願いが叶う自動販売機

いずな

  願いが叶う自動販売機

ユウジは、心が満タンになることがあると信じていた。満たされていれば何をしても楽しいはずだ。しかし、25年間生きてきて彼の心は、一度も半分以上に満たされることがなかった。

今もそうだSNSのタイムラインには、『 最高の一日』を謳歌する友人達の写真が流れてくる。自分も昨日、話題の店で『 最高のラーメン』を食べたはずなのだが、頭に残っているのは 「まぁ、悪くはない」という感想だけだった。


彼は自嘲しながらスマホを閉じた。コンビニへ向かういつもの道。その途中、建物の影に、見たことのない自動販売機が立っているのに気づいた。周囲の風景から切り離されたかのように、古びて、異様に静かだ。そして、自動販売機のボタンには、見慣れない文字が並んでいた。


【幸福 100円】


【才能 100円】


【恋愛運 100円⠀】


ユウジは、変な自販機だと思った。売り物はこの3つだけ、ふざけた自販機もあるもんだ。でもこれで少しでも、自分の心が満たされるなら、安いものだと思った。そう思いポケットにある100円玉を自販機に入れた。

ユウジは最も無難そうな【幸福】のボタンを押した。ガチャンという鈍い音と共に、取り出し口から出てきたのは、小さな透明なカプセルだった。中には、薄い黄色の小さな粒が入っている。カプセルを手のひらに載せて、ユウジは一瞬、躊躇した。これはただのイタズラか、怪しい薬物かもしれない。少し不安になってきた。

しかし、彼はふと、いつも通りの「まあ、悪くはない」というあの空虚な感情が、自分の心の中心に座り込んでいるのを感じた。

「どうせ何も変わらない」


諦めと好奇心から、ユウジはカプセルを口に放り込んだ。水なしで飲み込むと、粒はすぐに喉を通り過ぎた。何の味もしない。彼は騙されたと思い、自動販売機から背を向けた。こんなのに騙された自分もアホらしいと思った。

その瞬間だった。

自分の中で何かが変わった気がした。

ユウジの視界の彩度は一気に上がったような感覚に襲われた。先程までそこにあった、古びた自販機の青みがかった光ですら、眩しいほど鮮やかに見えた。少し遠くで聞こえる、車の音ですら心地良いリズムに聞こえた。

「なんだよ、これ...」

ユウジは、自分の中に温かく柔らかな光が灯ったのを感じた。普段なら見過ごすような、アスファルトの隙間から生えた雑草さえも、懸命に生きているようで愛おしい。今まで感じていなかったのに、嘘みたいだ。昨日の「まあ、悪くはない」ラーメンの記憶が、突然「人生で最も美味い一杯」に書き換えられたように鮮明になった。


満たされている。


心が、初めて満たされた。ユウジは理由もなく笑い出し、その場に立ち尽くした。100円玉一枚で、人生の価値がこんなにも変わるなんて。


翌朝、ユウジは再びその裏路地へ向かった。


自販機は昨日と変わらずそこに立っていた。ユウジは迷うことなく100円玉を入れ、今度は【才能 100円】のボタンを押した。

「最高の幸福は手に入れた。次は最高の自分になる番だ」

自販機から出てきた、カプセルを飲み込むと、体の中でまた心が満たされる感覚がした。

ユウジは自宅に戻り、試しに昔少しかじって辞めてしまったギターを手に取った。

指は驚くほど滑らかに動き、楽譜を見たこともないのに複雑なフレーズ、聞いたことのあるメロディーを正確に弾きこなす。それは努力の結晶ではなく、ただのインストールされた技術のようだった。


これで仕事も趣味も全てが完璧になる。

ユウジの生活は以前とは比べ物にならないほど変わった。ユウジは、SNSを更新する。ギターを演奏する動画は瞬く間にバズり、「いいね!」が数万単位で付いた。


しかし、2週間たった日。ユウジは1つだけの違和感に気づき始めた。


それは退屈だった。


ギターの才能を手に入れてから、彼は毎日何時間もギターを弾いた。最初は何をやっても完璧にこなせることに高揚感を覚えたが、すぐにその「完璧さ」に飽きてしまった。どうやってコードを抑えるか、どう弾けば、人を感動させられるか、全てがわかってしまう。練習を重ねる苦悩も、できなかったことができるようになる喜びも、一切感じられなかった。


ある日、ユウジは新作のゲームを買った。難易度が高いと評判のゲームだったが、コントローラーを握った瞬間、クリアまでの最短ルートが脳裏に浮かび、数時間でエンディングに到達してしまった。エンディングを見ても、ユウジの感情は動かない。ただ「ああ、終わったな」という事実だけが残った。


それは、最初に【幸福】のカプセルを飲んだ時も同じだった。あの時の強烈な幸福感は、今や「幸福な状態であるという情報」に過ぎなくなっていた。感情の起伏がなく、すべてが平坦で、予想の範囲内だ。


「これじゃ、最初と変わらない...」


ユウジは自動販売機を訪れ、新しいカプセルを買うことを決意した。今必要なのは、「刺激」だ。ユウジが、自販機に向かうと新しい商品が追加されていることに気づいた。


【集中力 100 円】


ユウジは、元々買おうとしていた。【恋愛運】と新しく追加された【集中力】この2つを飲んだ。


効果は絶大だった。仕事の集中力は極限まで高まり、街を歩けば異性がユウジに熱い視線を送ってくる。やはりあの自販機の力はすごい改めて確信した。


だが、どれほど集中して仕事をしても、どれほど熱烈に愛されても、彼の心は何も感じない。ただ「これを手に入れた」という事実だけが、カプセルを飲む前の微かな空虚感よりも、満たされているはずなのに、満たされない心が残るのだった。


自動販売機の側面に、ユウジは何か小さな文字が書かれているのに気づいた。


当機は、人生の『喜びの閾値(いきち)』を、願いの数だけ下げます。


閾値(いきち)。


それは、感情が反応するために必要な、刺激の最低ラインのことだ。ユウジは自分の抱える空虚感の正体を理解した。願いが叶うたびに、彼の「喜びを感じるためのハードル」が上がり続けているのだ。今のユウジにとって、かつての「最高のラーメン」は、美味しさも感じることもない、ただの塩水ほどの価値もなくなってしまった。


ユウジは恐怖を感じた。このままでは、「生きているだけで、何も感じない人間」になってしまう。それは本当に人間と言えるのか...ユウジは自分自身に問いかける。


彼は自動販売機を睨みつけた。残されたボタンは、あとわずかだ。そして、その中の一つに、彼は望みを託した。


それは、【平凡な喜び 100円】だった。


この商品は最初からあったものだった。だか、心を満たすためにこの自販機に来たユウジが、これを選ぶわけがなかった。かつての自分なら、絶対に押さなかったボタン。しかし、今のユウジが最も求めているのは、才能でも、成功でもない。ただの「温かいコーヒーを飲み、ホッとする感覚」や「家族や友人と笑い合う」という取るに足らないはずの、感情の揺らぎだった。


ユウジは震える手で、100円玉を投入口に滑り込ませた。


「これで、すべてが元に戻る。もう一度、普通の人間になれる……」


彼は強く願いながら、【平凡な喜び】のボタンを押した。


ガチャンッ!


鈍い音と共に、取り出し口からカプセルが出てくる――と思いきや、何も出てこなかった。


代わりに、自動販売機の画面に、小さな文字が赤く点滅した。


閾値ゼロ。これ以上の交換は無効です。


ゼロ。


ユウジは、その数字を理解するのに数秒かかった。彼は、喜びを感じるためのハードルを、この二週間で無限に高い場所まで上げてしまったのだ。つまり、この世界に存在するいかなる事象も、彼の感情を動かすことはもう二度とない。


彼は膝から崩れ落ちた。絶望的な状況なのに、涙も出ない。悲しいという感情すら湧かない。ただ、自分が今、絶望的な状態にあるという「事実」だけが、頭の中で冷たく反響する。


ユウジは再び立ち上がり、自動販売機の別のボタンを見た。


【水 100円】


普通の自動販売機と同じように、この機械にも飲み物のボタンがあった。彼は、最後の希望としてポケットから予備の100円玉を取り出した。


「もう一度、ただの水を飲んで美味しいと思いたい」


それが、彼の脳裏に残された、最後の微かな願いだった。


100円玉を入れる。


ガチャン、と鈍い音。カプセルではなく、普通の自動販売機のように、冷えたペットボトルの水が取り出し口に落ちた。


ユウジは震える手でペットボトルを取り上げ、蓋を開け、喉に流し込んだ。


冷たい。


ただそれだけ


水はただの液体であり、喉を潤すという機能がある。それ以外の「美味しい」という感情的な付加価値は、ユウジの心には、届かなかった。


ユウジは、自分の人生がすべて叶えられた結果、完全に空っぽになってしまったことを悟る。


ユウジは、何も感じない、生きる屍として、永遠にその自動販売機の前で立ち尽くした。


夜が明け、朝の光が裏路地を照らす。自動販売機の画面は消えていたが、ユウジは動かない。


通りかかった清掃員が、道端に佇むユウジを見て、そっとため息をついた。

「また、ああいうのが増えたな。表情も感情も完璧に停止している。まさに生きる屍のようだ」


清掃員は慣れた手つきで、ユウジの足元に散らばったカプセルの空きケースを拾い集めた。そして、ユウジを避け、隣の錆びた自動販売機の前へと向かう。


清掃員は、自動販売機の隅の小さな投入口に何かを差し込むと、補充用の**「新しいカプセル」**を受け取った。


【幸福 100円】


【才能 100円】


【恋愛運 100円】


清掃員はカプセルを脇のボックスに収め、表情を一切変えずに、次の裏路地の清掃へと向かっていった。


ユウジはそこに立ち尽くしたまま、感情のない瞳で、その清掃員の背中を、永遠に見つめているのだった。

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願いが叶う自動販売機 いずな @IZUNA_000

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