美味しい毒のある食卓

花 千世子

美味しい毒のある食卓

 リビングで夫と私は向かい合って、栄養ドリンクを飲む。

 アパートの部屋はしんと静まり返り、外で聞こえてくる広告AIの声がやけに響いてくる。

 夫は無言で栄養ドリンクを飲み干すと、小さくため息をつく。

 それから、朝食代わりの錠剤を口に入れ、水でそれを流し込む。

 夫はまたため息をつく。

 朝から重苦しい空気に耐えかねて、私は聞く。


「今日は帰りは、遅くなるの?」

「ああ、うん」


 夫はそれだけ言うと、無表情で玄関へと向かう。


「いってきます」


 ようやく聞き取れるかどうかの声で、夫がそう言った。


「いってらっしゃい」


 私は夫を見送って玄関のドアを閉めると、大きく伸びをする。

 ああ、ようやく行ってくれた!

 それから私は洗濯機のボタンを押してから、パソコンで自分の仕事を始めた。

 キーボードを打ちながら思う。

 とんでもないことを、してしまったのではないだろうか。

 でも、別に犯罪でもなんでもないし。

 私はそう考え直して、仕事に集中する。


 夫に多額の保険金をかけた。

 あとは、夫が死ねば完璧だ。

 とはいえ、保険金殺人をするつもりはない。

 私だってそこまでバカじゃないし。

 そんなことを考えつつ、仕事を終えた私はリビングでタブレットを操作する。


「夫 早死に 方法」


 今では日課になっている検索ワード。

 だけど、有効な手はない。それも知っている。

 だから私は束の間の休息を求めることにした。

 ブックマークした掲示板には、さまざまな夫の愚痴や不満が書かれてある。


【あーあ、これから百年近く夫といっしょかあ。嫌すぎる】

【会社から帰ってこなくていい】

【四十年一緒にいると、マジで早く〇んでくれないかなって思うわ】


 今日も掲示板はにぎわっていた。

 私はそれを眺めつつ、ため息をつく。


 夫とはお見合い結婚だった。

 十年前に結婚率の低下を嘆いた政府が決めた新お見合い制度は、相性の良い男女をコンピューターで割り出し、半ば強制的にお見合いをさせるものだ。

 よほどの理由がない限り、お見合いは断ることができない。

 二十五歳になった私の元に届いたピンクの封筒には、お見合い相手の写真とプロフィールが入っていた。

 鈴木拓磨。二十七歳。〇〇大卒、職業はエアトレインの設計。

 趣味は散歩、特技はこれといってなし。

 面白味の欠片もない男だな、と思った。


 そして、実際に結婚してみてわかったけれど、これが本当に退屈な人だった。

 もともと寡黙な人らしく会話は必要最低限だし、休日は平日と同じように規則正しく過ごす。おまけにとても誠実。

 友人から言わせれば、「良い夫で羨ましいなあ」だそうだ。

 そうかもしれないけど、この退屈な人と、あと百年近く一緒に暮らすの?!

 嫌すぎる……離婚したい……。

 さすがに新お見合い制度はバツイチには適応外らしいし。

 それなら夫が早死にしてくれれば、私は晴れて独身に戻って一人で気ままに暮らせるのに。

 とりあえず保険金をかけてしまおう。

 一人暮らしに戻れば、なにかとお金も必要だ。

 つまり夫に保険金をかけたのは、「いずれバツイチになる」という決意の証だった。


 とはいえ、早死にさせる具体的な方法を思いついたわけではない。

 毎日のように調べているけど、そんなものは見つからないのだ。

 何度目か分からないため息をついたところで、スマホがしゃべりだす。


【拓麿さんからのメッセージです。今日は遅くなるので先に寝ていてください】

「了解しました、って返事しておいて」

【了解しましたと送りました】

「ありがとう」


 私はスマホにいうと、立ち上がってキッチンへ。

 それじゃあ食事はさっさと済ませてしまおう。

 私はキッチンの戸棚から錠剤を取り出す。

 赤いカプセル、緑のカプセル、青いカプセル。

 それが今日の晩ご飯だ。

 カプセルを水で流し込みながら思う。


 今の時代は、完璧な栄養管理の薬があるおかげで、食事の代わりにカプセルを飲むだけでいい。

 それだけで栄養のバランスは整うし、適度な満腹感もあり、健康的な体重が維持できる。

 昔に比べて平均寿命はかなり延び、今は平均寿命は百二十年になった。

 昔は八十年だったらしいし、もっと昔は五十年だったそうだが、信じられない。短すぎる。

 だからカプセルの食事というのは、良いことづくめだ。

 ふと夫の顔が脳裏によぎる。

 そうなのだ、だから夫婦生活は長い。

 お互いに平均寿命まで生きるとしたら、あと九十年以上は一緒ということになる。

 この生活がそんなに続くのだと思うと、ゾッとしてしまう。

 やっぱり、夫が早死にしてくれないかな……。

 棚をじっと見つめつつ、そんなことを考える。


「早死に…できるかもしれない」


 わたしはそうつぶやいて、ニヤリと笑った。


 キッチンで料理をしたのは、初めてだった。

 だって三食カプセルでいいのだから、食事を作る必要がない。

 それでも趣味で料理を作る人もいるので、どこのアパートも狭いキッチンはついている。

 とはいえ、料理はキッチンだけでは完結しないことは知識だけで知ってはいた。

 お米と調味料をデリバリーする。

 お米はレンジに任せ、調味料もレンジで温める。


「これ、調味料、なの?」


 調味料は【カレーライス】という名前だ。

 その下には【あなたの健康を損なう恐れがあります。食べ過ぎには十分ご注意ください】とデカデカと書かれてある。

 実は、さっきタブレットで「昔の食事」というのを調べてみた。

 昔の食事――平均寿命が八十年だった頃の食事は、体に悪いことで有名だ。

 だけど、別にそれらの食事は禁止になったわけではない。

「嗜好品」として残っていて、たまーに楽しむくらいなら体には害はないとされている。

 とはいえこの食事を三食出されたら、さすがに健康に害があるだろう。

 三食だと怪しまれるから、せめて一日一食をこの不健康な食事にしたい。

 もちろん、食べるのは夫だけだ。

 こんなに体に悪いものは夫も警戒して食べないかもしれないけど、もしかしたら……。

 まあ、食べてくれたらラッキーだと思おう。


「美味しい」


 夫はそう言って目を見開いた。

 辺りにはカレーライスの匂いが充満していて、正直は私は気持ちが悪い。

 それなのに、夫はこのカレーライスを一口食べた途端、「美味しい」と言ったのだ。

 寝てていいよ、と言ったわりには早く帰ってきた夫に、「作ってみたんだけど」と差し出したらあっさり食べた。

 夫はカレーライスを完食し、シャワーを浴びて寝た。

 私は謎の高揚感を感じた。


 次の日の晩ご飯は、ハンバーガーというものをデリバリー。

 パンの間に成型肉と申し訳程度のレタスとトマトが挟まっている。

 これはとても体に悪そうだ。

 子どもの頃に、父が興味本位でハンバーガーを食べ、母にこっぴどく叱られたのを思い出す。

「子どもの見てる前でなんてものを食べるのよ!」と母は言っていたっけ。

 夫はハンバーガーもすんなりと食べてくれた。


「うん。ふわふわのパンとこの濃い味のソースと脂っぽい肉が合う。レタスとトマトが少ないのは寂しいかな」


 いつもは寡黙な夫が、ハンバーガーを食べながら饒舌に語り出す。

 そんなに美味しいのだろうか……。

 私は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 でもあんなに体に悪そうなもの絶対に食べちゃダメ。

 私まで早死にしたくない。


 こうして晩ご飯だけは不健康な食事、というのが定番になって一週間。

 カルボナーラを食べながら、夫は聞いてくる。


「君は、食べないのかい?」

「私は……味見したら胃が受け付けなくて……」

「そうか。それは残念だな」

「ごめんなさい」

「謝ることはないよ。むしろ、こうして料理をしてくれるのが嬉しいよ」


 夫はそう言うとニッコリ微笑んだ。

 その笑顔にズキリと胸が痛む。


「そういえば、最近ずっとこの昔の食事を用意してくれてるけど」


 夫はそういいかけて、フォークを持つ手を止める。

 マズイ、さすがに気づかれた?

 早死にさせる計画がバレた?

 ドキドキしていると、夫はうれしそうに言う。


「僕が多忙でストレスがたまっていることを知ってて、こういう変わった料理を用意してくれてるんだろう?」

「えっ、ええ、まあ」

「ありがとう」


 そう言って笑った夫を見て、ホッとする。

 まさか妻が自分を早死にさせようと計画しているだなんて、考えてもいないといった笑顔だ。

 よかった、バレていないみたい。

 すると、夫がひとりごとのようにつぶやく。


「正直、僕はカプセルの食事があまり好きじゃなくてね。こういう食事なら大歓迎」


 それならいっそのこと、三食ともに不健康ご飯にしようかな……。


 それから私は、不健康ご飯をあれこれと調べた。

 調べれば調べるほど、昔の食事というのは体に悪いことが分かる。

 あんなものを口に入れるなんて恐ろしい。

 夫はよく食べらるな……そこだけは尊敬する。

 そんなことを考えつつ、私は晩ご飯を用意した。

 平日は朝と晩(昼は錠剤のほうが手っ取り早いらしい)、休日は三食ともに不健康な食事。

 夫は私が用意する食事をいつも残さず食べた。

 しかも満面の笑みで……。


 不健康な食事から一カ月。

 思ったよりも早く、夫の体には変化が出始めた。

 とはいえ、体調不良などではない。

 夫の肌や髪の毛が以前よりもツヤツヤになったのだ。

 体型のほうは心なしか以前よりもふっくらしたが、それでも夫はいつもニコニコしていた。

 こんなに笑顔の夫は初めて見たので戸惑うばかりだ。


「映画を観ようか。それとも、新しくできたショッピングモールもいいね」


 夫は休日になると、私に出かけようと言ってくるようになった。 

 以前はこんなことなかったのに……。


「なんだかここのところ心が軽くてさあ。あ、体は少し重くなったかも」


 こんなふうに夫は冗談も言うようになったのだ。

 どんな心境の変化なんだろう?

 私が不思議に思っているのを見透かしたのか、夫は言う。


「君が用意してくれる食事が毎日の楽しみでね。美味しいし珍しいしで、ストレスフリーなんだよ」


 なるほど。そういうことか。

 あんなに不健康な食事がストレスフリーになるなんて……。


「変なの」


 私は小声でつぶやいて、笑い出した。

 夫も「なになに?」と言っていっしょに笑い出す。

 結婚してから、こんなに笑ったのは初めてだ。 

 

 それから私は、せっせと夫のために不健康な晩ご飯を用意した。

 ある日、ネットスーパーに目当ての料理がなかったことがあったのをきっかけに、私は不健康料理を自分で作ってみることにしたのだ。

 いつまたこういうとこがあるか分からないから、作れたほうがいい。

 そう考えてふと夫の笑顔を思い出す。

 あの人に自分で毒を盛るのだ。


「うっま」


 私は自分が作った料理を味見して、思わずそう声に出す。

 チャーハンという不健康料理のレシピを見ながら作ったら、すごく美味しかったのだ。

 味見をしたほうがいい、とレシピに書いてあったからちょっと食べてみたらこれがもう……。

 油でコーティングされたお米は、卵とハムとネギと調味料をまとって香ばしく、ちょうどいい塩加減が癖になる。

 今まで口にしたものの中で、一番おいしいと思えた。


「もう一口……ううん、ダメダメ!」


 そうつぶやいて、チャーハンにラップをかける。

 途端にお腹がぐううと鳴った。

 別に一度の不健康な食事なら……。

 私は結局、その日の夜は二人分のチャーハンを作った。


「え、キャンプ?」


 休日に夫が「キャンプに行こう」と提案してきたので、思わず聞き返す。


「そう。テントで寝るんだよ。星空がきれいなところを見つけてね」


 夫は不健康晩ご飯を食べ始めてから、本当に変わった。  

 笑顔が増えたり、会話が増えたりしただけではない。

 ストレスフリーのおかげなのか、趣味も増えた。

 この間は、車の免許を取りに行ったし、ピアノも始めて、観葉植物にも凝りだした。

 これも不健康ご飯の影響だけど、それは良いことなのではないかと思える。


「晩ご飯は外でカレーを作って食べるんだ」

「いいね、キャンプ」


 夫の言葉に、私は即答した。

 実は私もチャーハンを食べて以来、不健康ご飯にハマってしまったのだ。

 もちろんすべて不健康ご飯ではないけれど、カプセルの食事よりもずっとずっと心が軽くなると実感した。

 だからキャンプは外でカレーを食べると聞いて、ついつい反応してしまう。

 外で食べるカレーなんて、想像しただけでおいしそうだ。

 

 キャンプをして一週間後のことだった。

 私は夫から見せられたタブレットの画面を見て、言葉を失う。

 眠気も一気に吹き飛んだ。

 朝から、「話がある」と夫が真面目な顔で言ってきたので、なにかと思えば……。

 見せられたのは、離婚届だった。

 夫は、神妙な面持ちで言う。


「離婚してほしいんだ」


 その言葉の意味が、よくわからなかった。

 タブレットの電子離婚届けをよく見ると、そこには既に夫の名前が書かれてあった。

 電子離婚届ならば、私がサインして市のホームページに送信すればすぐに受理される。

 今日中には離婚できてしまうだろう。

 これは、いよいよ望んだ展開になった。


 保険金は受け取れないけれど、夫を早死にさせただなんて夢見が悪い。

 それならいっそのこと、早いうちに離婚してくれたほうがいいとは思っていた。

 だけど、その一方で、楽しかったキャンプを思い出す。

 二人ではしゃぎながら川で遊んで、バーベキューをして、夜はカレーを食べて、夜空を見て。

 あの日は最高に不健康だったけど、最高に楽しかった。

 そんな日を過ごしておいて離婚だなんて、どういうこと?!

 離婚をしたいだなんて態度、まったく出さなかったじゃない!

 そんなふうに考えていると、夫が口を開く。


「もちろん、慰謝料は払うよ」

「なんで? 浮気したの?」

「そんなことはしてない。ただ、僕のワガママで離婚をするんだからお金を払う、という意味だよ」

「お金なんかいらない!」


 私は思わずそう叫んでいた。

 夫の顔をまっすぐ見た途端、離婚なんてしたくない! と強く思った。

 夫は静かに話し始める。


「実は、ここのところ仕事で調子が良くてね……昇進が決まったんだ」 

「だから別れるってこと?」

「そうじゃない。うちの会社は昇進すると転勤になる」

「どこへ?」


 私がそう聞くと、夫はうつむいたまま答える。


「地球外なんだ。シュクメルリ惑星っていうところ」


 それは数年前から地球と交流のある惑星だった。


「さすがにあんなに遠い――シュクメルリに君を連れて行くことは……できないよ」

「じゃあ誰がご飯を作るの?」


 私がそう聞くと、夫は目を見開いてから答える。


「……地球からだいぶ離れた惑星だから、こっちにはそうそう帰ってこられないよ」

「ハンバーガーは恋しくならない?」

「向こうの暮らしは、きっとこっちと全然ちがうよ?」

「カレーライスもチャーハンも、一生食べられなくていいの?」

「苦労かけるかもしれないのに、ついてきてくれるの?」


 夫の言葉に、私はにっこり笑った。


「当たり前でしょ」


 私が言うと、夫は目頭を押さえて、それから口を開く。


「ありがとう」  

「さあ、朝ごはん作るね。なにがいい?」


 私が聞くと、夫は電子離婚届を破棄してから答える。


「パンケーキが食べたいな」

「私も同じ気分」


 そう言うと、私はキッチンへ。

 鼻歌混じりに、二人分のパンケーキを焼く。


「あなたとなら、どこへでも一緒に行くよ」


 夫の背中に、小声でそうつぶやいた。


 了  

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