ止めていた。


 少しでも気を紛らわせようと愛読書の文字を追う。その思考は、過去の分析に割かれていた。


 僕が暗唱した『煉獄の炎』は、対象者の罪に相応しい罰を与える古代の呪いだ。他人へ憎しみを向けたり、危害を加えた経験のある者は、身を焼かれるような激痛を味わう。

 些細なイタズラも見逃さないから、回避や防御は不可能だと認識していた。

 

 

「お前の罪は何だ?」


 不意に声をかけられ、思考が霧散した。


「誰が其れを決める? 親か? 国の統治者か? 古き神か?」


 どこまでも淡々と、男は問いを投げてくる。


「身の潔白は証明されたと考えて良いのか?」

「まだ、そうとも限らない」


 他でもない僕のことだ。きっと見落としがある。

 対象者に火傷を負わせたり、髪や服に燃え広がったりもしない『煉獄の炎』の痛みは幻覚。程度次第では効いてない振りをすることも可能だろう。

 あの場に立ち込めていた焦げ臭さは、煙玉を作ろうとして持ち込んだ火薬が、何かで引火したせいだ。


「聞き耳を立てるのは止めて貰えないか? 思考に割り込むのもマナー違反だ」


 僕は会話を切り上げた。

 

 

 視線を滑らせ、愛読書の栞に触れる。妹の髪飾りと同じ布で作られた妹のお手製。血と涙の結晶の一つである妹の外套が、今は男の腰に巻かれている。

 妹が見たら、どんな顔をするだろう。せめて僕の外套を渡すべきだったかも知れない。


 不気味な物音を聞きつけ、顔を上げる。男が腰の外套を左右に引っ張っていた。繊維がミシミシと悲鳴を上げる。

 僕は心の中で絶叫した。


 すると男は外套から手を離し、僕へ一瞥を寄越す。気が変わったとでも言うようにノソノソと座り直した。


「その外套は君に譲った。好きにすればいい。汚れたのを返されても迷惑だ」


 態とらしい他人行儀な声だった。

 もう済んだことだ。どうでも良い。

 

 

 大きな手の平が、前に突き出された。

 しばらく黙って見ていると、男は痺れを切らしたのか言葉を寄越す。


「此の手を取れ。何を躊躇う? 何を恐れる?」


 答える価値もない低級な質問だ。

 何の懸念もなくバカ正直に答えられるなら、ここへは来なかった。そんなことも分からない奴に何を教えても無駄だ。


「返答不要だ」


 それが沈黙に対する応えだった。そう理解した途端に、横っ面を殴られたような衝撃が奔った。

 この男は口頭での返答など全く必要としていない。相手の思考を誘導するだけで事足りるのだから、むしろ邪魔でしかないのだ。


「話すことが苦痛ならば、答えずとも良い」

「お気遣いどうも。無駄口が煩わしいなら聞こえすぎる耳を塞いでは、いかがかな?」


 忌々しい限りだ。どうせ、この嫌味も通じない。

 湖面のように静まり返った瞳が、琥珀の細い裂目の奥から僕を見据えている。


「僕を選んだ理由、聞かせてもらえる?」


 問いかけておきながら答えを待たず、二の句を次ぐ。


「ないのだろう?  僕を納得させられる理由なんて。何もかも平凡か、それ以下。親にさえ一族の恥と言わしめた愚物だ」


 一度口火を切ると、言葉が止まらなくなった。


「君が欲しいと言ったのは、規格を外れた粗悪な欠陥品だ。扱い難く、脆い。役立ずの穀潰しさ。壊れてない保証さえない」


 きっと、もう壊れているんだ。それなら納得ができるし、諦めも付く。

 喉を締め付けられるように苦しい。鼻の奥がツンと痛くなり、視界はぼやけていく。


「お喋りの相手なら物乞いで事足りるだろう。逃げ回るのに飽きたなら、屋敷の主人に有用性を示せ。僕に構うな。僕は君を罵り、呪った。君には聞こえていたはずだ。君が終わらせてくれるなら、僕は……」


 喉元まで出かかった言葉を飲み込む。過ぎたことを蒸し返して吐露するのは、より惨めだ。


「僕は君が嫌いだ」


 幼稚と嘲笑われようが、臆病な僕には口に出すことさえ許されなかった明確な拒絶。


「故に、何も期待するな。と」


 至って淡々と返してきた。

 僕が吐き出した言葉数を思えば呆気ない。僅かでも意図は伝わった。報われたのかも知れないと思うなんて、本当にバカげている。


「其の命と引き換えにしてでも、欲しいものが有るのだろう?」


 僕は眉をひそめ、首を傾げる。

 なぜ、そんなことを問いかけてくるのかが理解できない。


「ないよ。欲しいものなんて、厄介ごとを招くばかりじゃないか」


 幼い頃には存在したが、忘れてしまった。望んでも手に入らないものが増え、辛くなって自ら捨てたのだ。

 存在しない答えをどうして知り得るだろう。


 僕は肩掛け鞄に荷物を詰めた。最後に豆菓子の包みをしまって、灼熱沼の淵に立つ。

 深く息を吸い、静かに吐き出した。


「さあ、用件は済んだだろう。どこへなりとも好きな所へ行ってくれ」


 呪いめいた言葉で、運命を歪めてしまう前に。


 僕は差し伸べられた手を振り払うように視線を逸らした。その脳裏で一つの確信が生じる。

 

 

 ​ここは君のための舞台だ。

 無意味だと思っていた苦悩の人生。その終わりを起点に、誰よりも特別な君だけの物語が始まろうとしている。

 

 

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