赤い扉-事故物件-
江渡由太郎
赤い扉-事故物件-
けたたましい急ブレーキの音の後に鈍い衝突音。その後に何かが勢いよく地面に叩きつけられる音と共に女性の悲鳴が響き渡った。
体があらぬ方向に圧し潰された肉塊は肘から手首を天に向けて痙攣している。まるで何かに向かって手招きしているかのようにも見えた。
暫くすると緊急車両のサイレン音が遠くから聞こえてくる。
横断歩道での事故現場には男子生徒が倒れている。薄暗い黄昏の中に鮮やかに広がる鮮血が湧き水のように痙攣している男子生徒から流れ出ていた。
その場に居る誰もがその光景を正視できずにいた。
桜が散り中学を卒業という一大行事が終わると四月から高校へ進学し新学期が始まった。
慣れない環境と新しい人間関係で日々心身を疲弊させながら一日を必死に過ごしていた。
志望校には合格したが何が楽しくて学生生活を送っているのだろうと疑問を抱いていたそんなある日、賢人は放課後に図書室へ向い気晴らしに何か本でも読んでから帰ろうと思った。
ギリシア神話や北欧神話等幼い頃より惹かれる題材であるためそれらの本を探す事に久しぶりに心躍る気分だった。
図書室の扉を開け中に入ると、カウンターに貸出受付の職員と学生が一人居るだけで、その他は誰もいない。職員の陰険な眼差しが賢人に突き刺さる。賢人は作り笑いを浮かべたつもりが確実に引き攣った表情の苦笑いになっていると自分でも理解できた。そんな羞恥心を隠すために慌てて図書室も奥の方へ急いで移動した。
そこ漂う陰鬱にさせる澱んだ空気は瘴気を孕んでいるかのように、佐野幹博の全身を蝕んでいく。
「ここは嫌な感じがする」
独り言が口から自然と漏れた。悪寒が走り鳥肌が立つ。ここに居てはいけないという本能的な直感が危険を告げている。
ふと、カウンターへ視線を向けると、そこには肘から上の腕だけが賢人に手招きしている。
明らかにテーブルの上に不自然な状態で宙に浮かんでいるようにそれはあるのだ。
もうこれ以上、ここには居たくないと思い幹博は逃げるように図書室から慌てて出て行った。
何もかもが幻であって欲しいと心底思い、得体の知れぬ恐怖に押し潰されそうになりながら校舎を出ていつも通学で使っているバス乗り場へ向かった。
その間中、何かしらの気配を感じ、何度も後ろを振り返ったが、誰もいない。無機質な景色だけが視界に広がっていた。
気にしすぎだと自分を諭しながら、バス停でバスを待っていると、道路の上に先程の肘から上の腕がこちらに向かって手招きしている。
幹博はそこで自分の意識が朦朧とし体が勝手に動いていることにも気づかなかった。
突然、けたたましく鳴り響くクラクションにハッと我に返ると、自分は道路に歩き出していて危うくバスに轢かれるところだったのだ。
「マシかよ?!」
バスのクラクションの音で我に返る事ができなかったら、確実に大型車に引かれて大怪我するかもしくは死んでいたであろう。
幹博は自分が得体の知れない何かに操られていると思いながらも、今日は自分が疲れていて調子が悪いんだと自分に言い聞かせた。
だが、影のようにぴったりと背中合わせについてくる恐怖心は幹博を一時も解放してはくれなかった。
帰宅する頃には黄昏が堕ちて星が瞬いていた。
自宅の車庫のシャッターが開いていたので、中を覗くためにスイッチへ手を伸ばし電灯の灯りをつけた。
先程まで闇色のベールに包まれていた車庫内が一瞬にして明るく照らされた。
ジメジメと湿気った黴臭い臭いが鼻に付く。車庫の中には車もあるし、たまたま家族がシャッターの閉め忘れかと思って電灯の灯りをを消そうと再びスイッチへ手を伸ばした瞬間、蛍光管が突然チカチカとまるで命が宿った生き物のように激しく点滅し始めた。
薄気味悪くなり慌てて電灯のスイッチを切り、シャッターを閉めたのだが、シャッターが閉まる直前にその隙間からあの肘から上の腕が飛び出してきて幹博の足首を掴もうとした。
心臓が飛び出るのではないかというくらいの恐怖であった。
幹博は直ぐにスマホで自宅の玄関前から母親に電話をした。
「塩! 荒塩! 何かヤバイの連れてきたかも!」
幹博は叫ぶように母親に伝える。
扉を開けて慌てて飛び出してきた母親は幹博の背中や足元に塩をかけて払ってくれた。
「これで大丈夫思うけど……」
「マジで変なモノを連れてきたかな」
「このまま何もなければいいけどね」
次の日の夜、母親は突然息ができなくなり病院へ搬送され緊急入院となった。
検査をしたが心不全で肺に水が溜まり呼吸ができなくなったようだが、原因は不明と伝えられた。
ここ数日間、母親の入院もあり忙しさのあまりあの出来事の事を忘れかけていた。
数カ月後、唸るような暑さが続く夏の季節となった。いつものように退屈な学校生活を送っているが、あの図書館での手招きする手のことは忘れることができなかった。数学の授業が始まる前に担当の先生が夏の暑さで皆ぐったりしているから涼しくしてやろうと怖い話をしてくれることになった。
以前、在籍していた男子学生が放課後に校舎へ現れたのだと話し始めた。
その生徒は面識のある生徒であり、先生は遅い時間に校舎に居る生徒へ近づき話しかけた。
「もう下校時間過ぎてるぞ。早く帰りなさい」
当時、先生は放課後に校舎の見回りをしている最中だった。
「すみません。図書室に忘れ物を取りに来ました」
男子学生がそう言うので、早く取ってきて帰りなさいと伝えた。
だが、男子学生が玄関に現れることがないため、先生はその図書室へ向かうとそこには誰も居なかった。
気づかないうちに既に帰ってしまったのだろうと思った。
そして職員室へ戻ると電話のベルが鳴っていた。
先生は受話器を手に取り電話の対応を始めるとそれは警察からの電話であった。
この高校の男子学生が先程交通事故に合い亡くなったと告げられたのだった。
生徒手帳の学校名から学校へ連絡が入ったのだった。
だが、先生がその亡くなった生徒とさっき校舎で会ったばかりなのだ。
亡くなった男子生徒が自分が亡くなっていることに気づかずに校舎へと向かい忘れ物を取りに来たのではないか……
そこで先生の話は終わった……
先生はこんな話をしてからいつも通りの数学の授業を始めだしたのだが、明らかに生徒たち皆が怖がっていた。
幹博は自分が見たあの肘から上の腕が、学校の帰りのバス停の道路の上で手招きしている光景が鮮明に記憶に蘇り独り恐怖に震えたのだった……
はたしてあの手招きする手はあの悲劇な事故で亡くなった男子生徒の手だったのだろうか……
もし、あの手招きする手が別の「ナニカ」の手であったならば、あの男子生徒は犠牲者の一人としてあの世に引きずり込まれてしまったのかもしれない……
佐野幹博は高校を卒業し直ぐに就職した。そのためやっと念願の一人暮らしができたのだった。
実家に居たときから一日でも早く家を出たくて仕方がなかった。
その理由はアルコール依存症の父親は幹博に暴力をふるい続けていた。人は辛い環境に慣れてしまうと“自分はなんて可愛そうなのだろう。こんなに可愛そうな俺をまだ責めるのか”と不幸という境遇に自己陶酔してしまう。
または、本当に辛いならなんとかその現状から必死に逃げ出そうと人は行動に移す。
前者は不幸なことに自己陶酔しそれが心地良いと自分でも気づかないためその環境に留まり続ける。
後者は佐野幹博のように必死にもがいて、家を飛び出すことにより自分自身を守る。
そのどちらでもない人は悩み苦しみ誰にも相談できず、己の人生に幕引きをする。
高校卒業後、幹博は家を飛び出し友人宅を転々としたり、夜の街で知り合った面識のない年上の女性の家へ転がり込んだりしていた。そしてやっと就職先も決まり念願の一人暮らしとしてアパートの契約を済ませたのだ。
古臭いデザイン外観や赤い扉が斬新であり、この手の間取り家賃としては相場の半額以下で立地条件も悪くなかった。ただ、小学校が近くにあるのが気になる程度である。
内装もリフォームされており、真新しい壁紙と床に新調されていた。幹博は家賃の安さに魅力を感じてこの物件を借りることにした。
しかし、一週間程住んでみるとアパートの壁には大きな黒い染みがあることに気がついた。
確かに新しい壁紙で染みなど何処にもなかったはずだった。その染みは日に日に濃くそして大きくなっていく。
さすがに何か壁の不具合や雨漏りが壁に伝っているのではと思い管理会社へ連絡した。
事情を話すと直ぐに管理会社は業者を手配してくれて、壁紙の貼り替えをしてくれたのだ。その後も染みは現れ、その度に幹博は管理会社へ連絡した。
その後、何度も壁紙を取り換えても、真新しい壁紙にもその黒い染みが何度でも浮き出てくるのだった。何故、黒い染みが出てくるのかは謎だった。黒カビだと思い、壁紙を交換したが数日後には黒い染みがはっきりと浮き出てしまうのだった。
管理会社は何度も壁紙を貼り替えをすることに対して一度も疑問や不信を抱くことなく、親切な対応を繰り返してくれていた。
そのため、いつしか幹博は壁の染みを諦めてそのままにすることにした。
一週間程前に父親と母親は別居し、幹博は母親と一緒に暮らしていたのだが、母親はこのアパートに住むことになって数日後から、ここには帰って来なくなったのだった。
母親は自分の姉を頼ってこのアパートから直ぐに出て行ってしまったのだ。
今は伯母のアパートで母親は暮らしている。
ほんの一瞬という感覚で母が居なくなり、幹博は再び一人暮らしになったのだった。
看護師の伯母の紹介で母親は看護助手として勤務することになり、その給与で幹博の食事代といった生活費を幾らか仕送りしてくれている。月に一度ほど、幹博に会いにアパートへ来てくれたが、ある日突然それができなくなったのだ。
「もう、ここには居られない!」
母親はそう言って、それからというもの幹博のアパートには訪れなくなった。
しかし、アパートでは会わなくても幹博とはファーストフード店や喫茶店などで、いままでどおり月一回ではあるが会いに来てくれた。
幹博にとっては月一回でも母親に会えることが嬉しかった。
それがたとえ、生活費を手渡しでくれるために会うということであってもだ。
幹博の父親は一度も会いには来ないのだ。
父親は本当のろくでなしであった。
朝、目を覚ますと寝起きの一杯と言っては、水の代わりに焼酎を原液でコップになみなみと注いでそれを一気に飲み干す毎日であった。そうしないと、父親は手が痙攣を起こしたようにカタカタと震えだして、それを抑えることができないのである。
お酒を飲んだ状態で、会社へ出勤していた。
現場の仕事中にもかかわらず、お酒を飲みながら仕事をしているのではないかという不安が家族の中で芽生えていた。
「佐野さんはお酒臭いから、現場には出入り禁止にしたい。お酒を我慢できないのなら今後は取引をしない」
それは現実のものとなり、取引先から苦情が入ったのだった。
父親はそれに対して反省をするわけでもなかった。
誰かが諌める時に諌めないと簡単に人生の道を踏み外してしまうのだが、父親には逆効果であった。
「酒を飲まないと仕事にならないだろうが!」
家族が諌めても、怒鳴り散らして父親は更に酒をあおるように飲み続けた。まるで暴君さながらである。
焼酎のアルコール度数二十五度の四リットルペットボトルは二日で飲み干していた。
お酒を飲まない日という”休肝日”とうものはなく、一年間の三百六十五日毎日飲み続けていた。焼酎を水などで割ることなく原液で飲み、最低でも一日二リットル飲んでいた。己の脇に焼酎のペットボトルを置いて、飲んではつぐという一連の動作を永遠とくりかえすのであった。
夏季などはその他にビールなども飲んだ。焼酎だけでは飽きるため、ウイスキーやワインも飲んでいた。父親はお酒だけで、お腹が一杯になるのか、食事をほとんど食べなかった。
母親が食事の用意をしても、酒のつまみなるものだけを食べて、白米などの炭水化物を一切食べなかったのだった。
父親は仕事から帰宅し、作業着を脱いだら直ぐにお酒を飲んでいた。会社を五時に退勤したら、夕方の六時には帰宅してお酒を飲み始め、夜十一時頃の寝る寸前までひたすら飲み続けていたのだ。
休みの日は、朝から寝る寸前まで酒を飲みながら、ネットゲームをしていた。家族との会話もなく、ひたすらに自分の時間を楽しんでいた。
そんな父親は当時十六歳の幹博に衝撃的なことを言った。
「誰の子か分からないけど、俺は認めてやったんだ! 偉いだろう!」
酒にしたたか酔っ払った父親はさも自慢げに言った。
その晩、父親はお酒を飲みながら、テレビのバラエティー番組を観ていた。
番組の内容は、交際中の若い男女がいて、女性が男性に”妊娠した”ことを告げることにより、男性がどのような反応をするのかを取り上げる”ドッキリ番組”であった。
幹博の父親はそれを見ながら、酒を飲み続けていたのだ。
母親は夕方から倉庫のアルバイトへ出かけていた。
食事の支度をして出かけた母親の食事も、父親は酒のつまみになるおかずにしか手をつけていなかった。食事の後の後片付けや洗い物も幹博がやっていた。その間も父親はお酒を飲んでテレビを観ているだけであった。
いままで、自分は父親と母親が愛し合って生まれたと信じていただけに、先程の父親の言葉に衝撃を受けていた。
自分自身を否定されたような発言だった。
しかし、何となく以前から理解もしていた。
父親には、生まれた時に一度だけしか抱いてもらえなかったこと、オシメも一回しか交換してもらっていないことは聞いていた。
父親に公園などで遊んでもらった記憶もない。
記憶にあるのは、母親が用事で出かけたときに家にじっとして居るのが嫌な父親は、幼い幹博をパチンコ店へ連れて行った。
父親がギャンブルして遊んでいる間、幹博は店の外の建物の隙間で独りぼっちで座っていた。
幹博が幼い頃は、父親は出張で月曜日から金曜日まで働いて、金曜日の夕方に帰宅していたが、玄関に洗濯物を置いて遊びに出かけて月曜日の早朝に帰宅し、着替えを持ってまた出張へ出かけていたため、父親の顔もほとんど見た記憶もなかった。
そのため、たまに父親が帰って来たときがあった時に幹博は父親の顔が分からず、戸惑ったことが幼い頃にあった。
「どうしたの? パパでしょ?」
戸惑っている幼い幹博に向かって、母親が言ったことも記憶に残っていた。
それほど、父親との関係が希薄であったため、幹博はお酒に酔っ払って暴言をはいている父親のことをどこかで、距離を持って生活していたために何となく”父には望まれていない子”なのだと理解していたのだった。
そして、いつしか幹博は壁の黒い染みを見るたびに、その染みが人の形のように見えるような気がしてならなかった。
薄気味悪さを押し殺すように、これは気のせいだと自分に言い聞かせては、無理やり納得させていた。あの黒い染みは大きな大人の男のようであり、それを見るたびに幹博は自分の父親のことを思い出してしまうのだ。
幹博の父親は幹博に対して暴力を振るうことが度々あった。幹博が小学生の頃には特に酷かった。
父親は自分の足の親指の爪が剥がれるほどの力で、幹博を蹴り上げていた。母親もそれを止めることができなかった。
母親は幹博を愛していなかったわけではなかった。ただ、カーテンも開けられない生活を送るほど、精神的に病んでいた。
夫によって心が壊れ始めていたのだ。それでも、父親としての子育てを放棄している夫の代わりに、懸命に子育てをした。それが、時には行き過ぎる躾となってしまうこともあったが、誰に頼ることなく女一人で子育てをしたのだ。
幹博の父親は小学生の息子とキャッチボールもすることもなく、縄跳びを教えるわけでもなく、水泳を教えることなども一切なかった。
父親は息子と一緒に遊んだことがないのであった。自転車の補助輪が取れるように練習を一緒にしてくれたのも、縄跳びを教えてくれたのも、鉄棒の逆上がりを公園で教えてくれたのも全て母親であった。幹博が物心つくころには父親は定職に就いていたが、それまでは職を転々としていた。
父親は母親と結婚してひと月後に会社を解雇された。父親は”生意気”であり、“上司の言うことを聞かない”ということで解雇されたり、自ら会社に退社したりを繰り返していた。
父親は会社を風邪で休んだが、家にじっとしていられない性格でパチンコ店へ行ったことが、当時勤めていた会社の社長の耳に届き、会社を解雇されたこともあった。
出産間直な妻を働かせて、妻の実家に世話になっていたのだが、夫としての責任感もなく飲み屋にツケをして飲み歩いて妻の実家には帰らず、自分の実家に帰っていたり遊び友達の家にいびりたっていた。
出産費として預金していたお金も、父親は飲み屋の女友達に貸してしまい、そのお金は結局返ってこなかった。
母親は役所で手続きをして、何とか幹博を出産することができた。
出産の時も父親は立ち会わなかった。
それでも、母親は妻として懸命に尽くした。
離婚ということが、その当時はそんなに社会的に認められていない時代だったということもあった。
ましてや母親は嫁として違う家に嫁いだ身であるため、世間体を気にして実家にも帰られない。親戚からも白い目で見られ、ご近所からも噂されるというような時代だったために離婚に踏み切れなかった。
幹博が中学生になる頃には、父親の暴力も益々激しくなり、殴る蹴るなど激しいものであった。
幹博はこれが当たり前の出来事であり、他の家庭でも行われていることだと思っていたために、殴られることも蹴られることにも疑問を感じなかった。
自分が”悪い子”であるから、父親の機嫌を損ねて殴られ続けるのだとさえ思っていたのだ。
このような生活も幹博が高校へ進学することになると変化が起きた。
「いつ俺は楽になるんだ! 金がかかるのは誰が使っているからだ?」
酒を飲んで酔っ払う父親は毎晩のように幹博へ怒鳴っていた。
幹博は高校へ進学したが、母方の祖父が亡くなって入ってきた遺産が学費に当てられていた。
幹博も鞄の中に退学届けを入れながらいつも学校へ通っていた。
家庭が金銭的に苦しいのは、父親の給与が年間百万円ほど下がったためであるが、父親はそれを一切認めようとせず、いつも誰かのせいにしては、焼酎を浴びるように飲み、煙草を毎日二箱空にしていた。
父親が勤めていた会社を辞めて、自営業を始めると年間の勤務日数は百日程となり、休日は土曜、日曜、祝日、ゴールデンウィーク、連休、お盆休み、年末年始の他に冬季の十一月までしか仕事はなく、春の六月からの仕事で、給与は七月末日まで入ってこないということで親会社と契約をした。
父親の会社は事実上、孫受けであり、一年間の冬季の半年は仕事がなく、春から秋までの間には勤務日数が百日程度ということで売上が二百数十万円ほどで仕事をすることになった。
自営業であるため、その年収の半分は経費となるため、年収百万円くらいとなるため、母親は父親と別居することを決意したのだった。
無計画で、事後報告をする夫をもう支えきれないと判断したためである。
父親は母親にも幹博にも日頃から電話もメールもくれたことがない。
別居を始めてからもそれは変わらず、連絡は一切なかった。
父親は仕事がなく家にいた時でさえ、母親が脳幹梗塞で倒れて入院しても病院へ見舞いにきたこともなかった。父親は常に酔っ払っているため、緊急で病院へ運ばれる時も、幹博に救急車を呼ばせて病院へ付き添わせていた。父親がお酒を飲んでいない時がないほど、常に酔っ払っているため病弱な母親の緊急病院への付き添いは幹博が行っていた。
幹博も父親には愛想が尽きていた。
誰の言うことも聞かない父親を諌めることは誰にもできないのだ。
以前勤めていた会社の社長の言うことさえ聞かないで、自分勝手に仕事をしていた父親は会社でも嫌われていた。
「俺は一匹狼なんだ」
それが幹博の父親の口癖であった。
壁の黒い染みを見るたびに、父親を思い出しいつも不快感が込み上げて来るのだった。
父親に対して嫌悪感しか感じなくなった。
同じ空気を吸うことにも抵抗を感じていた。
もうここには父親は居ないのだと幹博は何度も繰り返し自分に言い聞かせていた。
そして心の安静を保とうとしたのだ。
翌日、どんよりと沈む様な憂鬱な気持ちを抱えながら久々に外へ出かけた。
幹博は友人の達也のと数ヵ月ぶりに会う約束をしていたのだ。
しかし、自分から会う約束をしたにもかかわらず、何となく土壇場で行きたくないという気持ちになった。
まるで何か見えない力が働いていて、達也との待ち合わせの場所への訪問を拒絶し続け、寄せ付けないようにしているかのようだった。
昼を回ると陽射しが容赦なく注がれ地面から照り返しが暑さを更に過酷にする。
達也とは駅の北口の前で待ち合わせをしていた。
腕時計は待ち合わせの時間をゆうに経過している。
駅の北口からの見える少し先の交差点の横断歩道で信号待ちしている達也の姿を見つけた。
幹博は待ちくたびれて出迎えするように横断歩道前まで行き、信号が変わるのを待った。
達也は信号が変わると幹博を待たせているのを悪びれた様子もなくのんびりと歩いて近づいてくる。
そして、横断歩道の真ん中辺りで何か手のひらサイズの物を拾い上げると小走りで幹博の所までやってきたのだ。
「電話がなってるんだけど」
達也は宝物でも差し出すようにいたずらっぽい笑みを浮かべて手の中にある物体を差し出した。
「出れば?」
「えー⁉ 何で俺が!? 達也が出てよ」
「幹博が出て! 早くしないと!」
「何で俺なんだよ!」
幹博は押し付けられた古い型の二つ折りの携帯電話で今で言う“ガラケー”を苦笑いしながら受け取った。
ガラケーと呼ばれる二つ折りの携帯電話を開くと、液晶画面は真っ黒のままで何処からの着信なのかわからなかったがとりあえず通話ボタンを押してみた。
「もしもし……あの……携帯電話を拾ったんですが……」
幹博は相手が誰だか分からない電話の向こうからの返答を待った。
「携帯電話を拾ってくれてありがとう。直接受け取りたいので、待ち合わせしませんか?」
警戒心をとくような親しみ易い物腰柔らかな男性の声がそう言った。
幹博は達也にどうするかの判断を仰ぐ。
達也はその相手の希望を承諾するように頷いて合図した。
「いいですよ。時間と場所はどうしますか?」
「申し訳ない。今、仕事中なので夕方に連絡します」
男性からの再び連絡が来るまでの間、幹博と達也は休日の久々の再会を楽しむためカラオケへ出かけることにしたのだった。
あれから数刻の時間が経っていた。
街の中で遊んでいると、夕刻は直ぐに訪れ街の姿も昼の姿から夜のネオンで衣替えをして華やかさを増した。
そして、五時過ぎに連絡があった。
「六時過ぎには終わるから待っていて欲しい」
男性の声が申し訳なさそうに聞こえた。
幹博はそれにも承諾して相手から連絡が来るのを待つことにした。
その後、幹博と達也はファーストフード店で暫く時間を過ごした。
六時過ぎに再び連絡があった。
「残業で二十分くらい遅れます」
「……はい…… 分かりました…… 本当にこれ以上は……」
男性はそう告げた。幹博たちには電話の男性の仕事の大変さは理解し難いが渋々だが待つことを承諾した。
二十分後には、これから会社を出るという連絡があった。二十分ほどで着くと聞かされた時は嫌気がさしていたが、いまさら断ることもできなかった。
そして二十分後に再び連絡がきた。
「車で向かっているので、二十分くらいで着きます」
そう電話があり、さっきも二十分待たされているのにまだ着かないのかと怒りさえ感じ始めていた。
その後も、道が混んでいてあと十五分かかると言われて、もう怒りを通りこして呆れていた。
「あと五分かかります。もうすぐ着きます」
そう連絡があり、この出口の見えない無限ループがやっと終わると思い安堵した。
その電話の男性とは駅の北口で待ち合わせすることになったので、あれから長いこと駅で待っていたのだ。
幹博は男性に会ったら文句の一つでも言ってやろうとさえ思った。
それから五分が過ぎた。
連絡がないままさらに十分が過ぎ、十五分が過ぎた。そして、液晶画面は真っ黒で何の表示もされない携帯電話の呼び出し音がけたたましく鳴った。
幹博は電話に出ると、相手から信じられない言葉を浴びせられた。
「本当は待ってないんだろ? お互い嘘が上手だね」
怒りのあまり手が震えていた。相手の失礼な言葉に対して怒りが頂点に達していた。
「ずっと待ってたよ!」
幹博は激昂した。
男性は幹博の言葉を聞き取ったかどうかの絶妙な間合いで電話を切った。
それから電話は一切かかってこなかった。
今日一日の出来事が何がなんだか理解不能である。携帯電話に何か相手を突き止める手がかりがないかと思い、幹博が携帯電話の裏蓋を開けるとそこには充電池であるバッテリーもICチップも入っていなかった。
幹博は空っぽの携帯電話から手を離すと、それは駅の床面に音もなく落ちタイル床の上で泡が立つように消えていった。
幹博たちは自分達は今まで誰と待ち合わせをして誰と携帯電話で会話したのだろうかという答えの見つからない謎に頭の中が真っ白になった。
そして、あの携帯電話は何処え消えてしまった。
目の前で起こった認めたくない不可解な出来事に対して正面から対峙することができなかった。
幹博と達也は血の気が失せた。
そのガラケーが何なのかもいまだに分からない。
もしかすると、駅で電車に飛び込み自殺した男性の物で、駅の正面入口前にある横断歩道まで飛ばされたものであったのが、何らかの霊的な残穢として存在したのかもしれない。
もしそうだとしたら今回はそのガラケーは駅の床面に消えてしまったが、今度は違う誰かがこの駅の床面で残穢であるガラケーを新たに拾うのかもしれない。
あのガラケー男性の霊は駅やその周辺にガラケーの形として幹博たちのようなこの世の人間に接触してている。
残穢のガラケーは何の目的があるのかは分からない。幹博はもうに二度と落ちている物は不用意に手にしないと心に決めて、あの壁の染みのあるアパートへと帰って行った。
この赤い扉のあるアパートへ引っ越してきてからというもの、幹博は深夜の騒音に悩まされていた。
日中はすぐ近くにある小学校の子供たちの騒ぎ声はあるがそれは然程気にはならない。
気になるのは深夜の決まった時間に毎日続く騒音である。
それは、壁を叩いているような音や、床に響くような走り回る音であった。
このような音を聞くことで目が覚めて眠れないという日々が、ここ数ヶ月続いていたのだった。
幹博にとってはさらに恐怖を思い起こす音でもあった。
騒音によって、父親が幹博や母親に暴力を振るっている場面が毎晩フラッシュバックのように思い出されるのだった。
突然、木製の椅子がフローリングの床の上にひっくり返るときに激しい音がした。
それを耳にした途端に、意識が朦朧とした。
意識混濁し、自分の記憶の中へ一気に引き摺り込まれる。
食器が割れる甲高い音や母親の悲鳴と鳴き声が思い出された。
「俺は子供が産めない女がすきなんだよ!」
父親はそう母親を責め続けていた。
今では授かり婚と言われるが、昔は出来ちゃった結婚と言われており、二十代の遊びたい時期に子供が出来てしまったために結婚したくもないのに結婚して家庭を持ちたくないのに家庭に縛られる事がずっと納得いかなかった為である。
酒に酔うと乱暴になり、喧嘩っ早く態度横柄、反省や後悔をすることを知らなくなり、自己中心的で協調性が欠如する父親には会社の同僚も親戚も誰も諌める事ができなかった。それは若い頃から全く変わらない不変的な性格であった。
「警察を呼ぶよ」
あまりの横暴さに幹博が父親に向かって叫んだ。
「呼べ!」
父親は激高しながらそう叫んだ。
幹博は何度も警察を呼ぶ事を確認したが、父親はその都度同じ言葉を叫ぶだけだった。
数分後、自宅に警察官が三人駆けつけてくれた。
父親は先ほどとはうって変わって大人しい温厚な人柄を演じていた。
口調も穏やかで甘い声色で話ており、童顔の顔がさらに人柄を柔らかい印象として相手に与えていた。
しかし、部屋の中にはアルコール度数二十五度の焼酎四リットルのペット空のペットボトルが三十本ほどあり、その他にもワインの空ボトルやウイスキーのからボトルや焼酎の紙パックなども散乱していた。
家の中だけではなく、玄関や外まで四リットルの空のペットボトルが散乱している始末であったのだ。
警察官に諌められた父親は大人しくしていた。
警察官が帰った後に再び、母親に襲い掛かる父親に対して、幹博は再度警察を呼んだ。
警察官が駆けつけるほんの数分前では、母親は父親に階段から突き落とされる寸前であったのだ。
父親は警察官たちの前では、大人しく物分かりの良い夫を演じていた。
数ヵ月後、母親の体調が悪化したため病院へ受診した。
母親は脳幹梗塞を数年前に患っており、その他にも糖尿病や高血圧、突発性心筋梗塞なども患っていた。 父親が病院代や生活を母親に入れてくれないことで一年以上通院していなかった。
今回の受診で母親は医師に注意された。
「小さな脳梗塞が何度も起きてましたね。再度、心筋梗塞や脳梗塞になって死んでもおかしくない状況です。糖尿病も悪化しており、目ももう失明しますよ」
医師に伝えられた内容に、母親は自分自身の体の状況を今まで理解していたような内容で悪化していたためにさらにがっかりした様子であった。
幹博は父親に電話をしたくないが、しぶしぶ電話をかけた。
「もしもし、お父さん?」
「何で電話してきた。金ならないぞ!」
まだ、何も言っていないのに父親はそう言った。
「お母さんなんだけど、今日病院で受診してきたら、いつ死ぬか分からない状況で、失明もするみたいなんだ」
「俺にどうすれってよ! 何で電話してきた!」
父親は煩わしそうに言った。
「一応……伝えておこうと思って……」
「話は聞いた! じゃあ電話切るぞ!」
「それでいいの?」
「俺にどうすれってよ? 死ぬんなら仕方がない! 神に祈れ!」
そう言って父親は電話を切った。
酒が切れていて機嫌が悪いのか、父親は苛立っていた。
過去のトラウマの場面が走馬燈の様に一通り過ぎ去ると幹博の発作的な意識障害は落ち着いた。
だが、そのようなことが次々の深夜の時間帯に思い出すことで、幹博は神経が高ぶってなかなか寝付けなかったのである。
再び、壁に体当たりでもしているかのような激しい音がした。
床の上をのた打ち回るような、不快な音がするのだ。
いろいろな音が幹博を責めるかのように、止むことなく響いていた。
「うるさいぞ! いい加減にしろ!」
幹博はベッドから体を起こして、壁の黒い染みのある方に向かって叫んだ。
隣人が深夜に騒いでいるのには、もう我慢ができなかった。
管理会社へ苦情の電話を入れることを決めた。
カーテンの隙間から朝日が差し込んで夜が明けていた。
いったいどれくらいの時間、睡眠がとれたか分からなかった。
そのため、気だるさと偏頭痛が酷かった。
時計を見ると五時を少し過ぎたことであった。
幹博は眠るのを諦め、スマホの黒い画面を何も考えずに見つめて過ごした。
九時を回った頃、管理会社へ電話してみることにした。
「すみません。そちらの賃貸物件に住んでいる者なのですが……」
幹博は、ぎこちなく電話で話を進めた。
住んでいるアパート名や部屋番号を答えて、隣の部屋の深夜の騒音について説明した。
「そうですか……ですが、佐野様のお隣は空室となっているのです」
管理会社の電話対応者からそう伝えられた。
「上の階の人の騒音が、壁伝いに響いているんでしょうか?」
幹博は騒音の主が誰なのかはっきりしたかった。
しかし、管理会社の電話対応者からは上の階も空室だと伝えられた。
誰かが夜中に忍び込んで、住んでいるのではないかと幹博は言ってみたものの、そのような確証はなかった。
管理会社の電話対応者からも、アパートの担当者に確認させますと言われたたけで、根本的な解決は見送りとなった。
今日は友人の白根達也が休日で遊びに来る日なので、幹博は取りあえず部屋の片づけをすることにした。先日は拾ったガラケーのせいでほとんどの時間を無駄にしてしまった。その埋め合わせということもあり今日はゆっくりと遊ぶことだけを考えようと決めていた。
だが、気だるさと偏頭痛が動くたびに幹博を憂鬱にさせてもいた。それでも友人と遊ぶ楽しさに心躍らせていたのだった。
佐野幹博の赤い扉のアパートの室内は陰鬱な穢れに満ちてた。
何者をも寄せつけさせないその感じは、まるで性根の腐った部屋と言うべきなのだろうか。
幹博の友人である白根達也をアパートに着くと、部屋の中へ招き入れてくれた。
幹博のその顔はやつれきっており、まるで死人のような顔色であった。
「先日のガラケーの件はすまなかった」
「佐野、大丈夫かよ⁉ 顔色が真っ青だぞ」
「ああ、大丈夫。心配はいらない。ただの寝不足なんだ。」
達也がどうしたのかと訊ねると、眠れない日々が続いていて寝不足なのだということであった。
深夜のさまざまな騒音に悩まされていて、苦情の電話を管理会社へ入れたのだが、このアパートの隣の部屋も真上の部屋も空室だと伝えられたのだと幹博は言った。
「マジかよ⁉ 空室でなんでそんなに騒音がするんだ⁉ この部屋マジヤバイんじゃねーの⁉」
「何だよそれ。 まるでこの部屋が事故物件みたいないいぐさだな」
「管理会社は何だって言ってんだよ」
その後も深夜の騒音は続いたので、管理会社が近いうちに空室を確認しに来てくれるのだという。
騒音は深夜の二時過ぎから決まった時間で繰り返されているのだというのだ。
壁の黒い染みもだんだんと大きくなり、人の形にも見えなくもない。
見るからに薄気味悪さしか感じないこの壁紙も、何度か管理会社に言って壁紙を張り替えてもらったのだが、数日後には今と同じように黒い染みが浮き出てきてしまうのだ。
「それにしてもこの壁の染みはエグいな。まるで人間の男みたいなデカさこ染みだ」
「何度も管理会社には壁紙を貼り替えてもらったんだけど、直ぐにこんなふうに染みが表れるんだ」「何度もって……」
突然、達也は幹博の部屋の中をスマホで写真を撮り始めた。
一通り部屋の中を撮影し終わると今度は一枚いちまい念入りに画像を確認した。
どの写真にも紅い帯状の光線が写り込んでいた。
写真全体が真っ赤になっていたのが、黒い壁の染みを撮影した写真であった。
「何故こんな手の込んだことをするんだ!?」
幹博は苛立った口調で言った。
「はあ⁉ 俺は何にも画像の加工なんてしてねーし」
しかし、白根達也はこの写真に何も手を加えていないし、スマホで撮影した写真を今、始めて確認しているのである。
「幹博の部屋を写したこの写真は、俺のスマホのカメラが壊れているからじゃない。他の写真は何ともない物もあるしな」
「じゃあ、この紅い帯状のものは何なんだよ!」
「はっきりとは分からないけど、幹博がよく”怨念”や”悪霊”とかは写真に真っ赤な光みたいなものが写り込むっていっていたじゃないか?」
「俺の部屋に”怨念”や”悪霊”が居るっていうのか? もういい! 達也は帰ってくれ!」
幹博は突然、人が変わった様に怒り出した。
達也は半ば追い出されるように、幹博のアパートを出て行った。
「どいつもこいつも皆で俺のことをバカにしやがって!」
幹博は独り言のように怒りを部屋の中でぶちまけていた。
幹博は悪態をつき続けている。
何故、こんなに腹立たしいのか自分でも原因が分からなかった。
怒りの衝動を抑えることができず、雑誌を床に叩きつけたり、ゴミ箱を蹴り上げたりした。
全て、深夜の騒音のせいなのだ。
自分は何も悪くない。
あの騒音がなければ、達也ともこんなふうに接したりしなくても済んだのだ。
どうしても、怒りを抑えることができないのは騒音で寝れない日々が続いているからだ。
誰かが、俺に嫌がらせしているに違いない。
俺を困らせるために、毎晩あの忌まわしい騒音を立てているのだ。
俺がこのアパートに引っ越してきたことが気に食わない奴が、俺に嫌がらせしているはずなんだ。
もしかしたら、管理会社もぐるなのかもしれない。
本当は隣の部屋も上の階の部屋にも住人が居て、俺には空室だと言っているのかもしれない。
皆で俺を陥れようとしているに違いない。
間違いない。
絶対にそうなんだ。
達也も俺を怖がらせるために、スマホの写真を加工して心霊写真に仕立てたのかもしれない。
いままで、友達だと信じていたのに。
俺を裏切りやがって、俺を怖がらせてこの赤い扉のアパートから引越しさせようとしているに違いない。
何で、皆で俺を苛めるんだ。
俺は何も悪いことしていないのに。
憎い!
皆、死ねばいい!
こんな仕打ちを受けるようなことをしていない。
もう、誰も信用できない。
自分以外を信用するからいけないんだ。
信用するから裏切られたりして、悲しくなったりつらくなったりするんだ。
なら、誰も信じなければいいんだ。
そうすれば、裏切られてつらい思いをすることがないのだから。
そうだ!
そうなんだ!
何でもっと早く気が付かなかったんだろう!
あいつらは皆、悪の遣いなんだ。
俺を駄目にしようとしているんだ。
そういうことか!
そういうことだったんだ!
幹博は自分の考えにふけっていた。
重く憂鬱な頭が冴え渡るような感覚だった。
ようやく難問を解いたときの感覚に似た達成感のようなものが込み上げていた。
爽快な気分を感じながら、幹博は部屋のカーテンを閉めた。
自分を監視している連中が外にいるからなのだ。
声も発しないようにしようと思った。
誰かが盗聴していて、自分の会話を記録しているに違いないのだ。
もう、誰にも己の隙を見せたりはしないとそう心に強く誓った。
自分を守ってくれるのは所詮、自分自身でしかないのだから。
幹博はベッドの上に横になり、黒い壁の染みを飽きることなく見詰めていた。
用心深い猜疑心の塊のような視線は、いつまでも黒い人の形に向けられていた。
「お前のことも当然、信用していないからな!」
幹博は人の形に見える壁の黒い染みに向かって、心の中でそっと呟いたのだった。
白根達也はあれから佐野幹博に連絡しても無視されていた。
達也は共通の友人の出雲崎莉奈を連れて、幹博のアパートへ行ったのだが居留守をされてしまった。
「どうする? このままじゃ大変なことになるんじゃないの?」
莉奈は狼狽した表情をしていた。
「管理会社へ電話をかけて、担当者に来てもらうしかない」
達也はアパートの壁に付いている管理会社の連絡先が記載されているプレートを見ながら言った。
それから一時間後ほど経過してから管理会社の担当者が車でやって来た。
既に陽が傾き、夕方から夜へと移り変わる時刻となっていた。
幹博の現状で孤独死や自殺の可能性を聞かれたが、部屋の様子も分からないし、連絡がつかないとしか説明できなかった。
管理会社の担当者は幹博の母親へ連絡を取り、室内へ入る許可を取った。
鍵を開けて室内に入ると、エアコンの冷房が入っているように部屋の中は凍えるほど冷えきっていた。
夏季だというのに、室内全体にまるで冬季のような冷気が満たされているのだ。
達也は室内エアコン機器を探したが何処にもなかった。
「何しに来た?」
突然、カーテンを閉めきった薄暗い部屋の片隅から幹博の声が聞こえた。
「キャーッ」
莉奈は突然の呼びかけに堪らず悲鳴をあげた。
「幹博どうしたんだよ? 何があったんだ?」
達也は幹博の傍へと近づいた。
「何しに来た? 出て行けよ! ここは俺の家なんだぞ!」
幹博はいままで見せたことのない鋭い眼光で威圧的に言った。
「管理会社の担当者が玄関の所で待っているから、とりあえず上がってもらおうよ」
莉奈は部屋の照明の電源を見つけると、スイッチを入れてた。
室内は明かりが燈されたことによって、その異様さをまざまざと見せ付けた。
壁の黒い染みは誰が見ても人間の形にしか見えなかった。
床のフローリングにも人間の形をした、黒い染みが浮き上がっていた。
先程まで気にしていなかったが、異臭がする。
「何だ⁉ この臭い⁉ 何かの脂が燃えたような……」
「私、もう我慢できない! 窓開けるね」
莉奈はえづきながら窓を全開にした。
そして莉奈は入室を嫌がる管理会社の担当者を赤い扉の部屋に招きいれた。
「ここって、幽霊とか出るんですか?」
達也は失礼がないように、管理会社の担当者へ冗談っぽく訊ねてみた。
管理会社の担当者は動揺したような表情を一瞬見せた。
「どうなんですか?」
担当者の動揺を見逃さなかった莉奈は、強めに訊ねた。
達也は携帯電話のカメラ機能を起動させた。
そして、スマートフォンで部屋の中を液晶画面に映し出した。
そして、壁の黒い染みを映すと携帯電話に不具合が起こり、カメラ機能が停止したり電源が落ちたりした。
達也はそれでも何度も壁の黒い染みを液晶画面に映し出そうとしたが、何か見えない存在の邪魔が入り拒まれる結果となった。
達也は再度携帯電話のカメラ機能を起動させて、部屋の中を撮影した。
スマートフォンが不具合で動かなくなる前に、カメラで撮影し続けた。
写真の画像を確認すると、壁の黒い染みの写真には真っ赤な光が写り込んでいたり、壁の黒い染みの他に黒い人影も写り込んでいた。
達也と莉奈はこの部屋に霊的な何かが居ることを確信した。
その携帯電話の画像フォルダーに保存したその写真を、管理会社の担当者へ見せた。
「この部屋は出るんですよね?」
再び莉奈は強い口調で言った。
管理会社の担当者は困惑したまま、持っていたファイルを捲りながら、その書類を見入っていた。
「備考欄に”心理的瑕疵あり”となっています」 担当者は聞き取れないような声でそう言った。
「心理的瑕疵ありって何なんですか?」
達也は解るように説明して欲しいと言った。
心理的瑕疵ありとは、いわゆる事故物件にあたるものであり、自殺、他殺、孤独死など、物件そのものの欠陥ではないものの、賃貸契約するを決めるにあたり、借主となる契約者の気持ちの問題で、賃貸契約の判断を躊躇するようなものだと説明してくれた。
達也は管理会社の担当者に、この部屋で起こったことを説明してくれるように頼んだ。
担当者の話によると、以前この赤い扉の部屋で焼身自殺があったのだという。
四十代の男性には高校生の一人息子がいた。高校からの下校途中で息子を不慮の交通事故で亡くしてしまった。その出来事をきっかけに妻との離婚。男性はこの部屋で、自身の体に灯油をかけたあと、自ら火をつけて自殺したのだという。
自分の身体を自分で焼いて自分自身を燃焼させ、自殺する時のあまりの苦しさに、部屋中をのた打ち回ったのだということであった。
この部屋の壁の黒い染みの部分で張り付いたように息絶えていたのを発見されたそうなのだ。
それからというもの、このアパートの壁紙を何度も取り換えてもこの黒い染みは生き物のように浮き出てくるのだった。
フローリングの床材を交換しても、やはり黒い染みが浮き出てくるそうなのだ。
修繕後にこの部屋を借りた人たちは、相次いで部屋を直ぐに出て行っていた。
幹博が悩まされていたように騒音問題でこの部屋を借りた人たちは管理会社へ苦情の電話をいれていたそうなのだ。
それに、焼身自殺があった後にこの部屋の隣の部屋や上の部屋の入居者も相次いで出て行った。
上階の部屋や隣の部屋にも異臭や騒音は感じられることで、なかなか借り手が定着しないのであった。
しまいには悪い噂も流れ、なかなか借り手が決まらない物件となっていたので、家賃を大幅に下げたところに幹博が賃貸契約することとなったのだった。
「そしたら、幹博はこの部屋で焼身自殺をした四十代の男性の霊に取り憑かれるってこと?」
莉奈の言葉に、この場に居る者たちに悪寒が走った。
先程、担当者が入室の許可のために連絡をしたため、幹博の母親がアパートへ駆けつけてきた。
「何しに来た? ここは俺の家だぞ! 早く出ていけ!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。母さんが悪かったわ。幹博を独りにするんじゃ無かった……」
「何しに来た? ここは俺の家だぞ! 早く出ていけ!」
管理会社の担当者に事情を説明して、暴れる幹博をこのアパートから出した。
そして、幹博の伯母のアパートへ連れて行くことにした。
管理会社の担当者には、このアパートは退去の手続きをすることを伝えて、荷物は後日取りに来たり業者に処分させることを決めた。
幹博の母親は、お払いにも行くことを莉奈に勧められていた。
「ごめんなさいね。あなた達も巻き込んでしまって」
「いいえ、佐野くんが霊に取り憑かれて命を奪われなかったので良かったですよ」
「本当にありがとう。あと数日遅かったらあの子は命が無かったかも知れないわ……」
幹博の母親は、顔色が悪く痩せてやつれきった幹博を見詰めながらそう言った。
「もう、ここには居られない!」
以前、母親がこの赤い扉のアパートの部屋で言った言葉の意味をやっと幹博は理解したのだった。
女子生徒が居なくなった。
アパートでかくれんぼをしていた最中におきた小学生の事件である。失踪した女子生徒は学校の昼休みに校舎から少し離れた場所にある古びたアパートの敷地へと足を踏み入れた。昼休みの時間が終わっても教室には戻らず、学校の終業時間にも姿を現さなかった。教室には女子生徒の赤いランドセルと画用紙に暗闇の中に赤い扉がひとつだけ描かれた絵が残されていた。
女子生徒の母親はシングルマザーであり昼職と夜職をしているため、学校の担任から自宅へ連絡をしても不通であった。
警察へ通報して女子生徒の行方を捜したが、手がかりもなく、学校近くの川へ落ちてしまって流されたのではないか。それとも人さらいにあったのではないかと。
令和の神隠しとニュースにもなった。
夏の陽射しが容赦なくアスファルトに降り注ぐ歩道を幹博は歩いていた。 時折り頬を撫でる熱風は不快でしかない。額からは絶え間なく汗が噴き出しているが、それを気にしている余裕はない。何故なら、一歩でも遠くへ逃れたいという恐怖心が幹博の体を突き動かしているのだ。
「あのアパートの赤い扉は開けてはいけなかった。あのアパートには……」
後悔してもしきれないが、今はとにかくあの扉から逃れたい。
幹博の手は真っ赤に染まっているがそれは己の血ではない。
繊細な指先から水滴の様に滴る血が漆黒の絨毯のようなアスファルトに点々と染み跡を残している。
「かくれんぼしよう」
あの無邪気な女の子の声が耳から離れない。
昨夜、友人の達也から連絡があり、小学校の近くの廃墟アパートのがネット動画でバズっているというのだ。
その廃墟のアパートは以前に幹博か借りていたアパートである。八世帯入居可能なアパートだが二年前のあの当時でも幹博しか入居していない物件であった。そして、あの忌まわしい出来事をきっかけに幹博が退居して数カ月後に完全に廃墟となった。
大家が高齢で認知症発症した為、施設に入所となり管理会社も契約解除となった為そのまま放置されたのだった。
ネット動画噂ではあのアパートの“赤い扉”が実在するのかを検証されていた。
赤い扉は神出鬼没に現れるとそう伝えられて、動画撮影者がアパートの敷地の中へ不法侵入している。
動画には昭和から平成に年号が移行したばかりの時代に建てられたあのアパートが映し出されていた。 撮影者は、先日のニュースにもなった女子生徒が神隠しにあい、未だに遺体も発見されていないことを伝えアパートの扉に向かって行った。
「赤い扉を開けて中に入ったのを見た」
先日のニュースでは校舎で一緒にかくれんぼをしていた生徒がそう証言したが、校舎には赤い扉など何処にもないのである。なのでこのアパートの赤い扉の中へと入って行ったとそう動画投稿者は話していた。
学校側の対応としては校舎でかくれんぼを禁止するといった不可解なものであった。
それを不服に思った生徒たちの父母たちは、神隠しの検証したいと申し出た。
そして大人たちによる校舎での探索が行なわれたのだった。
やはりその様な赤い扉は存在しなかった。
別行動で動いた男性がいたが、結果的にその男性が一人行方不明となった。
校舎内も隈無く探したが見つからず、近くの廃墟であるアパートの赤い扉の前で男性の持ち物である一眼カメラと右手の人差し指が発見された。
後日、カメラのフィルムを現像をすると写真には赤い扉が写っていた写真と山羊の様な黄色い眼が写し出されていた。
さすがにそれは警察沙汰となりニュースにもなった。新聞や雑誌の紙面にも取り上げられ近隣住民を恐怖のどん底へと叩き落とした。
それからというもの、警察介入ということもあり、このアパートの赤い扉については近隣住民は禁句という暗黙の了解がなされた。
しかし、この手の噂話や事件話、ましてや怪奇事件ともなれば次々と水面下でSNSなどで拡散され誰もが知っている恐怖話となっている。この手の話には必ずと言っていいほどに尾ひれがついて誇張されていたりする。
幹博は実際にこのアパートに住んでいたこともありあの赤い扉の部屋がどんな恐ろしい現場であったのかも知っている。友人たちが助け出してくれなかったらこの赤い扉の部屋の中で独り死んでいたかもしれない。
あのアパートは人が住んではいけない物件である前に立ち入ることさえ危険な物件であったのだから。
廃墟となり、あのアパートは本来の力を損なってはいるが、久々の血肉を貪欲に求めることには固執していた。
そこへ小学女子生徒が現れた。
新鮮な血肉が自ら檻の中へと飛び込んできたことに、赤い扉の向こう側の住人は歓喜した。
黄色い山羊の目をした住人は無邪気で幼い女の子の声で囁きかけた。
「かくれんぼしよう」
小学女子生徒はアパートの赤い扉のドアノブに手をかけて餌食となったのだ。
その後は女子生徒の創作中にこのアパートへ足を運んだ男性が赤い扉の向こう側から聞こえる声に誘われる様に近づき、ドアノブに手をかけ扉けて餌食になったのである。
幹博と達也がこのアパートの近くを歩きながら注意深く観察していた時に、耳障りな歪んだ木材の軋む音と共にゆっくりと扉が開き始める。先端の鋭く尖ったまがまがしい黄ばんだ爪と青い血管が浮き出ている蝋燭のように真っ白な肌の手が扉の隙間から歪な姿の覗かせている。そして、ゆっくりと手招きしている。
赤い扉の隙間から漆黒の液体が脈打つように流れ出してきた。それはあっという間に幹博の足元まで迫っていた。異臭が鼻腔を刺激する。
「アンモニアみたいな臭いで吐きそうだ……」
幹博は目に涙を浮かべながら苦痛に顔を歪ませていた。
「これ! 黒い水じゃないぞ! 髪の毛だ!」
そう叫んだ瞬間、達也の足首に黒い髪の毛が巻きついた。それは生き物のように動き出し、達也は次々と赤い扉に引きずり込まれていった。
「幹博! 助けて! 助けて!」
「達也! 手を離すな!」
「幹博! 幹博! 幹博!」
「やめろ! やめてくれ!」
バタンという扉の閉まる音とがした。 その瞬間、激しい血吹雪と共に赤い扉は閉まった。 幹博の両手には友人の達也の右手だけが残されていた。突然、手首から切り離された掌は筋肉は切断痙攣をおこしていた。
「うわああっ?!」
幹博は驚愕のあまり達也の手を地面に落としてしまった。
地面の上では切断された手が手招きしている。
赤い扉の向こう側から性根の悪い笑い声が聞こえてくる。
「かくれんぼしよう」
その言葉を聞いた途端、幹博は無我夢中でその場から走り出した。
赤い扉のアパートの部屋の壁には人の形をした黒い染みがある。その黒い染みから黄色い山羊の目を持つ邪悪な存在が這い出てきたのであろう。赤い扉の住人はいつも新鮮な血肉に飢えている。
誰かがあの赤い扉に鍵をかけるその日まで、凄惨な事件は今後も繰り返されるのである。
――(完)――
#ホラー小説
赤い扉-事故物件- 江渡由太郎 @hiroy
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